人魚の涙
ある夏の日のことだ。
俺はいつも通りに、あの浜辺へ向かった。
そこは、何が原因なのか観光資源として整備されることなく放置された、静かで寂れたところだった。人がいることは稀にしかなく、一人で静かに物思いに耽るのにこれ以上ないほど適した穴場だった。
その日は、珍しいことに先客がいた。大胆にもシートも何も敷かずに砂浜に直接、横になっている。
?いや、あれは苦しんでいる?
「……大丈夫ですか?」
おそるおそる問い掛ける。人が倒れている現場に立ち会った経験などあるわけがない。助けなければという使命感に似た想いと、失敗したらどうしようという責任を疎む想いが、重なり合って絡み合い、俺の体を縛り上げていた。
「ぅ……お水、お水ちょうだい……」
幸いにも意識はあるようだった。
「水、水か。すぐに持ってきます!」
その人の言葉を聞いて、俺は周囲をキョロキョロと覗った。寂れた場所とはいえ、現代のそれなりの町にある浜辺である。幸いにも自販機がすぐ近くに鎮座していた。
自販機を見つけた俺は、ほぼ反射的な動きで走り出し、ズボンの尻ポケットに突っ込んだ財布を取り出した。
自販機の前にくれば、財布を開きデカデカと目立つ500円玉を摘みとる。自販機の硬貨投入口に乱暴に突っ込んで必ず一つはラインナップに並んでいるスポーツ飲料のボタンを連打した。
ガコンっと、ペットボトルが取り出し口に落ちる音。それに続けておつりの落ちる軽い音。
焦りが動きを鈍らせる。未だに心の縄が体を縛り上げているらしい。
貧乏性が脳裏をよぎり、今はそんなことをしている場合ではないとさらに考えを巡らせる。
結局、乱暴にまずおつりを取り出して財布に突っ込んだ。
ペットボトルを取り出して、握る手の平に感じる冷たさが、幾分か冷静さを取り戻させる。
要介護者の元へと駆け出した。
「お水持ってきましたよ!」
「ん……ありがとう……」
辛そうな表情でそれでもその人は、自身の力のみで起き上がった。
そこまでではないらしい。おそらく熱中症だとは思うのだが。
こちらでキャップを外し、ペットボトルを手渡した。ちゃんと握ってくれるのか不安だったが、思いの外しっかりとその人は受け取った。
ペットボトルの行方を目で追って、ようやくその人の顔立ちが目に映る。
女性だった。気づいていなかったわけではないが、特異な状況に気が動転してそれを意識していなかった。
弱った苦しげな表情は、庇護欲を掻き立てるどこか妖艶な美人だ。
「ふぅ、美味しい……」
思わず漏れたのだろう吐息と言葉。何ら普通のそれが、俺の心をざわつかせる。
「大丈夫ですか?立てるのなら、日陰の方に移動できますか?」
「えぇ、ありがとう。そうよね、日陰の方に向かいましょう」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
ノロノロとではあったが、彼女が思いの外しっかりとした足取りでふらつくこともなく日陰に辿り着き、改めて座り込んだ。
俺は、しばらくオロオロとしたものの、結局、ほかにやることもなく、ただ心配があったから、隣に腰を下ろした。
僅かな間の沈黙。気まずい空気に、俺の時間は人気アニメの遅延工作の如く引き延ばされた。
そんなこちらの内心を知ってか知らずか、落ち着いたらしい彼女の方が口を開く。
「ありがとうございました。もう大丈夫です」
「そうですか、良かったです。あの、何をしていたんですか?」
会話の繋げ方が我ながら下手だ。もうちょっと重ねて心配の言葉を掛ければよかったじゃないか。初めての経験に、僅かな興奮と混乱が思考を迷走させる。
「ふふ、笑ってくれる?実は、読書に夢中になって倒れちゃったのよ」
「え?あーはは……それは、確かにちょっと笑い話かもしれませんね」
「でしょう?今度からは気をつけなくちゃいけないわ」
意外な理由に思わず苦笑が漏れる。幸い、彼女が不快に思った様子はなかった。
「でも本は持ってなさそうですけど」
「もちろん、スマホで読んでいたのよ。現代っ子ですから」
「なんか言葉選びが古いような……」
「えぇ!?私が年増に見えるって言うの?!」
「え、いや違くて、その、お姉さんは若くて美人です、はい!」
「ふふ、ありがとう」
「えっと、何の本を読んでたんです?」
「あぁー照れてる!」
女性に年齢に関係する話題は地雷だった。ちょっと揶揄われたが、割とあっさり彼女は解放してくれた。
「もちろん、海辺で読んでいたのですから、『Den lille Havfrue』です」
「あぁ、『人魚姫』か」
「え、わかるんですか?」
「あぁ、人魚について調べたことがあるんです」
彼女が読んでいたのは、日本では『人魚姫』のタイトルで知られる悲恋童話だ。生前全く評価されなかったデンマークの童話作家アンデルセンの描いた作品である。
「へぇ、どうして人魚を調べようと?」
「昔、人に言われたことが気になって。『人魚は涙を流さない。それは海の中で生きるからで、彼女たちの感情表現の多くは笑顔で行われる』って感じの設定なんですけど。その人のオリジナルだったのか、全然、似たような話がでてこなかったんですよね」
「ふーん、でも、『人魚姫』も人魚の時には涙を流していないわよ。その人は、そこから想像したのかもしれないわ」
「そうでしたかね。まぁ、そんなわけで人魚についてはちょっとだけ知識があるんです」
たわいない会話がしばらく続いた。ほんの些細なきっかけがまるで運命のように長く長く時を作った。
名前さえももう忘れてしまったアイツに感謝しよう。人魚を調べるきっかけとなったアイツに感謝しよう。
楽しい時間はあっという間だ。
「さてと、じゃあそろそろお互い帰りましょうか?」
「そうですね。もう夕方ですもんね」
夕日に赤く煌めく海が広がって見えていた。
「あの、名前を聞いても?」
「それは今度また会えたらにしましょう。真っ赤な海に嫉妬されちゃうわ」
「人魚姫は祝福してましたよ?」
「それは王子だったからでしょう?」
『人魚姫』に絡めての会話はなんだか自分が賢くなったかのような優越感を味わえる。これを普通の友人とやれば、痛い人扱いを受けるだろう。今時、わざわざ書籍の表現を引用するような回りくどい会話なんて誰もしない。
「そうかもしれませんね。ではまた会える日を楽しみにしています」
「大丈夫、すぐ会えるわよ。きっとね?」
……
あれから10日後。早いのか遅いのか。あの人とまた会えた。
今度もあの浜辺で、彼女はスマホ片手にまた読書をしているようだ。懲りていないのか結局、日向に座って読んでいる。
「こんにちは」
「ん?あ、こんにちは。また会えたわね」
「はい!でも、こんな日向にいたらまた倒れちゃいますよ?」
「大丈夫よ、あなたが助けてくれるもの」
「えっと……」
「ふふ、冗談よ。でも、必ず助けますくらい即答してほしかったわ」
「すみません」
遊ばれてるな。でも、嫌じゃない。
「私は、リエって言うの、あなたは?」
「俺は、リンって言います」
「へぇ、リンか良い名前だね」
「リエさんだって綺麗な名前ですよ」
約束通り、彼女は名乗ってくれた。それが堪らなく嬉しい。
「今日は、何を読んでいたんです?」
「今日はねぇ」
また、たわいない会話が始まる。
……
夢を見る。アイツの夢だ。
『―――』
何か叫んでる。
『これだけは、覚えておいて』
あぁ、どうして俺はアイツのことを忘れていってしまうのだろうか?
『――は、――に―を流すの』
アイツは何故いなくなったんだったろうか?
あぁ、そう言えば、あの浜辺を見つけたのはアイツだったな。
……
「どうしたの?」
あれから俺はもう何度もリエと会っていた。夢を見たその日も会って、彼女が心配げに問い掛けてくる。
「夢を見たんだ。思い出したい夢を」
「そうなんだ。じゃあさ、キスして良い?」
「え、なんで?」
口調はすっかり砕けたものになっていた。気安い関係、友達以上恋人未満のような淡い距離感、それでも俺たちはどこかに一線を敷いていた。
それは俺がまだ未成年だったかもしれないし。ただ俺が臆病なだけだったかもしれない。
しかし、唐突に彼女は一線をあっさりと越えてきた。
「キスってさ、愛の魔法じゃん。白雪姫もイバラ姫も、王子様のキスで目を覚ますんだ。それなら私のキスで君が思い出したいことを思い出せても不思議じゃないでしょ?」
それはフィクションだから。
喉元に出かけたその言葉をなんとか飲み込む。
これは、彼女なりの告白だ。そう思いたい。
実は、額に接吻とかかもしれないが、それでも構わない。そういうちょっと微妙なラインになったら、こっちから改めて告白してやろう。
よし、そうしよう。
「なるほど、そうかも」
「キスする?」
「あぁ、試してみよう」
俺たちは互いに向き合って、ゆっくりと顔を近づけていく。ゆっくりとゆっくりと。
ふとよぎる。リエの言った愛の魔法。
魔法か。
『これだけは、覚えておいて。人魚は、魔法を掛ける時に涙を流すの』
靄が晴れる。
リエの瞳が潤み、一滴の涙がホロリと流れるのが見えた。
俺は、身を引いた。
「リン?」
リエの瞳から潤いが失われて、悲しげな笑みが浮かぶ。
もう止まらなかった。疑いが溢れ出した。
そして、思い出したことがある。
「……お前は、誰だ」
「リエだよ?どうしたのリン?」
「リエは、アイツの名前だ。お前じゃない。お前じゃないんだ!」
リエ、いやリエの振りをしていたモノから表情が消える。
「偽りでも幸福は幸福だ。リン、キスをしよう」
最後の宣告だろう。もはや、隠し立てする気はないものの、それは未だ諦めてはいないのだ。
ポロポロと涙が溢れた。それでも俺は、俺は。
「お前に魂はあげない」
「そうか……残念だ。やはり愛には敵わない」
そう言ってそれは、海に帰っていった。
……
人魚の最も知られるイメージは、アンデルセンの作り上げた『人魚姫』だろう。
しかし、人魚には人外故の怪物のようなイメージも付き纏う。
キリスト教圏において、中世に考案されたとする悪徳の源泉という思想。人に罪を犯させる人が抱えた七つの大罪。
その一つ。『嫉妬』を象徴する怪物が正に人魚だとされている。
人が当たり前に有する文明の利器の数々は、その多くが海中では使えない。その利便な陸上の生活は、人魚たちからすればまさに楽園であろう。嫉妬するのも致し方無し、というのは俺の個人的な考えにすぎないが。
色々な地域の民話で、人魚の一種とされる怪物たちが気に入った人を攫っていく話はありふれている。
やっぱ恋愛モノは苦手です。最後はちょっとしたホラーに逃げてしまいました。
評価のほどよろしくお願いします!