桜花賞に向けて 牧場の希望とレース当日の困惑
「どうですか?」
栗東トレセンにて、有野遊里は藍川調教師へ訪ねていた。
「いい状態です。前走の疲れも感じられませんし、桜花賞には良い状態で行けることでしょう」
藍川の言葉を聞いたタイミングで、愛馬であるアリノネメシアが調教のため2頭合わせで走っていた。
「強い負荷をかけながらも全然へこたれません。本当にあの小柄の馬体でありながら根性がありますよ」
その言葉を聞き、有野は少し昔のことを思い出していた。
父・有野斗真は馬主として剛腕を振るい、オーナーブリーダーとして多くの馬を輩出し、G1勝利をも得ていた。しかしながら晩年においては重賞勝利すらも遠ざかるようになった。また長く馬主生活を送る上で終ぞクラシックには縁がなかった。
そんな父の後を引き継ぎ、馬主になった遊里であったが、受け継いだ牧場にいる繁殖牝馬も高齢化し、牧場のスタッフ陣も長く重賞にも縁遠くなったこともあってかモチベーションも低くなっていた。
『改革が必要だ』
かつての父が剛腕を振るったように自分も剛腕を振るわなければならない。そう考えた有野遊里は改革に乗り出した。牧場にいた繁殖牝馬の半数以上を売り払った。スタッフの中では長く牧場で続いてきた牝系を売るべきではないと申す者もいたが。
『勝てない牝系を大切にするわけにはいかない。牧場のためだ』
彼はそう言って反対意見を退かせて改革を断行した。その結果、牧場から去るスタッフも少なくなかった。
それでも血の入れ替えという名の改革を行い、外国でのセールにて繁殖牝馬を連れてきた。
『この牝馬たちから走る子がいなければ、私たちの牧場は閉鎖することになるだろう』
あまりにもリスクの高いギャンブルであった。しかしこれに打ち勝たずに牧場の未来は無い。
外国から連れてきた繁殖牝馬の胎には既に子が宿っていた。そして、その子が産まれると、有野遊里は失望した。
小柄な牝馬であった。あまりにも小柄で大きくなるとは思えなかった。事実、2歳に至るまで体つきは大きくならず、馬体重も390キロほどにしか大きくならなかった。
この子の下の馬も産まれてから小柄であり、そういう牝系なのかもしれないと思うようになった。小柄過ぎて繁殖として売るにしても売れないだろう。
『賭けに負けたか……』
自分の改革は失敗に終わるだろうそう思う中、昔から付き合いのある藍川調教師から、
『この馬を預からせてもらえないでしょうか?』
と言われた。彼の言葉に嬉しく思いつつも有野遊里は尋ねた。
『こんな小柄の馬をか?活躍できるとは思えないが……』
『体こそ小柄ですが、牧場で他の馬たちの周りにいながらも負けない根性があるように見えます。あの根性があるのであれば、大成できるでしょう』
『だが……いや、あなたがそこまで言うのであれば預けましょう』
藍川の強い思いに振れ小柄な牝馬を預けることにした。この馬がアリノネメシアである。
藍川の元、調教されたアリノネメシアはデビュー戦を馬群の中を縫って飛び出すとそのまま勝利、次走ではスタートの失敗により、2着の敗戦。次走のファンタジーSでは勝利。阪神JFへコマを進めた。
牧場は沸いた。G1へ進む子がついに現れたのである。
『あなたのおかげだ』
有野は藍川にお礼を言う。
『まだお礼を言うのは早いですよ。阪神JFでの活躍を楽しみにしていて下さい』
自信満々に言う藍川の言葉通り、アリノネメシアは阪神JFを勝利、久しぶりのG1馬を有野牧場は得たのである。
『次は桜花賞を目標にします』
藍川の言葉に有野は力強く頷いた。念願のクラシックの1つ桜花賞に挑むことができるのである。父の悲願、自分の悲願。それが叶うことができるチャンスがやってきたのだ。藍川の言葉に何ら反対する理由はなかった。
アリノネメシアは桜花賞への直行ではなく、フィリーズレビューへ出走。そこで馬群の中で突っ込むという形で敗戦した。
『すみません。これは鞍上の腕の差が出ました』
藍川はそう言って、デビューから乗っていた乾を降ろすことを話した。
『一回のミスで降ろすのか?クラシックを目前にして鞍上を変えるというのもな』
『桜花賞で万全を期して勝負するためです。鞍上は真田丸騎手に頼みます』
『真田丸君は乗ってくれるだろうか?』
有野は一度も真田丸騎手に乗ってもらったことはなく、コネも何もなかった。
『去年の後半、外国のレースへの遠征が多かったために今の3歳世代の乗り馬の確保が中々できなかったようです。今回、有力馬に乗れるということになれば、乗ってくれるでしょう』
『そうか……その辺りはあなたに任せよう』
騎手の選定に有野は口をはさむつもりはなかった。調教師の方が騎手との関係は深いであろうし、相性などを読み取る上では調教師の方がわかっているだろう。藍川に任せることにした。
「良い状態でという話であったが、私としては懸念点があるのだが、聞いてもよろしいか?」
桜花賞目前になり、栗東トレセンまで足を運び、アリノネメシアの様子を見に来た有野は藍川に尋ねた。
「懸念点と言われますと?」
「馬体重だ……馬という生き物は3月から4月辺りの暖かくなる時期で体を大きくすることが多いがネメシアは馬体重を含め、馬体面では大きくなっていない。そのような状態でも戦えるだろうか?」
アリノネメシアは前走のフィリーズレビューでの馬体重は410キロで現状の馬体重もほぼ横ばいという状態であった。
「大丈夫です」
しかしながら心配する有野に対し、藍川は力強くそう言った。
「この子にとってのベストがこの状態なのです。問題はありません」
「わかった。私はあの子を走れると言ったあなたを信じる」
ここまで来たら藍川の言葉を、アリノネメシアを信じるしかない。有野は腹を括った。
桜花賞当日
天気は晴れ。馬場状態は良。桜花賞はシンプルな条件での戦いになるだろう。
誰もがそう思っていた。誰もが困惑し、頭を抱えることになるある情報が公開されたのは第9レースの頃である。
『桜花賞出走馬の馬体重を公開します』
放送において桜花賞のメンバー表の一覧に馬体重が公開された。
1番人気・クリスタルガーデン 馬体重445キロ 前走から-9キロ
2番人気・マガノマリア 馬体重450キロ 前走から-12キロ
3番人気・メリルジティ 馬体重450キロ 前走から-13キロ
4番人気・クロマメ 馬体重470キロ 前走から-20キロ
5番人気・ブルーベリースカイ 馬体重430キロ 前走から-14キロ
6番人気・ドナッチ 馬体重442キロ 前走から-8キロ
7番人気・アリノネメシア 馬体重409キロ 前走から-1キロ
8番人気……
メンバー表に掲示された馬体重に多くの者は絶句した。有力馬を始め全頭全て-体重というものであったのである。
G1レースから前走のレース間隔がそこまで短い馬もおり、そう言った馬たちも前走で大きく馬体重を減らしたわけではなかった。中には前々走の馬体重よりも減らしている馬もいた。
「なあに、これぇ~」
桜坂リーナはメンバー表を見て絶叫のような言葉を発した。
「この世代大丈夫?。ちょっと困るんだけど~」
彼女はぎゃあぎゃあと騒ぎながら頭を抱えた。
「取り合えず、本命は変えずに行くわ。クリスタルガーデンで」
元々本命にしようとしていたクリスタルガーデンは馬体重は減らしていたが、まだ下がり幅はマシに見えた。また本命をここにきて大きく変えることの方がリスクがあると彼女は判断した。一方、このレースに賭ける金額は減らした。
「パドックを見て、馬体重の減らし方で影響が出ている馬はいなそうに見えるが……」
須藤カミラは桜花賞のパドックを見ていた。
全頭馬体重-という事態に彼女は困惑していたが、パドックを見て見ると大きな影響は無いと思えた。だが、目の前で見せられている馬体と提示されている馬体重のギャップは強くあった。
「本命はクリスタルガーデンにするよ。一番、馬体と馬体重のギャップを感じない。1番人気を信じるとしよう」
このレースは元々の自力が大切なレースになると彼女は判断していた。
「困りましたね……」
青澤セイナは困惑していた。
全頭-馬体重の状況に困惑しながら彼女は自信の予想に大きく修正をかけた。
「今回のレースにおいて大事なのは馬体重を全頭減らしているということです。つまりその一点において血統的なアプローチをかける必要があります」
彼女はこういう条件であれば、その条件での血統的なアプローチをかけることに切り替えた。
「本命はアリノネメシアに、彼女は馬体重の変動において大きく影響されない血を持っています。早熟面においての問題はありますが、パドックにおいてはその早熟性からの枯れた印象は受けません。良い状態を維持した状態でこれている印象があります。このレースで警戒すべきはブルーベリースカイです。直行でありながらこの馬体重の減らし方は異常です。評価するわけにはいきません」
セイナは本来の予想を完全に買えて、本来評価していない馬を本命にすることにした。彼女はこれほどの大きな修正をかけるタイプではない。だが、それほどに今回の状態は特殊な状態になってしまったと彼女は判断したのである。
多くの者の困惑と動揺をもたらした桜花賞のメンバーによる桜花賞は如何なる結果になるのか。誰もが予想しきれていなかった。