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恋する足音  作者: 深瀬静流
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第一話

 お金がないッ。お金がないぞ! どうすりゃいいんだああああ。

 駅前の繁華街で直江江津なおええつはわめきたくなるのをぐっとこらえた。

 高校の制服を着て足元はスニーカー。背中まである髪はパーマがかかっていて金色に染めている。身長は167センチあるからすらりとして人目を引いた。だが、人込みのなかで財布の中身を改めている姿はいささかみっともない。しかし、江津にはそんなことを気にしている余裕はなかった。来月の四月に高校三年に進級する妹江美の、年度初めの学費の引き落とし期日が迫っていたからだ。

 泣きたくなってくる。頑張って働いているのに、どうしてこうもうまくいかないのだろう。キャバクラはきのうクビになってしまった。年齢をごまかしていたからではない。二十一歳の江津は未成年ではないからキャバクラで働いたって問題はないのだ。問題は、店に内緒でやっていたオジサン相手の内職がばれてしまったことだ。給料はいいし前借もできるのでキャバクラの仕事を失ったのはひじょうに残念だった。

 江津はさっき別れたばかりのオジサンを思い出してため息をついた。いい人だった。たぶん江津が年齢をごまかして高校の制服を着ているのもわかっていたとおもう。腕を組んで歩いて、お茶をして他愛ないおしゃべりをして、二時間で二万円。江津からすれば、何が楽しくて二万円もの大金を払うのかわからない。

 その報酬の福沢諭吉様が二枚、財布の中に鎮座している。でも、この金額では江美の学費にぜんぜん足りない。なんとしても江美が高校を卒業するまで頑張って学費と生活費を稼がなくてはならないのだ。江津の頭にはそのことしかなかった。そして、よからぬことをおもいついた。

 カツアゲでもするか。

 中坊ちゅうぼうがいいな。お金のかかる私立の付属中学生で、裕福な親からお小遣いをたっぷりもらっていて、おとなしくて、すぐめそめそ泣いて、お財布をだしてくるような女の子のグループが最高だ。

 江津は賑わってる駅前の繁華街を猟犬のように鋭い目で見渡した。いたいた。いいカモが。

 着ている制服は誰だって知ってる大学付属のビッグ中学だ。真面目そうでおとなしそうで、いいところの子供さんという感じでぴったりではないか。

 江津は肩をすぼめて制服のジャケットのポケットに両手を入れ、スウィングするような足取りで彼女たちに近づいて行った。凄んでいるつもりだったが、はたから見たら三月の寒空に背中を丸めているようにしか見えない。

「お嬢ちゃんたち、顔かしな」

 わざと低い声で横道のほうに顎をしゃくる。三人の中学生の少女たちは、きょとんとした。

「な、なにか、用ですか」

 あどけない顔をした少女が、かわいい声でそういった。一瞬、良心が咎めて心が怯んだ。だが、こんなことでためらっていてはカツアゲなどできない。命まで取ろうというわけではない。お金さえもらえればいいのだ。江津は自分を励まして、さらに少女たちを睨んだ。少女たちは輪になってこそこそと相談を始めた。

「あのおばさん、絶対女子高生じゃないよね」

「そうとう年くってるよ。肌は荒れているし化粧は下手だし、だいいち、金髪に染めていい学校なんて、あるわけないし」

「しかも根元が黒くて汚いし」

「これってもしかしてカツアゲってやつ?」

「なにそれ、笑えるゥ」

「うちら、体力ならおばさんに負けないし」

「だよね。3対1なら楽勝じゃん」

「今時の中学生、なめると怖いよ」

「やる?」

「やるやる!」

「ボコろうよ」

「キャー。楽しい!」

 江津はぎょっとした。ちょっと待って。今時の真面目な女子中学生って、みんなこうなの?

 顔つきが変わってきた女子中学生に恐れをなした江津は、くるりと踵を返して逃げ出した。



深貴みきはまだ見つからないの?」

 音北深幸は、リビングルームに入ってきた光瀬古志郎にきつい声をだした。二十七歳の古志郎は年齢より落ち着いた物腰で深幸の三メートル手前でぴたりと足を止めた。手には犬のリードを持っている。ココア色のプードルは行儀よく古志郎の足元に座った。その犬を深幸は睨みつけた。

「だから、そんなに小さい犬じゃだめだって言ったのよ。深貴の番犬にならないじゃないの」

「しかし、深貴くんがこの犬がいいと」

「黙りなさい。犬を飼う目的は愛玩用ではなく深貴を警護させるためなのよ」

「ですからモナームには、警察犬と同じ訓練を受けさせました」

「じゃあ、今すぐモナームに追跡させなさい」

「承知しました」

 古志郎はうやうやしく頭を下げた。是枝ホールディングスの筆頭株主である深幸は、年の離れた弟のことになると人格が一変した。古志郎は是枝ホールディングスではなく、音北深幸個人に雇われていて、住み込みで大学生の深貴の勉強や是枝家の庶務をしているが、常々深幸の深貴にたいする干渉は行き過ぎだとおもっていた。

 しかし、雇われている身としては深幸に説教するわけにもいかない。相手は古志郎よりひと回りも年上の中年女性であり、あの巨大ホールディングスの代表取締役社長、音北信孝の妻なのだから。

 きらびやかなヨーロッパの家具調度で飾られたリビングルームのガラス戸の向こうには広々とした庭が広がっている。まだ芽吹きには早い芝生の隅にはバスケットゴールがぽつんと放置されている。あれは深貴がバスケットボールで遊ぶようにと美幸が設置したものだったが、虚弱な深貴はボールが重くて一度も遊んだことがない。それで美幸の夫の信孝がバスケットゴールを庭の隅に移して、代わりにゴルフの練習ができるように作り変えてしまった。そのことで深幸は長いこと信孝に腹を立てていた。

 庭の眩しさにそんなくだらないことを思い出して古志郎は笑いそうになったが、堅苦しい表情を崩さずにいた。くどくどと続く深幸の叱責を聞き流していると信孝が入ってきた。

 四十一歳になる信孝は若々しい身のこなしで深幸に近づくと、重苦しい空気を一掃するように快活な声をあげた。

「深貴が行方不明なんだって? 子供だと思っていたら、姉さんの目を盗んで家を抜け出すなんて、たいした度胸じゃないか」

「笑いごとじゃないわ。あなただって深貴の体のことを知ってるでしょ。早く見つけないと大変なことになるわ」

「それがいけないんだよ。深貴ももう大人だ。自分の体のことは自分が一番わかっているんだから、何かあれば帰ってくるさ。少しは自由にさせてやれよ」

 信孝が深幸と結婚したのは、信孝が二十四歳、深幸が二十二歳で、それぞれ大学院と大学を卒業してまもなくだった。そのとき深貴はまだ三歳でウエディングドレスを着た深幸に抱かれていた。信孝にとっても深貴は妻の弟というより、もはや実の息子のような存在になっていた。

「なにをのんきなことを言ってるの。あなたは血が繋がっていないからそんなことが言えるのよ。あの子はお金も何も持っていないのよ」

「きみが渡さないからじゃないか。なにもかも世話を焼いて管理して、深貴の自由になることは何一つないじゃないか。深貴は一人では何も考えられない。何も決められない。姉さんのいいなりの人形だ」

「信孝さん! いっていいことと悪いことがあるのよ。あなたは深貴にたいするわたしの愛情を全否定するの」

「きみは深貴を純粋培養で育てたからな」

「信孝さんに深貴の何がわかるっていうの。赤ちゃんの時から体が弱くて、わたしはつきっきりで育てたのよ。何度あのこは死にそうな目にあったことか」

「またそれだ。ぼくだってそれくらい分かってるよ。だが、きみは深貴のことになると異常だ」

「聞きたくない! わたしと深貴のことに口を挟むのはやめて」

「いや。いいかげんに彼をおとなにするべきだ。きみの愛情は間違っている」

 しだいに険悪になっていく口論を無視して古志郎は部屋を出た。夫婦のケンカの原因はいつも深貴だった。信孝が男親らしい意見を言っても深幸は聞く耳を持たなかった。すぐに感情的になって反論してくる。それが長い年月のうちに、知らず知らず夫婦のあいだに傷となり溝となっていったことに二人は気づいていなかった。

 リビングルームを出た古志郎は、モナームを抱き上げてやさしく頭を撫でた。

「子供がいない夫婦だから、深貴が子供のようなものなんだろうが、あの夫婦も困ったもんだ。ケンカより面白い趣味でも持てばいいのに。なあ、モナーム。おまえのご主人様は、いまごろどのあたりをふらついているんだろうな」

 玄関前の車寄せをまわって裏に行き、車庫に向かった。深幸の車より派手な信孝の車の横に停めてある自分のフォードアの助手席のドアを開け、モナームを乗せてから運転席に収まる。濃紺のスーツの胸ポケットからスマートフォンを出して地図アプリを立ち上げた。地図上に小さな点が点滅した。

「深貴くん。きみが鍵をぶら下げているキーホルダーは、お姉ちゃまがきみの十歳の誕生日に贈ったプレゼントだけど、ただの豪華なキーホルダーじゃないんだよね。お姉ちゃまが特別に作らせたGPSなのだよ。ほぅら、見つけた」

 二十歳まで生きられないと子供の頃に医師から宣告された深貴が、二十歳の誕生日をなんとか迎えることができて、しかも、その誕生日に、こっそり屋敷を抜け出すとは勇気がある。ほめてやりたいところだが、そういうことをされると叱られるのは俺のほうなんだがなと呟きながら、「さあ、モナーム。ご主人様を迎えに行こうか」と、車をスタートさせたのだった。



 江津は夢中になって走っていた。三人の女子中学生は走るのが速かった。若さが違うから当然体力も違う。それに歩道を歩いている人々が邪魔だった。押しのけ、突き飛ばし、怒鳴られながら、息が苦しくても頑張って走った。

 掴まって騒ぎになったら大変だ。江美に知られたら、どんなに罵られるか。それを考えただけで汗の量が増えた。



 アプリの地図上の深貴の目印が動かなくなった。有料駐車場があったので古志郎はいったん車をそこに入れてモナームを車から下ろした。モナームをはぶるっと体をゆすってうれしそうにワン! と吠えた。

「行こうかモナ。おまえのご主人様は、今ごろ歩き疲れて泣きべそをかいているぞ」

 モナームはあちこち臭いを嗅いでいたが、やがて迷いのない足取りで歩道を歩き出した。濃紺のスーツ姿の古志郎が背筋をまっすぐに伸ばして颯爽と歩くと、向こうから来る人の波が割れて道ができる。手にしているリードの先には体高二十五センチのトイプードルが、地面の臭いを追いながら古志郎を先導してずんずん進んで行く。

 モナームは歩道脇の自動販売機の前で止まった。

「深貴のやつ飲み物がほしくなったんだな。でも、深貴は金を持っていない」

 モナームがまた歩き出した。歩行者天国状態になっている通りに入って行く。混雑している人の中でモナームの足取りが乱れ始めた。

「いよいよ歩き疲れてふらふらしてきたな。さて、早く見つけてやらないと、ほんとうにまずいことになるぞ」

 その時モナームがひときわ高い声で吠えて走り出した。深貴を見つけたのだ。リードがピンと張る。古志郎も走り出した。

 深貴がいるあたりが騒がしかったので、なんだろうと首を伸ばしたら、高校の制服を着た金髪の女がすごい勢いで走ってきて深貴に体当たりしたところだった。



「ご、ごめん!」

 江津は自分の下になって倒れている若い男を慌てて助け起こした。男はぐうとも言わない。顔を覗き込むと、大きな目がまん丸に見開かれ、口はポカンと開いている。

「ちょっと、だいじょうぶ? ほんと、ごめん。怪我してないよね。急いでいるから、わたし、行くね」

 江津は気もそぞろで後ろを振り返った。中学生の女の子たちはすぐそこまで迫っていた。

「マジ、ヤベ」

 江津は立ち上がって走りだした。が、その足首を男が両手で必死に掴んでいた。

「なんだよ! 放せよ!」

 足を振り回しても男は手を放そうとしない。見れば江津と身長は同じくらいだ。かなり痩せていて江津より十五キロぐらい軽そうだ。これなら担げる。

 江津は男を抱き起こすと力任せに背中に担いで走り出した。

「クッソー。中坊が追ってこれないところはどこだあああ!」

 走りながら江津は叫んだ。すると、竜宮城のように派手な原色のホテルが目に飛び込んできた。

「あそこだ。ラブホテルなら中坊は入れない」

 深貴を担いだまま、江津は竜宮城の暖簾がぶら下がっている駐車場に飛び込んでいた。


 一部始終を見ていた古志郎はおもむろにスマートフォンをだして耳にあてた。

「光瀬です」

「深貴が見つかったの?」

 待ちわびたように深幸の声が弾んだ。

「申しわけありません。見失いました」

「なんですって!」

「ご安心を。夕方までには探し出します」

 古志郎はピッと電話を切った。ぐだぐだ深幸の叱責を聞く気はない。どうせラブホの二時間休憩が終われば出てくるだろう。

 古志郎はスマートフォンの地図の一点で点滅して動かないポイントを見ながら有料駐車場に戻った。

「あの異常に神経質な姉さんから、少しの間でも自由になればいいさ。見逃してやるよ。ありがたく思えよ深貴」

 車の中に収まり、シートを倒して背中を伸ばした。古志郎らしくもなく、その時は高を括っていた。一時間もしないうちに女にホテルから放り出されるだろうとおもっていたのだ。

 しかし、何時間待っても地図上に点滅しているポイントマークは動かなかった。竜宮城は夜の暗さが増すにつれてキンキラキンに光り輝きエロティックになっていく。

「まさか、まさか行きずりの女と一晩過ごすつもりか、深貴!」

 竜宮城の前で焦りだした古志郎の腕の中で、モナームはすやすや眠っていた。


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