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王子殿下は従者様  作者: 東風
第二章 春遠からじ
9/33

□第九話□ 幕間

すみません。かなり長いです。

二話分に分けるか迷ったのですが、幕間が二つもあってもおかしい気がして。

一つにしてしまいました。

 レスリーからの許可を得て、見張りの衛士をのぞいた全員が大広間に集っている。

 大きなテーブルがいくつも並べられ、皆が助け合って晩餐会のセッティングを行っていた。

 どうしてもレスリーが気にするから、参加できない衛士にもいつもより豪華な食事と僅かな報償が届けられることになっている。


 小さな離宮で、これほどの人数が一堂に会するのは初めてのことだ。

 人数は把握していたが、これほど多いと実感したことはない。

 一時雇いの洗濯女達までいるのだから、当然と言えば当然なのだが。


 そんな賑わう人々の中を、一組の王子達が縦横無尽に駆け回る。

 引っ張り回しているのはレスリー。その腕を掴んだまま、渋い顔を続けているのがルシオだ。

 レスリーは色々な人々に話しかけながら、ことあるごとにルシオを振り返るから、自然とルシオも会話の中に加えられていく。

 レスリーが笑い、召使い達が笑い、ルシオが肩をすくめる。

 ルシオがレスリーの手を引っ張ってその場を離れる。レスリーは残された一団に手を振って挨拶をし、つながったままのルシオの手を逆に引っ張って別の一団に加わっていく。

 そんなことの繰り返し。

 何ともほほえましい光景であった。


 日が徐々に落ち始めた。

 リヒトは近くにいた数人に指示して、燭台に灯をともさせる。

 だが、窓辺はまだ明るくて、空には鮮やかなオレンジ色の雲が広がっていた。


 「こんなところにいたのね」

 不意に目の前にグラスを差し出され、リヒトは瞬きをして見返した。

 白髪交じりの髪を丁寧にまとめた老女がひっそりと立っていた。

 「セリス? どうしました?」

 リヒトがグラスを受け取ると、セリスは横に並んで、先ほどまでリヒトが見ほれていた夕焼けに目を細める。

 「日が長くなってきたわね」

 「えぇ、そうですね。春もたけなわ、と言ったところでしょうか」

 セリスの視線を追うようにして、また夕焼けを見つめる。オレンジ色に徐々に紫色が混ざりはじめていた。

 何とも神秘的な光景だ。この空を大好きだった少年を思い出す。

 「秘密が、あるのでしょう?」

 セリスが断定的に、でも囁くように小声で言う。

 リヒトは答えない。

 セリスも重ねて問うようなことはしなかった。


 その少年はいつも、鐘塔の天辺で飽きずに空を眺めていた。

 高い壁に囲まれた庭園の向こう。

 人々の営みがあるバーナビーの向こう。

 リヒトが、何を見ているのか、と問うと、決まってこう答えた。

 「空の向こう」

 普段はうるさいくらいに明るく、双子の兄を引っ張り回し、離宮の中をひっかき回していたのに、夕暮れの一瞬だけ、一人になりたがる。

 ルシオが心配して探し回っていても、気にすることなく、たった一人で鐘塔に登る。

 リヒトはそのことに気づいていて、ルシオが探し回ると、こっそり鐘塔に彼を呼びにきたが、鐘塔に彼がいることをルシオに教えることはなかった。

 双子でも一人になりたいときはあるのだろう、と思っていたからだ。

 そんなことをつらつら思い出していると、不意に、そう言えばいつもと違う答えがたった一回だけあった、と思い出した。

 「俺はもうすぐあの空の向こうに行く。兄さんをよろしく頼む」と。

 そうだ。立太子の儀式を間近に控え、王宮に上がることが決まった日のことだ。

 彼の能力が認められ離宮から出られることになったが、あの時、ルシオは残ることが決まっていた。

 ルシオには何の能力もない、と王宮が判断したからだ。

 彼は珍しくも非常にねばり強く交渉にあたったが、王宮側から諾の返事は貰えなかった。

 ルシオは気にしていないように見えた。

 「大丈夫だ。僕はここでちょっとした研究と読書に明け暮れるから。元々、他人が苦手なんだ。行かなくていいなら、行きたくない」

 その言葉通り、ルシオは弟よりも遙かに頭がよく好奇心旺盛であったが、人見知りの傾向が強かった。

 新しく雇った召使いに初めて声をかけたのが一年後、と言う笑い話もあったほどだ。

 だが、そんな兄の言葉を、弟はどう受け止めたのだろうか。


 「俺はもうすぐあの空の向こうに行く」

 彼の言葉が胸に突き刺さる。

 記憶が曖昧だが、この言葉を聞いて間もなく、事件があった。


 非常時以外走ることを許されていない衛士が猛然と駆けてきて、無言でリヒトを池まで誘導した。

 息を切らせて到着すると、ルシオがまじろぎもせずに一点を見据えて立ち尽くしていた。

 視線に沿ってリヒトも頭を巡らせると、ルシオの立つ池の対岸に、うつ伏せに水面に浮かんでいる少年の姿があった。

 リヒトが言葉を失っている間に、ルシオが弟のそばに駆け寄り迷わず水に飛び込む。

 いつから浮かんでいたのか。息はあるのか。

 気になったが、リヒトには他にすることがあった。

 衛士隊長とリヒトを呼びにきた衛士の二人をのぞく全員をこの場から去らせ、池の近くを立ち入り禁止にした。

 そして、離宮付きの侍医を呼びに行かせる。

 隊長に言いつけ、少年を引き上げさせると、池の端に寝かせた。

 遠目ではよくわからなかったが、黒髪に覆われた後頭部は陥没し、息がないことは明らかだった。

 誰もが言葉を失っている中、ルシオが不機嫌に言い捨てる。


 「バカだな……。せっかく、大嫌いなここから出られるってところだったのに」


 非情な言葉に聞こえたのだろう。

 若い衛士が抗議の声をあげかけて、隊長に止められる。

 ルシオは全く気にする素振りを見せず、淡々と指示を出し、弟の亡骸を自室に運ばせた。

 改めて侍医による検死が行われ、判明している分だけの事実を早馬に乗せて王宮に送る。

 返ってきたのは「病人として扱うように」と言う指示。

 事情を知っている隊長と衛士、侍医には堅く口止めし、彼は「療養中」となった。

 彼をこのようにした犯人の捜索も行われないまま。


 ただ、少年が生きていると知ればまた襲ってくるのではないか、というのは誰でも考える。

 リヒトは、ルシオの身にも細心の注意を払うようにし警戒を怠らずにいたが、結局、今に至るまで何も起こってはいない。

 これはどういうことだろうか。

 外部からの侵入者であるということか。

 だが、どこにも「強引に侵入した形跡」はなかった。

 少年は強い魔力を持っている。抵抗はしなかったのだろうか?

 リヒトの胸にくすぶり続ける疑問はいっこうに解消されない。

 一時は死さえ考え、ルシオに止められた。止められて、「ルシオがいた」ことを思い出す。

 双子の残された王子を守り、助けていかなければならない。

 そう考えていた矢先、とんでもないことが起こる。

 「少年」が快癒してしまったのだ。


 王宮から早馬が来て、ルシオが生まれて初めてバーナビーから他の町に行く。

 数日後に返ってきた王子は、「レスリーの復帰」を伝えてきた。

 離宮中が沸いたが、事情を知る数名だけは表情を作ることができなかった。

 リヒトもその一人だ。

 ルシオに事情の説明を求めたが、寡黙な王子は「陛下の意向だ」としか答えてくれなかった。

 陛下の意向?

 そんなもの、あるわけがない。国王は宰相の言いなりだ。これはつまり、「宰相の意向」ということだ。

 少年の生を弄ぶ所行だ。

 リヒトは絶えようのない吐き気と、怒りに悩まされた。

 これから先、ルシオを守っていかなければならないとわかっているのに、すべてをぶち壊したくなる。いっそ、「快癒した少年」を殺して死のうか?

 そんなことをしても、誰も喜ばない。失われた命が蘇るわけでもない。

 わかっている。

 わかっているのだが……。


 日々が移ろい、ルシオに「レスリーのお茶の用意」を頼まれる。

 懐に果物用のナイフを隠し持ち、リヒトはワゴンを押して小部屋に入った。

 リヒトは目を閉じて、じっと待った。

 軽い足音がして、扉が開く。

 ゆっくり目を開くと、そこにレスリーが立っていた。

 僅かに目を見開き、リヒトを凝視している。

 リヒトはイスを引いて促した。

 「どうぞ、レスリー様」

 レスリーは助けを求めるように周囲を見回すが、誰の姿もない。

 きゅっと薄い唇を噛み、手を握りしめると、意を決したように言った。

 「あぁ、すまないな」

 レスリーが椅子とテーブルの間に立つ。

 少しの間の後、レスリーが腰を下ろす。それに合わせて、リヒトも椅子を押し出す。

 無意識のうちに、押すスピードはいつものレスリーに合わされていたらしい。腰が降りてくるほうが僅かに早くて、リヒトは眉をしかめてぐっとスピードを上げる。

 本来、せっかちすぎて責められても仕方ないような執事の行動だが、それよりもせっかちな腰がストンとそこにおさまった。今までよりも軽い感触。

 リヒトはレスリーから視線を剥がし、茶器を睨みつけた。

 「お茶をお入れしましょう。お砂糖とミルクはいかがなさいますか?」

 努めていつもどおりの声を出しつつ、尋ねる内容は常にはないものだ。リヒトはレスリーの好みを熟知している。このようなことは問うたことがない。

 「ミルクを一杯。砂糖は不要だ」

 レスリーの声が、いつもよりも僅かに硬さを加えて答える。

 リヒトは畳みかけるように、笑いかける。

 「ミルクはどちらのものを?」

 レスリーは唇を真一文字に引き、泣きそうに瞳を揺らしてリヒトを見返す。

 その一瞬で、リヒトは悟った。

 この「レスリー」もまた、望んでここにいるわけではない、ということを。

 それはそうだろう。このようなこと、失敗すれば命さえないようなこと、さらに、本当の自分をすべて捨て去るようなことを、誰が望むだろうか。

 どっと押し寄せた後悔に浸っている間に、レスリーの方が自分を取り戻したようだ。

 「おまえに任せるよ、リヒト」

 僅かなふるえが残る声に、リヒトは笑みを浮かべ深く頷いた。

 目頭が熱くなったが涙をこぼすわけには行かない。レスリーは驚いたように視線を逸らしたが、何も指摘してこなかった。レスリーの優しさと気遣いが垣間見得る。

 「かしこまりました。お待ちくださいませ」


 茶器を用意しながら、震える手を叱咤する。

 やはり、あの少年はもう、この世にはいないのだ。

 体を貫くような実感が辛い。

 そして、目の前にいるレスリーのなんと哀れなことか。

 健気にも、かつてのレスリーと同じ好み、同じ所作を求められ、努めてそうであろうとしている。

 年の頃はレスリー達と同じくらいだろう雰囲気があるのに、やるせないほどの緊張感を背負い、懸命にあがいている。

 そんなレスリーに恨みのすべて、自分の後悔のすべてをぶつけようとしていた自分が、浅ましくて仕方ない。

 心の中に燃えさかっていた怨嗟の炎が、ゆっくりと消えていくのを感じる。


 用意したケーキとお茶を静かにレスリーの前にセットする。

 レスリーはぱぁっと表情を明るくし、嬉しそうにケーキに添えた生クリームを見つめていたが、やがて、諦めたように視線を逸らして、ケーキとお茶だけに口を付ける。

 レスリーが好まないものとしてわざと用意したにも関わらず、今のリヒトは、この「レスリー」に好きなものを好きなように、喜んで食べさせてやることができない罪悪感に打ちのめされた。


 食べ終えたレスリーは、名残惜しそうに生クリームを見やりながらも振り切り、リヒトに淡く微笑んだ。

 「いつもありがとう。美味しかったよ。やっぱり、リヒトの用意するお茶とケーキは最高だね」

 「過分なお言葉、ありがとうございます」

 リヒトが懺悔するように頭を垂れると、レスリーはリヒトの肩に手を起き、頭を上げるよう促した。

 今度は、わだかまりなくレスリーをまっすぐに見つめる。

 すると、何故かレスリーが頭を下げた。

 「ごめんなさい」

 「何を……お謝りになっているのですか?」

 リヒトが問うと、レスリーは頭を上げ、強い瞳でリヒトを見つめてくる。どこか諦観に満ちていたかつてのレスリーとも、無関心になることで自分を守ろうとするルシオとも違う、受け入れた上で乗り越えようとする瞳。

 「あなたはご存じのはずだ。俺が、何者なのか」


 あぁ、もちろんわかっている。あなたが、誰でないのか、を。


 リヒトは首を一振りし、レスリーの前に跪いた。そして、白い手袋に覆われた手で、新しい王子の両手をすくい上げる。

 このレスリーが懺悔するのであれば、自らも同じように罪を告白しよう。

 「勿論、存じ上げております。レスリー殿下。私の悪戯好きな双子。

 あの時、あなたの姿を池に見て、私は胸がつぶれる思いがいたしました。

 殿下、私からこそ謝罪と、そして、分を弁えぬ願いを、お許しください」

 そう乞うと、レスリーは真剣な顔で頷く。茶化すようなあの笑顔ではなく、真摯に受け止めようとする生真面目な性質。

 リヒトはあふれてくる熱い思いに居たたまれなくなりながらも、レスリーの両手に自分の額を押しつけた。

 少し荒れた、でも細くて柔らかい手。

 王宮の罪深さにおののく。

 この子は、少年ですらないのだ!

 胸に入れているナイフを、おのが胸に突き刺したくなる。


 「冷たかったでございましょう? 痛かったでございましょう?

 何かあれば、じいにはすぐに分かる、と申しておきながら、殿下が一番私を必要としていたときに、お側に侍ることかないませんでした。その上、私はルシオ様を置いて行こうとした……。

 大変申し訳なく、苦しく思っております。

 ……殿下、殿下、あなたがどなたなのか存じておきながら、こう申し上げることをお許しください。

 今度こそ、両殿下をお守りさせてください、と」


 自分は誰に謝っているのか。何に謝っているのか。言葉と涙が溢れて止まらない。

 これほどの感情が自分の中に眠っていたことに驚き、これこそが自分が真に望んでいたことなのだと知る。


 レスリーは大きく深呼吸した後、リヒトの手をぎゅっと握り返してきた。温かい手だ。

 「リヒト、今までのおまえの行いには感謝しかない。それはこれからも同じだ。

 俺からもお願いしていいだろうか?

 是非、俺達を助けてほしい、お願いだ」


 優しい子だ。

 決して楽な生活をしてきたわけではないだろうに。

 涙が止まらなかった。


 物思いに沈みながら夕日を眺めていると、袖をクイッと引かれた。

 夢から覚めたように、セリスを見下ろす。

 老女の手には、リボンに飾られた包があった。

 自分を指さし首を傾げると、セリスは笑って首を振り、視線を双子に向けた。

 「お揃いの手袋。でも、全く一緒ではないわ。どちらがどちらのか、触ればすぐにわかるでしょう」

 「開けても?」

 問いかけると、綺麗に包み直してね、と言われて了承される。

 開いた袋の中には、白い手袋と黒い手袋が、それぞれ二つずつセットで入っていた。

 妙な感触がして、中から一つだけつまみ上げる。

 一見普通の手袋と思われたが、中にちょっとした仕組みがあった。

 もう一セットの方は普通の手袋だ。

 「殿下には必要でしょう」

 セリスがゆったりと告げる。

 リヒトは頷いて、袋を元の通り、丁寧にリボン掛けした。

 「確かに、お預かりしました。後ほど、両殿下にお渡ししましょう。

 ついでに、セリスにお願いしたいことが」

 リヒトは袋を胸に抱きしめ、老女を見下ろした。


 白髪交じりの豊かな金髪に彩られた顔は、しわ深くなりながらも、まだまだ美しいと感じる。

 かつてよりもふっくらとした頬には、笑いじわが刻まれ、かわいらしいえくぼはなくなったが、年代物の果実酒のように、深い余韻があった。

 リヒトはセリスの頬を撫で、くすぐったそうに首を傾げる彼女に静かに告げる。

 「しばらく一人にします。お元気でお過ごしください」

 セリスは目尻を拭って、にっこり笑った。

 「そう言うと思っていたわ。皆、無事でいて。それだけが私の望み。無茶はしないでね」

 「心がけます」

 セリスの頭を抱き寄せ、耳元に唇を落とした。

 二人の誓いの儀式はささやかに行われ、滞りなく終了した。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 煌めく王城を窓から見上げる。


 広い都の中で、城を見下ろすことのできる建物はない。

 教会の尖塔ですら、城を超えることは許されなかった。

 それはこの国の成り立ち故だ。

 建国王は神から遣わされた神の子であり、王族の始祖である。

 神とその子孫たる王族の間には、なんぴとたりとも立ち入ること許されない。

 そのため、天におわす神に次いで王は高いところに身を置くべし、とされている。

 同じ神を奉りながらも、他国とは宗教関係者の立ち位置が違った。

 教会は信仰の中で、王と民をつなぐものであるのだ。神の代弁者である他国とは決定的に違う。

 一方貴族たちは、王の意向を国に実行する者たちだ。政治と領地運営が彼らの仕事である。

 司法をつかさどる一部の官僚貴族の中には領地を持たないものもいたが、ほとんどの貴族は遠く離れた領地と王都を頻繁に行きつ戻りつし、多忙に過ごしていた。

 【彼】もまた、つい先ほど領地から戻ってきた貴族の一人だ。王城の直下に王城についで広大堅牢な屋敷を構え、だからこそ、間近から王城を見上げるに至っていた。


 久々に見上げる城は、相変わらずよそよそしい。

 目に力を込めて睨みつけ、ガラス越しの城に手をのばす。空中でぐっと握りしめる。


 ノックが来客を告げる。来る予定のものが誰かはわかっていたので、誰何せずに入るように促すと、開かれた扉の向こうから巨体が現れた。

 春先だというのに盛んに額を拭っている。

 フーフーいいながら入ってきて、不機嫌な【彼】と目が合うと苦笑した。

 「申し訳ございません。この陽気でも、私にはいささか暑いようでして」

 「かねてから言っている。伯はどう見ても、もう少しやせた方がいい」

 淡々と言い放つと、巨漢の男は肩をすくめて見せる。どうあっても痩せるつもりはないらしい。

 ますます眉間に皺を寄せていると、男は間近まできて、窮屈そうな服を軋ませて頭を垂れた。

 「お久しぶりでございます、閣下。ご挨拶が遅れました。無事の到着、お喜び申し上げます」

 「ベルデン伯はまた太られたようだ」

 失礼な物言いにも頓着せず、汗を拭いながらにこにこと笑う。

 毒気を抜かれた彼は、深く息を吐いて、ふとっちょ貴族にイスを勧めた。

 スプリングの効いたソファが大きく軋む。

 「太っていると、よいこともあるのですよ、閣下。

 汗を拭きながら笑っていると、何故か皆、私の前では口がなめらかになるようで。体調管理もできない愚か者、とでも思っているのでしょう」

 なめらかで耳通りのよい声はいつ聞いても歌っているようだ。

 「愚か者? 伯を外見でそのように断じるなど、そいつの方が愚かだろう」


 ウィンベリー公の腰巾着。

 世間でそのように揶揄されているが、実際のところは、公爵派と呼ばれる貴族達の中ではもっとも切れ者であり、情報通な男だ。

 ベルデン伯はその体型に似合わないフットワークの軽さと、軽妙な話術、豊富な話題で、様々な人々の懐に入り込み、数々の情報を公爵にもたらしてきた。

 今回も、「王都に戻られ次第、お会いしたい」という手紙が届いて、【彼】が屋敷についた途端に駆けつけてきた、というわけだった。


 「私の評価などどうでもよい。閣下の取り巻きの一人が愚か者、と閣下の評判をいささか下げていることだけは気になりますが、それにより得られる情報の方が重要です。

 侮るものには侮らせておきましょう。

 ……お若い閣下にはなかなか難しいようですが」

 【彼】の眉間のしわが刻一刻と深くなり、ベルデン伯は柔和な顔を少し悲しそうにゆがめる。

 これも伯の手の一つだ、とわかりつつも、そういう顔をされると居心地が悪かった。

 「そうではない。私の評価など、爵位にくっついて動くものだ。私が伯の価値を知っていれば、大事はない。

 ただな、太りすぎはいけない。不健康だ。呆気なく他界されては、私が迷惑なんだ」

 自分本位な台詞を吐いた後、伯爵を睨みつける。

 巨漢の伯爵は体を大きく揺すって笑った。

 「さようでございますな! では、せっかくの情報を持ったまま倒れる前に、お伝えいたしましょう」

 用意された果実酒でのどを湿らせ、伯は真顔になった。

 「双子王子にお会いいたしました」

 「……! よく会えたものだ」

 身を乗り出した【彼】に、伯は頷いて見せた。

 「何、いささか強引に。ああ言った手合いは、押されると引くものです。

 所感から申し上げると、レスリー殿下は事前に聞いていた情報とはいささか異なる様子。飽きっぽく投げやりと伺っておりましたが、どうして。まっすぐなご気性の人好きのする青年でございました。

 一方、ルシオ殿下は容易に感情を見せない、排他的で攻撃的な御仁です。

 そして、レスリー王子はやはり秘密を抱えておいでです。急遽、ルシオ殿下が従者としてつくことになったのも、その秘密を守るため、と見るのがよいでしょう」

 「秘密か……」

 王城を仰ぎ見る。レスリー王子の快癒とともに、登城が発表された。

 そして、二度目の登城予定には、一度目にはいなかったはずのルシオが付き従っていた。

 「伯は……秘密とは何だと思う?」

 王城を見ながらつぶやく。

 伯もまた、王城を見上げた。

 「長い療養期間中、レスリー王子はいっさいそのお姿を見せなかった、といいます。

 レスリー王子の御身に一大事が起きたと仮定して、何かを用意するには十分すぎる期間か、と」


 何か、なのか、誰か、なのか。


 「レスリー王子は下町に詳しいようでいらっしゃいました。

 ……該当者がいないか、調べてみましょう」

 「王太子になるからには、相応の魔力が必要だ。何らかの噂はあっただろう」

 「御意」

 伯は短く答えて、残った果実酒をのどに流し込む。

 そして、立ち上がった。


 「もう、発つのか?」

 「しっかり働いて、体重をもう少し落とすといたしましょう」

 ニヤリと笑って返されると、年若い【彼】はそれが自分の発言への揶揄だとわかりつつも、むっとした。

 「貴重なお時間をありがとうございました、閣下。最後にもう一つ」

 「何だ?」

 「……双子王子は宰相の傀儡です。しかし、傀儡で終わるようには見受けられませんでした。

 敵となるか、味方となるか、今の時点ではわかりませんが、自分の意志でレスリー王子が王太子であらんとするならば、閣下にとっては最悪の敵となるかもしれません。

 お心を許されませんよう」

 忠告とも警告ともとれる言葉を残し、ベルデン伯は辞した。


 心を許すな、と伯は言った。

 裏を返せば、【彼】が心を許して仕舞いかねない、そういう人物だ、ということなのだろう。

 【彼】は気の高ぶりを感じつつ、王城を睨みつけた。

 王城はまだ遠い。あの中に巣くう魑魅魍魎を何とかせねば、手にはいることはない。

 その道の途中に、必ず立ちはだかる壁がレスリー王子だ。


 「待っていろ、必ずおまえを、引きずりおろしてやる」


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 「へっくしゅ」

 盛大にくしゃみをすると、その唾を真正面から浴びたルシオが、射殺さんばかりにティナを睨みつける。

 「ごめん、ごめん。悪気はなかったんだよ」

 「風邪か? また無理して夜更けまで起きてるんじゃないだろうな」

 顔中の唾を丁寧に拭いながら、ルシオは疑うようにティナを見つめる。ティナは、ぶるんぶるん、と首を横に振った。

 最近のルシオは、ぶっきらぼうながらティナの体調を気遣ってくれることが多く、返って居たたまれない気分になる。

 「まさか! 体調は万全だよ、兄さん。多分、誰かに噂されたんだよ」

 「噂? 噂とくしゃみにどんな相関関係がある?」

 「え? 知らないの? 誰かに噂されるとくしゃみが出るんだよ」

 ルシオは今度こそ、花壇で害虫でも見つけたような表情になった。

 「本当だってば! 皆、言ってるから! 常識だから! リヒトにも聞いてみてよ!」

 「どうも、僕の教育がうまくいっていないようだ。そのスポンジみたいな頭から、非文明的な迷信を脳みそごとえぐり出してやろうか」

 「本当だってば! ルシオ!」


 狭い馬車の中で二人は退屈することなく、王都へ向かっていくのであった。

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