第五話 グロス
「わあ、ここが梃徒君の部屋なんだね」
夕食を食べ終わると、すぐに桿那は梃徒の部屋に入りたがった。
先ほどのやり取りに意味はなかったらしい。
梃徒はそんな桿那をなんとか落ち着けて、部屋の掃除を急いでしてから彼女を自室に招いた。
「別に面白いものなんてないよ」
「ええ、私男の子の部屋とか始めてだから、凄くテンション上がってるよお」
「……そう」
桿那の言葉が真実かどうかは梃徒には知りようがなかったが、もし本当だったなら、それは少し驚きだった。
彼女の周りにはいつもカースト上位の男子がもちろんいる。
サッカー部、野球部、バスケ部、帰宅部の不良系、その他もろもろだ。
それに、彼女は毎週にように、梃徒たちの学校だけでなく他校の生徒からも告白を受けていると聞いたことがあるし、梃徒も誰かに呼び出されている彼女をこの一週間で2回ほど見た。
あれが、告白だったかどうはさておき、もちろん放課後はその人たちと遊ぶだろうし、その流れで男の部屋にも入ったことがあると予想ができる。
(まあ、僕には関係のない話だけど)
「ねえ、ねえ」
梃徒が勉強机の椅子に、桿那がベッドに座っている。
「何?」
「あれはどこなの?」
「エロ本とかなら期待しないでよ。そういうの、僕持ってないからさ」
「違うよう。そんなんじゃなくて、もっと生々しいやつだよ」
梃徒は桿那の態度から、彼女が何の居場所を知りたいのか理解した。
少し鼓動が早くなる。
「な、なんで、そんなの教えなきゃいけないんだよ」
「あ、もしかして、返してって言われると思った? そんな無粋なことしないよ。もうあげたやつだしね。それに、何が付いてるかわからないじゃない?」
梃徒は自分の顔が高揚するのを感じる。
まったくこの生物はかなりずれているし、恥じらいというものはないのか。
「別に何も付いてないし、返したいくらいだよ」
「ええ、何よそれえ。パンツは好きじゃなかったの?」
「そ、そういう理由じゃなくて!」
「じゃあ、好きなんだ?」
「い、いや! そういうのでもなくて……」
どうしてこの子は、自分をこんなにも攻めてくるのかと、梃徒は困惑していた。やはり自宅に入れたのは間違いだった。
「もう。そんなこと言うなら、帰ってもらうよ?」
梃徒は少し怒った口調で言った。
流石にこれ以上は防衛しなくては、何かもっとボロが出てしまう。
「冗談だって、もう、そんなに怒んないでよ」
しかし、あまり相手には効果はなかったようで、桿那は眩しいくらいの笑顔を向けてきた。
その笑顔を見せられてはこちらも毒気を抜かれてしまう。
(でも、確かに心配かもしれないな)
彼女がいきなり手渡してきたといっても、あれは彼女のパンツだ。断じて梃徒の所有物だと思ってはいない。
もしかしたら、何かに使われていたり、どこかにやられたのかという不安があるのかもしれない。
仕方がないか、と梃徒は思い。カギの掛かった机の鍵穴に財布からカギを出して差し込んで右に回した。
「はい。これ、返すよ」
「わあ、そんなところに入れてたんだ。まあ、お母さんとかに見つかったら大変だもんね」
桿那はそれを受け取り、目の前で広げた。
梃徒はそれをできるだけ見ないようにする。少しは見るが。
「ちょ、ちょっと何してるの?」
「え? 匂い嗅いでるの。一週間経った脱ぎたてパンツがどんな匂いするのかなって」
「匂いなんてないよ」
「え? 嗅いだの?!」
「違うって! それ洗濯したから」
梃徒はあるとき、自分から洗濯をすると名乗り出た。これからは自分が洗濯係りになると、それにより、なんとか桿那のパンツを洗濯することができたのだ。
しかし、才華は家事を自分以外にはやらせない完璧主婦。一日だけというわけには行かず。彼女を長時間に渡って説得し、洗濯することがいかに自分にとって大切かということを伝えて承諾してもらった。
熱烈すぎて、毎日洗濯しなければならないという代償を払うことになったのは、予想外だったが。
「ええ、なんでよー。それだと前で脱いだ意味ないじゃんかあ」
「そんな意味はなくていいの。ちょうどよかったから、それはもう持って帰ってよ。いつも机の引き出しが気が気でなかったんだから」
梃徒はそう言いながら、桿那が持つ彼女のパンツを見た。
黒いレースタイプのもので、ところどころにピンクで刺繍がされていた。正直言ってエロい。そんな下着を高校生にもなると履くんだなと、梃徒は自らの母の下着との差を感じていた。
桿那はもう一度、パンツに顔を近づける。
「ほんとだあ、お日様の匂いがする。なんだ。洗ったのかよお」
そして、明かりにそれを照らした。それに何の意味があるのか梃徒にはわからない。
「うん。でも大丈夫だね。はい、これ」
「いや、だから、話聞いてた? 持って帰ってって言ったんだけど」
「駄目、これは君が持ってないと駄目なの。はい」
桿那は梃徒にパンツを握らせた。
「あ、それとも……」
「ちょちょっと!」
梃徒はすぐに顔を桿那から背けた。
「な、何やってるのさ!」
「何って、よっこいしょ、こっちのほうがいいのかなって」
顔を背けている後ろで、プチという音がする。
そして、衣擦れの音と共に、またプチという音がした。
「はい、こっちならどう?」
梃徒の頭に何かが被される。
甘い香りが梃徒の鼻腔を刺激して、下半身にも刺激を与える。
梃徒は自分の頭の上に乗っけられたものを、パンツの持っていないほうの手で取った。
「いったい、何を……、って! こ、これは……!!」
「私の脱ぎたてブラ、そっちならお気に召すかな?」
これもまた教室でパンツを握らされたときと同様に生暖かい。まさに人肌の温度とはこの温かさのことを言うのだろう。
しかし、いったいこの状況はなんだというのか。
梃徒は自分の両手を交互に見た。
右手には黒いパンツが、そして左手には黒いブラジャーが握られている。
今のこのとき、万が一にでも母親の才華が部屋に入って来ようものなら、梃徒を見てこう思うだろう。
変態だ。
と。
そして、自分の息子が同級生から下着を脱がしている現状に頭を悩ますに違いない。自分の育て方が悪かったのではと自責の念に駆られてしまうだろう。
そんなことになっては駄目だ。
梃徒は両手に握られている物を急いで引き出しの中にしまって、そのカギを左に回した。
(ここはパンドラの箱だ)
それを開けてしまえば一度、良くない感情が自分を包んでしまう。確かに、男ならば仕方がないのかもしれないが、それを許せない自分がいる限りパンドラを開けるのはやめよう。梃徒はそう誓った。
梃徒がそう自戒を込めていると、後ろから笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、梃徒を見て桿那が満開の花を咲かせている。
「はははは、そんなに焦らなくてもいいのに、っていうか、あれだね。君、考えてることが顔に出すぎだよ。今、ここはもう開けないで置こう。的なこと考えてたでしょ」
「そ、そんなことないよ」
こいつはエスパーだったのか。と梃徒は思った。
「ううん。今も、私のことエスパーだとかって思ったでしょ?」
「エスパーなの?!」
「ははは、なわけないじゃんか。君って結構天然なんだね」
天然とは侵害だ。
梃徒は自分はひどく普通の人間で、そんな普通とは真逆の天然なんて言葉、自分にはふさわしくないと思っていた。
「はあ、久しぶりにこんなに笑ったよ。ありがとう」
「なら、そのお礼に下着を持って帰ってほしんだけど」
「それは駄目。貰うのが嫌なら、預かってることにしててよ」
「それはそれで、変だと思うんだけど」
「まあまあ、気にしなさんな。細かい男は嫌われるぞ?」
「僕は別に君に好かれようとは思ったことがない」
「うわあ、辛らつだなあ、そんなことよりさ」
梃徒の言葉はいつも通り桿那にまったくダメージを与えることはできなかった。
「今、私ノーブラってことだよ?」
桿那が、下から覗き込むように梃徒を見てくる。
それにより梃徒の視界には彼女の顔を見ると同時に、ある物が入ってくる。
確かに、先ほど手にあったそれは、結構な大きさをしたものだったな。と梃徒は瞬間的に、反射的に思った。
「ねえ?」
桿那が顔を近づけてくる。
梃徒の視線は自然と彼女の胸に引き寄せられる。
(確かに、胸の先が少し……)
「なんてね!」
「え」
桿那の胸が梃徒から離れていく。
「ちゃんと、換えのブラは持ってきてたので、ノーブラではありません」
「ってことは」
最初からブラジャーを渡す気だったということか?
「やだなあ、そんなこと最初から考えてるわけじゃないでしょ?」
梃徒の思考はまた桿那に読まれてしまった。
「いつも予備は持ち歩いてるの、もしも、梃徒君に襲われることがあってもいいようにね」
「し、しないわ。そんなこと!」
「ははは、冗談だって、冗談」
まったく、やはりこの生物の考えていることは、自分には未知過ぎて想定不能だ。と梃徒は思った。
考えるだけ無駄というやつだ。
「はあー」
梃徒は、顔の手を当ててため息を付く。
そのとき、そういえば、この手はあの生暖かい物を触った手だと気が付いてしまうと、手の温もりを意識していしまった。
「それで――、って何してるの?!」
とにかく話題を変えよと思って、桿那のほうを見ると、彼女は部屋の真ん中にある小さな背の低い机にカラーペンで何か書いているところだった。
「あ、これはね不思議なペンなんだよ」
「いやいや、不思議でも何も、そんな勝手に――」
梃徒は席を立って、桿那が書いている場所を確認しに行く。
(まったく、自由すぎだろ)
「あれ……?」
梃徒は、桿那が机に書いてある文字を確認することができなかった。
「えへへえ、これはね」
桿那が梃徒にペン先を向けてくる。
「書いた文字が見えない不思議なカラーペンなんだ。そして――」
桿那はペン先と反対に付いている方を今度は机に近づけて、先にある小さなボタンを押した。
「あ」
すると、そこから青白い光が出て、照らした机の所に字現れた。
「これは、ブルーライトで見えるペンなんだよ」
「へえ、でも、そこに書いてあることは断じて誤解だからってことと、勝手に人の物に字を書くのはこれからはやめた方がいいよ」
現れた字は、「テイト君は、女子の下着を収集する変態さん」であった。
「こんなことするのは梃徒君に対してだけだよ」
「僕はそんな言葉で喜んだりはしないからね」
「ええ、ケチい」
「どこがケチなもんか、どっちかって言うと寛大なほうだと思うけどね」
「うわあ、理屈くさあい。におうよ?」
「それが匂うなら、世界中が異臭に包まれるよ」
梃徒は極めて冷静に、意識しないよう努めた。
相手は、あの灘桿那、おそらく梃徒たちの街で一番かわいい、いや美しい人間だ。
彼女の一挙手一頭足は、まるで男を、いや、女を含めた全人類を虜とするために洗練されたもののように感じられるほど、人の心を高鳴らせる。
でも、梃徒はそんな彼女からの攻撃に耐え続けていた。
彼女が自分みたいな人間に構って来ているということの裏には、何か意図があるに決まっている。何か勘違いはしてはいけない。そもそも、自分みたいな人間が関わる相手ではないのだ。と常に言い聞かせながら彼女と接していた。
「あ、もう行かないと」
桿那は時計を見て立ち上がった。
時刻は八時前、いい時間だ。
彼女の親がどういう教育方針を取っているのかは知らないが、こんな娘だ。遅くなればさぞ心配するに違いない。それこそ目に入れても痛くない子供なはずだ。
「じゃあね」
梃徒は彼女を玄関まで見送りに出た。
家まで送ろうか? という言葉が出そうになったが、その言葉は出さないことにした。踏み込み過ぎてはいけない。特にこういう相手には……。
「あ、そうだ。お礼しないとね」
そう言って、桿那は胸ポケットから赤いグロスと取り出して、自らの唇に一塗りした。
「ねえ、ちょっとこっち来て」
梃徒は一歩桿那に近づく。
すると、梃徒は桿那に腕を首に回されて、体を引き寄せられる。
「え、ちょっ」
そして、桿那の真っ赤な唇が、梃徒に唇に接触した。
そこから、数秒、二人の唇は密着したままとなる。いや、絡み合う。
梃徒は何が起きているのか呆然としながら、まさか、自らな初キスがこんな濃厚なものになるとは驚きだ。という冷静な分析をしている自分もいることが不思議だった。
「ぶはっ!」
お互いの息が限界となって、今まで吸着していた分、その反動で体が離れる。
「な、何を、いきなり……」
「私の初めてを貰った気分はどう?」
「え、初めて?」
「じゃあね。私の下着、大切にしてね。変態の梃徒君」
「だ、だから変態じゃ――」
桿那は、いたずらな笑顔を見せて、出て行った。
梃徒は頭の整理をするのに必死だった。
(いったい何がどうなってるんだ……?)
「梃徒、桿那ちゃん帰ったの?」
リビングから才華が、出てきた。
梃徒は振り返る。
「う、うん。今さっき」
「梃徒あんた、唇真っ赤よ」
「え?」
梃徒は自分の唇に触れた。先ほどまで桿那の唇と触れていたそれを。
「あ。本当だ」
それを見て、才華が梃徒にやさしい微笑みを向けてくる。
「な、何?」
「青春ね」
顔が、いや全身が一気に熱くなるのを梃徒は感じた。
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