21、鮫島マリは欲しがり屋さん
「サラダなら風紀委員の子たちがどこかに運んでたよ。多分、風紀委員室だと思う。交渉すれば一個くらい譲ってくれるんじゃないかな」
「風紀委員室……そうか」
俺の言葉により、絶望に沈んだ柏木さんの目に生気が宿る。
「教えてくれてありがとう、鮫島さん」
「う、うん。頑張って」
鬼頭を連れて食堂をあとにする柏木さんの小さな背中を見送り、俺はホッと胸をなでおろす。
良かった、上手く誘導できた。
「ぐふ……ぐふふふ」
やった、やった。いっぱい役に立てた。
きっとあの人は“ご褒美”をくれる。
「会長、柏木沙羅を風紀委員室へ誘導しました」
生徒会室の扉を開け、俺はいつものように地面に膝をついて四つん這いになりながらそう報告をする。
犬の上に座った生徒会長は、ごみを見るような目を俺に向けて口を開いた。
「そう。柏木さんも可哀想ね、人間のふりした畜生なんかに誘導されるなんて」
「ハイ! ありがとうございます!」
「それにしても風紀委員長の……ええと、なんて名前だったかしら。すみれさんだっけ? あの人も本当に陰険というか、回りくどいことをするわ。ねぇ?」
会長は吐き捨てるように言うと、自分が尻に敷いた犬の手をぐりぐり踏みにじる。
――ああ、いつもあの人ばっかり。
あの人は鵜飼さん。会長の初代犬にして、俺たち犬のトップ。
会長が椅子にするのは大抵鵜飼さんである。バランスや座り心地、移動時の振動が他の犬とは段違いらしい。
もう二年以上、会長の脚として彼女を(物理的に)支えているという話だ。踏まれる回数も尻を殴られる回数も圧倒的にあの人が多い。
とはいえ、今回は俺の手柄だ。
「あ、あのう、会長。私にも、そのう……」
「は? ああ、はいはい」
会長は投げやりに言うと、その長い脚を振り上げ、その踵を俺の背中に振り下ろす。
「うがっ!?」
腰に走る甘い衝撃。声を上げずにはいられない。
「ありがとうございますッ!」
「こんなことで喜ぶなんて本当に気持ちが悪いわ」
「ハイッ! すみませんッ! で、でも、ハァハァ、なんでこんなに柏木沙羅にこだわるんですか? 柏木沙羅を雄っパブ教室に誘導したかと思えば、攫われた柏木沙羅を助けるために鬼頭を誘導したり……」
「犬が人語話さないで。あとハァハァうるさいんだけど」
「申し訳ございませんッ! ハァハァ」
俺の背中に脚を乗せたまま、生徒会長は冷たい視線を俺に向けて大きくため息をつく。
「紹介するわね」
その時だった。
扉の向こうから、突然聞こえてくる女子の声。
「誰かしら?」
教室の机でお茶を飲んでいた生徒会メンバーたちは互いに顔を見合わせて首をかしげる。メンバーは教室内に揃っているし、会長の犬にあんな可愛い声をしている者はいないはず。
勢いよく開く扉の先にいたのは、栗色の髪に青いリボンを付けた少女。
……顔を見るのは初めてだが、多分彼女が風紀委員長だ。
そして風紀委員長の後ろにいる見覚えのある黒髪の美少女と、化粧の濃い強面の男。
どうして、彼女がここに。
「これが私の幼馴染兼、生徒会長の犬兼、椅子。鵜飼さんよ」
「……ッ!?」
生徒会長の尻に敷かれ四つん這いになった鵜飼さんを見下ろしながら風紀委員長が吐き捨てると、黒髪の美少女の目が零れ落ちんばかりに大きく見開かれる。
だが彼女の目は鵜飼さんではなく、俺に……この俺に向けられていた。
「鮫島……さん……」
柏木沙羅は俺を見下ろしながら、呆然と声を上げる。
ヤバい……バレた。
そうだ、俺は一度は柏木沙羅に助けてもらったにもかかわらず、悪魔の誘惑に打ち勝つことができなかった。
俺は悪魔に――生徒会長に服従させられる快感を忘れることができなかったのだ。
そして俺は、会長の犬になった。
「うふふ、残念だったわねポチ。秘密にしてたのに、バレちゃったわね」
会長は俺たちには見せたことがないような笑顔を浮かべ、嬉しそうに手を叩く。
そして風紀委員長もまた、俺を見て笑みを浮かべる。
「あは……あはははははッ! そう! あなたもだったの。あなたの友人もあの女にやられたのね」
だが彼女の笑みは会長のような自然なそれではなく、泣き顔にすら見える引き攣ったものであった。彼女は歯を食いしばるようにして柏木さんに言う。
「どう、友人を奪われた気持ちは。友人が人でなくなった感想は? もうあんな軽々しいことは言えないんじゃなくて?」
「すみれさんに、柏木さん。うちの犬たちがどうかしたかしら?」
生徒会長は、まるですっとぼけたようにきょとんとした表情を浮かべ、首をかしげて見せる。
――ああ、柏木さんはどんな顔をするだろう。
呆れるか、怒るか、あるいはドン引きするかも。
俺は恐る恐る、柏木さんの顔を見上げる。
だが予想に反し、彼女の表情はいたって穏やかであった。
「……鮫島さんは鮫島さんだよ」
「へ?」
ビクビクする俺のそばに来てしゃがみ込み、柏木さんは俺に顔を近づける。
こんな俺に、彼女は微笑みを向けてくれている。
「ちょっとビックリはしちゃったけど、映画鑑賞の趣味があろうと、読書の趣味があろうと、フットサルの趣味があろうと、犬の趣味があろうと、鮫島さんであることには変わりないもの」
――ああ、やっぱりこの子は女神だ。
「な、なんだよ、そんな綺麗事。正直に言って良いんだ。言えよ、気持ち悪いって!」
委員長は笑っているような、泣いているような顔でそう叫ぶ。
だが取り乱す委員長とは対照的に、柏木沙羅はどこまでも穏やかだ。
「委員長も、友達の見たことない姿を見て少しビックリしちゃったんだよね? でもきっと根本は変わってないよ。そうでしょ?」
柏木さんはそう言って、今度はその美しい微笑みを鵜飼さんに向ける。
すると鵜飼さんは目を見開き、顔を隠すようにして俯いた。そして彼は口を開く。
鵜飼さんの声を聴いたのは、俺にとってこれが初めてであった。
「北条、お前にずっと謝りたかったんだ。そして伝えたかった。入学当初の絶望が嘘みたいに――俺は今、幸せだよ」
「鵜飼……そんなこと言われても……僕は……」
「お前に理解してくれとは言わない。でも一つ言わせてくれ。お前にも、もっと高校生活を楽しんでほしい」
「楽しむ……?」
風紀委員長は困惑したように視線を落とす。
すると、すかさず柏木沙羅が少女の顔を覗き込んだ。
「あなたには仲間がたくさんいるじゃない。きっと、どんな馬鹿なことにも付き合ってくれるよ」
「え……あ、その……」
頬を赤らめ、視線を泳がせる風紀委員長。
刹那、俺の背中にかかる重みがにわかに増す。
「こんな醜態を晒して“幸せ”だなんて、理解に苦しむわね」
生徒会長の顔が嫌悪に歪む。
会長は俺の背中に乗せた脚に力を込めながらさらに口を開いた。
「柏木沙羅、あなたはこんな畜生と友人なんかになるべきじゃない。あなたはこいつ等を従えることのできる人間なのよ」
だが柏木さんは微笑みを浮かべながらも、会長の言葉に首を振る。
「私は一年生ですよ。鮫島さんやカズちゃんは愛すべき同級生だし、会長と風紀委員長と鵜飼さんは尊敬すべき先輩です。従えるなんてとんでもない」
俺の背中にかかる圧がどんどん強くなる。
もう膝が砕けそうだ。
「それでは。またね、鮫島さん」
柏木さんは笑顔で俺に手を振ると、静かに生徒会室をあとにする。風紀委員長も彼女の後を追うように部屋を出て、静かに扉が閉められた。
後に残ったのは、背筋の凍るような重たい空気。
「……会長、大丈夫です。私たちは何があっても会長に従い――うがあっ!?」
背中にかかる圧に耐えられなくなり、とうとう俺は腹を床に付けることになった。
地面に突っ伏した俺の頭を、会長がぐりぐりと踏みつける。
「犬が人語喋らないで?」
「ハイッ! ありがとうございますッ!」