見るということ
本日の交差:生物捕獲ユーチューバー(日本)
俺が例のごとく『交差』したときには男──三十歳ぐらいの若い男は川の浅瀬にいた。なんでもガサガサというのをやるらしい。沼口は聞いたことあるか、ガサガサって言葉。川の茂みや石の隙間に網を突っ込んで魚、カエル、亀を手に入れる行為のことらしい。川なんて久しく足を突っ込んでいない俺にとってそれは全然知らない世界の行為だったよ。
まあ『交差』って未知との遭遇の繰り返しだけどな。
男はGoProを起動してヘルメットに装着するといきなり独りで喋り始めた。何が起こったのか俺には最初分からなかったが、その男が動画の撮影をし、話すことのすべてを録画していることが分かる。話し相手は動画をこれから見る視聴者に向けてのものだった。
ガサガサを開始した男は次々と網のなかに生き物を入れていった。
「ウシガエル、ぶくぶくと太ってますねー。これも特定外来生物」「コイは基本的に外来種ですけど、こいつはニゴイなので日本固有種ですね。リリースします」「アカミミガメ、でかいですね。こいつも外来種です」「ブルーギル、小さいながらもこいつも立派な特定外来生物です」「フナの仲間だ。こいつは在来種ですね」「ニホンイシガメ、今日はほとんど見かけませんね。日本固有種です。外来種に住処が追いやられちゃったのかな。もちろんリリースします。元気に生きてね」
男は饒舌に図鑑もないなか生物の名前も特徴もしっかりと言ってのける。俺はそれが正しいかどうか分からないが、きっと正しいのだと『交差』しながら思う。
網は重みを増し、アカミミガメは積み上げられる。空が赤みがかったところで男はガサガサをやめて川からあがった。大きなプラスチック容器にアカミミガメ、そして別の容器にはウシガエルたちが入っていた。男はそれらを今回の結果として独りで喋る。
ここまでは楽しい生物捕獲でしかなかった。『交差』がここでおわっていればよかったが『交差』はそんな事情を加味してくれない。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。
男は「特定外来生物は生きたまま持ち帰ることができません。ここでシメて持ち帰って爬虫類さんたちの餌にします」と明るく語ってヘルメットを取りGoProの電源を切った。どうして録画しないのか最初は分からなかったが、車からキリを持ってきたことでようやく俺は察した。「おいやめろ」と俺は思っても『交差』している間は誰にも言葉は届かない。映画『マルコヴィッチの穴』のように相手に違和感を与えることもできない。
若い男は慣れた手つきで暴れるウシガエルをおさえ頭部にキリの先を突きつける。ウシガエルは自身の運命を察したかのように男の手のなかで暴れるがもう逃げられない。男がキリを持つ手に力を入れるとキリの先端はウシガエルの頭のなかに入り、アゴから出てきた。ウシガエルは暴れることなく即死した。即死したウシガエルを男はビニール袋に入れると手には新たなウシガエルがいた。以下、繰り返し。
本日の『交差』はシメの最中におわる。
△
田中と知り合ったのは随分前のことだ。
出会ったのは田中が僕の務める図書館に異動してきたときだった。打ち解けるのに二日もいらなかったと記憶している。僕にとっても田中にとっても、女性がほとんどを占める図書館という職場では常に話し相手の男性が不足していた。
「スマホ、よく見てますけど何かソシャゲとかしてるんですか?」
田中が初めて話しかけたのは昼休みのときだった。
「プリコネとかウマ娘ですね」
「ウマ娘、話題ですよね。でも私はやってないんですよね」
「田中さんは何かやってるんですか?」
「パズドラを少しだけ。ガチ勢とかではないですね。沼口さんはどうです?」
「パズドラは話題だけしか聞いたことないですね」
共通する話題のなさに我ながら絶句した。たぶん田中もこの時は絶句していたと思う。
しかし話し相手不足からくる寂しさは共通する話題のなさに勝った。僕は田中とすぐに打ち解けくだらない話をするようになった。
「図書館でエセ科学本を置くのって正直どう思う?」
打ち解けてきた田中は気付けばタメ口で話しかけてくるようになっていた。かつての丁寧語が懐かしい。
「心情的にはダメだけど、図書館は本を差別しちゃいけないからね」
「俺は納得できないんだよね。エセ科学に騙されるお爺ちゃんたちが可哀そうで」
「でもそれを選ぶ側の自由は保証されなきゃいけないし、図書館は正しさを決める所じゃないから」
「そこも分かってるけど、やっぱり納得できない。どうせああいう医者たち、ワクチン打つとか思うとさ」
くだらない会話を何度もやり取りしていると田中に心境の変化が表れた。
あれを田中が告白してきたのは僕と完全に打ち解けて今いる図書館の業務にも慣れたころだった。
僕が弁当を食べているとき田中が唐突に言った。
「俺、このまえエセ科学の本を作ってる人になってたんだよな」
言葉の意味が分からず僕は食べるのを止めた。しかし田中は言葉を続ける。
「と言っても本屋に並んでいる本じゃなくてオンデマンド出版。マイクロソフトオフィスでデータ入稿された原稿を製本するんだけど、その人はデータチェックを任されてた。これがとても地味な作業で、レイアウト崩れや目次とページミスをしっかり調べなくちゃいけない。でもここでミスったら顧客もブチ切れるから手は抜けない。書かれた文章はすべてエセのバカみたいな科学論だったけど、でもその人はミスを発生させないために一生懸命だったんだ。だからそういったバカな本を作る人、すべてを小馬鹿にするのを止めようと思った」
「田中は副業してるの?」
「違う違う。俺の仕事は司書一つだけだよ」
「じゃあ今の話はなに? 何が言いたいんだよ」
「あーそうだよな。物事は順番に話さないといけないよな。待ってくれ、いま頭のなかを整理するから……」
そうして頭のなかを整理した田中が言ったのはあまりにも突拍子もないことで、とても信じられそうにない話だった。
田中は寝ているとき赤の他人のなかへと入っていき、その人と同じ視線で物事を見る。その人が見るものを田中も一緒に見る。その人が右を向けば田中も右を向く。それが何時間も続く。
このことを田中は『交差』と言った。「憑依じゃないのか?」と僕が言うと「相手に影響は一切与えないから憑依と呼べないだろう」と言ってきた。どうやら田中が入り込んでいる違和感すら与えないらしい。気付かれたことは一度もないそうだ。
それに加えて田中のこの『交差』の相手は主に数日後の未来の他人にのみ起こる。過去へは飛ばず現在でもないらしい。それがなぜ分かったのか田中に聞くと「『交差』の場所が日本だったときに夜だった試しがないし、日付が見えるといつも数日後だった」という。
「僕がその話を信じると思う?」
田中の長い『交差』の話を聞いた僕の答えはこれだった。当然だと思う。エセ科学本に難色を示した人物から出るオカルト話を信じれるほど僕は寛容ではない。
「信じてもらえると思うから俺はこうして堂々と語ってる」
「それは信じられる証拠を見せてくれるってこと?」
「もちろん。俺の『交差』はさっき喋ったとおり未来視になる。つまり予言だな。その予言を沼口に信じさせる」
僕は失笑しそうになるのを堪えつつその予言を聞いた。
その予言は前代未聞の噴火がニュージーランド近くで起こり、その波が日本にまでやってくるというものだった。田中はそのニュースを見るどこかの男性と『交差』したらしい。
僕は「そうなんだ」とそのときは聞き流した。
夜、その波はニュージランドから日本へちゃんとやってきた。
△
本日の交差:ホームレス(日本)
最初は視界が何かに覆われていて何も見えなかった。しかし男の意識は確かにあった。呼吸とつばを飲み込む音と無数の足音が聞こえていた。俺はついに犯罪被害にあう一般人に『交差』してしまったのかと焦ってしまった。しかしそれは杞憂におわる。
視界に映ったのはブルーシートだった。そのなかに男はいる。立ち上がれるほど天井は高くないのでしゃがんだまま横に置かれた飯をほおばった。肉、カレー、カレーパン、お茶。起きたばかりとは思えないほどたくさん食べるし、どれもこれも脂っこいものばかりなので俺は胃もたれしそうになる。(といっても『交差』中、俺の体の感触なんてこれっぽっちもない)
一通り食事のおえた男はブルーシートのテントから出た。俺は男がキャンプ場に泊っている人間である可能性を捨てていなかったが、視界に広がった光景が上野駅前の通路であることからこの男がホームレス以外の何者でもないことが分かった。
男は駅構内にあるトイレでうがいをする。うがいのあとブルーシートのテントに戻るかと思いきやボロボロの靴を履いたままどこかへと歩いていく。目的なく、病的に歩くわけではなく男の足取りは思いのほかしっかりしていた。あえて視界に入れようとしないサラリーマンたちのことなど気にせず歩き、たどり着いたのは上野公園だった。
上野公園には同じようなホームレスが集まっていた。これだけおじさんが揃っていてビールを飲んでいないのは不思議な光景だ。そう俺はステレオタイプなことを考えていたが、彼らが求めていたのは炊き出しでありビールではなかった。
「神様は一人一人を祝福します。食事と健康のために神様に御言葉を聞きにきたあなた方に今日も恵みがあることを祈り──」
炊き出しの団体はボランティアやNGOではなく宗教団体だった。ホームレスに話なんかしてどうするんだと疑問に思うほど彼の言葉は長く続いた。俺は男が文句も言わずに「アーメン」「ハレルヤ」を適当に言うことに感心してしまう。そうでもしないと炊き出しがもらえないとはいえ従順すぎる気がした。利害関係の一致なんだろう。
ビスケットとご飯と唐揚げ。それが男の得たものだった。そのまま、またどこかへ行くのかと思ったが自分のテントへと戻っていくだけだった。
だがそのテントには人がいた。ホームレスではないちゃんとした身なりの人。そして若い。複数人。金属バットを持っている。俺はともかく、これまで声すらあげてこなかった男ですら露骨に震え出した。恐怖に呼吸が乱れる。
俺の『交差』はここでおわる。
△
田中が『交差』の内容について詳しく話したいと提案してきたのは『交差』について告白した一週間後だった。
「詳しく伝えるためにメールアドレスを教えてくれ」
「なんで?」
「ツイッターのDMじゃ文の連続性が保ちにくい。かといって予言めいたことをフェイスブックで大っぴらに書きたくはない。沼口にだけ見て欲しいんだ」
僕はもちろん断りたかった。オカルトに足を突っ込むことが嫌だというのもあったが、そもそも親友でもない彼とそんな交流を持たなければいけないのか、理解ができない。
ごめん、という言葉が口から出そうになったが田中が先に言った。
「あらゆる人生の断片を『交差』によって俺は見せつけられている。見るタイミングはいつか、何を見るか、すべてに俺の選択権がない。『交差』の間は目を閉じて見ないフリもできない。爺さんの散歩とかならいいよ。でも腕を自傷中の高校生と『交差』してしまった日とかは生きた心地がしないんだ」
「すごくつらいのは分かったけど、メールを僕だけが見てもどうしようもないと思うよ」
「いや、メールを見てもらうだけで俺は自分が少し助かると思えるんだ。精神的にな。SNSの仕組みと同じだ。情報を共有は心の救済になり、安心感と心地よさを生む」
確かに田中の言う通りSNSで情報を共有してもらうこと、知ってもらうことに僕も安心感や心地よさを覚える。ツイートにいいねがつくと自己承認欲求とともに情報が共有された安心感も覚える。
田中は自分だけで抱えきれなくなった情報を僕と共有して安心したがっている。それだけだと思うと心を許したくなった。それに田中の戸惑う様子を見ていて辛い気持ちにもなってしまった。
「そういうことなら、まあいいかな」
そこから田中の怒涛の長文メールが届くようになる。仔細にまで及ぶ『交差』の話は暴力性も時々備わっていて、知的な内容に興奮することより気疲れすることもあった。ただ僕より疲れているのは田中本人であることを忘れなかった。
いや、実在する人々の一瞬が切り取られている以上は『交差』される側がもっとも大変なはずだ。自傷を続ける高校生のもつ心の闇に田中は一瞬しか触れることが出来ていない。バットで殴られるホームレスの痛みを田中は感じていない。キリでウシガエルの頭脳を破壊するユーチューバーの駆除の葛藤を田中は知らない。
僕ももちろん知らない。
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本日の交差:少年兵(コンゴ民主共和国)
体感があまりにもいつもとちがうことに驚き、俺は『交差』に感覚があることを初めて知る。いや『交差』をし続けてきたことで視野だけでなく体感まで『交差』し始めたのかもしれない。
彼は見慣れぬ低い視点から空を仰ぎ見えていた。加えて声変わりしていない高い声音から、彼が少年であることを俺は知る。しかしこの少年は銃を持っていた。大人が使うような自動小銃だ。肩から下げているがでかすぎるのか少々バランスが悪そうだった。周りは完全にジャングルだが銃を構えている以上何かを守っていた。守っているものは視界に入ってこない。少年の喉は完全に乾ききっていたがそれでも水を求めて歩きだすことはなかった。
少しだけ話は脱線する。というより補足説明だ。俺は今回の『交差』がはじまったとき冷静ではいられなかった。感覚があること、少年に『交差』することもそうだが、俺は日本以外の人間と初めて『交差』したからだ。しかも少年兵。俺たちの知っている日常からはかけ離れすぎていた。
彼が黒人の少年で、自動小銃を肩から背負った少年兵であることはすぐに推測できた。だとすればアフリカなんだろうとも考えた。しかしここから先の思考が完全に止まってしまった。言葉や文字からヒントを得ようとするものの、彼の発する言葉、目に入る言葉についてあまりにも知らなかったからだ。唯一分かったことはその言葉がスワヒリ語だったことだが、分かったからと言って何を喋っているのか推測もできなかった。(スワヒリ語は『電波少年』に出ていた矢部太郎が学んでいた。そのことを俺は覚えていたが、言葉の意味は忘れていた)
何も分からないなか散発的な銃撃音が響く。銃撃の音がするたびに鳥が空へと飛びあがっていく。少年は華奢な体で重い自動小銃を抱えて音のした方へと近づいていく。俺は近づくべきではないと思うが声は届かない。緊張した少年の汗が肌を伝って地面に滴り落ちる。次第に川の流れる音が聞こえてきた。その音は思いのほか大きく自分の音をかき消すだけでなく相手の音もかき消している。そのことに気付いているのか、おい!
俺に痛みはなかった。感覚の『交差』が曖昧だったことに救いをまだ感じる。仰向けになった少年はそのまま目を見開いて永眠に入った。少年が目を見開いていたことで俺はずっと『交差』し空を見続けた。俺は青空を見ながら『交差』がおわることを祈り続けた。しかし少年の周りに別の少年たちが群がってきてもなお『交差』は止まらない。『交差』は俺に一体何を見せようとしているのか。いや『交差』は俺にこんなものを見せて何を与えたいのか。
少年の自動小銃が別の少年の手に渡ったところで『交差』はおわる。
『交差』がおわったあと、俺は急いでトイレにかけこんだ。ストレスで胃がおかしくなっていた。
用を済ましたあと朦朧とした意識のなかで『交差』が見せた国旗を調べた。それはコンゴ民主共和国の国旗だった。コンゴ民主共和国について調べていくうちに、俺は自分がいかに無知かを感じていった。
コンゴ民主共和国にはレアメタルが取れる貴重な鉱山資源がある。レアメタルは俺たちが普段使うパソコンやスマホに使われている。しかしコンゴ民主共和国はこの資源で儲けるどころか、鉱物紛争が絶えない地域になっている。俺たち先進国はそういった悲劇にまったく関係ないって顔をしているが、百年以上前にベルギーの王国が私有地に圧政を行ったことから始まり、冷戦を利用しようとした独裁者をアメリカは上手く扱った。複雑な政治事情がたくさんあるが俺たち先進国の住民はコンゴとまったく関係ないことはなく、むしろずっと関わり続けている。
そもそも俺たちのコンゴに対する認識は非常に甘く、コンゴという名のつく国が二つあることをほとんどの人は知らない。いや、ザイールを名乗っていた時期であれば区別がついていたかもしれないが、今はコンゴ民主共和国とコンゴ共和国の二つがある。俺はそのうちのコンゴ民主共和国の話をここに書いた。
俺は死んだ少年兵に『交差』してから少しだけ考えている。命の価値ってやつを。本当に命の価値は同じなんだろうかと。俺、ユーチューバー、ホームレス、高校生、沼口、エセ科学好きの高齢者。みんな同じ命だって思うことが正しい道徳として広く知れ渡っている。当たり前のことだ。
でも本当に俺たちはそう意識できてるんだろうか。同じ人間の命について、やっぱり重みに違いを出そうとしてるんじゃないか?
沼口はどう思う?
△
図書館司書であっても図書館の本を借りることができる。田中は戦争と歴史の本を冊数限度いっぱいまでかりた。貸出期間は二週間あるのに一週間以内に返す。そしてまた戦争と歴史の本を冊数限度いっぱいまでかりる。
司書は働いてる自館の図書館を使ってもいい。誰も何も言わない。だが物騒なジャンルを大量にかりていく様は僕から見ても異様で、司書の多くを占める女の子たちは田中に近づかなくなっていった。
「元気か?」
田中に近づける人間が僕しかいないのであれば声をかけなければいけない。そういう気持ちで声をかけた。
「元気に見えるか?」
見えなかった。だから声をかけている。田中の目は落ち窪み目のクマは黒々としてやつれてみえる。変な病気じゃないかと疑いたくなる。
「この仕事は休暇が取りやすいから、しんどいときは取ればいいと思う。有給、結構余ってるんだろ?」
「『交差』の範囲が全世界に広がってる」
会話になっていない。
僕はその言葉に対してもメールでの問いかけに対しても、どう答えていいものかずっと悩んでいた。
沼口はどう思う? という問いに僕はまだ答えていない。答えることが怖い。自分の道徳があまり正しくないことを、言葉にすることでより自覚してしまいそうだった。否定すべき道徳は知っているが、意識できている自信は田中のまえだと特になくなる。
あの問いかけ以降、田中から送られるメールには目を通していない。答えられない文章を見続けると、とても疲れてしまうからだ。
「最近メールを送るペースが落ちてきた。自分のやる気のなさを実感するよ」
「もう少し短くすることはできないのか?」
「それはできない。しちゃいけない。語らなかった部分に何か大切なものがあるかもしれないし、国際問題や社会問題となると、背景もちゃんと語るべきだろう」
「そこまでするなら、もう僕だけのメールじゃなくてnoteかフェイスブックか何かに書いてしまった方がいいんじゃないか? 僕だけのためにそこまでするのは何だか気が引けるよ」
「でも他のやつだと俺の『交差』のことなんて全部妄想だって切り捨てて終わるだろ。それじゃ意味ないんだよ。俺の『交差』は本当に目にしてきた数日後の未来の姿なんだ。人が死ぬ未来の事実を正確に、そしてちゃんと伝わるように書かないと意味ないんだ」
未来、という言葉が出たあたりから田中の言葉が早くなった。目が少し見開いている。
「とりあえず今日は金曜日。土日に本を読みたいサラリーマンが図書館にやってきて本をたくさんかりていく。疲れる作業になる。この昼休みに少し寝てもいいんじゃないか?」
「いや、そんな時間があるなら本を読むよ」
そう言って田中はぱっと見て八百ページぐらいある本を鞄から取り出し、職場の休憩室で読みはじめた。塩川伸明の大書『国家の解体』の一巻目だった。今の時勢に合わせた読書なのだろう。
すごくマジメに世界のことを考えている。それは僕よりも明らかに偉いし、すごいし、立派だし、正しい姿勢の一つだと思う。
でも僕はそんな田中の落ち窪んだ目を見て何と思っていいのか分からない。
参考など
上田岳弘『塔と重力』
國友公司『ルポ路上生活』
マーシーの獲ったり狩ったり(ユーチューブチャンネル)
フリーランス国際協力師・原貫太のユーチューブチャンネル