台無し
リナールが、目の前に立っていた。
観戦している群衆を抜けて決闘場に入り、俺とフェルドの間に近づいてきたところを、俺は見ていない。フェルドも、たぶん見ていなかっただろう。やつは、俺に切りつけようとした戦斧を止めて、呆然とリナールを見てた。
リナールは最初からそこに立っていたかのように、ここにいるのが当然であるかのように、そこにいた。
この"暗黒竜"は、この"異界からの恐るべき干渉者"は、この"虚空の生命"は、この"邪神の影"は――
リナールが存在して不自然でない場所など、この世界のどこにもないし。
リナールが存在していて当然の場所など、この世界のどこにもない。
「困ってるの?」
リナールは俺に、その表面だけを見れば、稚児のような無邪気な声で訊ねた。
俺は答えなかった。
その代わりにフェルドが動いて、俺の目の前で、リナールの頭を吹っ飛ばした。
「観客は席を立つと危ないぜ」
フェルドがふざけて言った。
リナールの頭が飛んで行って、地面を二度、三度、とバウンドした。
しかし四度目に跳ねるはずの頭部はそこにはなく、俺とフェルドの間には、傷ひとつついていないリナールが立っていた。
リナールがフェルドを初めて見た。
フェルドの表情は石のように固まり、一歩下がった。フェルドには、リナールの笑みが、自分を狙う猛獣の笑顔に見えているのかもしれない。無論、そんなことはないのだが。リナールは真の意味では、些細な人間のことなど直視してはいないのだ。
「殺すのは、ダメだよ」
と、リナールは諭すように言った。
フェルドに一歩近づく。
その出足を、フェルドは素早く戦斧で払った。完璧なタイミングだった。リナールの脛から下が消えて、切断された足先がごろごろと転がる。
しかし頭を吹き飛ばされて無事な存在が、足の片方を吹き飛ばされたくらいでどうにかなるはずもなかった。
リナールは何事もなかったかのように二歩目を前に出した。もちろん、そこにはさっきまであった足がちゃんとあったし、戦斧に吹っ飛ばされたように見えた足は、あたりを見渡してもどこにもなかった。
二度目の奇跡を前にして、観客は水を打ったように静まり返った。
「ダメだよ、乱暴は」
リナールの体が、滲むように広がった。
それは闇のように暗かった。まるで世界にぽっかりと穴が開いたかのような。穴の中には何もない。それが音もなく広がって、地面と空をあっという間に覆いつくした。
さすがに観客たちは悲鳴を上げて、我先にと逃げだした。
闇はフェルドの体にまとわりついた。フェルドは「ひぃっ!」と悲鳴をあげてそれを振り払おうとするが、暗闇を振り払えるわけがなかった。
フェルドはまとわりつく闇に、体の自由を奪われて倒れた。
「ば、ばけも――」
言いかけた言葉は、口のまわりを闇に飲み込まれて虚空に消えた。
俺は剣を握ってフェルドの倒れているところへ駆けた。
その勢いのまま、闇からわずかに見えるフェルドの顔に剣を突き立てようとした。
「ダメだよ、乱暴は」
――剣先に闇がまとわりつくと、俺の力ではピクリとも動かせなくなった。
闇は剣先だけでなく、俺の腕までまとわりついてきた。「何もない」はずの虚無の闇が、俺の体を砂のようにぎゅうぎゅうと締め付けた。
そして俺は、フェルドと同じように、決闘場に転がされた。
「ま、待ちなさい! 公正なる決闘を汚す者は帝国の法において――」
果敢にもリナールを止めようと決闘場に足を踏み入れた者がいた。決闘監査官だった。
押し問答すらなくリナールは同じように決闘監査官を闇で拘束して転がした。
一連の様子を見ていた賢明なる帝国軍兵士たちは、近づこうともしなかった。
やがて、遠巻きに眺めていた観客の中から、ぽつり、ぽつりと声が上がった。
「神だ」
「女神様だ」
「いやあれは戦の神だ」
「慈悲深き女神よ!」
やがて声は渦のような歓声となった。
観客たちは誰ともなく跪いてリナールを崇めた。
「どしたの~?♡」
かくして、いと慈悲深き戦の女神は微笑みをもって人々に問いたまえり。