観測ログ No.003 κ|幸福なまま、終わったログ
“まだ、いる。”
ミレイは、そう思った。
目を覚ました直後の部屋。
明滅するピンクの光と、甘い匂いが、いつもと同じようでいて、どこか違っていた。
まわる、おと。はじけた、しずく。
それは空気の粒子が壊れていく音のようだった。
光の粒がゆっくりと揺れている。
あの影は消えたはずなのに、感覚だけが残っていた。
夢と現実のあわいで出会った“何か”の存在。
「……おはよう、私のスカルキャンディたち」
言葉にしてみても、声は部屋に溶けるだけだった。
誰もいないはずの空間に、誰かが“見ている”ような気配。
でもミレイは笑う。
その気配すら、今日の幸福の一部なのだと信じ込むように。
机の上に並べられたスカルキャンディ。
タグは自作のものに差し替えられ、ラベルには手描きの「しあわせ保証」シールが貼られていた。
昨日よりもかわいく、昨日よりもしあわせに。
今日の私は、もっと、ちゃんとできる。
——でも、それは“誰か”に見られるための装いだった。
鏡を見た。
口角は美しく上がり、目には光が宿っている。
「完璧」だった。
そう言い聞かせるように、パーカーのフードを被った。
——その奥で、瞳は静かに濁っていた。
*
黒板のチョークの音が、遠くに感じられた。
教室にいても、どこか現実感がない。
昨日、確かに“誰か”を見た。
あの存在は夢ではない。
影のような気配。幻とは違う、確かな存在感。
視線のようで、空気のようで、それでも“いた”と思えた。
それが何かはわからない。ただ、ずっとその感覚が頭から離れなかった。
見られていた——そんな気がした。
不快ではなかった。むしろ、胸の奥にずっとあった孤独が、少しだけやわらいだ気がした。
意味はわからなくても、その感覚だけが残っていた。
ミレイは、ただ静かに笑っていた。
何も考えず、ただその瞬間に身を委ねていた。
*
放課後。
空はピンクとバイオレットの間で揺れていた。
世界の輪郭がぼやけている。
キャンディを口に含んだ瞬間、空間全体が甘くねじれた。
とけて、にじんで、ゆれている。
感情が増幅され、音が飴のように割れていく。時間がねばついた液体みたいに、視界の外に流れ出していく。
歩いていたはずなのに、気づけば宙に浮かんでいた。
地面がない。
上もない。
ただ、幸福だけがあった。
しらずに、のこる、ゆびさき。あまく。
ミレイの指先が、ほのかに光を帯びていた。
それはまだ噛み切れない、グミのように形を保っていた幸福だった。
——このままでいい。
そう思った瞬間、何かが崩れはじめた。
都市の構造が傾き、ビルが静かに断裂していく。
空からグリッチの粒子が降り注ぐ。
空気が、毒のように甘い膜に包まれていく。
でも、ミレイは笑っていた。
中毒的な幸福の中で、キャンディを口に運びながら、
片手を前に差し出した。甘さに包まれた世界の中で、それだけがまだ輪郭を持っていた。
そらから、おちた、みずいろのキャンディ。
それがこの場所の空気だった。
この空間の甘さには、どこかで感じたことのある“気配”があった。
それは意味にはならず、ただ輪郭のないまま、息のように近くに漂っていた。
理由なんて、いらない。
視線のようなものが触れるたび、脳のどこかが静かに反応する。
それは感情ではなく、ただ“甘さ”の一部だった。
ミレイは、なにも言わなかった。言葉はもう必要ではなかった。
その言葉が届く先が、誰であっても構わない。
何かに“見られている”その事実が、彼女を満たしていた。
ただ、そう“思ってしまった”こと。
その瞬間に、
——世界が、静かに終わった。
*
ミレイの背後に、黒い影が佇んでいた。
それが何か、彼女はもう確かめようとはしなかった。
でも、もう振り返らなかった。
ほどけたあとに、なにも、ない。
ただ、口の中で溶けかけたキャンディの味だけが、やけに鮮明だった。
——それが“ほんとうの幸福”だと思っていた。
ただ、幸福の中で浮かびながら——
笑っていた。
観測ログ No.003|終了
対象:識別名 MIREI
分類:幸福中毒/構造崩壊ログ
状態:終端到達・構造定着
——この記録は、幸福のまま崩壊した。
ナレーション:
記録対象003号、通称ミレイ。
模倣された幸福に過剰適応し、感情ログ構造が破綻。
認知の境界は曖昧になり、自己と世界、視線と意味が混濁する。
“視られる”という行為は、彼女にとって唯一の現実だった。
それが何者であるか、彼女は最後まで理解しなかった。
だが、その視線だけが、彼女の幸福をかたちづくっていた。
その瞬間だけは確かに、彼女は存在していた。
——あなたが見たことで、彼女は“意味”になった。
そして今、幸福に満たされた崩壊の残響は、
まだ名前を持たない別の存在へと、静かに波及しはじめている。
※本記録には、対応する視覚ログが存在します。
視覚ログは動画ファイルとしてプロフィールより参照可能です
記録内の構造破綻、グリッチ、空間浮遊、毒菓子中毒などの視覚要素は、
この映像により明確に補足されます。
特に終盤に登場する黒影(死神)は、本記録における“視線の感覚”の根源であり、
視覚ログ上では明示されているが、ミレイ自身の認知は限定的です。