34、白森百合は高揚する
どうしよう。
「…………」
待ち合わせの時刻まであと十分程度か。
女子高生の後輩と、しかもとんでもない美少女と図書館デート。
夢にまで見た、そして絶対に叶わないと諦めていた超絶ラブコメイベント。
そんな青春の至宝が、今まさに目の前に……!
だが問題が一つ。
「…………」
き、緊張する!
なにを話していいか分からない!
当然だ。二年間以上女子と全く触れあってこず、犬を見下ろし踏みつけてばかりいたのだ。美少女との接し方など分かるはずもない。
しかも、言い訳するわけじゃないが、出会い方が悪かった。
『生徒会ぐるみでこんなことをしているんですか? 信じられない』
彼女と初めて会ったのは、よりにもよって新しい犬で遊んでいた時だったのだ。
正直焦った。
焦った挙句、絞り出した言葉はあれだった。
『うふふ、怒った顔も可愛いわね。いいわ。入学したばかりのひよっこちゃんに教えてあげる。この学園は美しさこそ唯一絶対の正義。校則にもあるでしょう? “白薔薇学園の生徒たるもの美しくあれ”と。それなのに。見てよ、この無様な姿!』
柏木沙羅、俺の言葉にドン引きしてた。
そりゃそうだ。完全にヤバい奴だもんな……。
後々考えれば、もっと他に言い方があったと思う。
でもあの時はあれしか浮かばなかったのだ。人間、言い慣れていない言葉は咄嗟に出ないもの。
きっと今回だって上手く話せないに違いない。
そもそも、なんで彼女は俺を誘ったのだ?
女装には自信がある。成績優秀、眉目秀麗、完璧な生徒会長を演じられている自信がある。頼りになる先輩として慕ってくれた、というのなら分からないでもない。
でも……彼女はあの時気付いたはずだ。俺が男だって。
一体どういうつもりなんだ、柏木沙羅。
“図書館デート”だなんて甘い言葉でコーティングしているが、その中身はとんでもなくグロテスクなものに違いないのだ。
俺を強請って金でもぶんどるか……あるいは彼女の都合の良い奴隷にする気か……
奴隷――あんな可愛くて細い二学年も下の後輩の女の子に顎で使われる……?
……………………。
………………。
…………。
なんだろうこの高揚感。
「あの、会長?」
「っ!」
声を上げそうになるのを必死に噛み殺す。
柏木沙羅の顔が、目の前にあったからだ。
「あ、あら柏木さん。遅かったじゃない」
「すみません。ホームルームが長引いてしまって」
小さい顔、大きな瞳、長い睫毛、細く白い首。
小さく華奢な肩が上下に揺れ、息が少し上がっている。
「…………」
「か、会長? すいません、怒ってます?」
俺の顔をのぞき込む柏木沙羅。
心臓が高鳴る。彼女の声がどこか遠くに聞こえる。
ダメだ、見惚れてしまう。ダメだ、ダメだ。
表情を崩すな。平静を装うんだ。いつもみたいに。いつもみたいに。
「で、一体何の用かしら柏木さん? 私を呼び出すなんてマネ、教師だってそうそうしないのよ?」
言い終わって、ハッとする。
何を言っているんだ俺は、そんな威嚇するようなこと言ったら彼女を怖がらせてしまうじゃないか。
だが、口から出た言葉を引っ込めることはできない。今更「いや、その、違うんです」なんて言い訳をしたところで気持ちが悪いだけだ。
俺はドギマギしながらも、表情を崩さぬよう意識を集中させて彼女の返答を待つ。
『なに言ってるの男のくせにセーラー服着た変態。ボサっとしてないで、さっさと跪いて床を舐めなさい。ほら早く』
とか言われたらどうしよう。
……………………。
………………。
…………。
なんだろうこの高揚感。
だが俺の期待……じゃなかった、心配をよそに、柏木沙羅は怯えるでも怒るでもなく至って冷静に口を開く。
「今日はその、会長にお願いがありまして」
「お願い……?」
「はい」
彼女はそう言いながら長机の上にスクールバッグを置き、中から数冊の教科書を取り出した。
「中間テスト近いんですけど、私数学が苦手で……会長は成績トップで、しかも理数選択でしたよね?」
「……それはつまり、勉強を教えてほしいということかしら?」
「えへへ、ダメですかね?」
長く美しい黒髪を触りながら、柏木沙羅は恥ずかしそうにはにかむ。
後輩に勉強を教える……しかも数学は俺の得意分野。
ダメなはずない。ダメなはずないじゃないか!!
で、でもなんでこのタイミングで? なんで俺なんかに?
柏木沙羅の認識は『男の癖に女装して、同じく女装した男を踏みつけて喜んでるクソサド女装男』じゃないのか?
なんでそんなやつに勉強を教わろうと思う?
もしかして川田から助けた俺の姿にキュンときたとか……い、いやいやそんな都合良くいくはずない。落ち着け俺、今まで何度期待して裏切られてきたか。この学校に入学したときだってそうじゃないか。
考えていても仕方がない、とにかく返事しないと返事。ええと、ええと……
「ふう、先輩を呼び出しておいて勉強を教えてください、だなんて。ずいぶん身勝手な後輩ね。でもまぁ、良いでしょう。優秀な後輩を育てるのも生徒会長の役目ですからね」
あああああああああまた感じ悪くなっちまったクソックソッ!
長机に頭を打ち付けたくなる衝動を持ち前の強靭な精神力でなんとか抑えていると、柏木沙羅は満面の笑みで言う。
「ありがとうございます、会長。じゃあさっそく、ここなんですけど……」
柏木沙羅は教科書を手に机をぐるりと回り、俺の隣の席へと移動してくる。
勉強を教えるのだ、正面に座るより隣に座った方が教科書も見やすい。
それだけの話。他意はない。それだけの話だ。
でも、顔が近くて、なんとなく良い匂いもして――
「うおああああぁぁぁぁぁッ!」
「ッ!?」
ある程度声を出すことの許される自習室とはいえ、静かでなければならないはずの図書館に響く怒声。
そして襲い来るセーラー服を纏った暴漢。
首を狙ってくる太い腕をいなし、俺はその巨体を長机の上に叩きつける。
「ぐあっ!」
「あなたよくこの学校に入学できたわね。図書館ではお静かに、って小学校で習うことでしょう? そんなだからダメなのよ、不動さん?」
不動灯は俺を睨みつけ、そして次は柏木沙羅に視線を移す。
「柏木沙羅、逃げるんだ!」
「は?」
一体何を勘違いしているのか。つくづく馬鹿な男である。
自らを客観視できず、ただ欲望のままに目の前の餌に飛びついていく。まるで飢えた獣だ。
だからこそ、ヤツを御するのは容易かった。
不動は俺の用意した柏木沙羅への貢物に、驚くほど容易く食いついた。
そんなもので万が一柏木沙羅のハートを掴めたとしても、その後に待っている“強制労働”を彼女に見られれば容易く崩れ去ってしまう砂上の城でしかないというのに。
だがまぁ、不動のおかげで彼女の好みや周囲の人間関係などを知ることができた。
分かったのは、彼女が貢物に飛びつくような女でないこと。そして彼女の懐が異様に広い事。
「違うの不動さん、私は会長に勉強を教えてもらってるだけで……会長も落ち着いてください。彼女を離して」
柏木沙羅は、あの男の欲望渦巻く地獄のような部屋――雄っパブ教室に足を踏み入れ、そこでの労働に勤しむ不動を目の当たりにしてなお、ヤツとの友人関係を続けているというのだ。
「まったく、あなたも奇特な人ね」
俺はゆっくりと不動から離れ、奴の体から手を離す。
あの教室で柏木沙羅が男たちに怯えおののき、周り全ての女装男たちに嫌悪を示し、そして完璧な女装に身を包んだ俺を“お姉さま”として慕ってくれないかなぁ、なんて淡い期待を抱いたのだが。
「……ま、とにかくそういう事だから。図書館で暴れるようなケダモノが近くにいると集中できないわ。一刻も早く立ち去って頂戴」
もう不動は用済み。それどころか今となっては邪魔な存在ですらある。
俺が手で扇ぐようにすると、ヤツは顔を真っ赤にして食い下がった。
「ダメだ、柏木沙羅。そいつがこの学校で一体なにをやってきたか、知らないわけじゃないだろう。こいつは柏木沙羅と話すには値しない人間だ」
「はーあ、あなた柏木さんの交友関係に口を出すつもり? あなた、一体柏木さんの何だっていうの? まるでストーカーね。柏木さん、周囲の環境が人間に及ぼす影響は計り知れないわ。この人みたいな野蛮で盲目的な人間をそばに置いておくのがあなたの為になるとは到底思えない。この野獣にも分かりやすいよう簡潔な言葉にすると――お友達は選びなさいってことね」
「なんだと……!」
首や腕まで赤くし、拳を握りしめ、歯を食いしばる不動。
ますます醜い顔。本当に獣のようだ。それがセーラー服を着ているんだから、笑いをこらえるのが大変――
「みんな、同じじゃない」
柏木沙羅の呟いた言葉に、俺の心臓が一瞬鼓動を止める。
――そうだった、忘れていた。
彼女は俺が男だってことを知っているかも……いや、きっと知っている。
『お前だって男じゃないか』
彼女が暗にそう言っている気がして、俺は口を開くことができなかった。
口内の水分が急速に失われていく。リップクリームを塗ったばかりなのに、唇が渇いてひっつく。
死刑判決を待つような気持ちで、俺は彼女の言葉を待つ。
すると彼女は聖母のような微笑みを携えて口を開いた。
「私たち、同じ白薔薇女子高等学校の生徒じゃないですか。死に物狂いで勉強して、ようやくこの学校に入学できた仲間じゃないですか。仲良くしろとまでは言いませんけど……できれば、喧嘩は見たくないです」
柏木沙羅の言葉に、俺は不動と顔を見合わせる。
コイツと同じ……か。今となっては強く否定することもできない。
「……分かった。何かあったらすぐに言うんだよ」
不動は不服そうに言いながらも、自習室を後にした。
「会長も、もうあまり無茶なことしないでください。いつか誰かに刺されかねませんよ」
「肝に銘じますよ」
「でも、私知ってます。会長が本当は優しい人だって」
柏木沙羅は突然殊勝な顔になり、ぺこりと頭を下げた。
「私のこと助けてくださって、本当にありがとうございました。今日はそれが言いたくて」
「……良いのよ、でもあなたも気を付けなさいね。世の中にはとんでもない変態がたくさんいるものよ」
とくにこの学校にはね。
という言葉は口には出さずに飲み込んだ。
「私のせいで怪我させてしまって……すみません」
「あなたが謝る事じゃないわ。学校側がしかるべき手続きをとってくれたから、彼がこの学校に入ってくることはもうない。安心していいわ。といっても、あんなヤツを採用した学校に不信感を抱く権利があなたにはあるけれどね」
「いえ、良いんです。彼も可哀想な人でしたから」
「可哀想?」
「そんな事より、怪我は大丈夫だったんですか?」
「え、ええ……」
俺は隠すようにセーラー服の上から腹をさする。
それほど傷は深くなかったし、万一痕になってしまっても別に構わない。
そう、傷なんてどうでもいい。
問題は――
俺は柏木沙羅の目を見ることができず、思わず視線を足元に向ける。
そうしていると、彼女は慌てたように口を開いた。
「あ、そ、その。大丈夫です。誰にも言いませんから!」
柏木沙羅はそう言って、困ったように笑う。
「会長が、その、なんというか、控えめというか、ひんにゅ……じゃなくてえっと、シンデレラバストなことは、絶対誰にも言いませんから!」
「……へ?」
無意識に気の抜けた声が漏れる。
貧乳? 俺が?
まさかこの子、とんでもない天然……?
「……ふふ」
いや、そんなはずはない。
男の胸板と、女性の胸。サイズは色々あるだろうが、いくらなんでも男のそれと見間違うわけはない。
彼女は分かってるんだ、全部。
クラスメイトが、先輩が、この学校の生徒がみんな女装男子だってこと、分かってるんだ。
分かった上で――彼女は怯えるでも嫌悪するでも変態と罵るでもなく、俺たちにこんなに優しく接してくれている。
平等に、同じ生徒として。
男である俺ができなかったことを、彼女が易々とやってのけているなんて。
なんだか、不思議な気持ちだった。
――この学校に入学してから初めて、認められた気がした。ここに居ていいんだって、言われているような気がした。
「ふふ、ふふふふ。あなたって凄いわ。本当に、本当にね」
「先輩?」
柏木沙羅の不思議そうな声が聞こえてくる。
多分彼女は可愛らしく小首を傾げ、俺の後頭部を見つめているに違いない。だが、今の俺は彼女のかわいい顔を見るわけにいかない。
こんな無様な顔を見せるわけにはいかない。
「ごめんなさいね、勉強はまた今度にして頂戴。急用を思い出したの。明日にでも、ね?」
「そうでしたか。じゃあ是非、また」
俺は柏木沙羅に背中を見せたまま挨拶を済ませて、そのまま自習室を出る。
外で四つん這いのまま待機していた犬が、俺の顔を見るなり嬉しそうに声を上げた。
「あっ、会長! 早かったですね、もう良いんですか? ……ん? 会長? なんで泣い」
その広い背中を踏みつけてやると、ヤツは嬉しそうに「キャイン」と声を上げたのだった。




