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王子殿下は従者様  作者: 東風
第一章 回り始めた歯車
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□第四話□ あなたとは気が合いません

 箱馬車の壁を取っ払ったかのようなベッドは、柱も天井も美しい装飾に満ちているし、所々金ぴかに光っている。

 壁があるようなところには紗のカーテン。

 それをくぐるとふかふかの枕と布団。どちらもすべすべで肌触りもよい。

 ついでに言うと、自分が着ている寝衣もツヤツヤすべすべだ。

 傾斜があるわけでもないのに、ベッドから滑り落ちそうな錯覚に陥る。


 馬車が離宮に着いたのは深夜。

 周囲の景色など全く見えないまま、ティナはこの寝室に通され、寝衣を手渡され、一人残された。

 ルシオは隣室にいる、という。

 壁にあるランプが淡く部屋を照らしているが、部屋全体を明るくするほどではない。

 この部屋の全容もまた、明日に持ち越し、と言うことだ。

 ランプで照らし出せないほどの広さを個人の部屋にするなど、どれほどの贅沢だろう、と吐息する。

 先ほどまで頭を覆っていた眠気が、きれいさっぱりどこかに去ってしまった。

 裸足のままとてとてと窓際に進む。

 厚手のカーテンを開けると、そこには大きな一枚ガラスがそれぞれはまった両開きの窓がある。いつの間にか、ガラスも目新しくはなくなっていた。

 掛け金を外して、窓を開く。

 凍えるような冷気が吹き込んできて、冷たく肌を刺したが気にならなかった。

 大きなベランダに出て、深く呼吸する。冷たい空気が、体の中に満ちる。暖かいベッドよりも、この拒絶するような空気の方がティナには馴染み深かった。

 目を下に向けると、月明かりに照らし出された、暗くて広い庭園が広がっていた。

 そこから少し下がったところに、バーナビーの街明かりも見える。

 深夜と言うこともあり疎らではあったが、街の城壁にある常夜灯の他、金持ちをねらった歓楽街だろう一角が煌々と輝いている。

 自分が育った街は、どっちの方角だろうか、と思ったが、皆目見当がつかない。

 空に輝くまん丸な月だけが、ティナにとっての見慣れた景色だ。

 暫し空を見上げていると、いきなり横からばふっと何かが飛んできた。

 突然のことに息が止まるほど驚き、頭にぶつかったそれを手に持ち横を見ると、隣室のバルコニーにルシオが相変わらずの不機嫌顔で立っている。

 手元を見ると、ぶつけられたのはもこもこのガウンだった。


 「明日から死ぬ気で勉強してもらうって言っただろう。初日から風邪で寝込むつもりか? 怠ける方法に頭を使うくらいなら、さっさと逃げ出せ」

 組んだ腕を崩さないまま、ルシオは吐き捨てるように言う。

 「ちょ、そんな言い方ないでしょう! ちょっと眠れないから、景色を見てたんです!」

 ガウンを投げ返すと、ルシオは柳眉を逆立てて、再度投げてくる。

 「逃げ出さないなら、さっさと部屋に戻って寝ろ。それとも、明日の授業中に、眠いから頭が働かない、と言い訳するつもりか?」

 「あぁ、もう! 何で一々一々、そうやって嫌みが飛び出してくるの? 小姑なの? 生理前でいらいらしてるの?

 還俗前のシスターマデリンみたい!」

 癇癪を起こして怒鳴りつけると、さすがのルシオもひるんだように口ごもる。

 その様に溜飲を下げ、ティナは手元のガウンを見下ろした。

 「あなたなんかに心配してもらわなくても、明日、見事な頭の回転を見せてやるわよ! 驚きすぎて心臓が止まらないよう、気をつけることね!

 おやすみなさい!」

 溜まり溜まっていた鬱憤を言葉に乗せると、ルシオは驚いたように目を丸くしていた。

 ティナはその顔に向かい、ふん、と鼻を鳴らしてみせると、最後にもう一度、ガウンをベランダ越しにルシオに投げつけ、足音も高く部屋に戻り、ふかふかのベッドに潜り込んだ。

 先ほどまでよそよそしかったベッドは、今はすっかり冷えた体を暖かく包み込み、聖女のごとき優しさでティナを眠りに誘ってくれた。


 夢も見ず、泥のように眠った朝。

 ティナは乱暴に揺すられて、それを乱暴に払った。

 「何よ、ベレン。私を起こすのは最後にして。昨日、遅かったのよ。シスターソフィア並に陰険なやろうに……」

 「シスターソフィアというのはどなたかは存じ上げないが、陰険なやろうと言うのは僕のことかな?」

 不機嫌そうでも涼やかな声が、寝ぼけた頭に突き刺さる。

 ぱっちり目を開けて周りを見渡すと、天蓋から垂れる紗を片手で支え、空いた手でティナの肩に触れている、たいそう麗しい少年がいた。

 同じくらいの時間に寝たはずだというのに、艶々の黒髪は丁寧に櫛を入れられ、白いシャツには皺一つなく、銀糸が入ったズボンはぱりっとしていた。

 驚きのあまり声も出ないでいると、ルシオは無表情のままティナから手を離し、自分の口元をちょんちょん、と指さす。ルシオの口元には何の異常もない。荒れたことなどない薄い唇が、「くちもと」と音を伴わない形を作る。

 ぼーっと眺めていた一瞬後、ティナは慌ててぱっかんと開いていた口を閉じ、両手で口元を隠した。

 ルシオが鼻で笑う。

 「お目覚めかな? 随分とゆっくり眠られたようで。新しい境遇に煩わされることなく、繊細さとは無縁の神経は驚嘆に値するね」

 言われていることの半分くらいは言葉が難しかったが、良い内容でないことは明確だ。

 ティナは柔らかな毛布を、これだけは味方、とばかりに抱き寄せると、ルシオから距離をとって怒鳴った。

 「お、女の子の部屋に勝手に入ってきて、デリカシーってものがないの?」

 「……君はレスリーだったはずだが? 君がそうなると決めた瞬間から、僕は君専属の従僕で、メイドすら置くことができない君のすべての面倒を見ることになる」

 ルシオは僅かな沈黙の後に、ティナから目をそらさず、きっぱりと言い切る。笑んでいるように細められた目は、笑みとはかけ離れた冷たさをたたえていた。

 「嫌なら、すぐに辞めるといい。君一人くらいなら、僕の力でも逃がしてやれる」

 「私一人って、孤児院はどうなるのよ!」

 毛布の上に乗り上げるようにして言い募ると、ルシオは若干後ずさった。

 だが、彼の口が止まることはない。怯んだ姿勢とは正反対に、流れるように言葉を吐き出す。

 「宰相の怒りの捌け口になるのだろうね。彼は見た目通り、高いプライドと粘着力と、無駄な実行力が持ち味だ」

 「逃げられないじゃない!」

 「おや、君は孤児院でかなり辛い目にあっていたらしいと聞いているが、随分と聖人君子でいらっしゃる」

 全てを知っていると言いたげに唇の端が持ち上がっている。ティナは怒りのあまり、手近にあった羽枕をルシオに投げつけた。

 ばふっと、ルシオが受け止める。大変さわり心地もよく柔らかい枕は、ルシオに何のダメージも与えていなかった。

 悔しさに手のひらをぎゅっと握り込んで怒鳴る。

 「バカにしないで! あんた達が最低だからって、私まで一緒にしないでちょうだい! それに……」

 ティナの脳裏を、何故かシスターソフィアがよぎった。

 いつだって、冷たく見下ろし、突き放してくる美しいシスター。だけど、彼女の言うことはいつだって正しかった。

 「辛いばかりじゃなかった……いいえ、必要な辛い目だってあったのよ」

 ティナが連れ去られるとき、誰よりも追いすがってきたシスターソフィアの姿は、思い出す度に、ティナの中に混乱を巻き起こす。感情がまだ整理できない。

 それでも、あの姿を思い出す度に、もう一度だけでいいから、シスターソフィアに会いたい、と思ってしまうティナがいた。

 喉の奥に熱い物が込みあげてきて、瞼に力を込めて我慢する。

 だが、我慢するほどのことはなく、あっさりとティナの涙は流れる前に引っ込んだ。

 従者と嘯く王子様が、もっともらしくこう言ってきたからだ。

 「なるほど。じゃぁ、僕のこの行為も、君が選択した、必要な辛い目、だと思っていただきたいね。

 もしどうしても起こされるのが嫌なら、起こされる前に起きるようにしては? 君も恥ずかしい思いをせずに済むし、僕も手間が省けて助かる」

 「明日からそうしてやるわよ、バカッ!」

 「生まれた時から優秀な僕がバカだと言うなら、世界に優れた人物は一人もいなくなる。

 君も例に漏れずバカということになるが?」

 「着替えるから出て行け、スットコドッコイ!」

 「ん? 待ち給え。スットコドッコイとは、どういう意味だ? 聞いたことがない」

 「知るか、バカ! 変態! いいから、出て行け!」

 ティナがベッド脇にあった水差しを持ち上げるのをみて、ルシオは慌てたように隣室に去っていった。

 残されたティナは、日の光を浴びてようやく明かされた優雅な部屋の全容に気を配ることも出来ず、身のうちから沸いてくる怒りのままに身支度を整えるのであった。


 そして、この日は朝から、ルシオの地獄の特訓が始まった。

 ティナが着替えを終えてルシオの部屋に行くと、身だしなみの整え方から始まり、その後、用意されていた広めのテーブルでルシオと向かい合わせに座り、朝食をとることになる。

 全ての食事はマナーの授業だと言われ、ティナはげんなりとした。朝食とは思えないほどの皿数に、当初は舞い上がったものの、すぐに始まったルシオのフォークの上げ下げから食材の噛み方に至るまでのねちねちとした指摘にうんざりして、結局味も何も分からずじまいであった。

 食事が終わると、まずは基礎学力と言われ、今度は計算と読み書き。

 これは何とかこなし、ルシオは意外だ、と言う顔をする。

 「庶民の識字率も低い中、孤児の君が読み書き、計算を一通りこなせるとは、正直、思っていなかった」

 ティナは、初めてルシオの鼻を明かせたことに有頂天になった。

 「読み書きと計算を覚えるのは、損をしないように、効率よく考えられるように必要なのよ!

 孤児は食い物にされやすいから、…………せめてそれを避けられるように……って」

 途中まで意気揚々と言い続け、不意にシスターソフィアの言葉が身に染みる。

 今、まさに身寄りのない孤児として食い物にされている最中だが、少なくとも、この嫌味王子に一矢報いることは出来たのだ。それは全て、シスターソフィアのおかげであった。


 ティナの元気のなさには無頓着に、ルシオは腕を組んで深く頷いた。

 「なるほど、孤児院にはきちんと勉強の必要性を考え、実践できる優秀な人材がいたんだな。

 孤児院が全て、そうだとは思えないから、君は随分と良いところにいたんだな」

 「えぇ……そうね」

 反発ばかりしていた相手を褒められ、ティナは居心地悪く姿勢を正した。

 その後、孤児院では考えられないことに、白い紙やペンとインクをふんだんに使って授業が進められる。

 特に訂正され続けたのが、文字の書き方だった。

 孤児院では、人数が多いので、正確な書き方などは最初に教わっただけで、後は書きやすいようにアレンジしても、最低限読むことさえできれば怒られなかった。

 それが、ルシオの目には非常な悪筆に見えるらしく、一から十まで訂正される。

 「レスリーの筆跡はほとんど誰も知らない。だから、レスリーの字を真似る必要はないだろう。

 でも、王子として、品位のある筆跡は求められる」

 「字に品位って!」

 思わず吹き出すと、ルシオは非難を込めた眼差しでティナを睨み、紙を示した。

 「ここに、レスリーと書いてみろ」

 言われたとおり、教えてもらったばかりの綴を認める。

 かなり格好良く気取って書いたおかげで、一見するとオシャレに見えなくもない。

 ティナは胸を張ってルシオを見返した。

 その視線を冷静に受け止め、長めの前髪を軽く避けると、ティナの字の真下に、ルシオがさらさらと「レスリー」の名を認める。

 読みやすく、大きさも綺麗に整った、美しい字がそこにはあった。

 「君に品位を理解できないのはわかったが、この二つの文字を見比べて、どちらの方が美しい?」

 ティナは渋々、ルシオの文字を指し示す。

 ルシオはふん、と鼻を鳴らした。

 「品位という意味はわからなくても、美的感覚は備えているようだな、よかった。

 そこから教えこむことになると、随分苦労しそうだと思ったんだ」

 「悪かったわね、品位がなくて」

 ベーっと舌を出すと、ルシオがあからさまに肩を落とした。

 「そういう行為も品位がない。

 いいか、君はレスリー王子、近い未来に王太子になる身なんだ。髪の毛の一本一本まで神経を配ってくれ」

 「この部屋には二人っきりだわ。誰も見てないなら、いいじゃない!」

 ティナはついつい大声になって、言い返す。

 そもそもこの離宮に来て、ティナはルシオ以外の誰とも会っていない。

 部屋からは出られないし、食事はティナがいない間に続き部屋に用意されている。

 その前までだって、無口な男と女に、いけ好かない宰相。ろくに会話も出来ず、会話出来るようになったと思ったら、口をついて出てくるのは嫌みばかりの陰険王子。

 「そういう油断が命取りになるんだ」

 ルシオが眉を跳ね上げた。

 出来の悪い生徒をみる様な王子に、ティナの我慢が限界を迎えた。

 バシン、とテーブルを叩き、勢いよく立ち上がる。紙片がバラバラと床に散らばった。

 「何よ! 私には息抜きさえ与えられないっての? いい加減にして! そんな嫌みばかり言って、私が気持ちよく勉強できるとでも? あなたの役目って何なの? 私をレスリーにすることじゃないの?

 だったら、もっとちやほやしなさいよ!」

 インク壷が横たわり、こぼれだしたインクが美しい絨毯を汚していく。真っ黒いインクが、絨毯の模様を塗り潰していく……。見ていると、胸の中に大きなしこりが出来たような、息苦しさを感じた。

 大声が響いて、自分の声なのに、ティナの頭ががんがん痛む。

 額を片手で押さえながら、浮かびそうになる涙を必死にこらえる。


 正面から静かに見つめていたルシオは、厳しい眼差しのまま、静かに立ち上がった。

 「君はまだ、事態を軽く見ているようだな」

 まだテーブルについていたティナのもう片方の腕を強く掴むと、すたすたと歩き出す。豪奢な棚の上にあったペンダントを取り上げ乱暴にティナにかけると、赤い宝石をルシオは自分の額につける。宝石は赤く煌めいて、同時にティナの魔力を強引に吸い出す。

 一瞬目眩を感じたが、ルシオは待ってくれない。

 「これで、短時間なら君の姿はレスリーになる。さぁ、来い。君は自分の選択を思い知るべきだ」

 廊下にでると、思ったより多くのメイドや衛兵がいて、行きあうティナとルシオに一斉に頭を垂れる。

 戸惑っている間に、ルシオは足早に廊下を通り過ぎ、大きな中庭の真ん中を歩いているとは思えないスピードで突っ切っていく。

 途中に大きな池があった。ひょうたんのようなくびれがあり、その一番池の幅の小さいところに、おもちゃのような橋がかかっている。

 ここも通り過ぎるかと思ったのに、ルシオは予告なく立ち止まり、眉をしかめたまま池を睨みつけた。

 「よく見ておけ。レスリーはここで倒れていた。……この池の中で」

 ティナは驚いて池を見つめる。

 それほど深い池ではない。まだ冬の盛りだからか所々氷が張っているが、ちゃんと底が見えていて、大人の腰くらいしかないだろうと思われる。

 子供がおぼれるのは分かるが、成人を迎えた少年がおぼれるのは、どこか歪だ。

 ティナが言葉を失っている間に、ルシオはまたティナを引っ張って歩き出す。

 ティナはバランスの悪い体勢のまま歩き出したが、後ろ髪を引かれる気がして、眼差しはずっと、冷たい水の上に留まっていた。


 深い木立を過ぎ、気がつくと、山肌を削った急な斜面に大きな石造りの廟が見えた。

 廟の下部には衛兵が二人立っていて、ティナとルシオの姿を見ると、無言で両脇によけ、背後にあった扉を指し示す。

 ルシオが頷くと、衛兵は重い石の扉を全力で開いてくれる。

 開くとまた、すごい勢いで歩き出す。

 ルシオよりも足の短いティナは、小走りになりながらついて行くしかない。

 石造りの通路は、両脇に不思議な火ではない明かりが灯っていて、先行きを細く照らしてくれているので、何とか転ばずに済んだ。

 幾つもの分かれ道を、ルシオは明確な意志を持って迷わずに選んでいく。

 ひんやりとした外よりも、ほのかに暖かく湿った空気。

 ティナがいた教会にもこういう場所が敷地内にあった。ここよりももっと小さく、地面に潜っていくタイプだったが。

 連れてこられた場所に思い当たり、顔がひきつる。

 「ちょっと! 何でこんな、霊廟に!」

 捕まれた手を引っ張り返しても、びくともしない。

 ルシオは仄暗い通路では、よくできた人形じみて、気持ち悪いほどだった。

 「君の覚悟を知るためだ」

 先ほど怒鳴ったティナの声よりも遙かに小さく温度のない声なのに、冷気に乗って隅々まで届いている気がする。

 ティナが怯んだ隙に、またルシオが歩き出す。

 着いた先にあったのは、岩肌を大きく削り取った広い空間。壁の両脇に、天使やら神やら聖女やらの石像が立ち、その足下には一つずつ石棺が置かれていた。

 やはりここは、王家の霊廟なのだ。

 死者が怖いわけではない、ちょっと寒すぎるだけだ。

 自分が震えているのにそう言い訳しつつ、ティナは油断なく辺りを見回す。


 ここではさすがに早歩きもせず、ルシオはゆっくりと静かに歩を進め、一つの真新しい石棺の前に立ち止まった。

 「……これは、君の棺。君がこのままレスリーとして生きていくなら、君はこの中に安置されるだろう」

 背筋に悪寒が走り、息を飲む。棺の蓋には、誰の名前も書かれていない。

 ルシオはティナの手を離し、棺の蓋に手をかけた。

 「そして、……君とともに眠る相棒が彼だ」

 重い音とともに、石の蓋が僅かにずれる。

 そこからのぞいた「もの」にティナは悲鳴を上げることも出来ず、立ち尽くした。


 まるで眠っているかのような美しい顔。黒く長めの前髪は丁寧に梳かれて後ろに流されている。肌は血の気を失って青白く、氷で作った細工物のようだった。

 よく見知ったその顔。

 ティナは腰を抜かして座り込み、呆然とルシオを見上げる。

 ルシオは抑揚少なく、言葉を紡ぐ。

 「幸い、古の魔法でね、腐敗は進まない。おかげで、いろいろな状況を保存できる。これを見るんだ」

 ティナより僅かに高いだけのルシオだが、自力で立てないティナを強引に立ち上がらせた腕力は、さすがに男性のものだった。

 ルシオは、怯えるティナを石棺に縋らせ、中にあった「自分によく似た遺体」を無造作にひっくり返す。

 今度こそティナは悲鳴を上げた。

 遺体の後頭部は、グシャグシャに割れ、流しきれない血がこびり付き、艶やかだったはずの黒い髪を固めていた。髪の合間からは、何か白いものも見えて、思わず目をそらす。

 吐き気が急にこみ上げてきて、うずくまった。

 その間に、ルシオは遺体を元に戻し、遺体の白い頬を一撫でしてから、蓋も戻した。

 「殺した犯人はまだ捕まっていない。殺人を隠蔽した以上、堂々と探すことも出来ない。

 君がいるのは、そういう場所だ。

 そして、君は『王太子の身代わり』をしているだけのつもりだろうが、そうじゃない。

 君は、誰も味方のいない、誰が殺意を持っているのかわからないこの場所で、王位を望んでいるんだ。

 王権には死がつきまとう。

 その意味を、君はちゃんと分かっているのか?」

 ルシオは一度言葉を切り、ティナから離れると、一番奥にある神像の足下にしゃがみ込む。

 ティナはふと、風の動きを感じ、頭を上げた。

 見ると、ルシオが立つ神像の脇に、ぽっかりと黒い穴が開いていた。

 「ここは離宮から王族が避難する場合の秘密の通路でね、でも随分と使われていなかったらしくて、王家の古書にも載っていない。僕とレスが幼い頃に見つけた」

 黒く長い前髪が濃い影を作り、ルシオの表情は読めない。

 「今なら君はまだ戻ることが出来る。よく考えるんだ」

 淡々と言い切ると、ルシオは自分が来た方の通路に行ってしまう。


 一人残されたティナは、石棺と、黒く開いた穴を何度も見比べる。

 何とか石棺につかまりながら立ち上がると、蓋の上には白い革袋の中に銀貨がいっぱい詰まって置いてあった。

 穴と石棺と革袋と……ルシオと。

 何度も何度も、順繰りに視線を向ける。

 ルシオはこの広間から出て行ってしまい、もう背中さえ見えない。

 ティナ以外、生者が誰もいない空間。

 視線を何度も何度も、何度も何度も、あちこちに向ける。


 ルシオは、広間を出た先の通路で、腕を組み、壁にもたれていた。

 たっぷりと時間が経った後、広間の方でゴゴゴ……と石壁が閉じる音がする。

 大きく息を吐いた。

 「行ったか……」

 負けん気の強い、生気溢れる少女の顔を思い出す。

 歩き出し暫くすると、突然背後から足音が聞こえてきて、ぎょっとした。

 立ち止まって見ている間に、ティナがものすごい形相で駆け寄ってくる。

 そして、ルシオの前まで来ると、拳とともに革袋をルシオの腹に見舞った。

 「……ぐっ」

 予想外の行動に身を守ることも出来ず、ルシオは体を折り曲げて床にひざを着いた。

 「貧乏人だからってバカにしないで! これは返すわ!」

 「……くっ、それは貧乏人だからではない。逃亡資金として……」

 「分かってるわよ、スカポンタン! 戻るわよ! さっさと勉強しないと、時間がないんでしょう? こんな無駄なことに時間を使わせないで!」

 ティナは腹いせとばかりにルシオの手を掴んで、強引に立ち上がらせる。

 まだ痛む腹をさすりながら、ルシオはティナの顔を仰ぎ見た。

 涙の跡が、僅かに頬に残っている。

 だが、焦げ茶色の瞳は強い輝きを放っていた。

 「せっかくの僕の気遣いを……君は随分と傲岸だな」

 ティナは強気に顎を上げる。

 「あなたは鼻持ちならない嫌み野郎だわ。あなたとはこれっぽっちも気が合わない!」

 「……くくっ、お互い様だな。なれ合う心配はなさそうだ」

 ルシオは真っ直ぐに立ち上がり、ティナを真正面から見つめる。ティナも、怯まずにその視線を受け止めた。

 「びしびし行くからな。死ぬ気でついてこい」

 「王子様だからってつけあがらないで。私は王太子になるのよ。私を相応しくするのはあんたの仕事だって思い知りなさい」

 ルシオはしっかり頷いて、歩き出した。

 もう、ティナの腕を引っ張ることはなかった。


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