別れ
亡き姉を偲んで書いた自伝の一部です。
二〇〇三年夏、クマゼミの鳴きさかる暑い日に、姉の久子がみまかった。七人のきょうだいのうち初めての死去である。もっとも昭和十六年に、生後十日ほどで昌幸という弟がひとり死去しているので正確な言い方ではないが、戦前、戦後の半世紀以上をきょうだい七人が生き抜いてきたのであった。
私はその時福山から広島へ向かう新幹線に乗っていた。列車はたびたび大きく横揺れをしながら走っていて、トンネルを抜けてはまたトンネルに潜った。トンネルを抜けると、山間の細長い村落がちらっと見えては、またトンネルの闇に滑り込んだ。
広島までもうじきだろうと思うトンネルを抜けたとたん、ポケットの携帯が振動した。ポケットのなかで電話を握りしめたが、とりださないうちに、列車はまたトンネルに潜ったので振動がとまったが、体温がすとんと下がったような気分になって、姉がみまかったのだとそのとき私は直感した。その朝、姉が入院したということを妹から電話をもらって知っていたからである。
その十日ほど前に、姉が歩行が困難になって苦しんでいるときいて自宅に見舞ったが、姉は夜中に小用を足そうとしてベッドから降りるときに、ベッドの角で腰のあたりをぶつけて転んでから痛みがはじまり、歩行も困難になったということであった。私が顔を見せるとうれしそうに笑顔を見せ、痛みに顔をしかめながらも杖にすがって、左足を床から浮かせたまま、右足だけでけんけんをしながら痛々しく起きだしてきた。
「博ちゃんはちっともかわらんねぇ。顔も声も若いときのままやねぇ」
と、久しぶりに会った姉はしげしげと私を見つめながらいったが、近くに暮していながら、めったに顔を見せない私を非難するふうでもなく、芯からなつかしんでいる様子だった。そういう姉もさほど老け込んでいるようにも見受けられず、若いころの面影はまだ失ってはいないように思った。
座敷に足をのばした姉の右の膝が腫れていて、卓球選手で闊達だった記憶のなかの姉の姿と引き比べながら、だれだって齢には逆らえないのだと思いながら手を当てた。私が普及活動をしている、足で踏んでの楽健法などはやれない状態なので、畳に寝かせて三十分ばかり掌圧や指圧をしたら、ずいぶん楽になったと喜んでいた。
姉の最後の日のようすをきくと、あまりに痛がるので、本人がなんどか入退院をくりかえしているかかりつけの市民病院へ連れていったら、この程度では入院することはないから自宅で療養してください、と帰宅をうながされたそうだが、本人がこんなにも痛みを訴えているのだから、なんとか入院させてくださいと懇願したら、それならというので入院を許可されたそうである。病院では、痛みの処置をしますからということで何時間か集中治療室に入れられ、何本かのパイプをつながれて、いわゆるスパゲッテイ症候群にされて、点滴をセットされながら個室に移されたが、それから一時間たらずのうちに、顔と片足の太股が倍くらいに腫れ上がってきて、家族が異常に気づいて病院に訴えたときには、もはや命数は尽きてしまったということであった。
いつも私が主張する『点滴は人類の天敵である』という事例の見本みたいな死に方であった。
私が点滴について考えるようになったのは、むかし交通事故を起こして一晩だけだったが入院したのがきっかけであった。雨が激しく降り始めた昭和四二年の肌寒い春の夕暮れ、家内と子供二人をパブリカに乗せてヘッドライトをつけて走り始めたのだが、雨なので対向車のライトがまぶしくて見通しがわるく、速度は落としていたのだが、道路の中央を三人連れの酔っぱらった男たちが、肩を組んで与太って歩いているのが不意に見えて、反射的に急ブレーキを踏んだところ、車はスリップをして、対向車のトラックの直前を横切って反対側の道路沿いのガレージの角の柱に衝突したのである。まだ安全ベルトもないころだったので、私はハンドルの下のほうで腹部を打ち、痛くて腹を抱え込んでうずくまった私を、家内が近所のひとに電話をかりて呼んだ救急車が、小さな救急病院へ運んでいったのである。腹痛は病院へ着いてまもなく治まったが、レントゲンを撮ったあと、私をベッドに寝かせると、看護婦はさっそく点滴を左腕に取り付けた。
「点滴などはいらないと思いますが」
と看護婦にいうと、
「病院のきまりになっていますから」 といって、満タンの点滴を取り付けて去っていった。生まれてはじめての入院であり点滴だった。やがて、春先のまだ気温の低い時季のこととて、点滴液が体内に流れはじめて一〇分もしないうちに、体が冷え込んできて尿意を催してきた。私は頭元にぶら下がっているナースコールのボタンを押した。
やってきた看護婦に
「トイレに行きたいので、点滴を外してください」
看護婦はすぐさまはずしてくれ、小用を済ませてベッドに帰ると、すぐにまた点滴をセットして消えていった。しかし、十数分もたたないうちに、私はまたナースコールを押した。
「またトイレです。お願いします」
「さっき済ませたばかりなのにねぇ」
と、また外してもらってトイレにいったが、さきほど済ませたばかりなのに、尿は膀胱に満タンになっていた。冷たい点滴液が血管を巡り始めると、寒くなってきて身震いするほどで、さっきトイレに行ったばかりなのに、十数分もするとまた我慢ができなくなって、たびたび看護婦を呼んで外してもらってトイレに通うことになった。
「尿瓶を使っていただくか、カテーテルをとりつけてトイレに行かなくてもいいようにしましょうか」
「冗談じゃないですよ、重病人じゃあるまいし、もうなんともないから点滴をはずしてください。これのおかげで冷えてトイレの我慢ができないんですから」と食い下がったが、
「決まりですからそれはできません。先生の許可なしにそんなことはできません」
といってまた点滴をつなぐのである。
私はその点滴のためにその夜はほとんど眠れず、一時間に3回ぐらい看護婦を呼んではうんざりしながら小便にいった。翌朝までになんとか点滴が空になってやっとはずしてもらったが、八時過ぎにやってきた医師は深刻な顔をして、
「山内さん、あなたは大変なことになっていますよ」という。
「大変なことってなんでしょうか」
「あなたは歩けないでしょう。背骨に損傷を受けて骨がつぶれて重なっていますよ」
という。なんといい加減なことをいう奴だろうとむかっ腹がたってきて、
「冗談じゃないですよ。ぼくは夕べから点滴のおかげでからだが冷えて、二十回以上も自分で歩いてトイレへ行ってます。どうして点滴なんかが必要なんですか。あなたのような医師にかかったらどうされるかわからないから退院します。すぐ計算してください」
憤然と声を荒げる私に、医師は黙り込んでひっこんだきり二度と顔を出さなかった。
一晩だけの入院体験だったが、この体験から、点滴とはなんだろうかという、私にしては執拗とも言える長年にわたっての関心事、疑問がわいてきたのである。
病院の決まりだからというような曖昧な説明で、入院してきた重病人でもない患者に点滴を注入しなくてはならないものなんだろうか。点滴とはどんな病状の患者が必要とするものなのか。当時の私は喘息もちで、発作が起きると自分でエフェドリンの皮下注射を常時持ち歩いてしていたが、点滴は初めてのことであった。私は先天的に体質が冷え症である。小学校の高学年になってからも、冷え症のためによく寝小便をして母を嘆かせていたものである。そういう体質なのに、戦時中の国民学校は軍国主義の軍隊式スパルタ教育を行っていて、ポケットなしの半ズボンに素足を強制していたので、寒い季節には余計おしっこが近くなるのである。
点滴を受けながら、うとうとしはじめると、夢のなかで、私は古びた薄暗い木造家屋のなかにいて、暖かい風呂に入りたくてたまらず、風呂に浸かろうと思って、風呂場を探し回るのだが見あたらず、やがて風呂よりもおしっこがしたくなってきて、あちらからこちらへとカーテンを掻い潜りながら、便所らしい扉を見つけては開けてみるのだが、便所の床は踏み抜きそうに割れて斜めに傾いているうえに、汚物が盛り上がっていて足の踏み場もなく、とても用を足せるような場所ではなく、あわてて扉を締め、また別の扉を探して開けてみるがどこも似たり寄ったりで使用に耐えない。ああ大変だと、前を押さえながら執拗に便所をさがしまわるのである。やがて、漏れそうになって、ハッと目覚めるのであった。
子供時代にも便所の夢をたびたび見たが、その夢のなかでは、清潔な便所を見つけて、安心して心地よく放尿するのだが、そのときが寝小便の放尿なのである。
毎夜のことではなかったが、失敗したときは、自己嫌悪に押しつぶされそうなこころを抱え、存在の気恥ずかしさを押し殺して生きなくてはならない子供の一日がはじまるのだが、いまもってその澱が一筋残っているからこそこのようなことを書くのであろう。
点滴が始まってまもなく、地の底にひきずりこまれそうな不安感と、冷えがやってくる。寒い。私は意識がはっきりしていたので、たびたびナースコールをして便所に立ち上がったが、立ち上がる気力や体力のない病人だったとしたらどうなることだろう。ずるずるとそのまま死の世界へいざなっていかれるのではないかと思った。
点滴によって体に大変な影響が起きるということを経験した私は、治療という名目でじつは回復不能な状態に患者を追いやるケースがあるのではないかという疑問をいだいて、以来、注意深く周りの人たちが病院で点滴を受けてどう変化していくか注目するようになったのである。大きな病院へ見舞いに行くとどのベッドの患者にも点滴がぶら下がっている風景に気づいた私は、そんなに点滴を必要とする患者がいるのだろうか。点滴は患者に必要だからするのではなくて、病院が売り上げのために必要としているのではないか、という疑問をもったのである。
集団健診などをうけて、ちょっとひっかかることがあると入院をすすめられて、お元気そうな老人が病院へはいり、点滴を受けて数日もしないうちに意識が混濁してきて、腹部が膨れ上がったりして、そのうちにいけなくなってしまうようなことも起こるのである。死去すれば、医師はかならずなにかの疾病のせいにするだけで、点滴が死の誘因だなどとは誰も思わない。いかにも手間をかけ、金もかけているように見えながら、じつは点滴は仕掛けたら空になるまでほったらかしに出来る手抜き医療で、売り上げだけは確実にできる病院側の欲望充足の手段なのである。患者側も、よしんば死に至ったとしても、手間も金もかけて治療が受けられたのだという、欲望を満たされるのである。
なんという巧妙なからくりであることか。点滴を腕に刺したまま、点滴の瓶をぶら下げたポールをもって、煙草を吸いながら、元気そうなおじさんが病院の廊下を歩き回ったり、なかには近所のコンビニや百貨店へそのまま買い物に外出する猛者も私は目撃したことがある。それって根本的にどこか狂っていないか。アーユルヴェーダ研究会で私が「点滴天敵論」のことを話したときに、元病院長だった医師がコメントしてくれて聞いたことがあるが、
「原則からいえば、自分でおしっこが出る患者には点滴は必要ありません。しかし先生、わかってほしいのですが、私が院長だった病院は、どこの病院もそうだと思いますが、たくさんの返済金と、たくさんのスタッフの経費がかかるのです。だから、ほんとうは必要でない患者にも点滴をするのです。ここのところをぜひわかっていただきたいです」
点滴にかんしてこれほど率直な回答はないといえるだろう。だが点滴は患者によってはいのちにかかわる一大事なのだという認識はこの医者のどこにもない。
点滴は無害であるばかりか、すべての患者にとって有益かつ必要であるというのが、現代医学の暗黙の前提になって行われているのである。そのように扱われて、私の肉親の何人かも、何人かの知人も、いのちを落としていったではないか。点滴は体力のある人には影響はさほど目に見えないかもしれないが、病が進行して体力の落ちている病人には、かならずしも起死回生の手当てになるのではなく、腹部が膨満したり、手足に浮腫があらわれたり、意識が混濁してきたりして、急激に自然治癒力や生命力を失ってしまう患者もかなり高い率でいるのである。患者に付き添っている家族には、それがあきらかに分かるようになり、医師に点滴をやめてくれと頼んでも、絶対にやめてくれない、という経験をしたひとは多いはずだ。やめるばかりか、症状が悪化すればするほど、点滴のなかに混合する薬が増えていくことが多い。
元気にしっかりと歩いて入院したのに、一週間や十日もしないうちに末期を迎えるのは、点滴によるダメージが多いのである。私が点滴は人類の天敵であるというのは、そのような観察を積み重ねてきた結論である。
狭山に転居した戦後まもない時代は、主食の米の配給も、遅配や欠配があたりまえのようになって、現在の北朝鮮の見捨てられた民草同然のありさまだった。遅配は食料の配給が予定より遅れますということだが、欠配ですという知らせは、配給するお米などはありませんということで、盗んででも勝手に生きていけということである。盗めば罪になることはいうまでもないが、闇で食料を売買することは法律で禁止して、警察は取り締まりを厳しくしながら、配給は欠配するというのは、生存の手段を奪って見捨ててしまうということで、棄民である。もと裁判長だったある人が法律をぜったい破らないという真面目なひとで、闇米などには手を出さないで、餓死していったということが報じられたりしていた時代であった。
そういうときに、天の助けとでもいうような、野菜を売りにきてくれるおじさんが数日おきにあらわれるようになって、母は歓喜してこのおじさんから野菜を購入していたが、じつに気前のいい人で、いくらでもまけてくれるのである。ある日、堺市の警察から母に呼び出しのはがきが届いて、びっくりした母が警察に出頭すると、野菜売りのおじさんが手錠をかけられて母の前に連れて来られて、
「奥さんすんまへん」
と恭しく頭をさげた。このおじさんは野良荒しをやって盗んできたものを販売していたのであった。母は警察に証人として呼び出されたのであった。こうして天祐ともいうべき補給路もなくなったので、池の水を利用する以外に、飲み水も満足に得られないばかりか、主食の配給がしじゅう欠配になるので、その都度、母は自分や姉のなけなしの晴れ着などを近所の農家へもっていって、わずかの食料に交換してもらったりしては、なんとか食いつないでいた。
私と弟は池の土手で、野蒜を摘んだり、父親が近寄ることを禁じている副池の急斜面に、大きなカラスガイがたくさん生息しているのを見つけ、二人で手をつないで滑らないようにからだを確保しながらいくつも拾った。カラスガイは、夕方近くになると、深いところから岸辺の水面近くへ移動してくるのか、昼間にはあまり見かけないのだ。ふたりともまだ泳げなかったので、足を滑らして池にはまったら溺れ死ぬだろうし、父に見つかればゲンコツぐらいではすまないかも知れないが、食べ物に餓えていたぼくらは、夢中になって危険をもかえりみないでカラスガイ捕りに熱中した。徳島の鳴門の芋畑で農家が堀残して発芽したサツマイモ探しといい、餓えたこどもは、たべものを見つけ出す能力が発達することは確かだ。
カラスガイは大きくてずっしりとした貝でカラスの羽の色のように黒っぽい色をしていて、母が配給されたキューバ糖と醤油で煮付けて料理してくれたが、池の水が透明だからか、臭いもなく、なかなか美味で貴重な蛋白源であった。
ある日、狭山池へ行ってみると、三輪オートバイが来ていて、男たちが何人も池で地曳網をひいていた。網には大きな鯉がたくさんかかっていて、オート三輪の荷台に材木でも並べるように鯉を荷台に積んでいたが、その大きさはまるでマグロのようだった。当時のオート三輪は大型ではなかったが、荷台のヘリから尻尾がはみだして、ぼくらのからだより大きいような鯉がたくさんいた。鯉がこんなに大きくなるなどとは、思いもよらなかったので、鯉ではないのかも知れないと車のおじさんに聞いてみると、
「戦争でやれなかったから、十年ぶりに網を曳いたら、こんなに大きな鯉になっていた。狭山池にはもっともっと大きな池の主の鯉がいるけれども、そいつはあの深みに隠れていて捕まえることはできないのだよ」
とびっくりして目を丸くしているぼくらに車を運転する男が教えてくれた。
鯉を満載したオート三輪は夕方までなんども往復していた。網を曳きながら池の水を抜いていたが、池の中央の小島に水神かなにかの社が石積みされて祀られていて、この周りが深みになっているので、ここは水がひかないのであった。この深みに、狭山池の主の巨大鯉がひそんでいるらしい。周囲四キロほどの大きさの池の周りから次第に水が引いて干潟が広がっていった。干潟には大物はいなかったが、逃げ遅れた、洋食皿からはみ出しそうな大きさの魚がたくさんもがいていた。私と弟とがそれを見逃すはずはなく、池の掻い出しをやっていた男たちとオート三輪が引揚げると、二人で裸足になって干潟に入っていって魚を拾っ
た。まだ生きている魚もたくさんいたが、鯉は男達に拾われていてほとんどいなくて、台湾ドジョウがほとんどだったが、片足が深みにはまってしまわないうちに素早く移動しながら、バケツに山盛りの魚をおみやげにして、夕食には久しぶりに鮮魚の煮付けが食卓にのぼった。
「これは台湾ドジョウという外国から入ってきて増えた魚なんだ」
と、ぼくらの得意げな顔を見ながら父が解説した。父はなんでも知っていた。
やがて夏になって、私はまだ泳げなかったが、狭山池の土手に建っている役場の近くの排水堰のタワーが建っているところから流れ出る小川に飛び込んで遊んでいたら、川の中に捨てられていた大きなコンクリートの破片から突き出していた太い針金が左膝の横の皮膚を三センチほど突き抜く怪我をした。そのうち治るだろうと高をくくっていたら傷口が化膿してきて歩けなくなった。
近所に医院などは見当たらず、姉が勤務している富士車両には医師も看護婦もいる医務室があり、姉が会社に頼んで治療を受けることになったが、歩けないので、母に背負われて往復した。傷が皮膚を貫通しているので、傷口からガーゼを細く丸めてピンセットで押し込んでいき、麻酔もしないので痛い思いをしたが、看護婦は痛みのことなど考えてもくれないで、容赦なくガーゼを押し込んだ。やがて反対側の傷口へガーゼの端が見えると、黄色い膿がからまったガーゼがひっぱり出された。
「毎日来なくてもいいから、あとは自宅でガーゼを交換してください」
医師はピンセットやガーゼ、薬、包帯などをセットにして渡してくれ、しかも治療費は取らなかった。傍で観察していた姉はそんな扱いを受ける弟と母を眺めながら、どこか得意そうだった。
それから数日、自宅で母がピンセットで膿のついたガーゼを抜き出し、新しいガーゼを傷口へ詰め込んでくれたが、看護婦のやり方よりははるかに丁寧でそれほど痛くはなかった。この傷が治ってからまもなく夏休みに入って、私は副池で背板につかまってばたばたと水を足でたたいて遊んでいたが、突然だれかが板切れを奪ったとたん、溺れるはずの自分が蛙泳ぎしながら水面から顔を出して浮かんでいるのを発見した。浮いてる!泳げる!と嬉しさのあまり、池のなかほどから岸まで一気に三十米ほど泳いで帰ったが、あと一メートルというところまで泳いできたので安心して、立てると思って立ち上がったら足が届かず、ごぼごぼと沈んであわてたが、すこし水を飲んだだけで、それ以来板切れはいらなくなった。
姉は会社に入社してから卓球部へ入り、女学校時代から卓球が得意だったので、会社でもたちまち有力選手になったが、勤務時間のあと、卓球の練習をして二時間ほどでも帰宅が遅くなると、父が異常なほど、激しく叱るので、姉にとってはそれがなによりのプレッシャーであった。母がいつもとりなそうとしたが、そんなことで丸くなるような父ではなかった。姉は毎日父にどなりつけられながらも練習はしっかりやって試合に出ていた。
父は、姉のあと子供が生まれず、私が生まれるまでの七年間を、一人っ子だと思って秘蔵っ子として溺愛してきたので、姉が一人で外出でもすると目の前に姿を見せるまで安心ができないのであった。
昭和二十一年の夏休みの終わりとともに、春本組のバラックの社宅での暮らしが終わった。母が妊娠して、池まで水を汲みに降りたりするのがつらくなったので、父は職場探しに奔走し、見つけてきたのは、大阪市内の謄写版の製造工場の職長の仕事だった。
いまは廃線になったが、天神橋六丁目から神戸に向かう阪神電鉄の路面電車が出ていて、乗ってすぐの豊崎という停留所で降りると、近くに「不二謄写版」という看板のかかった町工場があった。社長は五十歳すぎの日焼けした南方系の顔をしていて、オールバックをポマードで丁寧に撫で付けていた。
父は謄写版の外箱や原紙の枠、原紙を切る鉄板の枠などの木材部分の製造の職長にたずさわることになっていた。
謄写版工場から道路ひとつへだてて社宅があり、戦災をまぬがれた二階建ての家で、そこの二階が新しい住処になった。しかし炊事場は階下にあって、手狭なため煮炊きは階段の近くの土間に七輪をおいてするほかなく、煮炊きした大鍋を二階まで運ぶので、妊婦の母には大変だった。
二階には二間があり、階段をあがったすぐの八畳の部屋が七人家族が暮すわが家で、隣室の六畳間には、同じ工場の従業員の二十代後半かと思われる女性が住んでいた。おとなしい無口な女で、襖の向こうに人がいるのかいないのかわからないような存在だった。
父は母が妊娠しているので、階下に住みたがったが、そこは以前から従業員の家族が住んでいて、社長は
「家のことはそのうち考えますから」
と配慮してくれる約束をしたが、母が出産までにどうにかなるなどとは父には考えられず、また別の職場を必死に探し始めていた。
父は沸騰した鍋を二階へもってあがるような危険さについて、平気でいられないたちであった。ここは飲み水も満足に得られない狭山から脱出するためのとりあえずの手段だったのである。
大阪は焼け野原があちこちにあって、ここの家の裏にも焼け跡がひろがっていて、日本家屋が焼け落ちたあとには、壁土が独特の臭いを残すのである。敗戦の臭いとして、いまもその臭いははっきりと思いだす。
かんかん照りの焦土にも、いろいろな雑草がたくましくはびこり花を咲かせる。
裏の焼け跡には、草に取り囲まれて、台所だったらしい場所に、ぽつんと水道の鉛管がたちあがり、その蛇口をひねると激しく水がでてきた。私はそこの蛇口にくりくり頭をもっていき水をかけていると、母が二階から下りてきて、「冷たい水が飲みたい」というので
「ここの水は冷たくて気持ちがいいよ」
というと
「そうかい」といって蛇口に口をもっていってすこし飲んだが、
「ちっとも冷たくないよ。あー、佐古の泉の水が飲みたいね。あれよりおいしい水はどこにもないねぇ」
と捨ててきた徳島の水を懐かしがった。
姉も工場で原紙の蝋びきをして働くことに決まり、引っ越しの翌日からさっそく工場入りして、小さな機械に向かっていた。 溶けた蝋が表面についた二本のローラの間から謄写原紙の和紙をゆっくりと両端をつまんで引き出すのが彼女の仕事だった。ローラーから引き出された和紙はすぐに蝋がしみ込んで半透明な謄写版の原紙になり、つぎつぎと重ねて箱に入れていく。この仕事は一枚につき一銭五厘の受け取りですると私は聞いていたので、姉が仕事をしている工場の開けた窓の外から、姉が原紙を引き出すたびに「そーら、一銭五厘、また一銭五厘」
と何度かからかっていたら、はじめは笑っていたが、そのうちに怒りだして夜になって父に言いつけられ、
「馬鹿かお前は」
というなり、拳骨を頭に食らわせられて大きな瘤ができた。父の折檻はいつも容赦ない拳骨一発で、その痛さといったらなかった。私は部屋の隅に座ってしばらく泣いていたら、姉がやってきて瘤をだまって撫でてくれたが、私は邪険に姉の手を振り払った。
「お前がいけないんだよ。姉ちゃんをからかったりして」
母がそういったが、白髪混じりが目立つようになった母は、引っ越しの疲れと妊娠のためか声にあまり力がなかった。ここの工場に移ってから、姉は社長の身内だという、社長同様にポマードをたっぷり塗っておしゃれをしている「七」という数字が苗字になった妙な名前の従業員の青年に繁華街や映画に誘われたり、日曜に郊外へ遊びに誘われ、箕面公園へいったりしたが、こうしたデートには、父の命令で必ず私がくっついて行った。瘤付きでなくては、父はそうした外出を、姉に決して許さないのであった。
いまいましげに瘤の私を眺めているやさ男をしり目に、私と姉とは手をつないで歩いたりして、男はすこし離れて並んで歩くのである。
七さんはかなりかわりもので、経済観念がすこぶる発達していて、こうしたデートに誘っても、経費は割り勘にしようといって、てんと恥じないのである。電車賃も自分の分しか払わないし、お茶でも飲んで休もうといって、店に入ると、種類の違うケーキなどを各人が注文すると、姉のケーキに
「そのケーキも味見したいから半分づつ分けようよ」
などといって皿に手をのばすのである。
姉と私は、しぶちんの七さん、というあだ名をさっそくつけて、帰ってから話題にして母と大笑いだった。
「ケーキを半分コしようなんてノいやっていってやった。あんなしぶちんとは暮したくないわねぇ」
と姉はクールなことをいうのであった。
暮したくないというのは、結婚したくないわねえということだ。姉が結婚するなどという日がいつかくるのだろうか、とこども心に私はゆとりのないこの暮らしぶりを考えてみざるを得なかった。
謄写版の会社で夏中働いてから、父は生野区の巽町というところにある「西村木製器具製造株式会社」という会社に渡りをつけてきた。そこの会社の職長をしていたのが戦前、通天閣の見える四天王寺近くの家具屋で父が働いていたころ、まだ見習いだった織田という人であった。
父がここの会社でなにより気に入ったのが、出来上がったばかりの社宅だった。玄関の右側の屋根に、スレートの煙突が突き出している平屋だが、各三部屋ある四軒長屋が四棟一列にならんでいて、なかでも一軒だけは大家族用に広めに作られていて、そこが借りられることになった。
家らしい家にやっと住めるというので、家族は大喜びで、再度の引っ越しもすこしも苦にならなかった。
不二謄写版の社長が、なんども二階へ訪ねてきて、なんとか早急に家を見つけるからと慰留につとめたが、この僥倖とも言うべきチャンスを逃すわけにはいかなかった。
新しい住まいは、間口が二間あって、自転車を二台並べても十分ゆとりのある玄関があり、玄関の右側の戸を開けると台所で、水道とセメント造りの流しがあり、ガスはなかったが、木工所で家具を作るときの廃材を毎日持ち帰れば、竃で歯釜と鍋の二つを同時に使ってご飯とおかずを作ることができた。
内風呂はなかったが、台所で水道が使えるのが、こんなに便利だということを母は初めて体験したのである。
奥の部屋から廊下に出ると右側が便所で、杉の木で作られた板塀のなかは数坪の前栽になっていた。裏木戸を開けて外に出ると、家の奥行きほどの焼け跡の空き地があり、ここは会社がいずれ同じような社宅を建設する予定地で、それまでは畑として使ってもいいことになっていた。空き地の向こう側は道路をへだてて金網の塀があり、そこは東中川小学校だった。この家に暮すようになった秋に末弟が自宅分娩で誕生し
「山内家だから山に関係した名前がいい。山にはきれいな水が必要だし、水を運ぶ筧が第一に大切だね」などと父と家族で話しあって、漢和辞典をめくったりしながら筧一と名付けた。
私と弟は、謄写版工場では夏休みだったため転校しなかったので、この小学校に狭山小学校から転校したことになった。私は五年生、弟は三年生だった。
父はこの会社に就職してから、私に学校を休ませてたびたび仕事に連れていくようになった。狭山へ転居するときに打撲した胸がときどき痛んできて体力の衰えを自覚し、私を働き手として早く育てたかったのである。
指物の職人は夜なべをする人が多いが、父は夜なべが大嫌いで、夜なべをする職人に
「帰る家がないのかいな」
などと皮肉っぽく冗談をいったりしたが、急きものの家具を受けたりすると、早朝に出かけて仕事をすることは苦にならない人であった。そういうときは八時に始まる会社へ六時ごろに入って仕事にとりかかったりするのである。会社に就職したといっても、仕事は受け取り(机や書棚などの家具を一点あたりの手間賃を決めてする)なので、就労時間などの規則に縛られないのである。
社宅から会社へ徒歩十数分の道のりだが、その途中にかなり大きな小松製材所というのがあって、ある朝、父と前を通りかかったとき、『若い女性事務員募集』という張り紙を見つけたので、姉に教えるとさっそく出かけていって、自分で就職を決めてきた。姉はそういうことには物おじしない女性だった。
姉はそこでしばらく働いていたが、自分でもっと条件のいい会社を近所に見つけてきて、広瀬というブリキのバケツなどを製造する会社に移った。ブリキ会社の近所は、戦前からの長屋がたくさんあり、朝鮮人がたくさん住んでいた。道路には鶏が放し飼いされていて、私などのような子供が通りかかると、雄鶏が喊声をあげて向かってきて、蹴爪で足を蹴り上げられたりしたが、それを見て朝鮮人のおばさんがあわててやってきて追い払ってくれたりする、開けっ広げで庶民的な土地柄だった。この蹴爪の襲撃はかなり痛い。
姉は年ごろでもあり、小柄でだれからも好感をもって迎えられ、ブリキ会社でも専務の若奥さんにとくに可愛がられて、やがて父を除いてだが、家族ぐるみでもらい風呂までするようになった。
私は思い出したように時々登校したが、担任の武藤甚太郎という先生は、このクラスを卒業まで六年間担当した先生だった。六年になると、生徒に般若心経を暗唱させたりした変わった教育者だった。
私は指物の仕事に習熟してくるにつれて、休むことのほうが多く、六年生になってからはごくたまにしか登校しなかった。卒業式の日も仕事に出かけていて、卒業証書はその夜、近所の朝鮮人の級友が、甚太郎先生の短冊と一緒に自宅に届けてくれた。
「そうか、今日は卒業式だったのか」
すこし淋しかったが、卒業式の日も忘れてしまうような暮らしぶりだったのである。
短冊には
わが説きしまこと守りて一筋につとめ励みて国おこせかし 慈雨
と短歌が書いてあった。
先生は芦田恵之助という国語教育で有名な先生から一目置かれているというほどの愛弟子だそうで、甚太郎先生に学べたのはきわめて幸運なんだと、三十年後に日高てるさんから教えられ、彼女に案内されて晩年の甚太郎先生にも再会したが、ほとんど授業を受けていなかった私を記憶しておられなかった。しかし、卒業のときにもらっていた短歌を私がすらすらと口にしたら、大変おどろき感激されて、またまったく同じ字を短冊に書いてくださった。
甚太郎先生は私が中学へ行けないといったために、なんどか父を説得しにわが家へやってきたので、父もそうしますと返事はしたが、私は中学へ入学して白線の四本入った学帽をかぶり数日は登校したものの、その後学校へは通わなかった。
ある日、背広にネクタイ姿の小柄な日焼けした青年がぴんと緊張して玄関に立った。
ちょうど会社が休日だったので、家族はみんないたが、声がしたので私が玄関に出てみると
「博之さんだね。ひさしぶり」
にっこり笑って立っていたのは、終戦直後に徳島で近所に寄宿していた青年だった。
廃虚になった徳島の町も、戦後まもなくあちこちで建築がはじまり、焼け残った私の家には、居候をふくめて一六人もが集まって暮らし始めていた。近所の家にも、身寄りを頼って焼けだされた人や、大陸から引揚げてきたひとなど、見知らぬ顔をときどき見かけるようになった。そのころは、現在の日本人がいまでは失ってしまった風俗だが、夏の夕方になると戸外へ出てきて、縁台に腰をかけて団扇を使ったり、戸外の通行人をぼんやりと眺めたりしてひとときを過ごす風習があった。
わが家の三軒となりの馬具製造をしていた松浦さんというお宅にも、中国の大連というところから引揚げてきたのだという、兵隊帽をかぶった二十歳ぐらいの肌ぐろい青年が一人で寄宿していたが、なんどか顔を合わしているうちになじみになって、向こうから声をかけてくるようになった。
自宅の前の小学校の校庭に土俵があって、ある夕方、塀を乗り越えて私が校庭でセミの幼虫の穴を探していると、土俵の縁に腰をかけてハーモニカを吹いていた男が声をかけてきたのである。
ポケットにハーモニカをつっこむところを私が興味ふかそうに見たので、すこしだけ鳴らして聞かせてくれた。そのとき私ははじめてハーモニカというものを知ったのである。
「きみとこのお姉さんはお名前はなんというのですか」
とひどく丁寧な標準語で質問した。東京からこのひとは来たのだろうか、と私は思ったが、それは最近クラスに東京から転校してきて私の隣の席になった男の子と、言い方がそっくりだと思ったからであった。学校に露営していた兵隊といい、大人の男たちはどうして姉のことを聞きたがるのだろうか。
姉の名前を教えた日から、この青年は私にいろんな話をしてくれるようになり、大連というところに住んでいたことや、満州から父親が引揚げてきたら、父親のところに帰る予定で、それまで徳島にいる予定だと話してくれた。この青年と知りあってまもなく、わが家は大阪へと転居することになったのであったが、玄関に立ったのはその青年だった。
「お嬢さんを嫁にください」
青年は求婚にきたのだった。姉はわが家の貴重な稼ぎ手だったが、両親は
「なにも知らない気まま娘ですが」
と、承諾したのであった。
「どうして?姉さんがいなくなるとみんなが暮せなくなるかもしれないのに」
姉が両親の困窮を見かねて女学校を中退して、貯金支局ではたらくようになって以来、転居するごとに自分で仕事を見つけては、懸命に働きつづけ、給料も残らず両親に渡しているのを知っていた。
青年は近いうちにまた来ますと喜びいさんで帰っていったが、私には不安がつのった。
青年は帰るさ私に
「なにか欲しいものがあれば、今度来るときに買ってきてあげる」
「それなら、ハーモニカ」
「そうだね、前から欲しがっていたね」
私はうれしさでとびあがった。姉が九州へ嫁に行くという淋しさや不安はふきとんで、手に入るときまったハーモニカのメロディで胸がいっぱいになったのであった。
しばらくしてまたやってきた青年は、姉を連れ出して似合いそうな何着かの服を買って帰り、姉は喜悦満面になっていた。
夕方、青年が買い忘れたものがあるというので私は近所まで案内したが、その時に
「あのノハーモニカは?」
青年は額にしわを寄せて、右手を内ポケットに差し入れ
「どこに売ってるんだ」
と吐き捨てるようにいった。
私は黙り込んで二度とハーモニカという言葉は口にしなかった。
こういうひとだったんだと思った。
徳島から、祖母ヨウがやってきた。父も母も九州の嫁入先へ姉と一緒に行く経済的なゆとりなどはなく、両親ときょうだいは大阪駅まで見送り、姉はたったひとりで福岡へ旅立つことになった。
姉が旅立つ日、私が家の外でぼんやりしていると、社宅の隣の兄ちゃんが空気銃をもってやってきた。雀を撃つんだからおいでというので、好奇心から川向こうまでついて歩いた。
はっと気づいて家にかけもどると、両親も姉もおらず、祖母がひとり私を待っていた。
「久子が泣いていたぞ。お前に別れもいえず、いったいどこへ行ってたんだい。みんな大阪駅まで送っていったのに」
私が見当たらないので、祖母は大阪駅まで行かないで、今里駅から帰宅して待っていてくれたのだった。
私にはなにも答えられなかった。家のなかはがらんとしていた。姉の気配がするものはひとつもなく、みな片づけてあった。
押し入れをあけてみると、さっきまで姉がきていたカーディガンがたたまれて布団の上にのっていた。唯一の姉のものがそれだった。私はそれを頭からかぶって、姉の匂いを吸い込みながら布団に額をくっつけて泣いた。
雑誌 MARI 2004年第4号 掲載