□第三話□ 選ばれた理由
「また、馬車で移動か……」
やはり窓がつぶされた馬車に乗せられ、今度はルシオと一緒に運ばれる。
人生初の箱馬車が、孤児院から連れ出されたときの「あれ」だったわけだが、これだけ毎日のように、しかも長時間揺られていると、目新しさがなくなってくる。そこで余裕を感じつつ、車内を見回していると、当然、唯一の同席者であるルシオが目に入った。
間近で見ても、やはり非の打ち所のない美しさだ。
癖のない黒髪は艶やかで、首辺りできれいに切りそろえられている。
その髪に縁取られる白い肌は、日の光など一度も浴びたことがないような白さをしていて、肌の手入れに余念がなかったシスターマリーが見たら、嫉妬しそうなほどだ。
だからといって、不健康そうには見えない。雪原の肉食獣を思わせる、危険なしなやかさがそこにはあった。
年はティナと同じはずだ。これから伸びるのであろう身長は、僅かにティナよりも高い。
ティナは孤児院ではとても大きな方だったから、ルシオもそれほど低いわけではない。ただ、成人男性としては明らかに低めだから、男の子の成長期を考えるにこれから伸びるのであろう、と思われた。
グレーの衣装は、簡素に見えて、袖や裾のそこかしこに、銀糸と黒糸で刺繍が施されている。
胸ポケットには、きれいに畳まれた、皺一つない絹のハンカチ。光沢のある布が珍しくて、角度を変えて何度も見てしまう。
そんな完璧な容姿の中でも、もっとも美しいのが、青い瞳だ。
今は、淡く漏れる光に照らされ、明るい青い宝石のようだった。
ついつい目を奪われ、凝視しそうになるが、その度にルシオから胡乱げな目を返されるので、美しい仮面の下にある人格の破綻っぷりを思い出しては、理性を取り戻す、というあまり楽しくない作業をティナは心中で繰り返していた。
「これから、何処に向かうの?」
正面に顔を見ているからダメなんだ、とばかりに、イスに行儀悪く半身を横たえ、ふかふかのクッションを抱きしめながら聞くと、上半身を背もたれに預けるようにして腕を組んでいたルシオは、不機嫌そうにティナを見下ろした。
「バーナビーにある、離宮だ」
バーナビーと言えば、王都ローウィンにほど近い避暑地で有名だ。「バーナビーに家がある」というだけで、お金持ちに見えるというすごさだ。
さすが王子様、と言ったところか。
後家で教会にきたシスターマデリンを口説いていた街の裕福な商人は、「バーナビーに家を買おう、君のために」と言い続け、マデリンを落とした。還俗する前日、マデリンはバーナビーにある「王太子の離宮」も馬車の中から見たのだ、と自慢していたっけ。
バーナビーでも一番大きな敷地を誇るのが、王子の離宮だと言っていたはずだ。
「何日かかるの?」
「今晩には到着する。……僕は長く離宮を留守に出来ない。さっさと戻る」
問いかければ、答えが返ってくる。
これは、ここ数日のティナの境遇を思えば、画期的だった。
ティナは途端にやる気と体を起こして、ルシオに詰め寄った。
「聞きたいこと、さっきはぜんぜん聞けなかった!
ルシオのせいなんだから、ルシオが答えてちょうだい」
意外に王都に近づいていたことに驚くが、そのことは、一度脇に置いておく。
詰め寄られたルシオは、ティナの剣幕に驚いたのか、イスの背もたれに背中を押しつけ、ティナから距離をとろうとして失敗する。当たり前だが、背もたれはそれ以上、下がったりしない。
ルシオは、ティナの肩を強く押し返して正面のイスに戻し、不機嫌も最高潮に達したかのように、眉間のしわを深くする。
「僕に答えられる範囲は答えるが……。僕の責任に押しつけられるのは納得がいかない。
先ほど、まともに質問一つ出来なかったのは、君がぼーっと僕に見とれていたからだろう?
それとも僕は、美しくて申し訳ない、と君に謝罪するべきなの?」
明らかに嫌みだと分かる口調で、大変美しい笑みを浮かべる少年。
ティナは絶句した。
ぽかんと口を開けて、ルシオを見返す。
ティナの短い人生の中で、これほど自分の美しさを堂々と言い放つ人物は、生まれて初めてだった。それも男の子で!
ティナが言葉を失っていると、ルシオは呆れたようにため息をついて、気障ったらしく肩を竦めた。
「女の子ってのはもっと恥じらいがあるものだと思っていたのだけれど。それとも、その間抜けな『口ぱっかん』は君が考えるチャームポイントなのかな?
悪いことは言わない。それとは正反対だから、早く口を閉じた方がいいよ。
ついでに言うと、改めた方がいい癖だね。レスリーはそんな間抜け面はしない」
慌てて口を締め直し、ルシオを睨み返す。恥ずかしさのあまり顔が熱くなった。
「悪かったわね。直すわよ」
素直に謝ると、ルシオは眉を跳ね上げて瞬きを繰り返す。
「ふぅん。随分素直に謝るんだな」
「……あなたの言い方に納得した訳じゃないわ。でも、確かに恥ずかしい顔だったと思うし、直した方がいいと思ったのよ」
マジマジと見つめられると、ますます顔が赤くなりそうで、ティナはルシオから顔を背け、見えなるはずがない潰された窓を睨みつける。
板の隙間から漏れてくる光は、徐々に柔らかく、弱くなっている。夕方が近いようだった。
しばし黙っていても、ルシオから追撃の言葉は来ない。
ティナは短くなってしまった髪を引っ張って視界の端に入れながら、改めて、疑問点を整理する。
最大の疑問はひとつ。
何故、ティナなのか?
「ねぇ。……どうして私だったの?」
レスリー王子の代わりをするのが、何故、この面前の王子ではいけなかったのか。
「その……悪い言い方になっちゃうんだけど……」
「僕が死んだことにすればよかった?」
言いづらいことをズバリ言い当てられ、ティナはますます居心地が悪くなる。
死を望まれるようなことを初対面に近い人物に言われるなど、気分がいいはずがないことくらい、ティナにだって十分に分かっていた。
言葉には心を抉る力がある。出来ればそのような言葉を、他人に向けたくはない。
お喋りではあっても、口達者というわけではないティナにとって、どういう言い方が相応しいのかなど、分かるわけもなかった。
それでも、そこは避けて通れない道だ。
視線を外したまま、ルシオの返答を待つティナ。
だが、ルシオの方はティナの言葉に頓着しなかった。
「大丈夫だ、その程度のことは誰だって思いつく。君だって思いついただろう?」
いちいちついてくる嫌みにムカムカしたが、こういう性質なのだろう、とティナはわき上がる苛立ちを何とか我慢する。何と言っても相手は王子様だ。安易に殴るわけにはいかない。
「そ、そうね。私でも思いついたんだもの、他の人が考えないはずがないわ」
特にあの陰険そうな、無駄にアクティブな宰相とかいう老人が。
「王位継承者を名乗るに辺り、僕には決して出来ないことがある。
それが、君が選ばれた理由。そして、君の力についての秘密もそこにある」
「私の力……」
ティナは、薄暗い馬車の中、再度、ルシオを見た。
艶々の黒髪は、外からの僅かな光を背景に、白く輝いて見え、滑らかな頬のラインを柔らかく描き出している。
怜悧な眼差しは謎を秘めて煌めいていた。
何度見ても、浮き世離れした美貌だ。
「君は……建国神話を何処まで知っている?」
低く落ち着いた声は、ことあるごとに嫌みが飛び出してくることさえなければ、聖歌隊でソロを任されそうなほどに、耳に心地よい。
「建国神話? 何か関係があるの?」
「関係があるから言っている。無駄なことに思考力を使わなくていいから、僕の質問に答えろ」
幻想的な雰囲気は吹き飛び、シビアな現実が押し寄せた。
聖人君子とまでは言わないから、せめて嫌味のない普通の会話がしたい。ティナはこっそり吐息した。
ティナが知る建国神話は、シスターソフィアの読み書きの授業で扱った文章しかない。
かつて、国々が戦乱に明け暮れた時代があった。
この辺りの地域にはその戦乱を避け、多くの人が逃げてきて、ひっそりと暮らしていたと言う。
しかし、戦乱を制した大国が、それまで捨て置いていたこの地域を最後の一ピースとして狙いを定めた。
人々は嘆き、砦の中で破城槌の音を聞いているしかなかった。
その時、清らかな乙女が、自らの命と引き換えに、神に救済を祈った。
神はその切なる願いを聞き届け、神の子をつかわせた。
神の子は神の加護と奇跡の力で大国を退け、残った人々で国を興し、王となった。
以来、この国では宗教と王権は一体となっている。
信仰と、権力の頂点に立つ王と、宗教面でそれを支える教会に、政治面で支える議会と貴族達。
ティナの説明に、ルシオは軽く頷く。
「建国神話は、神話と言うだけあって、寓意と装飾に満ちている。
エッセンスだけを抜き取ると、こんなふうになる。
大国が攻めてきた。この地方の人たちは滅ぼされそうになった。英雄が現れて、大国を退け、国を興した」
ティナは頷いた。
ティナも成人を迎えた立派な大人だ。おとぎ話と現実の区別くらいつく。
「奇跡の力とか、清らかなる乙女とか、神がつかわした神の子とか、笑っちゃうわよね」
何の気なしに口から飛び出した台詞は、恐らくティナの心の奥底に眠っていた本音だ。そして、多くの人たちも抱く感情だ。
てっきり同意して貰えると思っていたティナは、ルシオが返した内容に驚いた。
「僕は過去の人たちを嘲笑するために、この話を思い出させたわけじゃない。君の愚かさにはびっくりするな。
第一、君は奇跡の力を知っているはずだ」
「はぁ? 何を言ってるの? そんなの見たことないわよ」
不機嫌そうに言うルシオに、ティナも不機嫌に返す。
少なくとも、これまでティナの人生を助けてくれるようなありがたい神の加護も、神の子の降臨もなかった。
母が病にかかったときも、父に捨てられたときも、孤児院に来てからは毎日のように、神に祈った。
その結果が、今だ。
「誰も、何も、助けてはくれないわ。自分で頑張るしかない。
神様が本当にいるのかだって怪しい。
英雄、……建国の王様だって、自力で頑張っただろうに、神やら乙女やらに手柄を持って行かれちゃって、可哀想だわ」
言い切ってから、しまった、と口を押さえる。
すっかり忘れていたが、目前の少年は王子様なのだ。
ティナに馬鹿にしたつもりはないが、聞くほうにとっては馬鹿にした、と考える者もいるだろう。
恐る恐るルシオに視線を戻すと、見目麗しい王子は腕を組んで、上段からティナを見下ろしていた。
整った容姿が無表情に見下ろしてくると言うのは、想像以上に怖いものだ、と実感する。ティナが口を押さえたまま黙り込んでいると、ルシオは組んでいた手をおろし、神経質そうに窓枠を指先で叩く。
「神とやらは僕も見たことがない。それは忘れていい」
ルシオの口から漏れたのは、予想外の台詞だった。
ティナが目を丸くしているのを見て、ルシオは窓枠を叩く指を止める。
「僕が言ったのは、奇跡の力、だ。
そもそも君は、これまで何と言われて生きてきた?」
感情を廃した物言いは、教師のようだ。
ティナは、罵倒されなかったことにホッとしつつ、首を傾げた。
「これまでって……皆、ティナって名前で呼ぶわ」
「ようやく名乗っていただけてうれしい限りだ。だが、名前じゃない。君は、君のその力を持っていることを、人々から何と言われてきた?」
ティナは狼狽えて、視線をさまよわせる。
「正直に答えたまえ」
ルシオの追撃に、ティナは吐息した。
「……悪魔、とか、化け物、とか」
「そうだ。悪魔の力、化け物の力。……ほら、知っていただろう?」
「へ?」
驚きすぎて息が詰まる。
王子が何を言い出したのか、と、ティナは穴があくほどルシオを見つめる。
ルシオは薄くほほえみ、細く整った指先でもう一度、窓枠をトントンと軽く叩いた。
「この国の中では、ある一定の割合で特殊な力を持った子供が産まれる。
手を触れずに物を動かしたり、火や水、風、土を操り、光を生じさせる。
勿論、多くの者が持つ力はささやかだ。指先に少し明かりと灯したり、ティーカップを持ち上げる程度の。
それでも、それは十分特殊な力なんだ。
そういう力を持つ子供達が、生まれる先が貴族や王族であれば『奇跡の力』。一般市民であれば『悪魔の力』。
特殊な力を持っている子供達は、生まれる先で、優遇されることもあれば、迫害され命を落とすこともある。
つまり、国政を司る者達によって、長い間情報操作されてきたんだ。
呼び方が異なるだけで、同じ力を示している。
そして、それこそが『王位継承の能力』だ。
僕ら……いや、レスリーには強い力があった。離宮を半分吹き飛ばすほどの。だから、王太子として認められた。
継承の儀では、その力を貴族達に示さなければならない。
僕にはその力を示せない。強い力を持つ身代わりが必要だったんだ。
……君が選ばれた理由がわかった?」
英雄の持っていた力と、自分の持っている力が同じものである、などと考えたこともない。
ティナは驚きのあまり呼吸すら忘れ、ルシオを見つめ続ける。
ルシオは訝しそうに片眉を跳ね上げると、わざわざ立ち上がってきて、ティナの背中を軽く叩いた。
「ほら、息をして」
途端に胸が苦しくなり、げほげほとせき込みながら深呼吸を繰り返す。
こぼれた涙と、垂れた涎を袖で拭っていると、ルシオがハンカチを貸してくれた。
涙と涎と、ついでにせき込みすぎてやはり出てきた鼻水を丁寧に拭い、ルシオに返す。
ルシオははっきりと眉間にしわを寄せて、「差し上げよう」と言った。
上質な絹のハンカチを、思いもかけぬタイミングで手に入れ、ティナはズボンのポケットに無造作にそれをつっこむ。
「あぁ、びっくりした。心臓が止まるかと思ったわ。
神の力と悪魔の力が同じだったなんて。何の冗談かと思ったわよ。
でも、言われてみれば、確かに不思議な力だし……。
……つまり、あれね。
…………私は王族?」
考えながら言葉を紡ぐと、今度はルシオの両眉が勢いよく跳ね上がり、形の良い唇から「ぶふっ」とあり得ない音とともに空気が漏れた。
ルシオの肩が小刻みに揺れる。
慌ててルシオは顔を手で隠して、うずくまった。
王子様の反応の激しさに、ティナの方が戸惑って、震えている背中を優しく撫でてやる。
「ルシオ、大丈夫?」
「……だ、大丈夫だ。あぁ、ちょっとまだ……君の思考の飛躍についていけないだけで。
いや、そのハンカチは必要ない。仕舞っておいてくれ」
激しい反応の割には、素早く立ち直り、ルシオは元の端正な顔に戻ってティナを見返す。
「最初に訂正しておこう。君は王族ではない。第一、君の親類に王族がいた試しがないだろう?」
「え? そうなの?」
純粋に驚くティナに、ルシオも驚く。
「思い当たる人物でもいるのか?」
「いないわ。……っていうか、父や母のことなら少し覚えているけど、それ以外の親戚はほとんど記憶にないし。
少なくとも、父や母はそういう人じゃなかったと思う」
ルシオは座席に座り直し、深く息をついた。
「だろうね。言っただろう? 一定の割合で、普通の人々の間にも能力を持ったものが生まれる、と」
そうは言われても、ティナはその「イッテイノワリアイ」と言う言葉の意味が分からない。
だが、それを指摘して、またルシオの機嫌が悪くなっても困るので、ふんふん、と分かった顔で頷いておく。
案の定、ルシオは流れるように説明を続けた。
「君は王族じゃない。それは確かだ。ここ数代さかのぼっても、君がかつて住んでいた地方に縁のある王族や貴族はいなかった。
僕が考えるに、君は先祖返りなんだろうと思う。
しかも、強い力を持った先祖返りだ。母体数が増えるほど、可能性は確かにあるからね。
……宰相は、そういう存在を探していた。強い力を持っているものの、誰にも知られていない。居なくなっても、誰も探そうとしない。いいように扱える人物」
後半の、必要以上にわかりやすい言葉が、真っ直ぐに胸を抉った。
実際に、ずきりと痛んだ気がして、ティナは胸を押さえて息を整える。
ルシオはその様子を一瞥し、少し声のトーンを柔らかくして、説明を続ける。
「継承の儀では、君のその類希な能力を生かしてもらう。ついでに言うと、その力で姿も変えてもらうことになる。姿変えのペンダントを使ってね」
「何、それ?」
まだ胸の痛みが治まらず、言葉少なく聞き返す。
ルシオは胸ポケットから無造作に、大きな赤い宝石のついた金の台のペンダントを取り出した。
「王家に伝わる秘宝だ。存在を知っているものは殆どいない。
有り余る奇跡の力、僕らは魔力と呼んでいる力をこのペンダントに流し続けることで、容姿、声、雰囲気まで変化させることが出来る。
……正確に言うと、このペンダントの影響を受けた者に、見ている姿、聞こえている声とは別の情報を流し込む、と言う魔具らしいんだが。試した者がいないので、効果のほどは不明だ。
かつての王族は皆、魔力が有り余っていたからね。これをつけて、お忍び旅行や、危険からの脱出を行っていたという。今は使えるものが誰もいない為、ずっと宝物庫の奥深くで埃をかぶっていた。
これからレスリーを名乗る君には、うってつけのアイテム、と言うわけだ」
ルシオは意地悪く笑いながら、ペンダントをティナの手のひらに乗せる。
その輝きと重さにドキドキしている間に、ルシオはティナの両腕を戒めていた鎖を外してくれた。
「レスリーの容姿は僕そっくりだが、雰囲気は違う。離宮にある肖像画を見てくれれば、わかりやすいだろう。
その離宮で一ヶ月間、最低限の教養と礼儀作法、レスリーとしての立ち居振る舞いを君に教える。
いいな、僕が教えるのは最低限のラインだ。
これから、レスリーとして生きていくつもりなら、死ぬ気で覚えるように」
先ほどまでうるさいくらいに響いていた馬車の車輪の音が、かけらも聞こえない。ルシオの涼やかな声だけが、馬車の中の全てだった。
重い鎖から解き放たれたはずが、ティナは体全体が重い空気を纏ったようで、押しつぶされそうに感じた。
喉がからからに乾き、声がでない。
今更ながらに、不安と重圧を感じる。
どこか夢のようなフワフワした話が、急に実体を伴って、ティナの前に降りたったのであった。