□第十九話□ そばにいる人
明日に立太子式を控え、王太子棟は忙しさのピークを迎えていた。
レスリーだけでも、衣装替えが三度予定されている。それに合わせて、ルシオとサウロも二度衣装を変える。
女性の装いとは違い圧倒的に装飾品が少ないとはいえ、他の二人の候補に万一でも劣ることは許されない。王太子棟を与えられているとはいえ、正式に王太子として認められているわけではないから、王家の秘宝の数々を使うわけにも行かない。明日のために、リヒトとルシオで出来る限りの宝飾品を作らせ用意していたが、かけられる日数が残り二人と比べると雲泥の差だ。
魔力の高さで王太子が決まるとはいえ、決まった王太子が取るに足らないと判断されれば諸侯がついてこない。そうなった王太子の末路は悲惨だ。
第二候補が諸侯とともにクーデターを起こして、その地位を奪ったという過去の悲劇は、王太子候補になった時点で否が応でも耳に入ってくるものだ。ティナに至っては、ルシオに正式な授業として、微にいり細にいり、強制的に教えられた。
捕まった王太子は元々性格に難があったとはいえ、第二候補により投げ込まれた水路で生きたまま肉食魚の餌食になり、市民がそれを見物するために列をなしたという。
思い出すだけで鳥肌が立ち、ティナは用意に追われ殺気漲るルシオとリヒトからそっと離れた。
離宮から王都に来る準備中と一緒で、ティナには何もすることがない。
じゃあ、勉強でもすればいいかと思ったが、本を開いても何も頭に入ってこない。
無意味にそわそわウロウロするばかり。
こういう時のムードメーカーなロイドは、明日の式典準備のために、一度自宅に戻っていた。
ティナが大きなため息をつくと、後ろでクスリと控えめな笑い声が聞こえた。
恨めしく振り返ると、サウロが肩をすくめて応える。
「失礼いたしました。六度目でしたもので」
悪びれない物言いに、失礼を咎めるよりも、笑いが漏れてしまった。
「フフッ。そんなにため息ばかりついていたのか!
それじゃあ、サウロまで気が滅入ってしまうね」
「いいえ、殿下を見ているだけで、気分は高揚するばかりです」
つんつんの銀髪を揺らして笑いながら答えるものだから、お世辞とわかっていてもティナの気分が上向きになる。
近衛をやめ、レスリーの私兵になったサウロは、何故かいつも上機嫌であった。
近衛をやめたという報告は王太子棟に激震をもたらしたが、本人が大変さっぱりした顔をしているので、ティナがまっさきに考えることをやめた。そうすると、リヒトやロイドも当たり前のように接するようになり、最後まで苦い顔をしていたルシオも、親衛隊の新規創設が早まったものと考えることにした、と受け入れたのであった。
ただ、立太子式で着るつもりだった近衛の礼装が使えなくなり、デザインから起こす必要が出来てしまったため、ルシオの負担はうなぎ登りである。
ティナとサウロは、余分な刺激を神経質な従者に与えぬよう、細心の注意を払って、部屋の片隅で息を殺しているのだ。
「王太子様ってもっと、自由気ままなものだと思ってた」
ボソッと呟くと、サウロが苦笑する。
「不自由でございますか?」
「うん……まあね。
結局俺は、王都の中も外もろくに知らないままだし、好きなものを食べたくても、下品だと言って止められる。
皆、王子様ともてはやしてくれるけど、二言目には『王子様なんですから我慢してください』みたいなこと言われるしね……」
ぼーっとルシオ達を見ながら答え、ティナはハッと我に返ると、慌てて両手を面前で振った。
「いや、なし! 今のなし! 聞かなかったことにして!」
いくら相手がサウロだからって、気を抜きすぎた受け答えに、ティナは恥ずかしくなった。
こんな状態で、明日の立太子式をこなせるのか?
ティナの心中に深く根をはっているルシオ(仮想)が、ここぞとばかりに攻撃してくる。
本物のルシオはリヒトと頭を寄せあって何事が相談しているが、本物の分もティナを躾けようと、心の中のルシオは張り切っているようだ。
わかっているよ、気をつけるってば!
心中で答え、また大きなため息が口から漏れた。
真っ赤になったり、ため息をついたりと忙しいティナに、本物のルシオがちらりと視線を向ける。
サウロはそれに気づいたが、ティナは気づかない。
眉間に深いシワを寄せたまま、ルシオはサウロに気づくとプイッと顔を背けた。
サウロの視線に誘導されるようにティナがそちらを向いた時には、ルシオは先程から時間すら経っていないかのように、困り顔のリヒトと相談を続ける。
「ルシオたちがどうかしたのか?」
ティナはサウロの視線の意味がわからず問いかけた。
「忙しそうだな、と思いまして。
それよりも殿下、ひとつお伺いしたいことが」
胸に手を当てて畏まる騎士は、親衛隊の普段使いの制服がまだできていないものだから、シンプルな白いシャツに黒いズボン、鉄の胸当てと左の肩当てがあるのみだ。それでもその精悍さは一切損なわれない。
「何?」
「殿下は、城外においでになったことがないのですか?」
サウロが訝しげに眉根を寄せる。
太くて男らしい眉はいつだって雄弁だ。
ティナは、仕方ないよ、とだけ返した。
ティナは言わば、逃げることの許されない籠の鳥だ。
例え扉が開け放たれていようと、外に飛び立つことは許されない。
大事にしたいものが増えれば増えるだけ、宰相が持つ人質も増えていく。
幸せを感じた数だけ、身を縛る鎖が増えていく。
鎖を引きちぎり、すべてを守る術など、ティナにはなかった。
「では、息抜きに参りますか」
いきなりサウロがそんなことを言い出したものだから、ティナは驚いて真面目なはずの騎士を振り返った。
ティナの表情に、サウロが楽しそうに肩を揺らす。
「実は、宰相閣下からお許しを頂いてあります。
さぁ、お二人の邪魔はできません。我々はそっと移動しましょう」
「え? えぇ?」
ティナが戸惑いながらルシオとサウロを見比べているが、サウロはそれには構わずティナを部屋から引っ張り出す。
そして、王太子の私室に彼女を連れていくと、動きやすい服装を、とだけ注文をつけ、自分は続き部屋となる自室で待機した。
「こ、これは銀光の騎士殿!」
城壁を預かるいかつい門番の声が上ずる。
サウロはそれには構わず、「よいな?」とだけ問う。
門番は、馬上のもう一人に視線を向けたが、もう一度、同じことをサウロに問われ、慌てて頷いた。
「も、勿論でございます!」
両脇に控えた門番は揃って、進路を塞いでいた槍を天に向けた。
サウロはそれに言葉短く労い、馬腹を蹴って先へ進む。
ティナは馬に乗るのは初めてだった。
荷馬車の御者席なら経験があったが、軍馬の高さはその比ではなく、経験したことのない高さに目眩がした。
つい鬣をしっかり握り締めると、馬が不服そうに首を振り出して、それに合わせて手も移動するものだから、うっかりすると落ちそうになる。
「どうぞ私にしっかりとお掴まりください。
それでは馬が可愛そうだ」
サウロは、鞍に横座りしているティナの両手を馬から離し、自分の胸周りに回す。
体温が感じられるほどの近さに、ティナの頬に体中の温度が集まったような気がしたが、幸いフードを目深に被っていたから誰にも見咎められることはない、サウロ以外には……。
そんな状態だったから、門番が訝しむのも仕方ない状況だった。
それを押し通ることができたのは、単にサウロの知名度故だ。
混み合った街中を巧みにすり抜け、王都からも外に出る。
王都の外にも、王都に入ろうとする人の列は続いていて、ティナは呆気に取られた。
明日の立太子式の規模を目の当たりにし、今更ながらに足元から震えが上がってくる。
サウロは子供をあやすように、そんなティナに片手を回して柔らかく抱きしめた。
「走らせます。口を開かないように」
何かを問おうにも、馬が疾走しだしたので、ティナは口を開いていることも出来ない。
ただただ、馬の振動とサウロの厚みのある体に身を任せ、流れゆく景色に見入るばかりだった。
どれくらい走ったのだろうか。
小高い丘から、ほど遠くなった王都を振り返る。
空には厚い雲が浮かんでいたが、一瞬の切れ間から陽光が降り注ぎ、王都は輝いて見えた。
あの一番高い塔が、聖女の塔なのだろう。
神に祈る聖女の影が時折見える、と言う伝説の塔は、雨を落としそうな陰鬱な景色の中で、そこだけが別世界のようにきらきらと輝き、祝福を受けているようだ。
実際、光の梯子が雲間からおり、塔の先端に届いている。
「すごい……なんて綺麗……」
ティナは息を飲んでその光景に見入る。
天上の祝福に浴する聖女の塔と、そこへ向かう数多の人々。それらは一幅の宗教画のようでもあった。だが、そこにティナは激しい疎外感を感じた。
神は何も助けてはくれない。
同じように、権力者達も、ティナを助けてはくれない。
塔に向かう人々と同じ、ティナは祝福を乞う立場であったはずだ。
完成した絵から弾かれた自分。
明日の祭典を、何も考えずに、単なるお祭りと楽しめれば、どれほど良かっただろうか。
明日はゴールであり、そこをこなせれば、新たなスタートとなる。
ティナにはもう、塔にいるのが神ではないことを知っている。
そして、ティナは塔に至らないと、生き続けることすら難しくなるのだ。
辺りに人がいるかどうかも確認しないままフードを下ろし、馬上で身を乗り出す。
「危ないですよ」
サウロの右腕がしっかりとティナの腰を抱き留める。
今更ながらに近すぎる距離に、ティナは頬を赤らめた。
勿論、レスリーの姿のままなのだが。
「あぁ、ありがとう、サウロ。その……もう離してくれても大丈夫だよ?」
サウロは小首を傾げてにっこりと微笑んだまま、腕を放してはくれない。
寧ろ、ぎゅっと抱き寄せられ、ティナはサウロの胸に張り付くような格好になっていた。
「あ、う……サウロ?」
「殿下……、初めてご覧になる王都はいかがですか?」
「えと、……その……すごく綺麗だ。連れてきてくれてありがとう、サウロ」
ぎこちなく笑ってみせると、サウロは悲しそうに眉尻を下げる。
その表情の意味が分からず首を傾げると、サウロは自分のマントですっぽりとティナを隠してしまう。
急に真っ暗な中に抱き込まれ、ティナはサウロにすがりついた。
「サウロ! サウロってば!」
「殿下……、私はあなたただお一人の為の騎士です。生涯をあなたのおそばにおります。誓って、お一人にはいたしません。
どうか、私を信じてはいただけませんか?」
「サウロ? ……何を言ってるの?」
「無理に笑う必要はございません。
……辛いときは頼ってください」
フッと鋭く息を吸い込む音がしたと思ったら、ティナは静かになった。
サウロはその柔らかく細い体を大切に抱きしめる。視界から隠れたその体は、確かに少女のものだった。
サウロの脳裏に、月夜に浮かぶ亜麻色の髪の少女が過ぎる。
まだあどけなさを持った頬のまろやかな少女は、しかし、少女らしからぬ険しい表情と、残酷な言葉でサウロに挑んできた。
大人びた、と言うよりは、大人であろうとした鋭い視線。
混乱し、追いつめた先で見せられた、自信に満ちた王者の態度。
十歳近く年下であろう少女に、サウロは魅せられ、屈した。
確かに、面前にいる少女こそが、サウロが忠誠を誓ったレスリーその人である、ということが確信できたから。
同時に、彼女のあり方に大きく惹かれた。
怯むことなく、堂々と見返してくる少女の瞳に、胸が激しく高鳴った。
そして、直後に現れたルシオに見せた少女の表情に、サウロは崖から突き落とされたかのような衝撃を感じた。
サウロに見せていた余裕のある態度はどこにもなく、狼狽え、弱り切った少女の姿。
それは、少女がルシオにだけ見せる、彼女本来の姿に見えた。
激しい焦燥感に突き動かされ、サウロは結局、近衛を脱退し、レスリーの私兵となる道を選んだ。誰よりも近く、少女のそばにいるために。
「あなたがそうして無理に笑う度に、私は……まだあなたの信頼を得ることができていないのだ、と悲しくなる」
「そ、そんなことはないよ! サウロのことは十分……」
マントから出ようとする少女の体を逃さぬように抱きしめ、その柔らかい頬に掌を当てる。
少女の体がわずかに固くなり、口をつぐんだ。
頬から細い首、華奢な肩に沿って手を動かす。
目を閉じて、記憶の中の少女の輪郭とマントの下の輪郭を合わせる。
「サ、サウロ~」
震える声がマントの中から聞こえ、サウロの理性が思いっきり撓んだ。
思わず少女の顎に手をかけ、上向きにし、身を屈め……。
どこからか「ヒュンッ!」と風を切る音がし、サウロはマントの中に王子を抱き込んだまま、馬腹を激しく蹴った。
驚いた馬が勢いよく前方に走り出す。
先ほどまで馬を立たせていた脇の木に、深々と矢が突き立てられた。
手綱を引いて辺りを見回すと、馬に乗った人影が五つ、じりじりと二人を囲んでいる。
「サウロ?!」
まだマントの中に包まれたままのティナがもがいたので、サウロは彼女をマントから出してやった。
ティナもあたりを見回し、迫り来る敵影に身体をこわばらせる。
サウロは、そんな彼女をひょいと持ち上げ、横座りからしっかり跨がせるよう姿勢を強引に変える。その間も、マントを目深に被った五つの影はジワジワと近寄ってきた。
「敵……だよね」
ティナがゴクリとつばを飲み込む。
一方、サウロは油断なくあたりを見回し、左手で手綱を、右手で剣の柄を握っていた。
五人のうち一人は背に短弓を背負っていた。後の四人は剣だ。
「馬の首にしっかりしがみついて下さい。
走ります」
サウロが言うが早いか、馬が走り出す。
五人もそれを見越していたか、遅れることなく追ってくる。
ティナはどこに向かおうとしているのか、薄目を開けて周りを見ていたが、サウロの向かっている先に気づき、抗議の声を上げた。
「サウロ! ダメだ!」
だが、サウロは答えず、後ろをちらりと振り返ると、そのまま列に突っ込んだ。
サウロが向かっていたのは、王都に入るのを待つ長蛇の列だった。
「命が惜しくば逃げよ!」
サウロが剣を引きぬいて、人々を威嚇した。
怒声や罵声が響き、人々が慌てて四方に散っていく。
ポッカリと空いた場所で、サウロは馬首を返して、五人の敵を迎え撃った。
「この方がどなたであるか、知った上での狼藉であろうな」
サウロの体中から殺気が湧き上がる。
「王太子候補レスリー殿下とお見受けする」
剣を握った長身の影がくぐもった声で答え、それに合わせて後の三人が剣を抜いた。
周囲にいた人々は尚更大きな悲鳴を上げ、逃げ去っていく。
しかし、中の何人かは怪しい風体の男の言葉をしっかり覚えていた。
「レスリー王子だって? 王子が襲われてるぞ!」
「すぐに警備隊に連絡しろ!」
こけつまろびつ走り去っていく人々を後目に、サウロは油断なく剣を構えた。
同じように剣を握った三人がじわじわと包囲を狭めてくる。
命令していた一人と、短弓を背負った一人は、動かずに遠巻きにサウロを見ているようだった。
「殿下、謝罪を一つ……」
「え? 何?」
「殺気がないので脅しかと思い、こちらへ誘導いたしましたが……」
脅しであれば、人々の面前に躍り出れば去ってくれると思ったのだろう。
ティナはなるほど、と思いつつ、計算通りに行かない敵をちら見する。
「彼らはある程度、我らを痛めつける気があるようです」
「……うん、なんとなくわかった」
「申し訳ございません」
「五人相手に、大丈夫?」
ティナの目から見ても、町のチンピラなどとは格が違う相手だ。
太い馬首にしがみ付きながら問うと、サウロは剣を一振りした。何気ない動作にも関わらず、相手の馬達がたじろぐ。
「殿下には指一本触れさせません。お約束いたしましょう」
左手で手綱を操り、三人の間にあっという間に割ってはいる。
囲まれてしまうのでは、とティナは恐怖したが、先ほどの空を切った一振りで落ち着きを失った相手の馬達は、すぐには態勢を整えることができない。
サウロはそのまま馬を駆けさせ、三人から離れていた後の二人のうち、短弓を背負った小柄な人影に鋭く切り込んでいく。
短弓の人物は焦って馬首を返そうとしたが、サウロの方が早い。
剣がその胸を貫くかと思われたところを、横から飛び出た長身の繰り出す剣が防いだ。
がっちりと切り結び、その間に短弓の人物がさらに距離をとる。
「飛道具をつぶしておこうと思ったのだが、そう簡単にはいかないか」
サウロは逃がした短弓使いを見てニヤリと笑う。
それを邪魔した長身の男も笑いを声に滲ませていた。
「噂の銀光は、ソレを乗せているのにずいぶんと無茶をするものだ」
くぐもった、だが、どこか聞き覚えのある声。
ティナは間近にある長身の男を見上げると、男もまた、底冷えのする視線でティナを見下ろしていた。
明らかに、モノに対する目つき。その目つきにも、ティナは覚えがあった。
「ソレ? 私がお守りしているのは王太子殿下に他ならない! 無礼はその血であがなってもらうぞ!」
サウロは吼えて、相手の剣を思いっきり押し返すと、長身の男が体勢を整える前に振り下ろす。
男は馬ごと後ずさった。
そこにようやく後の三人のマントが追いすがってくる。
サウロは囲まれないように馬を操りつつ、今度は守勢に回った。
鋭い剣が間近に迫り、「殺意がない」というサウロの言葉が信じられない。
ティナはガタガタと震えながら、馬にしがみついていることしかできなかった。
サウロの剣が、一人の剣を遠くに飛ばす。
だが、そこに別の一人が左側から鋭く突き込んでくる。
サウロはとっさに手綱から手を離し、自らのマントでその切っ先をからめ取った。
突き込まれる勢いのまま切っ先を逸らす。
鮮やかな技の数々にティナは驚き、言葉もなく見入っているしかない。
剣を絡められた者は、剣ごと体を引きずられそうになり、慌てて剣から手を離した。
その隙をついて、サウロはそいつの馬腹を思い切り蹴る。
驚いた馬が後ろ足で立ち上がり、馬にしがみついたそいつは戦線を離脱した。
「あと、三人」
サウロはまた後ろに下がって眺めている長身を見つめ、挑発的に呟く。
「なるほど、銀光の名は伊達ではないようだな」
「そう思うのなら、貴様が出てきてはどうだ?」
近くにいる一人に切っ先を向けつつ、サウロは長身をひたと睨みつける。
長身の男は肩をすくめた。
「俺が出たところで、時間稼ぎにしかならないだろうよ。力の差は歴然だ。
だが、これはどうかな?」
いつの間にか、短弓使いの手に魔方陣が浮かび上がり、それは徐々に大きく書き上げられていく。
「しまった! 魔術師か!」
短弓を使ったのが目くらましだったのか、短弓使い改め魔術師は、二つもの大きな魔方陣を頭上に掲げると、空に放り投げる仕草をした。
持続時間と効力の増加、規模の拡張がその陣には込められていた。
魔方陣が弾けると同時に、氷を伴ったブリザードが辺りに吹き荒れた。
それは勿論、二人と、そして逃げ遅れていた、もしくは遠巻きに野次馬していた人々を巻き込んで。
「殿下!」
サウロがティナをかばうように覆い被さる。
だが、ティナの耳には、叫び、悲鳴、助けを乞う声がいくつも届いていた。
「いや~! 助けて!」
「死ぬ! 殺される!」
「痛い、痛いよ!」
「王子様、助けてください、王子!」
「王太子様!」
誰も彼もが、助けを求めていた。
王子に。
王太子であるレスリーに。
「サウロ、少し我慢して!」
「ぐっ、畏まりました」
サウロのこめかみから血が流れているのを横目に、ティナはロイドに学んだとおりの魔方陣を編んでいく。
空中に魔力で描く文字が浮かび上がる。
急いで、丁寧に、間違えずに。
そう思うほどに焦りが募り、途中まで描いていた魔方陣が霧散する。
「ど、どうしよう、どうすれば……」
「殿下、大丈夫です、落ち着いて!」
サウロが声をかけてくれるが、指先は震えて集中できない。
視野の中で、若い母親が幼い子供を抱き抱え、うずくまっているのが見えた。
その時、ルシオの声がよみがえった。
服の中のペンダントから、温かい力が流れ込んでくる。ティナは服の上から、ペンダントを握った。
「額の真ん中に集中して。額に角があると思って、その先を見る、感じる。深く深く息を吐いて」
ルシオの声に、頭がいっぱいになる。他はなにも聞こえない。
「大丈夫、君ならできるよ」
それは誰の声だったのか、笑みを含んだ優しい声が最後に聞こえた。
ティナは、脳裏にできあがった魔方陣をイメージし、空中に同じものを編み上げていく。
出来上がった魔方陣を空中に放つと、白くてでも少し筋張った手がティナのそれに添えられたように見えた。大丈夫という囁きがまた聞こえる。内なる声に後押しされ、しっかりとした自信を持って、陣に魔力を込める。
ティナの作り上げた魔方陣は、ようやく完成したのだった。
方向と威力の制御、ティナの場合に一番必要なものとして、ロイドが教えてくれた魔方陣。
そこから溢れんばかりの炎が飛び出し、氷の魔方陣に襲いかかる。
出来上がってしまえば、勝負は一瞬だった。
春の最後の雪のように、敵の魔方陣は一瞬で消え去った。




