高松宮記念 激流の決戦
高松宮記念当日
鼻歌を歌いながらほっそりとした男が歩いていた。
「市川さん。機嫌いいっすね」
マガノジャスミンの鞍上・山村浩太がそう尋ねる。
「引退レースでのエスコートを頼まれているからね」
「はあ、それが嬉しいんですか?今日乗るシルヴィアシルバーって前に乗っていたことありましたっけ?」
「いや、今日が初だよ」
「初なんですか……」
お手馬で引退レースを乗れて嬉しいというのであれば、わかるものの初めて乗る馬の引退レースに乗れることを喜んでいるのを見て、不思議な人そうに見る。
「引退レースに乗せてもらえるということはそれだけ信頼されていると思うのでね」
「はあなるほど」
「だから……」
市川はパドックの方を見る。
「答えなければなと思うんだよね」
パドックの様子を見て、桜坂リーナは難しい顔をしていた。
「なんなのこれ……」
『やべぇのしかいない』
『すげぇ気性難の集まりって感じのパドックで草』
『ちょっと馬体以外の要素で問題あるやつばっかw』
先ず1番人気・アカキラグーン、発汗しながら首をぶんぶん上下に動かして落ち着かない様子。
2番人気・マルロー、周回中ずっとチャカチャカしており、落ち着かない様子。馬体は良い。
3番人気・ロロノア、厩務員の人が必死に止めているが、パドック内にてダンスしてしまっている。
5番人気・スラッシャージオ―、発汗している。そこは良いとして馬体重が調教後馬体重が524キロの発表であったのが現在、494キロ。30キロ減である。前走と比べても20キロ減である。何があったのだろうか?
その他の馬たちも大なり小なりで気性難の一面を見せて、暴れる馬もいた。
そのためやけに大人しい12番人気・シルヴィアシルバーと厩務員にデレデレで、首をくっつけているマガノジャスミンが異質に見えるぐらいである。
「なんなのこれ、本当になんなのこれ……」
『上位人気の馬買いたくねぇ』
『馬体の良さだけならマルローとスラッシャージオ―か?』
『スラッシャージオ―はマジで何があってあそこまで馬体重落としてるん?』
「うーんどうしたもんかな……」
コメントを横目にリーナは悩みながら、シルヴィアシルバーの単勝と複勝を買う。がんばれ馬券である。
「おいおい、このパドックの様子はやべぇだろ」
安西、坂井、高坂の3人組はいつものカラオケ店の一室を借りて見ていた。
「スラッシャージオ―の馬体重が」
「減り過ぎっす。調教後馬体重から多少変わるにしてもこれはっす」
「本命を変えざる負えないですね」
スラッシャージオ―を本命にしようとしていた坂井は本命を変えることにした。流石にこれほどの馬体重の減り方をする馬を買うのはリスクあると考えたのである。
「これ絶対荒れる。穴党としては面白そうだが」
「荒れるにしてもどう荒れるかっすね。俺はマルロー本命は変えずにいくっす。馬体は大丈夫だと思うっす」
「俺はマガノジャスミンのままだ。このパドックの中でデレデレになれる図太さを評価するぜ」
「私はアカキラグーンにします。ここは一周回って一番人気を信じます」
三人は買う予定だった馬券内容を修正しながら買い始めた。
「これは困ったね……」
須藤カミラは画面上で困り顔を見せながらパドックを見ていた。
「元々スラッシャージオ―は馬体重の増減という意味では変化の激しいところはあった。何せ412キロしか元々無かった子だったからね……しかし他の子たちもパドックでの様子がこれだとなあ……」
彼女は馬券の組み方に迷っていた。本命のスラッシャージオ―は変えるつもりは無い。しかし問題は相手であった。
「馬体だけならスラッシャージオ―とマルロー。そこから流しても複式が売れていることもあっていいオッズじゃないね……」
買っている人間が置きにいっているのを感じる。
「ここまで来ると見のレースだね……」
配信でなければ買わない判断をするだろう……そう思いながら彼女は馬券を組み始めた。
『今回のレース荒れますかねぇ?』
コメントで流れるそんな言葉を尻目に青澤セイナはパドックを眺める。
「今回のレースはオッズ割れを起こしているレースですが、パドックの状態も状態であることから複式で買うとなると案外つかない状態になってしますね……だからと言って単式を取るにはリスクがある……難しいレースになりました……」
彼女は目を細める。
「まあ、私は事前の予想での買い方からほとんど変えるつもりはありません。今回のレースの鍵は距離短縮だと私は考えています。まあ、パドックの様子から本命にするべきは……」
『スラッシャージオ―の馬体重の減り方って大丈夫なのでしょうか?』
そんなコメントが流れたのを見て、彼女はこう答えた。
「個人的には問題無いと思っています。昔あのレベルほどではありませんが、似たレベルでの増減をしてG1勝利した馬もいましたからね……そう言えば、その馬と共通した血を持っていますね……血統における馬体重の増減への影響に関して研究したことありませんでしたね」
青澤セイナは血統論における記事の投稿や動画を作成も行っている。そのためのネタができたと彼女は喜び始めた。
『また始まったよ』
『いつものことだよね』
『読み応えあるから新しい記事楽しみ』
リスナーからすると彼女のこの様子は慣れたものであった。
『さあ、本日は中京競馬場で行われますG1レース高松宮記念』
実況の声が響く。
『今回のレースにおけるオッズ一桁人気の馬が7頭と、人気が割れています。正に群雄割拠。さあこのレースを制し、スプリント界における主役となるのはどの馬なのか』
出走馬各馬がゲートへ入っていく。
『さあ、全頭ゲートに入りました。ここからは瞬き厳禁、高速のレースが今、この尾張の地で始まります。高松宮記念……今、スタートしました』
ゲートが開き、各馬スタートしていく。
『おおっと、2番人気マルロー、少し出遅れたか』
「ひい、マルロースタートが」
「まだマシですよ。それよりも問題は……」
高坂に坂井がそう言った後、安西を見る。安西はその視線に頷く。
「ロロノア、しっかりスタートできたな」
『先ず、先頭をいくのはマガノジャスミン、それに競りかけるのはロロノア、スタートに成功したロロノア本来の走りを見せることはできるのか』
ハナをきったのはマガノジャスミンであったが、それに競りかけるのはロロノアであった。
『1番人気アカキラグーンは中団7番手、内に控えています。スラッシャージオ―は中団少し後方、更に後ろにスタート出遅れたマルロー。最後方にはこのレースが引退レースのシルヴィアシルバーです』
実況が隊列を述べていく。
「山村のやつ……」
安西は苦々しく呟く。
「ロロノアにハナを譲ればいいだろうに譲らないのか……」
ロロノアがハナを取ろうとするのをマガノジャスミンは譲らなかった。そのためかレースのペースが上がっていっている。
「マガノジャスミンもそこまで気性がいいわけではないですからね。下手に譲るとそれはそれで問題が出そうですから難しいところでしょうね」
「山村騎手もまだ5年目っすからね」
「だが、このペースは困るぞ……」
『600m通過。通過タイムは……これはハイペース、これはハイペースです。各馬コーナーを曲がっていく』
先頭を走る2頭によってレースのペースはハイペースなものとなっていた。
「早いねぇ……」
市川は体感、事前の予想よりもハイペースになっているのを感じた。
「こうなるとデッドゾーンは7馬身といったところかな?……だけど、焦ると危なそうだ」
動き出し始めた他の馬たちと騎手の様子を眺めながらそう呟いた。
「ここで動かないと勝てないはずだ」
マルローの鞍上・若林隼人が動き出した。ただでさえスタートに失敗してしまっている。しかし、このハイペースは後方勢にチャンスが生まれている。
マルローがポジションを上げていった。2番人気のこの動きに他の馬たちも騎手たちも反応し始める。
スラッシャージオ―の鞍上・淀川は舌打ちした。
「早すぎる……」
マルローの動き出しが早すぎた。そのため他の馬たちとの直線でのポジション争いが想定よりも早く、激しくなり始めた。
「動くか……いや動くべきでは、だが動かなければ前に届かない……」
予想以上の早い展開になってしまった以上、動かなければならないと判断した淀川も動き出した。
「引かないか……」
山村はマガノジャスミンに競りかけるロロノアによってマガノジャスミンが興奮し始めているのを感じていた。
最近、マガノジャスミンが馬群での我慢が効かなくなっていたことから今回のレースでハナをきる馬が少ないこともあり、ハナを切るよう指示を受けたが、ロロノアがスタートに成功して競りかけてしまったため我慢が効かなくなってしまっている。
ただでさえトラブル明けの馬であることもあって、このレースでのマガノジャスミンのコントロールが難しくなっていた。
「後ろも動き出してきた」
直線に入り始める前に動き出している馬たちを感じながらここからどのように粘るために腕を動かしていく。
一方、ロロノアの鞍上・鈴村は焦っていた。
(スタート上手くいけたのに、これ以上、前にいかない……)
マガノジャスミンとハナ争いをしたいわけではなかった。スタート出た後、思ったよりも前に行こうとロロノアがしないことから必死に前へ進ませている結果、ハナ争いをすることになったのである。
(ゴールに向かって動かないと)
鈴村は直線に入り、鞭を討つ。
『さあ、直線に入り、マガノジャスミン、粘る。鈴村鞭を打つがロロノア伸びない。ここで後方勢が突っ込んでいく』
ロロノアが落ちていく中、他の馬たちが上がっていく。
『外からスラッシャージオー、マルローが上がっていく。おっと内の馬群から上がっていくのは1番人気・アカキラグーンだ』
内でぐっと我慢をしていて、他の馬たちの動きを冷静に見続けていた鞍上のカルロスの促しを受けてアカキラグーンが馬群を割って上がってきた。
「内から来るか」
「カルロス騎手、上手いっす」
三人は激流のようなレースの流れの中、ずっと動かずにいながら最高のタイミングで動き出してきたカルロスの判断とそれに答えたアカキラグーンに舌を巻く。
「アカキラグーンが内を割って上がっていく。マガノジャスミン、厳しいか。外から上がっていくスラッシャージオーとマルロー、僅かにマルローの脚が鈍いか」
仕掛けるタイミングが早すぎたこともあり、マルローの脚が上がり始める。
それを尻目にスラッシャージオ―は先頭に立ったアカキラグーンを捕らえようとする。
「さて、デッドゾーンギリギリだ……さあ、君の受け継いできた末脚をお披露目といこう」
市川はそう呟き、鞭を振るった。すると一気にシルヴィアシルバーが加速していった。
『おおっと大外からシルヴィアシルバーだ。シルヴィアシルバーが上がっていく』
後方からごぼう抜きしていき、更にスラッシャージオ―の横をすり抜けていった。
『シルヴィアシルバーが凄まじい末脚で数多の馬を薙ぎ切って今、1着でゴールイン。老紳士・市川忍に導かれて、引退レースを見事、勝って見せたぞシルヴィアシルバー。2着はアカキラグーン。3着スラッシャージオ―です』
「マジかよ。後方からごぼう抜きしていきやがった」
安西が思わず叫ぶ。
「凄かったですね。ペースの恩恵は受けたとはいえ、頭を取り切るとは……」
「本当っす。それにしても馬券外したっす……マルロー4着っす……」
「私はなんやかんや本命はいるので、3連複は取れました。念には念を入れてシルヴィアシルバーを入れていてよかったです」
高坂は嘆き、坂井は安堵しつつも途中で本命を変えたりしていたこともあり、スマートな当て方ではなかったと反省を口にする。
「マガノジャスミンは5着。はあ、ただあそこまでちょっかいかけながら5着に残ったのは思ったよりも評価良くなったわ。次も買いたい馬だな」
外した安西は元々穴馬からの当たったらいいな馬券であったこともあり。外したことへの悔しさはなかった。一方、マガノジャスミンが想像以上の走りをしたと評価した。
「でも、勝ったのは引退レースだった馬ということは短距離界の主役は未だいないってことになるっすかね」
「うーんどうでしょうね。他が弱すぎるというわけではないでしょうが……」
「まあ、今回のレースだけだと難しいが……スプリンターズは別のところから出てきそうな予感は感じるな」
2人の言葉に安西はそう言った。
「うーん3,4着か……まあ仕方ないね」
カミラはそう言った。本命、対抗が3,4着の決着に関しては馬券上よくある決着である。しかしながらまさかシルヴィアシルバーが1着を取るとは思っていなかった。
『なんというか。冷静な騎手と慌てちゃった騎手の差が出たって感じ』
「結果的にはそうだね……」
今回、先頭2頭によってハイペースを演出されて先頭との距離が広がり過ぎるのを嫌がった騎手たちの動きに関して、結果として早すぎた……そう言うのは簡単だろう。
実際、逃げ馬たちの走りを好き勝手やらせてしまい、馬身差を付けられてしまったことで追いつけずに波乱の結果となったレースの際、後方に控えて動かなかった騎手たちは批難の的にされた。
そのため今回のレースで動くのが早かった騎手の気持ちは大いにわかる。
「ただそれでも結果として、ギリギリまで動かずにチャンスを伺い続けたカルロス騎手と市川騎手がワンツーというものになりました」
騎手としての判断で2人の判断は他の動きに流されることなく、仕掛けどころを伺い続けた。カルロス騎手は内で馬に囲まれながらも動かずに我慢し続けた。パドックの様子を踏まえるとよく我慢さしていたどころか馬群を潜り抜けさせてもいる。
「流石は名手というべきだね。1番難しい動きをしたのはカルロス騎手とアカキラグーンであることは確かだ。一方、展開が向いたのはシルヴィアシルバーと市川騎手だね。まあ途中、途中でしっかりとポジションを動かしているのだから食えない人だよ」
「3連単と3連複が当たりました」
青澤セイナはそう言った。彼女は本命にしたのはシルヴィアシルバーであった。
「距離短縮で結果を出せる血統の馬を選ぶという形にしたのが上手く嵌まりました」
『流石です』
リスナーたちがそう言って褒める。
「今回、距離短縮に、馬体重の異様な増減、気性難、ローテの問題、様々な問題を抱えた馬たちが多かったレースでした。どの要素を重視し、どの要素を切り捨てるようにするのか。それが難しかったレースでした。そこを解決するには血統の要素を理解しなければならないのです」
彼女はリスナーたちに向かって言う。
「その知識を深めることができるために見るべきものがあります。それは何か?。それは私の研究レポートなのです」
青澤セイナは自分の研究レポートの宣伝を行いながら配信を終えた。
「おめでとうシルヴィアシルバー」
桜坂リーナは高松宮記念の結果を見ながらそう言った。
「良い産駒をいっぱい残してな」
ぷしゅっとビール缶を開けて彼女は今後のシルヴィアシルバーの前途を称えながらビールを飲んだ。