17、芥川晶香のミッションインポッシブル
女子の部屋――
なんと甘美な響きだろう。
その言葉そのものから、なんだかいい匂いがしてくるような気すらする。
中学のころは全く縁がなく、また高校入学後も絶望的かに思えた女子の部屋への侵攻が、今まさに現実のものになろうとしている!
……ま、その部屋の主は宿直室に監禁されていて不在なのだが。
俺のミッションは、柏木沙羅の寮部屋から生活に必要な私物を回収して彼女に届ける事。
それほど難しくはない事だ。鍵はあるし、柏木沙羅直筆の欲しいものリストも持ってる。
俺はゆっくりと、何気なく辺りを見回す。人の姿はない。
大きく息を吐きだし、持っていた鍵で扉を開ける。ガチャリ、と音がして部屋の錠が回る。
素早くノブを回し、部屋に入る。
大きく息を息を吸い込み、部屋の空気を胸いっぱいに溜め、そして――
「女の子の匂いだァァァァァァッ!!!」
歓喜のあまり、俺は叫び声を上げた。
ルームフレグランスのせいか、柏木沙羅の部屋はメチャクチャ良い匂いがする!
棚には化粧品や可愛らしい小物類が整然と並べられ、まるでモデルハウスのようだ。
間取りも家具も同じはずなのに、俺の部屋や、夕方になると髭の生えてくる友人たちの部屋とは大違いである。心なしか部屋が一段階明るい!
あーあ、ここに柏木沙羅本人もいたら最高だったのに……
いや待てよ。彼女がいないからこそできる事もあるか?
……い、いや。いかんいかん。まずはミッションをこなさないと。
俺はリストにあった通り、柏木沙羅の私物を回収していく。
歯ブラシ、スキンケアグッズ、文房具やノート、パジャマやらなんやら。どれも心なしか良い匂いがする気がする。
「ええと、それから……枕もか」
呟きながら、俺は柏木沙羅のベッドに近付く。
ピンク色のカバーに覆われた布団は、ふわふわしていてとても寝心地がよさそうだ。もう数年干していない俺の煎餅布団とは大違いである。
俺は枕を取るため、彼女のふかふかの布団を何気なく捲る。
「ッ!?」
刹那、俺は衝撃のあまり動きを止めざるを得なかった。
布団を捲った衝撃で舞い上がった空気が、俺の鼻孔を優しくくすぐる――
まるで“女子のいい匂い”を濃縮したような、芳醇な香り!
女子の部屋に一人きりという極限状態において、その香りは辛うじて保っていた俺の理性をやすやすと吹っ飛ばした。
「うひょーいッッ!」
俺は本能のまま柏木沙羅のベッドに飛び込み、その布団に包まる。
よくよく考えれば、ここは柏木沙羅が一日の四分の一の時間を過ごしている場所。彼女の匂いがするのは当然だ。
なんなら、今の俺は柏木沙羅に包まれている状態に限りなく近いのでは?
や、やばい……なんか興奮してきたぞ。
が、俺の興奮は突然響き渡ったノックの音により、そのまま激しい焦燥へと変わることになった。
「ねぇサラー? いるの?」
「ひっ!?」
布団で口を押さえ、悲鳴を必死に噛み殺す。
「ん? 鍵開いてる……不用心だなぁ、入るよ?」
ヤベェ、テンパりすぎて鍵締めてなかった!
ドアノブがゆっくりと回っていく。
身を隠す時間すらなく、とっさに布団を被って全力で体を平らにすることしかできなかった。
「サラ、大丈夫?」
部屋に侵入したのはよりにもよってあの鬼頭和子である。
柏木沙羅と最も仲が良いと言われており、共にいる時間も長い。しかもあの体格――戦ってもまず勝てない!
「サラってば。そんなに具合悪いの?」
「ち、近付かないで!」
俺は全力の裏声で鬼頭和子の接近を阻止する。
体を平らにしてベッドと同化する作戦はあえなく失敗――俺に残された道は、この部屋の主である柏木沙羅を装う事のみ!
上手く誤魔化さなくては。失敗した場合、俺に待ち受けているのは……考えるのも恐ろしい。
「あの、酷い風邪で……移すのも悪いから」
「確かに声ガラガラだね……でも大丈夫、そんなの気にしないから! 私風邪ひかないし」
「いや、でも、あの、すっぴんで、酷い顔してるから。恥ずかしいから、ほんと見ないで!」
「そ、そっか。そうだよね。化粧は乙女にとってパンツみたいなものだしね……ごめん」
俺の勢いに押されたのか、鬼頭がそれ以上近付いてくることはなかった。
鬼頭もまた“女子の部屋”にいるという事実に少なからず浮足立っているに違いない。布団越しにそわそわが伝わってくるようだぜ。
これは思ったより上手くいくかもしれない。
「それにしても、急にいなくなるからびっくりしたよ」
「う、うん。あの騒ぎで気分悪くなっちゃって、保健室に連れて行って貰ったんだ。しばらく学校休むと思うけど心配しないで」
「できるだけ早く治してね。そうそう、今日のノートと、それから差し入れのパック雑炊とポカリと薬。机の上に置いとくから」
おお……思ったりより良い奴っぽいなコイツ。
しかも案外バレてない。
よし、あと少しだ。あと少し誤魔化せば――
「ねぇ、なんかサラ……おっきくない?」
「へ!?」
俺は半ば反射的に股間を隠す。
「なななな、なにが?」
「いや、なんかサラ、太った?」
「え!? あ……」
確かに華奢な柏木沙羅に比べれば、当然俺の体はデカい。
鬼頭和子め。この部屋に慣れて、俺の不自然な点に気付き始めたか?
「あ、あの、あれだよ。寒くて寒くて、もってるパジャマ全部着たからさ!」
「寒気が!? それは大変。待ってて、今生姜湯作るから」
「いや大丈夫だから! っていうかそっちキッチンじゃないよ」
はぁ、面倒なことになった。
俺は脱衣所のほうへ走っていく鬼頭の大きな背中を見ながらため息を噛み殺す。
マズイな、アイツ案外観察眼があるのかも。早めに追い出さないとどんどん粗が――
「おい。テメー誰だ」
「へ?」
突如、この状況における俺の最強の鎧“布団”が引きずり降ろされた。
妙に冷たい空気が体を撫で、視界が一気に広がる。俺の目に飛び込んできたのは、鬼頭和子の鬼のような顔。
「何してやがる、この変態が!」
「ひいいいいっ、ち、違うんです! 私はただっ、柏木さんに頼まれてぇ!」
「下手な言い訳してんじゃねぇ! なんだよこのパンツは!」
「は……? パンツ?」
さすがに女の子の部屋でパンツまでは脱いでいない。
しかし鬼頭の手には、確かに赤いトランクスが握られていた。
「ええっ!? それは俺知らな」
「黙れクソ野郎!」
鬼頭はそう叫びながら、トランクスと共に固く握りしめた拳を俺に向けて振り下ろしたのだった。