第9話:田島トオルと岩田さんの急変
20:00が過ぎて、21:30に各ユニットの夜勤者が施設内中央にあるナースステーションへ集まるまでは、一番街ユニット内を夜勤者一人で見てゆくこととなる。
その間、ユニット内の片付けや清掃。また日常的にバイタル測定が必要な方の検温や血圧測定、血中酸素濃度の測定を実施する。
今日は、特に岩田さんの様子に注意するようナースからの指示もあったため、20:30ごろには1回目のバイタル測定を行うことにした。
「岩田さん。健康チェックに来ました。体調はどうですか?」
「うん。まあまあや。」
小さな声で返事が聞こえる。
まずは検温を行うと、36.2°、血圧を測定すると102/56、さらに血中酸素濃度を測定すると91%とやや低めではあったが、今すぐ危険な状態とは言えず引き続き様子観察を行うこととした。
「岩田さん。今日は田島が夜勤ですから。時々様子を見に来ますね。調子が悪いときはいつでも教えてください。それでは失礼します。」
岩田さんからの返事は無く、僕は次のバイタル測定に向かった。
岩田さんを含めて5名のバイタル測定を終えると時間は21:20分を過ぎており、急いでユニット内の電気を消灯し夜勤者3人が集まるナースステーションへと移動した。
21:30からは、一番街、二番街、三番街それぞれのユニットの中で各々の利用者様の状況を詳しく申し送りを行い、申し送りが終わった後から1人ずつ2時間の休憩時間に入った。
1番手の休憩時間は、22:00から24:00。2番手の休憩時間は、24:00~2:00。3番手の休憩時間は、2:00~4:00という割り振りになっていて、今日は、僕が2番目に休憩を取る予定となっていた。
22:00 一回目の巡視を行う。今度は、全体に渡って巡視を行う為施設利用者全員の居室を一人ずつ回ってゆく。利用者の中には、なかなか寝付くことが出来ず起きていらっしゃる方もおり、その時は、少し会話をして今の時間を伝え出来るだけ刺激をしないように静かに居室を後にするよう心掛けていた。
岩田さんの居室へは、23:30ごろに訪室し、2回目のバイタル測定を実施。体温、血圧、血中酸素濃度共に1回目と大きな変化は無く、ただ静かに呼吸をしているといった様子だった。
僕は、2人の夜勤者に巡視中気になった利用者様の情報や岩田さんの様子を伝え、24:00から2時間の休憩に入った。
休憩時間中は、控室に寝具が用意されており、1時間半のアラーム設定をして少しの時間目を閉じて休んだ。
深夜1:50 休憩時間が終わる前に、夜勤者2人からこの2時間の間に変わったことは無かったかどうか話を聞き再び業務へ戻る。
岩田さんは、特にバイタル測定していないが静かに息をしていたとのことだった。
業務に戻り、まず最初に行うことは2:00の巡視だ。前回と同じように一通り利用者様全員の居室を巡視して回る。また、排泄介助が必要な方は、この時間帯にオムツ交換などの排泄介助を行うこととなっていた。
この時の岩田さんは、目を閉じて休まれており、被っている布団がかすかに上下に揺れており首筋からも体温が感じられたため一旦居室を後にし他利用者様の排泄介助を急いで行うこととした。
4:00になり、3番手に休憩していた夜勤者が戻ってくるとそれぞれのユニットに戻り朝を迎える準備に入った。
朝を迎える準備として、洗面や朝一番に提供するお茶の準備などがある。
そして、この時間になると施設内にも徐々にうっすらと青い朝の光が入り込み、外では鳥のさえずりが聞こえ始める。夜明けの喜びを実感できる、僕にとって最も好きな時間帯に入っていた。
「岩田さん。朝のバイタルを測りに来ました。」
朝5:00すぎにバイタル測定を行うため岩田さんの居室を訪れた。
「・・・・」
「岩田さん。」
「・・・・」
「岩田さん!」
「・・・・」
「岩田さん!!」
その時僕は、岩田さんが呼吸をしておらずぐったりとしていることに気付いた。
そこからの時間は、本当に何がなんだか分からずとにかく目の前で繰り広げられる事態に対応することで精一杯だった。
とにかく自分一人ではどうすることも出来ないので、他の夜勤者2人に状況を説明しとにかく緊急対応用の携帯電話へ電話し看護師に状況を報告した。
急変時の死亡は、医師の立ち合いによる死亡確認が取れていないため事件性も否めないとのことで警察も出動し、僕は事情聴取も受けた。
緊急連絡網を頼りに応援に駆けつけてこれそうな職員へ電話連絡も入れてもらった。
遺体となった岩田さんの体は、集まった職員によってエンジェルケアが施された。
エンジェルケアとは、息を引き取った遺体が腐食する前に少しでも原型を留めるために、鼻腔や肛門に詰め物をしたり、少しでも安らかに眠って頂けるよう身体の清拭や死化粧を施すケアのことを指す。
警察からの職務質問を終えた僕が、岩田さんのもとへ向かうと丁度エンジェルケアを終えて、事前に連絡した葬儀屋が葬祭場へ遺体を引き取るのを待っている最中だった。
10分ほどすると、葬儀屋が霊柩車に乗って現れた。葬儀屋の職員が手際よくストレッチャーへ岩田さんの亡骸を乗せ、霊柩車内へ移送する。
「この度はご愁傷様でした。ご遺体をお預かりいたします。」
との短い挨拶に対し、集まった職員全員が両手を合わせ運ばれてゆく岩田さんを見送った。
僕は岩田さんの死を確認してからの数時間何をしていたのか思い出すことも出来ず、ただただ空虚な気持ちに苛まれていた。
ユニット内には、新しい朝を迎えた利用者様が朝食の準備に入っている。
そして、いつものように同じ時間に厨房から朝食が運ばれてきて、運ばれてきた朝食をいつものように配膳する。
岩田さんの死という出来事が、本当に数時間前に起きたことなのか疑いたくなるくらい当たり前の日常が繰り広げられている。
その日、夜勤の仕事を終え職場を離れるまで岩田さんのことが頭から離れることは無かった。
酒とタバコをこよなく愛する一人の男がこの世を去った。
そして、僕はその一人の男がこの世から旅立ったその日その時に居合わせた一人の男なのである。
消え去ってゆく命とそれを見送る命。
命が辿る道のりは、結局のところみな同じなんだと気付かされた出来事だった。
つづく