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六条桜1

 それは桜の綺麗な季節だった。

 中納言家で可愛らしい女の子が産まれたのは。

 父親である中納言は、隣にいた大納言とその息子に言った。

「約束どおり、うちの姫君はお前の息子に嫁へやろう」

 まだ五つになったばかりの息子信春は意味が分からず、ただキョトンとしている。

 父親の大納言は嬉しそうに息子の頭をなでた。

「楽しみだな。きっと奥方に似て美しいのだろう」

 大納言は本当に嬉しそうに笑った。

 その顔を見て信春も嬉しそうに笑った。


 それから数日後、信春は初めて未来の奥方と対面をした。

 赤子は乳母に抱かれ眠っていた。

 赤く丸い頬、小さな手、全てが可愛らしかった。

 信春がそっと指を差し出すと、赤子はその指を力強く握り返した。

 その小さな手の温もりを愛おしく感じた。

 乳母はそんな信春を見て微笑んだ。

「信春様が守って差し上げてくださいね。

 この姫君は信春様の姫君なのですから」

 信春はそう言われて力強く頷いた。

「うん。僕が守るよ。ずっと、守るんだ」

 そうして赤子は桜子と名づけられた。


 信春は毎日、桜子に会いに行った。

 小さな桜子は信春を見てよく笑った。

 それが嬉しくて、信春は飽きもせず通いつづけた。

 桜子がやっと立って歩くようになった頃、小さな事件が起きた。

 なんにでも興味を示すようになった桜子が、几帳を倒してしまったのだ。

 たまたま信春が傍にいた。

 信春は桜子をかばい、額に怪我をした。

 驚いた桜子は信春の下で大泣きをした。

 驚いた女房が駆けつけたのは、言うまでもない。


「大丈夫だよ。

 何も怖くない」

 そう言って信春は桜子を優しく抱きしめた。

 桜子は信春に抱きつき、泣き止んだ。

「さすが信春様ですね。

 身を呈して桜子様を庇うとは」

 中納言は信春に感謝した。

「だって僕の姫だもの。

 僕が守るんだよ」

 中納言は信春のその言葉を頼もしく思った。


 十五の年に信春は元服した。

「お兄様、素敵ね」

 髪を結い上げ、殿上を許された信春は凛々しく見えた。

 桜子はそんな信春の姿を見て、頬を染めて喜んだ。

 信春はそんな桜子を見て微笑んだ。

 桜子のおかっぱ頭が可愛らしく揺れていた。

「お兄様、宮中の話を沢山してね」

 桜子は信春にまとわりつき、はしゃいで言った。

「ああ、楽しい話を沢山聞いてこよう」

 信春は桜子の頭を愛おしく撫でた。

 二人の仲の良さは、誰が見ても微笑ましいほどだった。

 

 信春が殿上するようになると、桜子は一人で物語を読むことが多くなった。

 物語に夢中になり、恋にあこがれ、心をときめかせた。

 物心つくようになったころから、母親は桜子に言い聞かせていた。

「お前は信春様の元へお嫁に行くのだよ」

 それは決められたこと。

 そうして桜子もそれを望んでいた。


「桜子さま、信春さまのお話をお聞きになりましたか?」

 乳母子の萩が頬を染めて桜子に話しかけた。

「何のお話?」

 首をかしげ桜子は聞いた。

「殿上してからそれは信春様は噂の的ですが、昨日庭で舞を舞ったそうなのです。

 女房が一人、信春様を見ようとして御簾から転がり出てしまったようで。

 女房は恥ずかしくて動けなかったところを信春様が抱き上げ、御簾の中に戻して差し上げたそうです。

 女房は大騒ぎだったみたいですわ」

 楽しそうに話す萩を見て、桜子は口を尖らせた。

「当たり前です。お兄様は一番素敵なんですもの。

 でもなんてみっともない女房かしら。

 お兄様も優しすぎますわ。

 ほっとけばいいのに」


 宮中での信春の噂を聞くたび、桜子は悲しくなった。

 信春が遠い存在のように思えた。

 自分だけの信春でいてほしい、と桜子は思った。

「やあ、姫君。

 これで機嫌を直してくれないだろうか?」

 御簾越しから信春の声が聞こえた。

 桜子は急いで立ち上がり、御簾から外を覗いた。

 そこには笑っている信春がいた。

「お兄様!」

 信春は黙って桜子に包みを渡した。

 それは桜子の好きな唐菓子だった。

 桜子は差し出された唐菓子を大事に両手で包み、信春を見上げた。

「どうした?」

 なんでもない、と桜子は首を横に振り、信春に抱きついた。

 信春を独り占めしたい。

 そんな思いが桜子を満たした。

「ありがとう、お兄様。大好きよ」

 桜子がそう言うと信春は優しく抱きしめてくれる。

 それが桜子はとても好きだった。



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