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意識高い系言語についての考察

作者: 走るツクネ

 近頃、意識高い系とされる民族が使う言語について、度々記事が投稿されているのを見る。会社の会議やら説教には、コンセンサスやらコンプライアンスやら、コミットやら、面妖な横文字が飛び交うようだ。

多くの記事で意味がわからん、日本語で言えと、嘲笑が入り混じった自虐的な論調で描かれるように思う。


 筆者もその意見に賛成だ。言葉自体が嘲笑される、というのは時代ごとにあることだが、どれも一部にとどまっていたように思える。しかし、意識高い系言語は社会現象で対立が生じているようだ。


 ではなぜ意識高い系言語は生まれたのか。ここには日本ならではの事情があるように思える。



--大陸文化に対しての印象--


 日本人は外からの文化に対して非常に敏感だ。

 大陸文化は常に海を越えてやってくるものだからだ。ここに日本人の文化に対しての価値観を伺う事ができる。


 海を越えてくるということは、日本に入ってくるルートが非常に限られたものであるということだ。希少価値と、輸送費が加算されて高価になるのだ。

 結果的に、大陸文化は所謂上流階級が享受するものとなっていた。


 朝廷、幕府、商人などが外に対して高い知識を有していて、輸入経路から離れたところにいる人間は、十分に精査されたものを後からなるほどなるほど、と賞味するに留まるのだ。

 多くの人が自由に感想を抱く、という機会を得ずに、さあこれがあの〇〇ですよ、という具合で、初めから文化の概念が固定化した状態で登場する。


 歴史を振り返ってみると、ほとんどがこの流れを辿っている。実際日本人の物に対する評価姿勢は、始めに権威の評価を気にする、という段階を踏む事が多い。



 加えて、社会ができ始めてすぐに封建制的な社会が敷かれ続けたために、日本人は村社会の中で生きることになった。

 それはつまり、土地を持たないもの、外から来たものに対しての許容量が少ない、ということでもある。

 そういうわけで、時間経過の中で多様に変化して言語に入り混じるということがなくなる。


 海を渡ってくるということ、長いこと封建的社会であったことが、大陸文化に対して、外から来た概念、物品と、より強く線引きをするようだ。



--カタカナと漢字の利点と欠点--


 日本語の自由度の高さもあると思う。そもそも我々がカタカナ語を使う意味とはなんだろうか。


 一つの音に様々な意味を与える日本語を使う我々は、漢字という文字自体が意味を表す言語によって、効率的に情報を処理している。地域によって発音が異なるのに、発音が単語の意味を左右するのだ。漢字の利点はここにもある。


 しかし外来語に対しては、漢字は適切な組み合わせを、知識人が翻訳して当てはめなければならない。和訳されて漢字に表された単語は、見解によって様々な和訳を生み出してしまうし、浸透するまでに時間がかかる。


 一方カタカナはよくわからない音の響きに対して、そのまま文字を当てはめることができる。

 日本語にない言葉やなじみが薄い言葉であれば、カタカナで表すことで意識を共有することができるだろう。カタカナは実際の音に準拠してものを指し示す単語となるので、和訳という段階を踏まなくても良い。カタカナで表されることによって身分証明ができるので、すぐに日本の中で生きていけることだろう。

 加えて、日本に本来存在しないものを指し示す場合、的確に結びつけることができる。例えばクラシック音楽という言葉がある。クラシックは基本的に古典的な、という意味だが、クラシック音楽は古典音楽ではない。クラシックは格式高い、という意味で使われることもあるが、そのような日本語を当てはめてみたところで、クラシック音楽を別の言葉で正確には表せない。


 しかし、カタカナには意味がわからない単語を大量に生み出すという欠点がある。

 同じ漢字を使う言語の中国語ならば、名前を除けば、ちゃんと意味にあった言葉に変換されることだろう。翻訳という作業を挟んでいる。カタカナを使うという事は未翻訳の物が沢山入ってくるということなのだ。



 このようにカタカナと漢字はそれぞれ利点が異なり、日本人は適宜どちらを使用するか決める。しかし日本語はある問題を引き起こす。

 意味の分かるはずの単語も、カタカナで表されることによって、意味の推察できる漢字と対比され、自動的に外の文化、関わりがないもの、として分類されることである。

 意識高い系言語に対する反感の一つはここにあるように思える。コンセンサスを得る、などと言われた時、無意識に拒否反応が出ているのだ。


 ビジネスという環境にて、和訳されえない感情だとか価値観が生まれるとは想像しがたい。


 意識高い系言語とは、「大陸文化は上流階級が使用する」ということに由来する高級感と、カタカナが持つ特徴が悪い方向に反応してしまった結果、生まれてしまった言語だろう。


 グローバル化によって、そういった価値観や概念が欧米から輸入された、ということならば、早急に和訳されるか、徹底した教育をする必要があるだろうが、どうやらそういうわけでも無いようだ。

 もし仮に輸入されたとしたら、必要性を感じて勉強されたり、すぐさま適切な和訳がなされたり、元あった単語に付け加えられたりして、あっという間に浸透することだろう。


 誤用やら抜き言葉など、日本語に関する指摘は絶えない。日本語の乱れと言語変化の戦いは今も続いている。しかし風刺される言語というのは、やはり風刺されるだけにとどまっている。



--大和魂という価値観--


 大和魂、という言葉がある。

 この言葉を聞いて、何を思い浮かべるだろうか。


 戦時に出自を持つ体育会系のノリを思い浮かべる人が多いだろう。曰く、大和魂を持ってすれば、貫けぬ装甲は無いと。

 実際、日本人としての不屈の精神を表す単語として使われることが多いように思う。体育祭でも大人気だ。


 しかし、この大和魂は明治に入る前までは全く違う意味で使われていた。

 江戸時代には、日本の四季を楽しむこと、というような文で使われたし、元々は平安時代の大陸文化が積極的に取り入れ始めた時に登場した言葉だ。


 大和魂の反対語は漢才、という言葉であったらしい。

 漢才とは漢文に秀でた才人ということで、大和魂の対義語として登場するということは、つまり皮肉である。

 今でいうなら、英語に自信ニキ、といったところだろうか。


 大和魂とは、大陸文化を日本の風土に合わせて用いよう、ということである。

 日本で日本人が創作する、ということは当然日本人向けだろうし、土台には日本人の感覚があることだろう。

 大陸文化の漢文を、創作の中で実践的に、巧く取り込むということが大和魂ということである。


 つまりどういうことかというと、メイドさんやガラケーは大和魂の体現だ、と例をあげることができる。

 意識高い系言語についていえば、仮に同じ言語を持つ人同士ならば、存分にそれを使って話せばいい。しかし、そうでないならわきまえるべきだ。そしてそれを把握できないのなら、そもそもそんな言葉は使ってはならない。


 知識を持ってる奴が偉いのではなくて、知識を上手く使える奴が偉いのだ。



 漢才、鹿鳴館、意識高い系、などなど、日本人は大陸文化に対して度々こういう珍妙な問題を引き起こす。

 意識高い系言語は、一言で言えば唐人の寝言である。寝言は寝て言え、という言葉もある。


 高級感という理由からカタカナ語を使うのは滑稽だ。

 共有されない言葉、受け入れられない言葉を使うのは、そろそろ止した方がいいのでは無いか、と思う。


 倉庫に眠ってたのを発見したので修正して投稿いたしました。ファイル作成日を見ると、意識高い系の風刺が絶頂期だった時期に書かれたものだったようです。今では下火になったように思えますが、少数になったのか、浸透したのかどっちなのでしょうか。

 実際にはぶん殴れていませんが、興味深いことを考えられた気がするので、今はこのくらいで勘弁しといてやることにしました。


 普段はファンタジー考察を書いております。どうぞそちらもよろしくお願いいたします。それでは失礼いたします。

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幻想歴史読本
― 新着の感想 ―
[一言] 外来語から来る新しい言葉何て定着する迄に遅かれ早かれ色々な物議を出す物だと思うよ。 「ルート」「ビジネス」「グローバル」「ファイル」何てのも昔の意識高い系の連中が使って居たのが紆余曲折を経て…
[一言] 面白かったです。 自分の考察では頭のいいやつと悪い奴で線引きをしている イメージがあります。 そうやって言語がわかるもの同士で話が通じると 嬉しい、といったような。 ただ、そういう傲慢な性格…
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