□第十五話□ 忍び寄る影
ルシオは慌てて座り込んでしまったティナに駆け寄り、頭から自分の上着をかける。
ティナが不思議そうに見上げてくる。
「正気を失うな、と言ったろう? 君はよほど記憶力が弱いんだな」
「十分加減はしたさ、彼は気絶してるだけだよ」
心外だ、と言わんばかりに、ティナの頬が膨れる。だが、その髪は千々にもつれ、汗でべったり額に張り付いている。もう立っている力もないのか、ペタンと地面に座り込み、息も荒い。
何より、姿変えの魔法が溶けてしまっていた。
柔らかな輪郭に、血色を増した頬と唇が鮮やかだ。
何故か見ていられなくて、ルシオは視線を外して、代わりにティナの頭を自分の上着ごと鷲掴んだ。
「痛い、痛いよ、ルシオ!」
「十分正気を失っていただろ。バカ。元の姿になってるぞ」
「え?」
慌てて自分の顔を隠すが、幸い、このドーム内に意識を保っているのはティナとルシオの二人だけだ。
ルシオは大きくため息をついてみせた。
「これだけ大きな力を使ったんだ。まだ意識を保っていることに驚嘆する」
改めて周りを見渡すと、惨憺たる有様だった。
石畳はあちこちがはがれ、割れ、抉れているし、何重もの結界で覆っているはずの天井は半分か落ちてきれいな青空が見えている。
周囲を囲んでいた鉄柵は、あちこちが熱で飴細工のように歪んでしまっていた。
実際、ティナの力を目の当たりにしたのはこれが初めてだ。
「……これが全力か?」
何気なく聞くと、ティナは少し迷ったように視線をさまよわせ、弱々しく首を振った。
「ううん。まだ、行ける。ペンダントを考えなければ、まだまだ行ける」
「これでか?」
驚き呆れて、もう一度あたりを見渡した。
魔方陣の勉強を始めたばかりのティナの力は、技術で遙かに上をいくロイドを圧倒的に上回っていた。増幅の技術を手に入れた暁には、どこまで威力が増すのか、予測もつかない。場合によっては、伝説の勇者に匹敵する力にも成り得る……。
宰相は、彼女の力のどこまでを知っているのだろうか、とルシオは考え込んだ。いや、ここまでとは、あの抜かりない宰相でも知っているはずがない。何故なら、ティナは一度も本気を出したことがないからだ。
施設でも本気を出したことがなかった彼女は、多分、自分自身のリミットをまだ知らない。それが幸なのか不幸なのか、ルシオにも判断はつかなかった。
しばし黙り込んでいると、袖を引かれる。
「あぁ、すまない。考え……どうした?!」
ぎょっとしてティナを見つめる。
ティナは今にもこぼれ落ちそうなほどの涙を湛え、ルシオを見上げていた。
「その……怖くなった? 私のこと……」
しっかりと捕まれた袖から、ティナの震えが伝わってくる。
「ごめ……なさい…………。こんなに壊すつもりじゃなくて、私……」
あの、いつも強気なティナが幼子のように怯え、ルシオにすがっている。
ルシオは思わず、彼女の細い手を強引に引っ張り、自分の上着ごとティナを強く抱きしめた。
「ルシ……オ?」
「心配するな。君は立派な王太子様だ。それに、僕は無傷だ。
僕は君を恐れない。君が僕を傷つけるはずがない。君の不安は、君自身の自信のなさがもたらすものだ。
しっかり勉強して、その力を制御できれば、何も怖がる必要はないし、不必要に人を傷つける心配もない。そうだろう?」
こういうときに、怯える女の子にどういう言葉をかけてやればいいのかわからず、ルシオは思いつくままに理路整然と語る。
もっと甘やかすようなことを言ったほうがいいのかとも思ったが、それでも、ティナの震えは徐々に収まっていった。
「そう……かな。しっかり勉強すれば、私、化け物じゃなくなるのかな……」
「本当に忘れっぽいな、君は。君の力は化け物の力じゃない。勇者の力だ。
人々を守る、奇跡の力だ」
変身のペンダントをつけっぱなしの日常にも慣れ、さらにこれだけの魔力を使いこなせている。人間一人に与えられた魔力は一生変わらない、と言われてきたが、ティナに関しては当てはまらなかった。
彼女の魔力は確実に成長している。元々、押さえつけられていたために成長すべき点まで到達できずに止まっていたのか、それともほかの要因があり成長を再開したのか。
「ありがと、ルシオ。そう言ってもらえると、うれしい」
考え込んでいたルシオは、無防備に微笑むティナを何気なく見下ろし、固まった。
いつもとはまるで違う、ルシオを信頼しきった笑顔は、花がほころんだように鮮やかで、うっかり目を奪われる。
自分の顔を見たまま固まっているルシオに、ティナは小首を傾げた。
さっきまで、少し不機嫌気味に、だけど誰よりも優しくティナを励ましてくれていたルシオは今、凍り付いたように無表情に固まっている。
ただ、ルシオの手だけが何故かとてもゆっくりと持ち上がり、ティナの頬にそっと触れた。冷たい指先が、頬から唇に移動する。
汚れでもついていたのだろうか?
だから拭ってくれている?
ルシオのただならぬ様子にティナはどう動いていいのかわからない。
そもそも、全身を覆う疲労感のせいで、そうそう動くこともできない。
ただただ、冷たい指先に促されるように上向きにされ、徐々に近づいてくるルシオの美しい容貌をじっと見返していた。
いつの間にかルシオの目が閉じ、鼻先が触れるほど近くにルシオの薄く開いた唇があった。
「殿下! ルシオ殿! ご無事ですか!」
ドームの厚い扉の外から、ガンガン叩きつける音と、サウロの安否を問う声が響く。
「あ、サウロ……。あのまま放っておくと、扉を壊して入ってきそうだね」
ティナが呆れたようにつぶやくと、いつの間にかがっくりとうなだれていたルシオが、ゆらりと立ち上がる。
「君は僕の上着を決して落とすんじゃないぞ。僕が君を運ぶ」
「え? いいよ。歩いていく」
「うっかりよろけて上着がはずれると面倒だ。それに……今の君をあの男に見せるのはイヤだ」
何故だか、ルシオは不機嫌な顔に戻って、今にも壊されそうな扉を睨みつけている。
ティナは、「あの男」というのが一瞬誰なのかわからず、転がるロイドと扉を見比べていたが、ルシオが屈んで自分の背をティナに向けたので、思考を中断しその背に負ぶさった。
立ち上がったルシオはたたらを踏んだが、降りようとしたティナを怒って止める。
「大丈夫だって言ってるだろう! そりゃ、まだ君とそれほど違わないからな、頼りなく感じるのはわかるが、僕だってそのうち君よりずっと高くなるし、腕力だって……」
「ルシオ、何言ってるのかよくわかんないよ。
それに、扉が限界だ」
ティナとルシオが見守る目前で、頑丈な扉が粉砕された。
「殿下! ルシオ殿!」
汗だくのサウロが、扉の残骸から顔を覗かせる。ぼーっと眺めていたティナは、ルシオが扉に背を向けた動作で、ようやく自分の置かれた立場に気づいた。
姿を見られるわけにはいかない。それだけではない。魔法が解けているのだから、容姿だけでなく、声もティナに戻っているのだ。
危うく開きかけていた口を慌てて閉じる。
一方、ルシオは挙動不審になるティナに苦笑を漏らし、彼女がしっかりと顔を隠したのを確認して、いま一度サウロの方を見た。
逞しい騎士は、残った扉を綺麗に取り除き、心配げに駆け寄ってくる。
そして、地面に伸びているロイドを一瞥した後、すぐにティナに目を留め、真っ青になった。
「ル、ルシオ殿! 殿下は、レスリー様は?」
「騒ぐな。魔力の使い過ぎで気絶なさっただけだ。このお子様を片付けてからな」
最後に付け加えられた言葉に、サウロが破顔する。
「万一にも殿下が遅れを取ることはないと信じておりましたが。ご無事で何よりです。
……あの、ルシオ殿、私が殿下をお運びいたしましょう」
話している間にも、何度もティナを抱え直すルシオに、サウロは当たり前のように手を差し伸べる。
ルシオはその手とサウロを見比べる。
逞しい体躯。筋肉に包まれた上腕。
ルシオの眉間に深いシワが寄った。
「殿下は僕が連れて行く。先触れを出して、リヒトに寝室の用意を促してくれ。
あと、……」
口ごもると、俯きつつ何とか言葉を絞り出す。
「僕が、どうしても殿下を落としそうになった時や、バランスを崩した時だけ、少しだけ手を貸してほしい。
支えるだけでいいから……」
ルシオとて、自分が体格的に恵まれているわけではなく、よって、同じ程度のティナを運ぼうとすることがどの程度危ないことなのか、理解している。
だからと言って、秘密の重みそのものである彼女を、自分以外の誰かに渡すことなど考えたくもなかった。
これは、秘密を共有するものとして、当たり前の行動なんだ、と自分に言い聞かせる。
それにしても、サウロの返答が遅いので、ルシオは訝しげに近衛騎士を見上げた。
なんと。サウロは綺麗な銀髪を揺らしながら、笑っていた。
いや、正確に言うと、笑いをこらえようとしていた。成功しているとは言いがたかったが。
「何を笑っている?」
意外に笑い上戸な騎士は、ルシオの底冷えするような、温度のない声を聞いて我に返ったようだった。
「いえ、決して可愛らしいとは思っておりません! 仲睦まじいご兄弟であらせられます!
背伸びして見栄をはるさまが愛らしいなどとは決して!」
慌てて言い繕っているが、あからさまに微笑ましいという顔をされて、ルシオの方がいたたまれなくなる。
背負われている、気絶しているはずの王太子の体も小刻みに震えだした。
ルシオは乱暴に背負った王太子を抱え直すと、よろけながらも歩き始めた。
王太子棟まで後わずかと言うところで、ルシオの腕がしびれてよろける。
「わわっ!」
ティナもバランスを崩したようで、大声を上げた。
ぐっと足を踏ん張ったはずだが、ティナが動いたせいで重心がぶれた。
二人はそのまま後ろに倒れこみ、地面に尻餅をつく。
その瞬間、二人が先ほどまで立っていた前方に、水のたっぷり入った巨大な花瓶が落ち、水と破片をばらまきながら砕け散った。
「きゃっ!」
ティナの悲鳴が響いたが、ルシオはそれにはかまわず上空を見上げる。黒いシルエットがすっと屋内に引っ込んだ。
「サウロ!」
ルシオの呼び声に、騎士は身を翻して、近場のバルコニーから室内に駆け入った。
「え? 何? どうしたの?」
声を潜めてティナが問う。
ルシオは落ちている破片を見つめていた。花瓶のくせに、どこにも花は散らばっていない。
「誰かが僕らの……いや、恐らく君の命をねらったんだよ」
「わた、俺の?」
魔法が解けたままの甲高い声を上げて、ティナが驚く。
ルシオは咄嗟に彼女の口をふさぎ、あたりを油断なく見回しながら、小声で問うた。
「君は歩けるか?」
口をふさがれたままのティナはコクコクと頷く。
ルシオは彼女の頭に自分の上着をかけ直し、肩を抱くようにして建物から少し距離をとった。
穏やかな午後。春の日差しは暖かく、人通りもなく静かだ。
いや、どこかに気配がある。
押し殺されたささやかな気配。高まっていく魔力。
ふぉん、と空気がうねった。
ルシオは自分の体全体でティナに覆いかぶさる。細く頼りない体をしっかり抱き込んだところで、激しい突風が襲いかかってきた。
鋭い痛みをあちこちに感じたが、確認する余裕はない。
「ルシオ? ねぇ、大丈夫なの?!」
「黙って守られてろ、バカ!」
怯える少女を怒鳴って黙らせ、腕に力を込める。
強襲者はそれほどの魔力がなかったのだろう。数瞬の後に風は止み、元の静寂が戻ってきた。
ルシオはあたりの気配を探り、ようやくティナを抱き込んでいた腕を解く。
きつく囲い込まれていた腕が解かれ、ティナは周囲を見渡して愕然とした。
綺麗に刈りこまれていた生け垣や灌木は無残に倒れ伏し、穴だらけになっている。
地面には今にも地に吸い込まれようとしている氷のかけらが多数。
そして……。
「大丈夫そうだな」
目を細めて自分を見下ろしている少年は、ティナとは打って変わってあちこちに血が滲んでいる。
頬、腕、手の甲、背中。白いシャツと黒いズボンのそこかしこが切り裂かれて、額には血が流れ落ちている。
「ちょっと! 大丈夫なの?」
驚きのあまり声がひっくり返ったが、さすがのルシオも痛みに耐えるのに精一杯で、それを指摘している余裕はないようだ。
「僕のことはいい。歩く程度はできる。
背負っていくことはできないから、君にも歩いてもらう」
すがるようにティナの両肩に手を押くルシオ。
常にはない重さを感じ、立っているのだけで精一杯なのではなかろうか、とティナはいぶかしんだ。
ルシオは何度も息継ぎをしながら、周囲の警戒を怠らずに言い続ける。
「もうすぐ、サウロが合流するだろう。だが、君は、俯いて、一言も声を出すな。
サウロは、宰相から何も聞いていないようだ。
それでも……彼の忠誠心は、レスリーに捧げられたものだ。
油断……するなよ」
苦しい息の下から、平常を装った声が紡がれる。肩に添えられた手が細かく震えていた。
「う……うん」
ティナは零れそうになった涙をなんとかこらえ、少しでも王太子棟に近づこうとするルシオに肩を貸した。
「殿下! ルシオ殿! 怪しい者は逃げた後で……ルシオ殿! これは一体?」
ボロボロになったルシオを見て、サウロは驚きのあまり大声を出しながら、周囲を見回す。ルシオが見たとおり、サウロもすでに怪しいものは姿を消した、と判断したようだった。抜き身のままの剣を鞘に素早く戻すと、わずか数歩で二人の前にたどり着く。
「先ほどの花瓶は、陽動でしたか!
殿下、ルシオ殿、まことに申し訳ございません。
……殿下、よろしければ、兄君は私がお運びいたしましょう」
サウロは頭を深く下げた後、有無を言わせぬ素早い対応で、ルシオを横抱きに抱き上げる。
ルシオがジタジタと抵抗したが、筋肉に覆われた体は全く動じない。暴れることの無為を悟ったのか、王太子棟に到着する寸前にルシオはおとなしくなり、そのまま気を失ったようだった。
ティナもホッとして、ルシオの服の裾をぎゅっとつかむ。
まさか、ルシオが自分をかばって命を危険にさらすことがあるなど、ティナの想定外だった。ルシオの白い額に垂れた赤い筋を見た瞬間、ティナの心臓は破裂しそうなほどに激しく打った。
あの感覚を思い出しただけで、胸の底に冷たい手が触れたようにひやっとする。
これまでの人生で、ティナが得たものなどほんの僅かしかない。それが失われそうになると言う経験など皆無だ。
もう一度、今度は力なく垂れた少年の手をぎゅっと握った。
温かいそれを、ティナは、二度と失いたくない、と感じてしまっていた。
俯いたままのティナに、サウロは特に何も声をかけず、ただ、歩調をゆっくりとティナにあわせて歩いてくれる。そんな気遣いに感謝したくても、今のティナにその術はない。
王太子棟に到着すると、待ちかまえていたリヒトとともに、ルシオをベッドにうつ伏せで横たえた。少年の上半身を覆っていた白いシャツは、あちこちに血がにじみ、思ったよりもひどい状況に見えた。
それでもティナは、リヒトにも顔を見せぬよう、不自然なほど深く俯いていた。
リヒトもやはり何もいわない。
ただ、呼びつけてあった侍医を素早く呼び寄せルシオを任せ、自分はティナの背を押して廊下にでた。
そして、廊下を挟んだ向かいにあるリヒトの部屋を開けて、中を示す。
「鍵もお渡ししておきましょう。
私が呼びかけたときだけ、もしくは出てきても大丈夫になったときだけ、扉をお開けください」
リヒトの優しい目を見たいと切に思ったが、それはできない。いまはただ、頭に被らされたルシオの上着が落ちないようぎゅっと引っ張りながらこっくりと頷くだけ。
扉が閉められ、続いて、ティナ自身で鍵を閉める。
部屋はそれほど広くはないものの、焦げ茶で統一された家具や机があり、ベッドには手作りの枕カバーとお揃いのベッドカバーがかかっている。
暫く呆然と部屋を眺めていたティナは、扉に寄りかかったまま、ずるずると床に座り込んだ。
何もなくしたくない。誰も失いたくない。
ただそれだけを祈るように呟きながら、鍵と胸のペンダントを握りしめるのだった。




