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首無き証言 桐野冬二と白戸沙智の事件簿

作者: 楠田圭吉
掲載日:2026/11/03


首無き証言


第一章 久尾村


あの関東大震災から一年あまり過ぎた大正十三年がすでに十一月の終わりになっても、東京の空はまだどこかくすので見えた。私、梶原健作は新聞記者として震災後は復興関連の記事を担当しあちこち取材で走りまわる毎日だった。そのような状況下焼け跡に新しく立ち上がる材木の匂いが、風向きによっては神田の下宿にまで流れてくる。その匂いを嗅ぐたびに、まだ何一つ片付いていないのだという気持ちにさせられた。

大学からの親友である桐野冬二は、警視庁の警部だ。但し、世に言う普通の刑事とはいささか勝手が違う。桐野が籍を置くのは、警視庁内でも近年になって設けられたばかりの特殊犯罪捜査課――内輪では『特犯』と略して呼ばれる小さな一課だった。

発端は、震災の直後に相次いだ流言飛語だったという。井戸に毒を投げ込む者がいるだの、地の底から異形のものが這い出しただのという噂が、混乱に乗じて東京中を駆け巡った。その多くはただの流言で片付いたが、中にはその流言を隠れ蓑にして、あるいは流言そのものを利用し、現実の凶事を仕組んだ者たちがいた。世間を騒がせる不可解な事件とりわけ人の理では説明のつかぬ怪異絡みの一件を、通常の捜査手順とは別の目で洗い直す必要がある―― そうした声が本庁の上層で持ち上がり、急ごしらえで作られたのが特犯だった。

特犯の面子は桐野と、嘱託の助手である白戸沙智の、ただ二人きりだという。当時は婦人警官という制度がないため沙智は嘱託扱いの助手であった。

表向きの体裁こそ立派だが、実態は所轄からも本庁の他の課からも、いささか異端視される小所帯であるらしい。『幽霊の相手をする課』と陰口を叩かれることも、私は一度や二度ではなく耳にしたことがある。だが、桐野がこれまで解決してきた事件の数々――望月楼の一件も、稲荷田村の一件も――を思えばその陰口を真に受ける者は、少なくとも私の周りにはもういなかった。

我ら大学時代からの同朋、有馬俊之介から手紙が届いたのは、そんな十一月の半ばのことだった。宛先は私であって桐野ではない。


「梶原君、面白い話がある。久尾村という村を知っているか。信州の山間、汽車を降りてからさらに三十分ほど歩く。地図にも小さくしか載らぬような村だが、ここに飛頭蛮(所謂ろくろ首の中国名)の言い伝えがあるそうだ。しかも村の旧称は"首村"だというからこれはただごとではない。ついては桐野君も誘って、共に行ってみようではないか」


有馬らしい、思いつきだけで書かれたような文面だった。彼は資産家の次男坊で、家督は兄が継いでいるから、本人は働きもせずもっぱら怪異譚の蒐集に日々を費やしている。

震災でこの国のかたちが揺らいだというのに当の本人は「こういう時こそ、埋もれた話を掘り起こす好機だ」などと、まるで他人事のように嘯いていた。


有馬の手紙を、いつもの癖で、その端を折って机にしまった。


数日後、私は手紙を懐に、桐野の下宿を訪ねた。ちょうど非番だとかで、桐野は床に寝転んだまま、紙巻き煙草をくゆらせていた。三十一という歳の割に、どこか老成した目つきをした男である。着流しの襟元をだらしなく開け、天井に向かって細く白い煙を吐き出す様は、およそ警視庁の警部という肩書からは程遠い。だが、ひとたび事件を前にするとその目の奥に別人のような鋭さが宿ることを私はこれまで幾度となく見てきた。

「暇そうだな」

「非番だと言っただろう。特犯に事件がなければ、私は一介の遊び人だ」

桐野は私宛にきた有馬からの手紙を一読するなり口の端を歪めた。

「首村か」

「行くのか」

「非番の身に、行く行かないの義理も義務もありゃしないさ。ただ、有馬の話は面白そうだ。それに……」桐野は煙草を灰皿に押しつけて揉み消し、身を起こした。白い煙がゆっくりと部屋の隅に流れていく。

「お前がわざわざ持ってきたということは、断れという顔でもなさそうだ」

そう言う桐野の目の奥に、私はいつもとは少し違う色を見た気がした。桐野冬二という男は、オカルトや異能絡みの事件をどこか好んで引き受ける癖がある。その物好きの底に何があるのか―― 怪異を追うことで、彼自身が何かを探しているのではないかということに、私が薄々気づき始めたのは、もっとずっと後になってからのことだった。

部屋の隅の椅子には、紺のローウエストのワンピースとボブヘアのモダンガールの洋装の白戸沙智が静かに腰掛けていた。膝の上にクロシェ帽を置いて手を揃え、背筋を伸ばした姿は、この万年床の散らかった部屋には、いささか不釣り合いなほど折り目正しく見えた。

「沙智さんは、今日はどうしてこちらに」

私が尋ねると、沙智はわずかに目を伏せた。

「月に一度、決まりで報告書を上げねばなりませんの。特犯に籍を置く者―― ことに、わたくしのような者の様子は、逐一書き留めておくようにと」

沙智の言う「わたくしのような者」というのが何を指すのか、私はその時、深くは尋ねなかった。ただ、彼女がただの居候でも遊びに来ているだけでもなく、何かしらの義務を負ってこの部屋に通っているのだということだけは察せられた。桐野に対する物腰が、いつもどこかへりくだって見えるのも、あるいはその立場故なのか。

沙智は手紙には目もくれず、窓の外を見ていたが、有馬の名が出たあたりから、いつの間にか耳だけはこちらに傾けていたらしい。

「沙智さんも行くのですか」

「行きますわ、梶原さん。冬二さんが行かれるのでしたら、わたくしもお供いたします。冬二さんだけを一人で危ない目に遭わせるわけにはいかないし」

そう言って笑う沙智の表情は、いつも通り涼やかだった。だがその涼やかさの奥に、単なる助手としての忠義だけでは説明のつかない、もっと個人的な何かが潜んでいるのではないかと、私はふと思うことがあった。この時の私は、まさかこの久尾村行きが、彼女の何かを揺さぶることになるとは、思いもしなかった。

久尾村へは、上野駅から信越本線で篠ノ井まで行き篠ノ井線に乗り換える。そこから電車でさらに松本駅まで行き、さらに私鉄・信濃鉄道に乗った。八年前の大正五年に全線開通したばかりの路線だ。松本から最寄りの信濃大町駅まで蒸気機関車で二時間ほどの距離だ。さらに駅から三十分ほど歩いて久尾村に入れる。

早朝、上野を発って、汽車を乗り継ぎ乗り継ぎし最寄りの信濃大町駅に降りたった頃には陽は傾きかけていた。汽車に乗っている間は皆、それぞれ思い思いのことをして過ごした。私は長時間座っていたせいかいささか腰にきた。有馬は汽車の中が退屈なのか、朝が早かったせいか眠そうで最後は思いっきりのびをしていた。桐野は読書、沙智は、車窓からは北アルプスの山並みと広大な風景を眺めながら風を感じているようだ。

木の色を残した駅舎は妙に親しげなのに、その背後の山々は、土地に入ってきた者を黙って値踏みしているようだった。駅舎をでたところで、きょうから世話になる『弥平』という宿の主人の使いだという若者が出迎えに来ていた。宿の名前の入った法被を着て、日に焼けた顔に人懐こい笑みを浮かべている。歳の頃は二十歳そこそこか、小柄でまだあどけなさの残る顔立ちだが、山道を歩き慣れているのだろう、荷を担ぐ足取りには危なげがなかった。

「三吉と申します。弥平の遠縁の甥にあたりまして、宿の下働きをしております。遠いところをようこそお出でくださりました。村はもうすぐです」

三吉は愛想よくそう名乗ると、手早く私たちの荷物を担ぎ上げ先に立って歩き出した。

人と話すのが好きなのか、道々、他愛のない世間話を振ってくる。汽車は混んでいたかとか、東京の様子はどうか―― そうした問いの合間に、時折村のことを尋ねられると、少しだけ言葉を選ぶような間が生まれることに私は気づいていた。生まれてこの方、久尾村から出たことがないのだと本人は笑っていたが、その若さに似合わず、村の外の者にどこまで話してよいものか、心得ているような節があった。

三吉の案内で山道に入った。駅で降りてさらに山道を三十分ほど歩く必要があった。有馬は道すがら上機嫌で、蒐集してきた久尾村の伝承についてしゃべり続けた。

「なんでも、死期の近い者の首が、夜な夜な生家へ飛び戻るというのだ。首だけがふわりと宙を漂って、な。実に絵になる話じゃないか。震災の後だからこそ、こういう話には値打ちがあると思わんかね」

「値打ち、とは」

「みなが死や不安に向き合わされているこの時世だ。人が死をどう物語るか、そこに興味があるのだよ」

有馬は嬉々として語ったが、私にはどうにも、彼が村の人々の暮らしよりも、自分の書き物の種としてしかこの旅を見ていないように思えてならなかった。今にして思えば、その軽薄さこそが、後の悲劇の種を蒔いていたのかもしれない。

山道が尽きるあたりで、雪をかぶった村落が眼下に見えた。有馬はそれを眺めながら、ふと思い出したように言った。

「ときに三吉君、この村の名だが、古くは違う字を書いたと小耳に挟んだが」

三吉の足が、一瞬だけ止まった。

「……誰に、そんなことを」

その声には、明らかな警戒の色があった。

「なに、少し調べればすぐわかることだ。今も"首"の字を使っていたのを、いつの頃からか"久尾"に改めたのだろう」

三吉はそれ以上答えず、足早に先を歩き出した。私はその背中に、何か触れてはならぬものに触れてしまったような、そんな薄ら寒さを覚えた。

陽が丁度おちた頃に、我々はようやく村に入ることができた。宿屋・弥平方の主人が愛想よく出迎えてくれた。だがその笑顔の裏にどこかよそ者への警戒が滲んでいるのを、私は敏感に感じ取った。大震災を経てなお変わらぬ都会の喧騒から来た私たちを、この雪深い村は、静かに、しかし確かに、値踏みしているようだった。

その夜、宿の広間には村の古老だという宇内翁が招かれることになっていた。有馬が是非にと頼み込んだのだという。私たちがまだ知らぬこの村の本当の顔が、その夜初めて語られようとしていた。


第二章 飛頭蛮の言い伝え


宿は弥平という男が営む、間口の狭い、しかし奥行きだけはやたらと深い造りの家だった。囲炉裏を切った広間に通されると、弥平は愛想よく茶を出してくれたが、私たちがどこから来た何者かを尋ねる段になるとその口ぶりにはどこかよそよそしさが混じった。

「東京から、久尾村の言い伝えを調べにおいでとは、また物好きな」

弥平はそう言って笑ったが、目は笑っていなかった。よそ者への警戒というより、もっと別の触れられたくないものを守ろうとするような硬さが、その笑みの下にあった。

夕餉を済ませた頃、弥平が「宇内の翁が参りました」と告げに来た。有馬が是非にと頼み込んで呼んでもらった、村の言い伝えに通じた古老だという。

広間の障子を開けて入ってきたのは、痩せて小さなしかし背筋だけはしゃんと伸びた老人だった。着古した着物の上に、古びた羽織を重ねている。囲炉裏の火影が、深く刻まれた顔の皺を揺らめかせた。

「宇内でございます」

翁は軽く頭を下げると、勧められるまま囲炉裏端に腰を下ろした。有馬が待ちかねたように身を乗り出す。

「翁、早速で恐縮だが、この村に伝わる言い伝えをぜひ聞かせていただきたい」

翁は乾いた咳を一つしてから、ゆっくりと語り始めた。

「この村には、昔から言い伝えがある。人には見えぬところで、魂と身体が、実は薄い糸一本でつながっているだけの者がおる。それが飛頭蛮じゃ」

「飛頭蛮」有馬が繰り返す。「轆轤首の一種ということですか」

「呼び方は色々あろうが」翁は火箸で灰をならしながら続けた。「特に、死期の近づいた者は、夜な夜な首だけが胴を離れて、生まれた家へと飛び戻ろうとする。まるで、魂が身体より先に、帰る場所を探しに行くように」

有馬が身を乗り出す。

「首だけですか? それはまた」

「笑い事ではないぞ、旦那様がた」翁は目を細めた。「首が胴を離れておる間、身体の方は死んだように深く眠り込む。生きているのか死んでいるのか、傍からは分からんほどにな。じゃが、これを揺り起こしたり無理に動かしたりしてはならん。首が戻る糸を、断ち切ってしまうことになるからじゃ」

「断ち切ると、どうなるのです」私は思わず尋ねた。

「一度切れた糸は、二度と繋がらん。魂は帰る場所を失い、身体はそのまま息絶える」

翁の声は淡々としていたが、その言葉には単なる昔語りとは思えない重みがあった。私は、火の爆ぜる音に思わず身をすくめた。

「では」有馬がなおも問う。「もし誰かがそういう者を見つけたとしても」

「触れずに、ただ見守るしかない。それがこの村の習わしじゃ」

桐野がそれまで黙って盃を傾けていたが、ここで初めて口を挟んだ。

「翁、一つ伺いたい。その言い伝えは、村の誰にでも当てはまるものですか? それとも特定の家筋に伝わるものですか」

翁の目が、わずかに鋭さを増したように見えた。

「よく聞かれます。…… 昔からこの村で、そういう血筋と言われる家がいくつかある。詳しくは申せませぬがな」

桐野はそれ以上追及せず、ただ小さく頷いた。

「もう一つ、伺いたいことがあります」有馬が続いた。「首が実際に姿を現すのに、何か条件のようなものはあるのですか」

翁はしばらく有馬の顔を見つめていたが、やがて、これまでよりも低い声で言った。

「よくぞ、そこまでお尋ねになる。旦那様は、ただの物好きではなさそうじゃ」

翁は火箸を置き、居住まいを正した。

「飛頭蛮の首というものは、生きた者の吐く新しい息を嫌う。外の風が通う場所では、形を保てず煙のように霧散してしまうのじゃ。じゃが、戸も窓も固く閉ざされ、外気の一切通わぬ、澱みきった部屋の中でだけは…… 首は実体を結び、意のままに動けるようになるという」

「密閉された部屋の中でだけ姿を現すということか……」桐野が静かに繰り返した。

「左様。それゆえ、この村の古い家には、昔から一つの戒めがある。病人や年寄りを一間に休ませる時は、たとえ真冬であろうと、戸か窓のどちらか一つは、必ず薄く開けておくものじゃ。澱んだ息を、外へ逃してやるためにな」

有馬はなおも興味津々の様子で、村の旧称についても翁に尋ねた。

「翁、この村は、昔は"首村"と呼ばれていたと聞いたが。その二つの戒め―― 揺り起こしてはならぬということと、密閉してはならぬということと、何か関わりがあるのではないですか」

広間の空気が、一瞬にして張り詰めた。弥平が奥から茶を運んできたところだったが、その手が止まったのを私は見た。

翁はしばらく黙っていたが、やがて諦めたように静かに語り始めた。

「もう三代ほど前のことになりますかな。まだ蔵原の家が分家も本家も一つであった頃、当時の当主が、跡目を巡る争いの末に、実の弟を家から追い出したことがございました。財も、名も、何もかもを奪われた弟は、失意のうちに病を得て、ほどなく世を去ったそうです。死に際に、こう言い残したとか。『この家の血を、生涯呪ってやる』と」

一同が、固唾を呑んで聞き入っていた。

「その年の冬、当の当主は、まるで己の正しさを誇示するかのように、屋敷の奥のあの離れに、独りで泊まったそうです。『弟の呪いなど恐るるに足らず』と嘯いて、わざわざ戸も窓も、隙間なく閉め切ってから、床に就いたと伝わっております」

「密閉すれば、首を招くという戒めを、知らなかったのですか」私は思わず尋ねた。

「知らなんだのか、それとも、知った上で、恐れを見せまいとしたのか…… 今となっては、誰にも分かりませぬ。ただ、翌朝、当主は離れの中で息絶えておりました。争った跡はなく、ただ首に、何かが幾重にも巻きついたような、赤黒い痕だけが残っていたそうです。戸は固く閉ざされたまま、下手人の出入りした形跡はどこにもございませんでした」

私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「村の者たちは、弟の首が飛来し、恨みを晴らしたのだと語り合いました。密閉された部屋の中でだけ事が起きたという一事こそが、何よりの証だとされまして。この一件以来村は"首村"と呼ばれるようになったのでございます」

「それを、後に"久尾"と」桐野が言うと、翁は頷いた。

「あまりに不吉な名だと、蔵原の家が主となって改めさせまして。ですが、離れの因縁と、密閉を忌むあの戒めだけは、家の内々で今も密かに語り継がれておるはずです」

翁はそう言うと、それ以上は語ろうとせず盃に手を伸ばした。有馬は興奮を隠しきれない様子だったが、その場の重苦しい空気にそれ以上は問いを重ねなかった。

やがて翁は、それまで隅で黙って耳を傾けていた沙智に、ふと目を留めた。しばらくの間値踏みするようにその顔を見つめた後、皺の刻まれた口元だけでかすかに笑った。

「……お嬢さん」

沙智が視線を上げる。

「あんたも…… あちら側の生まれだね」

一座に短い沈黙が落ちた。沙智は表情を変えなかったが、膝の上に置いた指先がわずかに震えるのを私は見て取った。

「翁、あちら側とは」桐野が問うた。

翁は答えず、ただ「なに、年寄りの戯言じゃ」と笑って話を打ち切ってしまった。桐野はそれ以上追及しなかったが、その視線は、しばらく沙智の横顔から離れなかった。

私は隣に座る沙智の様子を、それとなく窺った。彼女はいつも通り静かに座っていたがその静けさは、いつもの涼やかなものとはどこか質の違うものに見えた。

「沙智さん、大丈夫ですか」

小声で尋ねると、沙智はわずかに微笑んで見せた。

「ええ、大丈夫です、梶原さん。少し…… 懐かしい言葉を聞いた気がしただけで」

懐かしい、という言葉が、私の中にいつまでも引っかかった。沙智の出自について、私はこれまで深く聞いたことがなかった。

どのような経緯で沙智が桐野の部下として『特犯』の桐野の助手になったか、詳しくは聞いていなかった。この村で、彼女は一体何を思い出したというのだろうか。

その夜遅く、翁が辞去した後も、有馬はなお興奮冷めやらぬ様子で、明日にも村の旧家を訪ねて話を聞きたいと言い出した。

「蔵原本家というのが、この村で一番の旧家だそうだ。何でも、代々この地に伝わる古文書やら地籍やらを蔵していると言われる離れの間があるというから、明日にでも早速当主に取り次ぎを頼んでみるつもりだ」

その名を聞いた時、弥平が一瞬だけ、ひどく複雑な表情を浮かべたのを、私は見逃さなかった。だがそれが何を意味するのかこの時の私にはまだ分からなかった。

床に就く前、私は縁側から外を眺めた。雪をかぶった山々が、月明かりの下で青白く浮かび上がっていた。


第三章 蔵原本家


翌朝、私たちは有馬に急かされるようにして、蔵原本家へ向かった。宿から歩いて十五分ほど、村でひときわ大きな長屋門を構えた屋敷が、雪の中に黒々とした瓦屋根を覗かせていた。

「これは、大したものだな」

有馬が感嘆の声を漏らす。門をくぐると、広い前庭の奥にこれも立派な母屋が構えていた。取り次ぎを頼むと、すぐに当主自らが出てきて私たちを出迎えた。

「よくおいでくださいました。蔵原宗一郎でございます」

恰幅の良い、年の頃五十がらみの男だった。物腰は丁寧で笑みを絶やさない。

「有馬様のお手紙は、先だって頂戴しておりました。久尾村の言い伝えにご興味がおありとのこと、当家に伝わる古い記録なども、よろしければご覧いただいて構いません」

有馬は目を輝かせた。「ありがたい。ぜひ拝見したい」

宗一郎は私たちを客間に通し、茶を勧めた後、蔵にしまわれている古文書や地籍の写しの類を蔵原家の使用人に運ばせると言った。

「なにぶん古いものばかりで、字も読みにくうございますが」

「構わない。むしろそれがいい」

有馬の食いつきように、宗一郎は柔らかく笑んでみせた。

運ばれてきた文書は、変色した和紙の束や古い検地帳の写しなどだった。有馬は早速それらを繰り始め、桐野も興味深そうに脇からいくつかを手に取った。沙智は部屋の隅に控え、私は手持ち無沙汰に茶をすすっていた。

その時廊下を通りかかった一人の女中が、茶菓子を運んできた。年の頃十九、二十というところか。素朴だが、どこか品のある顔立ちの娘だった。

「これはこれは」

有馬がすぐさま声をかけた。「ほう、この村にも垢抜けた娘がいるものだ。名は」

「お房と申します」

娘は伏し目がちに答え、茶菓子を置いてそそくさと下がろうとした。だが有馬はそれを引き留めるようになおも軽口を叩いた。

「お房さんか。良い名だ。この村の生まれかね。今度、ゆっくり話でも聞かせてもらいたいものだ」

「……はい」

お房は困ったように微笑み、逃げるように部屋を出ていった。

そのすれ違いざまに、初老の男が通りかかった。着物の裾を短く端折りいかにも下働きといった風体だが、体格は屋敷の誰よりも大柄だった。ぶつかりそうになったお房を受けとめると脇に導いて何かを言い含め、そのまま廊下の奥に消えていった。

「あの人は」私が尋ねると宗一郎が答えた。

「為蔵と申しまして、当家に長く仕えてくれている者です。もう三十年近くになりましょうか」

「先ほどのお房さんを何か気遣っていたようにみえましたが」

「ええ、お房は為蔵の遠縁で、二人は親子ほど年が離れているのか、為蔵が何かと目をかけているのです。あれの忠義には、当家もいつも助けられております」

有馬は文書に没頭していた。しばらくして古い検地帳の間に挟まれていた、一枚の覚書のような紙片に目を留めた。

「……ほう、これは」

「何か、面白いものでも」桐野が覗き込む。

有馬は、しばらく黙って文字を追っていたが、やがて興奮を隠しきれない様子で顔を上げた。

「蔵原分家というのが、昔この村にあったらしい。それが本家との間で何やら揉め事を起こし『取り潰しにあった』とある。時期からすると、この村がまだ"首村"と呼ばれていた頃の話だ」

「取り潰し、とは穏やかではないな」桐野が言う。

私はその紙片に何が記されているのか、既に知っていた。

「しかも」有馬は紙片をさらに繰りながら続けた。「この揉め事に、東京の商家が金を出して一枚噛んでいたようだ。名は……」

有馬がそこで言葉を切った。

「どうした」

「いや……」有馬は紙片をぱたりと閉じると妙に軽い調子で笑った。

「なんでもない。しかし、これは面白い書き物になりそうだ。震災の後の今だからこそこういう埋もれた因縁話には、値打ちがあるというものだよ」

宗一郎はその様子を、黙って見ていた。私にはその表情から、何も読み取ることができなかった。

しばらくして、私は喉の渇きを覚えたふりをして席を立ち廊下に出た。井戸端で水を汲んでいた為蔵の姿を見かけ、私は何気なく声をかけた。

「先ほどは失礼しました。梶原と申します。新聞社の者でして、こちらの離れのことを少し伺えればと」

為蔵は水桶を置き、じっと私の顔を見た。その目には、値踏みするようなあるいは何かを確かめるような、静かな光があった。

「離れのことを、お知りになって、何になさるおつもりで」

「なあに記事の種になればという、それだけのことです。あの離れの鍵は今もお一人が管理を」

「二本ございます。一本は旦那様がもう一本は蔵に。合鍵の類は代々作らぬ決まりで」

為蔵はそれだけ答えると、また水桶を担ぎ上げた。私はさらに、戸の造り、窓の位置、火鉢の置き場所などを、一つ一つ尋ねていった。為蔵は最初こそ用心深い様子だったが、やがて問われるままに淡々と答えるようになった。

「あなたもこの村に何か縁でも」

不意に為蔵がそう尋ねてきた。私は一瞬言葉に詰まった。

「いえ、初めて訪れた土地です」

為蔵はそれ以上何も言わず、ただ私の顔をもう一度じっと見つめた。その眼差しの奥に何があったのか、この時の私には正確には分からなかった。ただ、値踏みされているというよりも、何かを見定められているようなそんな心地がした。

その日の午後、暇乞いをしようとする私たちを、有馬が思いがけないことを言い出して引き止めた。

「宗一郎殿、折り入って頼みがある。屋敷の奥に、飛頭蛮の言い伝えに纏わる離れがあると聞いた。曰くつきの場所と聞けば、なおのことそこで一夜を過ごしてみたい。今宵、一晩あの離れに泊めてはもらえまいか」

宗一郎は初め、困ったように渋る様子を見せた。

「あそこは、古文書や古い地籍を置いてある他は、何もないただの部屋でございますよ。それに長らく人を泊めたこともございませんし」

「構わない。むしろそれがいい」有馬はなおも身を乗り出した。「昨夜、宇内翁から興味深い話を伺った。首というものは、密閉された外気の一切通わぬ部屋の中でだけ実体を結んで現れるという。ならば、私も試してみたい。戸も窓も隙間なく閉め切って、一晩過ごしてみようと思う」

その言葉に、宗一郎の顔から、一瞬だけ表情が消えたように見えた。

「有馬様、それは…… あまり感心いたしませんが」

「なに、儂は物書きだ。この目で確かめずして何を書けというのだ」

有馬があまりに熱心に頼み込むので、宗一郎はしまいには折れた。

「そこまで仰るなら…… お房に夜具の支度をさせましょう」

私たちは驚いたが、有馬の物好きはいつものことでもあった。桐野は特に反対もせず、ただ「風邪を引くなよ」とだけ返した。有馬だけが、その夜、蔵原本家に残ることになった。


四章 密室の離れ


有馬を蔵原本家に残し、私と桐野、沙智の三人は、宿へと引き上げた。道すがら、蔵原邸の母屋から、離れの方角へ向かう為蔵の後ろ姿を、私は遠目に見かけた。布団と炭を運んでいるのだろう、大きな荷を背に負っていた。あの男が、あの離れの手入れを長年任されてきたのだと、宗一郎の言葉を思い出しながら、私はぼんやりとその背中を見送った。

離れそのものを、私はこの時まだ間近で見たことがなかった。有馬が興奮気味に語ったところによれば、母屋から渡り廊下を通らずいったん庭に出て、雪を踏んで向かう独立した建物だという。屋根は茅葺きだが、戸だけは妙に洋風で、しっかりとした倉庫錠がついている。かつて蔵原の分家の誰かが、都から鍵前師を呼び寄せて誂えさせたものだとも、有馬は仕入れてきていた。真偽のほどは分からない。

その離れの戸は、倉庫錠がしっかりと下ろされていた。

鍵は、合鍵を含めて二本しかなく、いずれも有馬が部屋の中へ持ち込んでいた。窓も固く閉ざされ、内側からカーテンが引かれ、中の様子は外からは何一つ窺えなかった。有馬は、あの日蔵原本家で宣言した通り、戸も窓も、自らの手で隙間なく閉め切っていたのだった。

宿での夕餉は、有馬のいない分、いつもよりいくらか静かだった。

「独りで、あの離れに泊まって、大丈夫でしょうか」

私が言うと、桐野は箸を止めずに答えた。

「あれだけ熱心に、戸も窓も閉め切ると宣言していたのだ。今更、誰が止めても聞きはしないだろう。護身用に、拳銃くらいは持って泊まったそうだから。大丈夫と思うがなあ」

その言葉に私は妙な胸騒ぎを覚えたが、それ以上どうすることもできなかった。

夜半に私は一度厠に立った折、障子の外の風の音がにわかに強まっているのに気がついた。雪が本降りになったらしい。布団に戻ってからも、しばらくその音に耳を澄ませていたが、いつしか眠りに落ちていた。

後になって聞いたところでは、雪はその夜のうちに深々と降り積もり、深夜一時頃にはやんだという。離れの周りは、朝までにすっかり厚い雪に覆われていた。冷え込みは尋常でなく、村の年寄りたちも、この冬一番の底冷えだったと口を揃えたほどだった。

翌朝、朝餉の途中で、私は階下がにわかに騒がしくなっているのに気づいた。降りていくと、弥平とお房が、ひどく慌てた様子で立っていた。

「何かあったのですか」

私が尋ねると、お房が震える声で答えた。

「皆様のお連れの有馬様が…… 昨夜、本家の離れにお泊まりになったのですが、朝餉をお持ちして扉からいくら呼びかけてもお返事がなくて……」心配になったお房が、私たちに知らせに来てくれたのだった。

離れは鍵がかかったままで、中から物音一つしないのだという。

「窓も締め切られたままで、カーテンも引かれていて中の様子が全く分からないのです」

お房の声には、隠しきれない不安が滲んでいた。桐野は、すぐに箸を置いて立ち上がった。

「案内してもらえますか」

昨晩降り積もり白くなった蔵原本家までの道を、インバネスコートを着た桐野を先頭に足早に突き進んだ。私と沙智も、すぐにその後に続いた。

本家に着くと、宗一郎が門の前で我々を出迎え、中に案内してくれた。

母屋から離れへと続く庭は、一面の雪に覆われていた。朝の光が反射して、目を刺すほどに白い。その真新しい雪の上に、離れへ向かう幾分深い足跡が一筋くっきりと残っている。大きさからして、有馬のものと思しき足跡だった。戻ってくる方向の足跡は、どこにも見当たらなかった。

「これは……」

私が呟くと、桐野は無言のまま、足跡から少し離れた場所を選んで歩を進めた。私たちも、その跡を踏まぬよう気をつけながら後に続いた。

近づくにつれ、離れの姿がはっきりと見えてきた。茅葺きの屋根に雪が厚く積もり、軒先には氷柱が幾つも下がっている。周囲を巡らせた低い生垣もまた白く覆われていた。まるでこの建物だけが、時の止まった箱のように雪の中にひっそりと佇んでいた。

離れの戸口に立って、桐野が拳で戸を叩いた。

「有馬さん、起きていますか?」

返事はない。桐野はもう一度今度はより強く戸を叩いたが、やはり中からは何の反応もなかった。私は息を詰めて、その静寂に耳を澄ませた。雪に閉ざされた朝の静けさの中で戸を叩く音だけが、やけに大きく響いた。

「お房さん、為蔵さんを呼んできてもらえますか」桐野が言った。

お房は頷き、雪を蹴立てるようにして母屋へ取って返した。しばらくして、為蔵を伴って戻ってくる。為蔵は戸の前に立つと、しばらくその頑丈な造りを検めていたが、やがて低く言った。

「これは…… 壊すより他にないでしょう」

為蔵は肩を戸にぶつけ、二度三度と体当たりを繰り返した。やがてパキリ、と何かが砕けるような音がして、戸は軋みながら内側へと開いた。戸の桟には、真新しい氷の欠片が幾つも散らばっていた。そばに倉庫錠の留め金が外れ壊れた状態で落ちていた。

部屋の中は薄暗く雪明かりを遮るカーテンのせいで、一層陰気な影が満ちていた。私たちは戸口から中を覗き込んだ。

褥の上に、有馬俊之介が仰向けに倒れていた。争った跡は見当たらず、傷らしい傷もない。ただ、その首には何かが幾重にも巻きついたような、赤黒い痕がくっきりと残っていた。傍らの畳には、二本の鍵が並べて置かれていた。火鉢の炭は、既に白い灰と化していた。

お房が悲鳴を上げて、その場にへたり込んだ。

私は言葉を失ったまま、その光景を見つめ続けた。昨夜、あれほど熱心に離れへ泊まると言い張っていた有馬の顔が脳裏に蘇る。あの軽薄で、それでいてどこか憎めない男が二度と口を開くことはないのだ。

私の脳裏に、宇内翁の語った言い伝えが蘇った。首は、密閉された部屋の中でだけ実体を結び意のままに動けるようになるという。まさに有馬は、その理を自らの手で満たしてしまっていた。

雪に閉ざされ、錠の下りたこの部屋の中で有馬俊之介は独り死んでいた。その首には、まるで本当に何かが巻きついたかのような痕を残して。

ふと、桐野が部屋の中を見回し、誰にともなく呟いた。

「そういえば拳銃は…… 見当たらないな」


第五章 密室の疑問


村の駐在である志方巡査が、現場の離れに駆けつけたのはそれからほどなくのことだった。まだ年若い実直そうな男で、離れの中を一目見るなり顔面を蒼白にしてしばらくは言葉も出ない様子だった。無理もない。震災以来、この村で変死一つ扱ったことのない駐在所に、いきなり絞殺された死体が持ち込まれたのだ。

「これは私の手にはとても負えそうにはないなあ……」

志方は震える声でそう漏らすと、すぐさま県警察本部への急報を手配した。村の唯一の電話は郵便局にあり、そこまで自ら走って伝えに行った。その日のうちに、県警から応援の警官が向かうとの報せが届いた。

志方は現場に戻ると、震える手で手帳を広げた。慣れぬ手つきで見取り図らしきものを描き始めた。桐野がその傍らに立ち、静かに声をかけた。

「志方君、無理はしなくても。県から人が来るまでは、現状を保つことだけ考えれば十分だよ」

「し、しかし……」志方は額の汗を拭った。

「それでいいのだよ」桐野は穏やかな口調で言った。

「あなたが見たまま聞いたままを、忘れぬうちに書き留めておいてくれればいいから。それが何より大事な仕事だ」

その言葉に、志方はいくらか落ち着きを取り戻したようだった。志方は素直に頷くと遺体の位置や戸の壊れた様子、鍵の置かれていた場所を、一つ一つ丁寧に図に描き加えていった。

私たちは一旦宿に戻ったが、誰もろくに口を利かなかった。お房は奥の間で休まされ、弥平がその世話に付きっきりになっていた。沙智だけが、いつも通りの静かな手つきで茶を淹れていたが、その所作にもどこか張り詰めたものが感じられた。

「桐野さん」

沙智が声をかけると、桐野はようやく顔を上げた。囲炉裏端に腰を下ろしたまま先ほどからずっと、何かを考え込むように黙りこくっていた。

「あの離れ、どう見ましたか」

「妙な密室だ」桐野は、湯呑みを手に取ったまま口をつけずにまた置いた。

「鍵は二本とも部屋の中にあった。窓は閉め切られ、カーテンまで引かれている。戸を壊さねば、誰も出入りできなかったように見える」

「足跡も、一筋だけでしたね」私が言うと桐野は頷いた。

「有馬さんが、自らの足で歩いて入った。それは間違いないだろう。だが、そこから先が分からない。鍵のかかった部屋の中で、何者かに絞め殺されあの姿になったのか。それとも」

「誰かが後から入ってきて、また出て行ったと考えていらっしゃるの?」

「今はまだ、何とも言えない」

桐野はそう言ったきり、しばらく黙り込んだ。その横顔に、私はいつもとは違う何かを測るような硬さを見た気がした。私が声をかける前に桐野が口を開いた。

「梶原、お前も見ただろう。あの足跡だが」

「深さのことか」

「ああ。そこまで気づいていたか」

桐野は珍しく、感心したような目で私を見た。だが、それ以上の説明はなくまた黙り込んでしまった。私は、もどかしさを覚えながらもそれ以上尋ねることができなかった。

その時、奥の間から、お房のすすり泣く声が聞こえてきた。弥平が困り顔で顔を出す。

「桐野様、お房が…… どうしてもお話したいことがあると申しておりまして」

私たちが奥の間に入ると、お房は布団の上に身を起こし、青ざめた顔で座っていた。目元は泣き腫らして赤い。

「お房さん、無理をしなくてもいい」桐野が静かに声をかけると、お房は首を振った。

「いいえ…… 申し上げておかないと。実はわたし昨夜…… 見たのです」

「何を」

お房は震える声でぽつりぽつりと語り始めた。

「夜中、厠に起きた折に、ふと外を見たのです。雪はまだ、降り続いておりました。そうしたら……離れの方角に、何か白いものがふわりふわりと浮いているのが見えて」

「白いものとは?」

「顔でした」お房の声がいっそう震えを帯びた。

「人の顔が、宙に浮いて離れの方へすうっと飛んでいくのが…… まさかとは思ったのですが、宇内様の仰っていたあの言い伝えの通りに」

部屋の中がしんと静まり返った。私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。飛頭蛮―— あの夜宇内翁が語った死期の近い者の首が、生家へ飛び戻るというあの言い伝え。

「それは、何刻頃のことです」桐野が努めて平静な声で尋ねた。

「正確な時間は言えませんけど、雪がまだかなり強く降っていた頃合いでしたから、真夜中よりは、もう少し前だったかと」

桐野はしばらく黙考していたが、やがて静かに言った。

「お房さん、そのことは、他の誰かに話しましたか」

「いいえ、恐ろしくて誰にも…… 。今皆様に申し上げたのが初めてです」

桐野は頷き、それ以上は追及せずお房を休ませて部屋を出た。廊下に出るなり、私は思わず口を開いた。

「桐野、まさか本当に」

「いや」桐野は短く答えた。

「だが、お房さんが何かを見たこと自体は、噓ではないだろう。問題は、それが何であったかだ」

その一言に、私はいくらか落ち着きを取り戻した。あくまで桐野は、怪異をそのままには信じていない。だが、お房の証言を軽んじてもいない。その慎重さに、私は改めてこの男の底知れなさを感じた。

昼過ぎ、県から派遣されたという警官が、一人の検死官である医者を伴って村に到着した。名を藤堂といい長野県警捜査一課の警部である。以前、望月楼の一件で桐野と関わったことのある人物だという。

藤堂という男については、私も桐野から聞き及んでいた。望月楼の事件の折、当初は桐野の現場検証に難色を示し、特犯という部署そのものを胡散臭く見ていたという。だが、本部長の口利きもあって渋々捜査への同席を認めた。結果として桐野の推理で事件が解決したことで、今ではある程度桐野の腕を認めているらしい。桐野に対して敵愾心のようなものは見せないが、警察としての矜持は人一倍強い人物で、事件解決の手柄を易々と譲るつもりはない―― そういう男だと桐野は評していた。

「桐野君、また会うことになるとはなあ」

藤堂は宿の広間に現れるなり、そう言って苦笑した。がっしりとした体躯に、日焼けした顔。歳の頃は四十半ばというところか。若い時分は柔道でもやっていたのか、歩く際の体の運びに、隙のない重さがあった。だが、その目には、以前ほど桐野に対する警戒は見られなかった。

「今回は、随分と厄介な代物のようだ」桐野が言うと藤堂は頷いた。

「密室に、片道の足跡か。それに、村では首が飛んだなどという噂まで広まっている。厄介極まりない」

「その噂、私も聞いたところです」桐野が言うと、藤堂は片眉を上げた。

「君はどう見ている」

「まだ、何とも」

「相変わらず、口の堅い男だ」藤堂は苦笑した。

「だが、以前の一件で分かった。君が『まだ何とも』と言う時は、大抵、既に何か摑んでいる時だ」

その物言いに、私には二人の間に、単なる職務上の付き合い以上の、ある種の信頼のようなものが芽生えているのを感じられた。

藤堂の後ろには、黒い革鞄を提げた、眼鏡の初老の男が控えていた。県警察本部の専属で、検死を受け持つ宮下医師だという。

藤堂は志方から仔細を聞き取ると、まず遺体を検めると言った。遺体は、村はずれの寺の本堂に白布をかけて安置されていた。私たちも死体が安置されている寺まで同行することになった。

線香の匂いの立ちこめる薄暗い本堂で、宮下医師は、手早くしかし丁寧に有馬の遺体を検めていった。首筋の痕を指でなぞり、瞼を押し上げ、硬くなった手足の関節を一つ一つ曲げ伸ばしてみる。藤堂は腕を組んで、その様子を黙って見下ろしていた。

「いかがです、先生」

「死因は、絞殺ですな」宮下医師は手を止めずに言った。「頸部に、幅のある索条痕が幾重にも残っている。背後から、不意に強い力で絞められたものでしょう。爪に皮膚の切れ端もなく、他に目立った外傷もない。争った形跡はほとんど見受けられません」

「死んだ時刻は」

「硬直の具合と、体温の下がり方からするとそうですなあ…… 昨夜の深夜、零時から二時の間、といったところでしょうなあ」医師は眼鏡を押し上げた。「ただ、志方君の話では、あの離れは火鉢の炭も尽きてひどい冷え込みだったとか。体の冷えは早まりますから、多少の幅は見ておかねばなりません。ですがその見当で間違いはないはずです」

「零時から二時」藤堂は低く繰り返した。

「お房さんは、昨夜、顔だけが宙を飛んでいくのを見たと言っています」桐野が静かに言った。「見たのは、真夜中より少し前。雪がまだ、強く降っていた頃合いだそうです」

「顔だけが?」藤堂は鼻で笑いかけて、思い直したように口を閉じた。「……死亡推定時刻の直前ということか。偶然とは思えんな」

桐野は何も答えず、ただ、白布の下から覗く有馬の安らかとも苦しげとも見えぬ顔を、じっと見つめていた。

検死を終えると、藤堂は、すぐに離れへ向かうと言った。

現場では、既に遺体は運び出され、離れの中を県の警官たちが検分していた。藤堂は戸の壊れた跡や窓の閉め切られ具合、そして畳の上に落ちていたという二本の鍵を一つ一つ確かめていった。その手つきは、丁寧でありながら手早く、場数を踏んだ者特有の無駄のなさがあった。

「この鍵、二本とも、間違いなく有馬という男の持ち物か」

志方が答える。「はい。蔵原様のお話では離れの鍵はもとより二本しかなく、両方とも昨夜、有馬様にお渡ししたとのことです」

「合鍵の類は」

「一切ないし別に作らせたこともないとのことです」

藤堂は難しい顔で腕を組んだ。窓辺に歩み寄り、桟を指先でなぞる。凍りついた木の感触に、思わずといった様子で眉をひそめた。

「閉ざされた離れの中で、被害者は首を絞められ殺されていた。凶器になるようなロープや紐の類も見当たらない。他殺だとすると犯人はどうやって離れを出入りしたのか」

「まさか、本当に飛頭蛮が飛んできてその長い首で有馬さんを絞め殺したとか」

冗談ぽく言った桐野を、藤堂はちらりと見たが何も言わなかった。しばらく部屋の中を見回してから、独り言のように呟いた。

「戸は洋風の倉庫錠だったな。この村には不似合いなほど頑丈な代物だ。誰が誂えたものか調べておく必要がありそうだ」

「蔵原の分家が、都から鍵前師を呼んで拵えさせらしい」私が口を挟むと、藤堂はこちらを一瞥した。

「よくご存知だ、梶原さんとやら」

「有馬から聞いた話です。真偽のほどは分かりませんが」

藤堂は頷き、手帳に何か書きつけた。

検分を終えると、藤堂は志方を伴い村人たちへの聞き込みを始めた。私と桐野、沙智もそれに同行した。

村人たちの反応は、一様に怯えたものだった。ある老婆は「あれは、蔵原の家に祟りがあるのだ。昔から、あそこには良くない因縁がある」と、震える声で繰り返した。若い衆の一人は「儂も見た、白いものが宙を飛ぶのを」と、お房と似たような話をした。もっとも、こちらは又聞きの又聞きで、実際に自分の目で見たわけではないらしいことが、話すうちに知れた。

弥平方に泊まる私たちに対しても、村人たちの目には、どこか探るような色が浮かんでいた。よそ者が来てからこの禍が起きた――

そう思っている者も、少なからずいるようだった。

藤堂はそうした村人たちの証言を、一つ一つ根気強く書き留めていった。その姿には、怪異譚を頭から一笑に付すでもなく、さりとて安易に信じ込むでもない、実直な捜査官としての態度があった。

「藤堂さん」私は思い切って尋ねた。

「あなたは、飛頭蛮のような話を信じるのですか?」

藤堂はしばらく考えてから、答えた。

「信じる信じないは二の次だ。ただ、村中がこれだけ同じ話をするというのは、それだけで一つの事実だよ、梶原さん。人が何を見たかそれをまず聞いて何を恐れているか―― それを丁寧に拾い集めていけば、いずれ本当のことに行き着く。私はそう信じてこの仕事をやってきた」

その言葉に、私は藤堂という男への見方をいくらか改めた。武骨で手柄に拘るところもあるのだろうが、根っこのところでは実直な捜査官なのだ。

日が傾く頃、聞き込みを終えた藤堂は、宿の広間で一同を前に、これまでに分かったことを整理した。

「有馬という男は、独り離れに泊まり独り死んだ。死亡推定時刻は、昨夜の零時から二時の間。鍵は二本とも部屋の中にあり、合鍵はない。足跡は一筋のみ、戻りの足跡はなし。そして、少なくとも二人の村人が、夜中に何か白いものが宙を飛ぶのを見たと証言している」

藤堂はそこで言葉を切り一同を見回した。

「しかし、言い伝えによる飛頭蛮が犯人だとしても現実に殺人が起きている。怪異によるものなのか否か? どうだい桐野君、君の意見は」

桐野は答えなかった。ただ、窓の外の雪景色に、静かに目をやるばかりだった。私は、離れの軒先に下がっていた氷柱の光を思い出しながら、この密室の謎が、どこへ私たちを導いていくのか、まだ見当もつかずにいた。


第六章 蔵原家の人々


離れの検分を終えた藤堂と桐野は、その足で蔵原本家へ向かった。私と沙智も二人に同行した。門をくぐると、玄関先に宗一郎が既に姿を見せ深々と頭を下げていた。

「これは、御一同。まさか、当家の離れでこのようなことが起きようとは…… 有馬様にはまことにお気の毒なことをいたしました」

その声には、いかにも痛ましげな響きがあったが、私はふとこの男の表情の作り方に、どこか演じられたものを感じた。悲しみそのものよりも悲しみを表すための所作が、あまりに整いすぎているような。

宗一郎は私たちを客間に通し、終始丁寧な物腰を崩さなかったが、その受け答えのそつのなさに、私はかえって落ち着かないものを感じた。

「離れの鍵について、伺いたい」藤堂が切り出す。「二本しかないと聞いたが、間違いないか」

「はい。もとより二本きりでございます。一本は普段私が預かり、もう一本は蔵にしまってございました。昨夜、有馬様がお泊まりになるというので、両方ともお渡しした次第です」

「泊るだけなら鍵は一本だけ貸すのでもよいのではなかったか」

「離れに飛頭蛮が現れるかもしれないので、できるだけ出やすい条件を満たすようにと有馬様が申されるので、他の誰かが侵入しないようにと鍵はすべて持っていかれました」

「随分と被害者も無鉄砲だな」

藤堂も有馬の行動にはやや呆れた様子だったが質問を続けた。

「合鍵を作ったことは」

「ございません。あの離れは、ご存知の通り曰くつきの場所ゆえ、鍵を増やすようなことは、代々してこなかったものですから」

宗一郎の答えには澱みがなかった。桐野はそれを聞きながら、ふと尋ねた。

「あの離れは、いつから、そのように使われずにいたのですか」

「さて…… 私の代になってからは、ほとんど人を泊めたことはございません。ただ蔵原の家に伝わる古い言い伝えの場所ゆえ、手入れだけは欠かさぬようにしております」

手入れは、どなたが」

「為蔵にさせております」

私はその名を聞いて、離れの戸を体当たりで壊したあの大柄な男の姿を思い出した。宗一郎への聞き取りを終えると、私たちは次に為蔵本人に話を聞くことになった。

為蔵は、母屋の裏手にある薪割り場のあたりで黙々と手を動かしていた。斧を振るう姿には、年齢を感じさせぬ力強さがあった。桐野が声をかけると、為蔵は静かに手を止めてこちらに向き直った。その顔には、これといった感情の起伏が見られなかった。

「昨夜、離れの様子を、最後にご覧になったのはいつですか」


「夕刻でございます。有馬様がお泊まりになるというので、布団を敷き火鉢に炭を熾しておきました。その後私は母屋に戻り、床に就きましてございます」

「その後、離れに近づくことは」

「ございません」

「離れに向かう道すがら、誰かとすれ違ったり、物音を聞いたりはしませんでしたか」

「いいえ、何も」

為蔵の受け答えは、終始落ち着いたものだった。だが、その目の奥に何を隠しているのか、私には窺い知ることができなかった。桐野はしばらく、その顔を静かに見つめていたがやがて話題を変えた。

「お房さんとは、親子のように仲がよいと伺いましたが」

桐野が何気なく尋ねると、為蔵の手が、一瞬だけ止まったように見えた。斧を握る指先に、わずかに力がこもったのを、私は見逃さなかった。

「……遠縁の娘でございますので、目をかけております」

「それだけですか」

「それだけでございます」

為蔵はそう言い切ると、また薪割りの手を動かし始めた。その一撃は、先ほどよりもいくらか強く、木片が鋭い音を立てて弾け飛んだ。桐野はそれ以上追及せず、ただ一礼してその場を離れた。

私はその一部始終を見ていて、為蔵の答えに、何か引っかかるものを感じずにはいられなかった。「それだけです」と繰り返す、あの妙に強い調子。まるで、それ以上を語れば、何かが崩れてしまうとでもいうような。

藤堂もまた、同じものを感じ取っていたらしい。母屋への道すがら、私にだけ聞こえる声で呟いた。

「あの男、腹の底が見えんな」

「桐野さんも、何か感じている様子でした」

「だろうな」藤堂は短く応じた。

お房については、既に宿で桐野に打ち明けていた、あの白いものを見たという話があった。そのあらましは、寺の本堂で、桐野が藤堂にも伝えてある。藤堂は、それ以上、お房を改めて呼び出して問い質すことはしなかった。既に一度、震えながら語った話を、またなぞらせるのは酷だろうという桐野なりの配慮だったのかもしれない。

蔵原本家を辞し、宿への帰り道、日はすっかり傾き、雪をかぶった木々の影が、道の上に長く伸びていた。藤堂が独り言のように呟いた。

「為蔵という男、どうにも引っかかるな」

「私も、同じことを思っていた」桐野が応じる。

「桐野君、君はもう、何か摑んでいるのではないか」

藤堂の問いに、桐野はしばらく黙っていたが、やがて短く答えた。

「まだ点でしかない。線にはなっていない」

「その点とやらを少し聞かせてもらえんか」

「いずれ」桐野はそれだけ言うと、口を閉ざした。藤堂は不満げな顔をしたが、それ以上は食い下がらなかった。

二人のやり取りを聞きながら、私は、為蔵の斧の音が、まだ耳の奥に残っているのを感じていた。あの男は、何かを知っている。それが何なのか、この時の私は、まだ形にできずにいた。

宿に戻ると、弥平が心配顔で出迎えた。

「皆様、お疲れでございましょう。今宵は、温かいものでもお持ちいたします」

その気遣いに、私はいくらか救われる思いがした。だが、弥平の目にもまた、どこか落ち着かない色が浮かんでいるのを、私は見て取った。この村全体が、有馬の死をきっかけにらく蓋をしてきた何かに静かに、しかし確実に揺さぶられ始めているようだった。


第七章 禁忌の壁


翌日、桐野は村役場に赴き、久尾村の地籍や戸籍の写しを検めたいと申し出た。藤堂は志方を連れて、離れの周囲と村の外れの捜索に出ていた。有馬の拳銃がどこかに捨てられてはいないか、雪の下を一寸刻みに探すのだという。宮下医師は、遺体をもう少し詳しく調べると言って、寺の本堂に残っていた。

応対に出たのは、白髪頭の年配の書記だった。桐野の警察手帳を見ると、しぶしぶといった様子で奥の書庫から古い綴りをいくつか運んできてくれた。

「古いものでしてな。もう何年も、開ける者もおりませんで。虫が食っているかもしれませんから、雑には扱わんないでくだされ」

私も同行し、桐野の傍らで古い書類を繰る手伝いをした。黴の匂いのする書庫の奥、埃を被った木箱の中には、黄ばんだ紙の束が幾重にも積まれていた。蔵原分家の名や遠い昔の検地の記録等の久尾村の戸籍の移り変わりが、達筆だがしかし読みにくい筆致で記されていた。

「零時から二時か……」桐野は紙をめくりながら、独り言のように呟いた。「有馬さんが死んだ頃、雪はまだ降っていた。……あの離れには、事件の今だけでなく昔の因縁が、何重にも絡みついている。そんな気がしてならない」

その横顔には、いつもの皮肉めいた余裕はなく、何かに急き立てられているそんな様子が見て取れた。桐野は一枚一枚、根気強く紙をめくっていった。

一刻ほど経った頃、桐野がふと手を止めた。

「これは……」

私が覗き込むと、そこには、かつて蔵原分家が本家との揉め事の末に取り潰された経緯が、簡潔に記されていた。分家の当主が何らかの罪を着せられ、家財を没収された上で村を追われたという。時期は、この村がまだ「首村」と呼ばれていた頃のことだった。そしてその傍らに、当時この一件に金を融通したという、東京の商家の名が、小さく書き添えられていた。

それは、有馬の家の屋号によく似た文字だった。

「桐野これは」

「有馬さんの家と、関わりがあるのかもしれない」桐野は静かにそう言うと、その写しを丁寧に書き写し始めた。「もしそうならば、有馬さんがあの日、蔵原本家で見つけて言葉を濁していた紙片というのは、この一件のことだったのだろう」

その頁の隅は、小さく三角に折れていた。桐野は何気なくそれを指で伸ばし、先を読み進めた。書記は少し離れた机で帳面をつけていたが、こちらの様子に気づいた風もなかった。

書き写しを終えた桐野は、ふと、別の綴りに目を留めた。表紙には「久尾村戸籍改め」とだけ記されている。震災後の混乱に乗じてか、あるいはそれ以前からか、いくつかの頁が破られ、糊で補修された跡があった。桐野はその頁を、食い入るように見つめていた。

私は何気なくその手元を覗き込んだ。そこには、村の旧家の家系を記した簡単な系図のようなものがあった。蔵原の家、宇内の家、その他いくつかの旧家の名が連なる中、桐野の指が、ある一点でぴたりと止まった。

「桐野どうした?」

桐野は答えなかった。ただ、その指先が、系図の隅に小さく記された一つの姓の上でかすかに震えているのが見えた。それは、桐野自身の旧姓によく似た―― いや、似ているという以上にあまりにも近しい響きを持った文字だった。

私は、その文字を目にして一瞬だけ息を止めた。そして桐野に気づかれぬようゆっくりと吐いた。

「……桐野」

私はもう一度名を呼んだ。桐野はようやく我に返ったように顔を上げたが、その表情にはいつもの飄々とした色が消えていた。代わりに、何か深い戸惑いのようなものが浮かんでいた。

「梶原」桐野の声は、いつもよりわずかに低かった。「私の生まれについて、お前に話したことがあったか」

「いや…… そういえば聞いたことがない」

学生の頃から十年来の付き合いになるが、それは本当のことだった。

「私自身も、詳しくは知らない」桐野はそう言うと、視線を再び系図へと落とした。「物心ついた頃には、既に東京の遠縁の家に引き取られていた。実の親のことは、ほとんど何も聞かされずに育った」

「この村と、何か関わりが」

「分からない」桐野は静かに首を振った。「だがこの姓は…… 、私の記憶のずっと奥の方にある。幼い頃誰かがそう呼んでいたような気がする。それだけだ」

桐野はそれ以上語らず、その頁をそっと閉じた。だが、書き写す手だけは、その一点の姓だけは写し落とすことなく、丁寧に紙に留めていた。私はその横顔に、警察官としての冷静さの奥に、一人の人間としての揺らぎが確かに存在することを初めて見た気がした。

村役場を出た頃には、既に日が傾き始めていた。私と桐野は、しばらく無言のまま、雪道を歩いた。桐野が怪異絡みの事件を、どこか好んで引き受けているように見えたこと―

― その底にあったものの正体に、私はようやく触れた気がした。

宿への道すがら、村の女たちが数人、井戸端に集まって何事かを囁き合っているのに行き当たった。その輪の中に、沙智の姿があった。聞き込みに出ていたのだという。沙智が先に立って声をかけると、女たちは一瞬だけ顔を見合わせ、言葉を濁した。

「蔵原の家のことは、わしらの口からは何も……」

「離れの昔のことは、口にするだけで障りがあると婆様から言われとりますで」

飛頭蛮のことを尋ねても、血筋のことを尋ねても、返ってくるのは同じような固く閉ざされた沈黙ばかりだった。ただ一人、年嵩の女が、沙智の顔をじっと見つめて小さく呟いた。

「あんた…… あちらの血筋のお人かね」

沙智はわずかに目を伏せ、何も答えなかった。それ以上女たちは誰も口を開こうとしなかった。村全体が、見えない壁のようなもので、私たちをはねつけているようだった。

夕刻、宿に戻ると、藤堂と志方が先に戻っていた。雪の中の捜索は、成果なく終わったという。

「拳銃は出てこん」藤堂は濡れた外套を脱ぎながら言った。「井戸の底も、薪小屋も、床下も探させたが、影も形もない」

「持ち去った者がまだ持っている、ということですね」志方が不安げに呟いた。

藤堂は答えず、ただ囲炉裏の火に手をかざした。それから、ふと思い出したように懐の手帳を開いた。

「それと、もう一つ。蔵原家の下男の話だがあの夜、為蔵は零時を少し回った頃、一度床を抜け出している。厠に立った下男が、提灯も持たずに母屋の裏木戸へ向かう為蔵の背中を見たそうだ。宮下先生の言う死亡推定時刻の、ちょうど真ん中あたりだ。為蔵は、床に就いたきり離れには近づいていないと言っていたがな」

「為蔵が……」志方がはっと顔を上げた。

桐野は何も言わず、ただ、窓の外の薄闇に目をやっていた。

「宮下先生は、遺体をもう少し詳しく調べると言って、今夜も寺に残っておられる。見立ての続きは、明日だ」藤堂は手帳を閉じた。「私は明日、改めて村の者たちに当たってみる。桐野君、君は」

「私は、もう少し今日の綴りのことを考えてみます」桐野は短く答えた。

私は、囲炉裏の火の揺らめきを、黙って見つめていた。


第八章 推理合戦


捜索が空振りに終わった翌日も藤堂は、丸一日村中を回って聞き込みを重ねた。そして夕刻、弥平方の広間に、関係者を残らず集めるよう志方に命じた。宗一郎、為蔵、お房、弥平、そして私たち三人。囲炉裏の火が、居並ぶ顔を赤く照らしていた。

「まず、これまでに分かったことを整理させてもらう」

藤堂は手帳を開いた。

「宮下先生が、一晩かけて遺体を詳しく調べてくれた。首の痕は、幅のある革のようなもので、背後から強く絞められた跡だという。そして、有馬が穿いていた洋装のズボンにはベルトがなかった。凶器は、被害者自身のベルトだろう。犯人はそれを持ち去った。拳銃と共にな」

広間が静まり返る。藤堂は一同を見渡して続けた。

「次に、この件の背後にある事情だ。役場の記録と村の古い者たちから聞いた話を総合すると、お房は為蔵の実の娘だ」

お房が息を呑み、顔から血の気が引いた。為蔵は微動だにせず、ただ膝の上で拳を握りしめている。

「蔵原殿は、遠縁の娘と仰っていたが」

「……さて、私はそう聞いておりましたが」宗一郎は、柔和な表情を崩さずに答えた。

「村の者は、口に出さぬだけで、皆薄々知っていたらしい。有馬が、そのお房に軽々しく言い寄っていたこともだ」藤堂は為蔵に視線を据えた。「父親としては、腹に据えかねたろう」

「私は……」

為蔵が何か言いかけたが、藤堂は構わず続けた。

「それだけではない。蔵原家の下男の証言がある。あの夜、為蔵は零時を少し前にした頃に、一度寝床を抜け出している。厠に立った下男が、提灯も持たずに母屋の裏木戸へ向かう為蔵の背中を見ているそうだ。為蔵は、寝床に就いたきり離れには近づいていないと言っていたがな」

為蔵の肩が、わずかに揺れた。

「推理はこうだ。床を抜け出した為蔵は、母屋にいた有馬を殴って気絶させた。そして、雪に紛れるよう白い単衣と白い被りものを身にまとい、意識のない有馬を背負って、裏木戸から離れへ通じる庭へ出た。雪の降る闇の中を、離れへ運んだのだ。白装束の為蔵の肩越しに、力なく垂れた有馬の顔だけが、ゆらゆらと揺れる。それを遠くから見れば、顔だけが宙を飛んでいくように見えるだろう。お房が見たのは、それだ」

お房が、はっと顔を上げた。

「離れで有馬をベルトで絞め殺した為蔵は、戸を閉めて引き返そうとした。だがその時には、既に雪はやんでいた。来た時の足跡が、そのまま残ってしまう。そこで為蔵は、来た時の足跡を、後ろ向きに踏んで戻った。往復が一筋に見えるのは、そのためだ。意識のない有馬を運んだのだから、拳銃を抜かれることもなかった。拳銃は、為蔵が持ち去ったのだろう。状況的には、飛頭蛮の言い伝えのとおり、雪の中を飛頭蛮だけが離れに向かう。その後雪が止んだ頃に離れに来た有馬氏を飛頭蛮が襲い絞め殺す。そういう状況をつくりだしたかったのではないか!」

「違います!」お房が声を震わせて叫んだ。「為蔵さんは、そんなことをする人じゃありません!」

為蔵は目を閉じたまま、何も言わなかった。その沈黙が、かえって藤堂の推理を裏付けているようにも見えた。私は、固唾を呑んで、為蔵の横顔を見つめていた。

桐野が、それまで黙って聞いていた口を開いた。

「藤堂さん、一見筋は通っている。ただ、どうしても合わない点があります」

「何だ」

「拳銃です」

藤堂が眉をひそめた。

「藤堂さんの推理では、有馬さんは気を失ったまま運ばれたことになる。ならば、拳銃を抜かなかったのは当たり前だ。犯人が拳銃を持ち去る理由はどこにもない。持ち去ったところで何の得もない。それなのに拳銃は消えている」

「……だから、何だ」

「犯人が拳銃を持ち去ったのは、拳銃が現場に残っていると合が悪かったからです。何が都合悪いのか。有馬さんが、拳銃を抜かなかったという事実です」

桐野は広間を見渡した。

「弥平さん、初めてこの宿に着いた晩のことを、思い出していただけますか。有馬さんは

拳銃のことについて、何か話していませんでしたか?」

弥平は少し戸惑ったように視線を泳がせ、やがて頷いた。

「へえ…… 宇内の翁がお帰りになった後、囲炉裏端で飲んでおられた時に、懐から拳銃を出してお見せになりました。『こいつは飾りではない。もし本当に危険な人物が現れたら、迷わずこれを使う』と。『ただ、怪異には効くまいがな』と笑っておいででしたが」

「ありがとうございます」桐野は頷いた。「有馬さんは、拳銃を常に身につけ危険を感じれば使うと周囲に公言していました。その有馬さんが、犯人を前にして拳銃を抜かなかった。争った跡すら一つもない。つまり、有馬さんは意識があり、拳銃を抜こうと思えば抜けた。にもかかわらず、抜く必要を感じなかった」

囲炉裏の火が爆ぜ、その音がやけに大きく聞こえた。

「犯人は、強盗でも、見知らぬ侵入者でもない。有馬さんが完全に気を許していた人物です。有馬さんは、その人物を、自ら離れの中へ招き入れたのでしょう。だから戸を開け、背を向けることができた。意識を奪って運ぶ必要など、初めからなかったのです」

桐野は一呼吸置いて、続けた。

「犯人は、殺した後で、初めて有馬さんが拳銃を携えていたことを知ったのでしょう。そして気づいた。この拳銃が残っていれば、警察は必ず考える。なぜこの男は、襲われることを予想して銃を携えていたのか。そして、その銃を使わなかったのはなぜか、と。犯人が消したかったのは、拳銃そのものではありません。有馬さんが、その人物を警戒していなかったという事実です」

「待て」藤堂が遮った。「有馬が自分から戸を開けたと、何故言い切れる。為蔵が何か口実を使って……」

「為蔵さんは、有馬さんにお房さんに声をお掛けたり構うなと釘を刺していた。そうでしたねえ蔵原さん」

宗一郎が、わずかに間を置いて頷いた。

「為蔵が、有馬様にあまりお房に構わぬようにと申したことは、確かにございました。私も、後で為蔵を叱っておきましたが」

「有馬さんは、為蔵さんが自分を快く思っていないことを知っていた。そんな相手が夜更けに離れの戸の外に立っていれば、有馬さんは必ず、なにかあるのではと思わず懐の拳銃に手をやったはずです」

藤堂は唸るように腕を組んだ。

「為蔵さんが、夜更けに床を抜け出したことは否定しません。ですが、それは離れへ向かった証拠にはならない」桐野は静かに言って続けた。「もう一つ、気にかかる点は足跡の深さです。私は今朝、志方君に頼んで、有馬さんと同じ重さの米俵を背負って、雪の上を歩いてもらいました。人を背負った者の足跡は、現場の足跡より遥かに深く沈みます。あの足跡は、人を背負った者のものではありません。あれは、有馬さんよりはいくらか重いが、為蔵さんほどではない一人の男が、同じ場所を二度踏んだ跡です」

志方が、そっと頷いた。

「では、有馬は、どうやって離れへ入ったのだ?」

「蔵原さん、有馬さんは、離れへは、どのように向かわれましたか」

「夕餉の後に、私と少し酒を酌み交わしました。その後、時間がはっきりしていませんが提灯を提げて行かれたと思います、お一人で参られたと思います。」宗一郎は、静かに答えた。

「おそらく、雪の中を提灯の明かりを頼りにお一人で、ご自分の足で有馬さんは離れに行ったのでしょう。気を失った人間を担いで他人が運んだのではない。有馬さんは、飛頭蛮が出ると噂のあの離れへ自ら望んで向かったのです」桐野は言った。「そして、その後から、もう一人が離れへ向かった。お房さんが見たのは、その人物です」

お房が、はっと息を呑んだ。

「白い装いで雪の中を歩けば、闇に紛れ、顔だけが浮いて見える。お房さんの目には、それが首だけが宙を飛んでいくように映った。犯人は、降る雪で姿が分かりにくくなるように、わざと白い装いを選んだのでしょうね。雪に紛れて離れへ向かい、有馬さんを手にかけ、雪の中を戻る。降り続く雪が、自分の足跡をすべて消してくれる。足跡は、できるだけ痕跡を少なくするために、犯人は先に離れにいった有馬さんの足跡をなぞっていったのかも知れません。そうすれば、固く閉ざされた離れの中で有馬さんが首を絞められて死んでいるだけで、誰も足跡を見つけることができない。誰もが、飛頭蛮の仕業だと思う。犯人は、そう踏んでいたのです」

桐野の声は、静かだった。

「ですが、雪は、犯人の予想より早く、一時頃にはやんだ。宮下先生の見立て通り、有馬さんが殺されたのが午前零時から二時の間なのですが、犯人が殺し終えて離れを出ようとした時、外には自分が来た時の足跡が、はっきりと残っていました。このままでは、離れから母屋の方へ向かう足跡が自分のものだと知れてしまう。そこで犯人は、来た時の足跡を後ろ向きに踏んで戻った。そうすれば、残るのは、離れに向かう足跡が一筋だけ。誰もが、有馬さん自身の足跡だと思い込む。有馬さんが離れに入った後で、足跡を残さぬ何者か―— 飛頭蛮が、有馬さんを絞め殺した。そういう状況を、犯人はその場で作り上げたのです」

広間に、重苦しい沈黙が落ちた。藤堂が低く呻くように言った。

「……足跡が二度踏まれていたというのはそういうことか」

「はい。そして、もう一つ」

桐野は懐から、紙に包んだ小さな錆びた金具を取り出した。

「あの夜、離れの戸のそばに落ちていた倉庫錠の留め金です。断面が赤黒く錆びて、とうの昔に朽ちていた。つまり、戸に錠は下りていなかった。我々が明け方に有馬さんを離れに訪ねた時は、かなり寒さが浸透していました。その為に離れ全体が氷ついたように戸枠を塞いでいたので、開かなかっただけです。そのことを知らない者は、あの戸が内側から固く閉ざされていると信じたでしょう。ですが、犯人は違った。犯人が出入りしていた時は、有馬さんが戸を開けてくれる限り、離れに自由に出入りできていた。出入り出来ること知っていた」

桐野の視線が、ほんの一瞬、為蔵の上で止まった。為蔵は、その視線を受け止めるように微動だにしなかった。私は、固唾を呑んで桐野の次の言葉を待っていた。

お房は、膝の上で口元を押さえ静かに泣いていた。為蔵は目を開け、桐野をじっと見つめていた。その目には、驚きでも、安堵でもない何か別のものが宿っているようだった。

「それでは、犯人は誰だ」藤堂が低く桐野に問うた。

桐野は、すぐには答えなかった。

「有馬さんが完全に気を許していた人物。有馬さんを訪ね、戸を叩けばの疑いもなく招き入れてもらえる人物。そして、離れの戸の錠が、実は初めから機能していないことを、あらかじめ知っていた人物です」

桐野は静かに続けた。

「藤堂さん、犯人の名は、明日の朝、お話しします。確かめたいことが、もう一つだけ残っている。それが済めば、すべてお話しできる」

藤堂は、何か言いたげに桐野を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。

「……分かった。明朝だな」

一同が重い足取りで広間を去っていく中で私は最後まで、囲炉裏の火を見つめていた。炭の赤い芯が、静かに白い灰に変わっていくのを。


第九章 首の在り処


翌朝、弥平方の広間には、昨夜と同じ顔ぶれが揃っていた。窓の外は嘘のように晴れ渡り、軒先の氷柱から、ぽたり、ぽたりと滴の落ちる音が、静まり返った広間にやけに大きく響いていた。

最後に志方が入ってきた。両手の指先が灰で真っ黒に汚れている。

「桐野警部の仰せの通り、囲炉裏の灰を、篩にかけましたところ」志方は藤堂の前に紙包みを置き、そっと開いた。「これが」

煤けた真鍮の金具が一つ、焼け焦げた革の切れ端を噛むようにして、そこにあった。

「見覚えはありませんか、弥平さん」桐野が尋ねた。

弥平は震える指で金具を取り上げ、裏返して目を凝らした。

「獅子の……獅子の彫りがございます。有馬様が、初めの晩に、舶来物の英国仕立てだとご自慢になっておられたベルトの……」

「あの朝」三吉がおずおずと口を挟んだ。

「広間に、革の焦げたような臭いが残っておりました。誰かが古い草履でも燃やしたのかと、思っておりましたが……」

「つまり」藤堂が低く言った。「有馬を絞めたベルトは、あの夜のうちにこの宿の囲炉裏で燃やされたということか」

「そうなります」桐野は頷いた。「昨夜、私は、確かめたいことが一つ残っていると申しました。実際には三つありました。この灰が一つ。有馬さんの手帳が二つ。役場の書記への確認が三つ。そのすべてが、同じ方向を指していました」

広間を見渡し、桐野は続けた。

「革帯が、この宿で燃やされた以上、犯人はあの夜この宿に泊まっていた人間です。弥平さんと三吉君は、有馬さんと言葉を交わしたのもほんの数日で命を奪うほどの縁はない。あの足跡を付けるには、三吉君では体重が軽すぎる。沙智さんも同じです」

沙智が、膝の上で小さく頷いた。

「残るのは、私と、もう一人」

「冗談を言っている場合か」藤堂が眉をひそめた。

「冗談ではありません。私が犯人でないことは、私自身が一番よく知っている。ですからもう一人を疑う根拠を、一つずつお見せします」

桐野は、私の方を見なかった。見ないまま藤堂に手を差し出した。藤堂は、懐から黒い革表紙の手帳を取り出し桐野に渡した。有馬の手帳だった。

「これは、有馬さんが肌身離さず持っていた手帳です。昨日まで、藤堂さんは、これを読んで、友人同士の無邪気な書き付けだと思っていた。私もそう読んだ。ですが、読み直せばその意味が変わる」

桐野は頁を繰り、静かに読み上げた。

「九月。神保町にて梶原君と。信州の山中に首の伝承を持つ村ありと。久尾。梶原君、故郷の話でもするような顔で語る。妙」

広間の誰かが、小さく息を呑んだ。

「十月。古書肆の反故の中に、久尾の分家筋の系図の写しを見る。梶原の名あり。梶原君の家は、元は信州の出と聞く。偶然か。尋ねてもはぐらかされる。面白い。連れ出して反応を見たい」

桐野は、頁を一枚めくった。

「同じ月の末。『首村に帰る男』。題は決まった。梶原君には悪いが、これは良い書き物になる」

私は、じっと膝の上の自分の手を見つめていた。有馬の癖のある、丸い軽薄な文字が、目の裏に浮かぶようだった。

「有馬さんは、梶原の出自に気づいていた。気づいた上で、それを面白がり、本人に断りなく、書き物の種にしようとしていた」桐野は手帳を閉じた。「そして、あの久尾村行きの手紙です。有馬さんは、梶原に宛てて手紙を書いた。ですが、この手帳を読む限り、きっかけをくれたのは、梶原の方だった。九月に、神保町で、久尾村の話を持ち出したのは、梶原自身です」

「それだけで、犯人とは言えんぞ」藤堂が慎重に言った。

「ええ。次です」

桐野は懐から、役場で書き写した紙を取り出した。

「役場の綴りの分家排斥の頁です。余白に小さな紋が描かれていました。丸に梶の葉。分家の紋です」

桐野はそこで、初めて私の顔を見た。

「梶原。お前の懐中時計の蓋の裏には、同じ梶の葉の紋が彫ってあるな。学生の頃に見せてもらった。亡くなった母上の形見だと。信州の生まれだと、聞いたこともあった」

私は何も答えなかった。

「そして、あの頁の隅には、小さな三角の折り目があった。今朝、役場の書記に確かめたよ。あの綴りはもう何年も誰も触っていないそうだ。ところが、この村に着いた翌朝のまだ日も昇りきらぬ頃、新聞記者を名乗る若い男が、一人で来て、あの頁を写して帰ったという。頁の隅を折る癖があると、書記は何度も注意したそうだ。昨日、私と一緒にいた男の顔を思い出して、書記は青くなっていた」

桐野は、静かに続けた。

「梶原は、昔から借りた本の隅を折っては、私に叱られていた。有馬さんの手紙の端も折って机にしまっていたな」

広間は、水を打ったように静まり返っていた。

桐野は、為蔵に顔を向けた。

「為蔵さん。あなたは、梶原に離れのことを教えましたね」

為蔵は、長い間、黙っていた。やがて、膝の上で握りしめていた拳を、ゆっくりとほどいた。

「……井戸端で、お尋ねになりました。戸の造りや窓の位置も、そして錠の留め金がとうに錆びて役に立たぬことも。氷が張れば、戸は動かなくなりますが、中からならいつでも開けられると」

為蔵は、顔を上げなかった。

「一目見て、分かりました。亡くなった梶原家の大旦那様に、生き写しでございましたから。あの方がここへ何をしに来られたのか、薄々察しておりました。それでも」

為蔵の声が、かすかに震えた。

「有馬様がお房に手をお出しになりかけていたのも、知っておりました。この方ならお房を守ってくださると、思ってしまったのでございます。……私が、あの方に、すべてをお教えしました」

「あの夜、あなたが床を抜け出したのは、離れへ向かうためではなかった。そうですね」桐野が静かに尋ねた。

「……離れが気にかかり、母屋の裏木戸まで出ました。雪が強く、すぐに戻りました。何も見ておりません。……何も、見ようとはいたしませんでした」

「父さん……」お房が、呆然と為蔵を見つめた。

そして、お房は、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。

「……健作、兄さん」

その呼び声に、私は初めて目を閉じた。

「初めて、お茶をお運びした日に、すぐに分かりました。小さい頃、おぶってくださった背中を、おぼろげに覚えておりましたから。お顔もお声も、変わっていらっしゃらなかった。……為蔵が、誰にも言ってはならぬと」

お房は、それ以上は、言葉にならなかった。

「梶原さん」

沙智が、静かに口を開いた。

「あの夜、わたくし、廊下を忍んで歩く足音を聞きました。梶原さんのお部屋の戸が開く音も。厠にお立ちになったのだと思って、気にも留めませんでした。けれど、いつまで経ってもお戻りになる気配がなくて。わたくし、は、そのうち眠ってしまったのです」

「……白い浴衣も」弥平が、おろおろと言った。「翌朝、旦那様が、梶原様から雪で転んだと仰って預かったとびしょ濡れの浴衣を女房に出されて……」

一つ、また一つ、私が自ら書き記さなかった些細な事実が、広間の床に並べられていった。私は、それを、ただ聞いていた。

「梶原」桐野が言った。「役場であの系図を見た時、お前は息を止めたな。私はそれを見ていた。あの時から疑ってはいた。信じたくはなかったがな」

長い沈黙の後、私は目を開けた。

「……お前には、敵わないな」

自分でも驚くほど、静かな声が出た。

「だが、桐野。お前が決め手にしようとしているのは、これではないのだろう。昨夜、お前が藤堂さんの前で語ったあの拳銃の話だ」

桐野は頷き、そして、これまでとは違う静かで遠い声で言った。

「梶原健作さん。あなたは、銃を消したかったのじゃない。被害者があなたを警戒していなかったという事実を消したかったのだ」

広間の空気が、ぴんと張り詰めた。

私は懐に手を差し入れた。志方が反射的に腰を浮かせ、藤堂が鋭く片手を上げたのが分かった。私は、ゆっくりと黒い塊を取り出して床の上を桐野の方へ滑らせた。

「弾は、一発も減っていない」

拳銃は、囲炉裏の火を鈍く映して、畳の上に止まった。

「あの男の外套の内ポケットに、こんなものが入っていることを、私は、殺し終えるまで知らなかった。私が離れの戸を叩いた時、有馬は、『おや、梶原君か。こんな夜更けにどうした』と言って、笑って戸を開けた。そして、私に背を向けて、酒を注いでくれた。その時、拳銃は懐にあったのだ。手を伸ばすどころかあの男は、一度も私を疑わなかった」

私は、畳の上の拳銃から、目を逸らした。

「殺した後で、それに気づいた時、私は恐ろしくなった。この銃が残っていればお前は必ず考える。なぜ有馬は銃を携えていたのか。なぜそれを使わなかったのか、と。そうすれば、有馬があの夜、誰を迎え入れたのか。お前はすぐに辿り着く。お前の言う通りだよ、 桐野。私は、有馬が最後まで私を友だと信じていたという、その事実を誰にも知られたくなかった」

誰も、何も言わなかった。

「ベルトは」私は続けた。「有馬が、窮屈そうに自分で緩めて膝の脇に置いていた。見せてくれと言うと、得意そうに『英国仕立てだよ』と笑って私に渡し、酒の肴を取りに背を向けた…… 。その時、私は奴の首にそれを回していた」

お房が、両手で口を覆った、

「言い伝えの通りになれば良いと思っていたよ。密閉された離れで、首が飛んできて有馬を絞め殺す。誰が犯人でもない、怪異の仕業だと。雪は夜明けまで降り続き私の足跡も、有馬の足跡も、何もかもを覆い隠してくれると踏んでいた。だが、離れを出た時雪は、すでにやんでいた。私の足跡が、はっきりと残っていた…… だから、来た道を後ろ向きに戻った」

私は、宗一郎に視線を向けた。

「理由を話そう…… 蔵原の旦那様も、聞いておくといい」

宗一郎は、柔和な表情を崩さぬままただ黙って私を見返していた。

「私の祖父は、信州で手広く商売をしていて蔵原の分家の血を引く家だった。本家は、その財を取り込もうとして、何度も縁組を持ちかけてきた。祖父と父はそれを断り続けた。

私が十三の年、父が、有馬商会との大きな取引に応じた。それが、実際には存在しない架空取引だったのだ。詐欺に引っ掛かり約束手形は紙屑になり店は潰れた。祖父は蔵の梁に首を括り、父も失意のうちにその三ケ月後に後を追った」

私の声は、不思議なほど、平坦だった。

「母に連れられて、東京の親戚を頼った。母は、昼間は洗い張り夜になると針仕事で、数年後には、病に倒れて死んだ。……私が、どうやって大学に入ったか。桐野お前にも話したことはなかったな」

桐野は、黙って首を振った。

「成人してから、母の遺した包みの中に、父の遺書と、あの取引の写しを見つけた。有馬商会の名がその中にあった。そして、その裏で金を出して詐欺の糸を引いていたのが、蔵原の本家だと私は調べ上げた」

藤堂が、懐から一通の電報を取り出した。

「昨夜、東京へ問い合わせた返事が今朝届いた。明治四十一年、信州の商家・梶原家を潰した詐欺取引の一件。実行したのは有馬商会で融資の元は蔵原本家。取引の裏書に、当時蔵原家の当主代行だった男の名がある」

藤堂は、宗一郎に視線を向けた。

「蔵原宗一郎。あんただ」

宗一郎は、しばらく黙っていたが、やがて、薄く笑った。

「昔の商いのことは、よく覚えておりませんな。商いには、浮き沈みがつきものでございます」

「こういう男なのだ」私は静かに言った。「有馬は、その実行役だった男の息子だ。自分の家が何をしたのかも知らず、私の出自を面白がり書き物の種にしようとした。そのうえ私が幼い頃におぶって歩いた、あのお房にまで、軽々しく手を出そうとした…… 。あの男は、悪人ではなかった。ただ、何も知らず何一つ悪びれもしなかった」

囲炉裏の火が、ぱちりと音を立てた。

「有馬の父には、既に手が届かない。蔵原の旦那様には、法は届かないだろう。だから、息子の方に、手を伸ばした。……それだけのことだ」

藤堂が立ち上がり、志方に命じた。

「梶原健作を、この宿の奥の間に留め置け。護送は明朝だ。これから県警に連絡して明日迎えをよこすから志方君、しっかり見張っておいてくれ」

「はっ」志方巡査が、青ざめた顔で頷き、私の傍らに立った。私は抗わなかった。

広間を出る間際、桐野が、背後から声をかけた。

「梶原」

私は、足を止めた。

「一つだけ聞かせてくれ。どうして私をこの村に連れてきた?」

私は、しばらく、考えた。考えても答えは見つからなかった。

「……お前なら見つけてくれると、思ったのかもしれない」

それが、嘘であったのか、本心なのか、私自身にも分からなかった。桐野は、何も言わなかった。ただその横顔が、これまで見たことのないほど疲れて見えた。

私は、見張りの志方巡査に促されて奥の間へと歩いた。窓の外では軒先の氷柱が、朝日を受けて、ぽたり、ぽたりと、雫を落とし続けていた。


終章 帰る首


夕刻、桐野が奥の間を訪ねてきた。見張りの志方は、廊下に控えている。

桐野は、黙って私の前に一綴りの紙と、墨と筆とを置いた。そして懐から紙巻き煙草を一本取り出し、少し迷ってからそれも紙の脇に置いた。

「書け」

私は、顔を上げた。

「お前は、記録するのが仕事だろう。この村で見聞きしたことを、お前の言葉で書き残してくれ。……誰かに頼まれたわけでも、命じられたわけでもない。ただ、私が読みたいだけだ」

桐野は、それだけ言うと立ち上がった。襖に手をかけたまま振り返らずに言った。

「為蔵さんが、お房さんに付き添っている。お房さんは、お前を恨んではいないそうだ」

襖が閉まり、足音が遠ざかった。私は、しばらくの間、煙草を指先で弄んでいた。火をつけることはしなかった。それから筆を取った。

この記録は、その夜、私が書いた。

ここまで読んでくださった方は、既にお気づきだろう。この記録の書き手は、私、梶原健作である。有馬俊之介を殺したのも、私である。私は、自分の行いについて一行たりとも嘘は書かなかったつもりだ。ただ、書かなかっただけである。夜半に厠に立ったと書いて、いつしか眠りに落ちたと書いた。厠から戻るまでの長い時間のことは書かなかった。

ただ、心のことだけは、書き手の私にも偽れなかった。有馬が紙片を見つけた時、私はその中身を既に知っていたと書き、桐野の旧姓に息を止めたと書いた。誰に見せるつもりもない筆のはずだったのに、私は、白状してしまっていた。結局のところ、私は、誰かに気づいてほしかったのだと、今は思う。

誰にとは、書かないでおく。

夜が更けるにつれて、廊下の見張りの気配が、少しずつ薄くなっていくのが分かった。

夕餉の後に、蔵原本家から、罪人にも一杯の酒をと、差し入れがあったと聞いている。私は、それを口にしなかった。

祖父が首を括った蔵のある家の跡は、この村の北の外れ崖の上にあると為蔵から聞かされた。あの年以来、十六年間、一度もそこへ足を向けることができなかった。明日の朝、護送の前に、一度だけ、その場所を見ておきたいと、桐野に頼むつもりでいる。聞き入れてはもらえないだろうが。

飛頭蛮の首は、死期の近づいた者の首が、生まれた家へ帰るのだという。私の家は、もうどこにもない。それでも、帰る場所があるとすれば、あの崖の上の焼け跡のような地面だけだろう。

筆を置く。窓の外が、うっすらと白んできた。

―― 以下は、梶原健作が遺した記録を読んだ者が、その後の顛末を付す。


* * *


翌朝、護送の支度を整えた藤堂警部以下県警の面々が、奥の間の襖を開けた時、そこには誰もいなかった。見張り役の志方巡査は廊下の壁にもたれて深く眠り込んでいた。蔵原家から差し入れられた酒を、ほんの一口ずつ、口にしただけだったという。

窓が開け放たれ、冷たい風が吹き込んでいた。畳の上には、昨夜書かれた一綴りの紙と一本の火のついていない紙巻き煙草だけが残されていた。

窓の外の雪の上には、足跡が一筋残っていた。宿の裏手から、村の北の外れの崖へとただ一方向にだけ続く足跡だった。戻ってくる跡は、どこにもなかった。

藤堂は、志方を起こし桐野と共にその足跡を辿った。足跡は、雪に半ば埋もれた古い礎石の列の間を抜け崖の縁で途切れていた。為蔵は、後にそこが梶原家の蔵の跡だと語った。見下ろすと、下の岩場に人影が横たわっていた。

梶原健作の亡骸だった。

首が、なかった。

崖から落ちた者の首が、胴から離れることがあり得ないとは言えない。岩場には、落石の跡もあった。だが、宮下医師の見立ては、「首の付け根の断面が、あまりにも鮮やかなので、落下の衝撃だけとは言い切れない」というものだった。首は、いくら探しても、見つからなかった。雪解けの沢に流されてしまったのか、山の獣が持ち去ったのか。

崖の縁に残る足跡が、梶原一人のものであったかどうかも、定かではなかった。雪が、昨夜遅くにわずかに降り直していたからである。

見張りの志方巡査に酒を差し入れたのは、蔵原家の下男だった。宗一郎は、「村の習わしで罪人にも一杯の酒を」と、柔和な表情を崩さずに言った。藤堂がどれほど問い詰めても、それ以上の言葉を宗一郎の口から引き出すことはできなかった。

「自死か、他殺か」藤堂は、崖の下で、低く呟いた。「分からん。分からんまま、報告書に書かねばならん」

桐野は、何も答えなかった。ただ、梶原の亡骸に、静かに頭を下げた。

村人たちは囁き合っていた。梶原の首は、飛んだのだ。生まれた家へ、帰ったのだと。飛頭蛮の言い伝えの通りに。為蔵は、崖の下に一人で跪き長い間動かなかった。その傍らで、お房が、一輪の寒椿を雪の上に添えた。


* * *


村を発つ朝、宇内翁が杖をついて宿の前まで見送りに来た。


翁は、一人ずつ、桐野たちの顔を確かめるように見やり、最後に、沙智の前で足を止めた。

「お嬢さん」

沙智が、静かに顔を上げた。

「今度の一件、あんたはずっと、何かに耐えるような顔をしておった」翁は、杖に手を添えたまま静かに言った。「いずれ、あんたも自分の"首"が、どこへ帰るべきか、知る時が来るのじゃろう」

沙智は何も答えず、深く頭を下げた。

その傍らで為蔵が、桐野に近づいた。志方に付き添われ、聴取のために連れて行かれる間際だった。

「桐野さん」為蔵は、低い声で言った。「あんたも、あちらの血を引いていなさるのじゃないのかね。……だったら、いつか分かる時が来る」

桐野は何も答えなかった。懐に収めた役場で書き写した紙の上で、ただ指を一度握りしめただけだった。

帰りの汽車の中で、桐野は、梶原が遺した記録を窓際の席で黙って読み返していた。沙智は、向かいの席で車窓を流れる雪の山並みをじっと見つめていた。

「冬二さん」

「ああ」

「梶原さんは、最後に何を書いておられたのですか?」

桐野は、しばらく黙っていた。

「あいつは、嘘は一行も書いていない」頁を繰りながら桐野は答えた。「書くべきことを書かなかっただけだ。そして、心のことだけは、白状してしまっていた。紙片の中身を既に知っていた、と。息を止めた、と。……あれは、私に宛てた手紙だったのだろう。最初の一行から最後の一行まで」

沙智は、何も言わなかった。

「記録するのが、あいつの仕事だった。最後まで、記録者であろうとした。……殺した者の記録を殺した当人が書いた。首のない者の証言だ」

桐野は、最後の頁を静かに閉じた。紙の表には、梶原の几帳面な文字で題が記されていた。

『首無き証言』

窓の外では、雪をかぶった山々が、ゆっくりと、遠ざかっていった。桐野の懐の奥で、あの系図の姓を写した紙が、小さく音を立てた。沙智は、窓の外を見つめたまま、翁の言葉を、胸の内で、何度も繰り返していた。

飛頭蛮は、死期の近づいた者の首が生まれた家へと帰る。

では、自分の首は、どこへ帰るのか。誰にも答えの分からぬ問いを残して、汽車は雪の山間を東京へと走り続けた。(了)






























































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