駅前の喫茶店で
氷の音がカランと鳴った。美都の前にアイスティーが置かれる。ついでにストローとガムシロップを横に添え、店員は去っていった。
(なぜ…………)
なぜ自分はこうしているのだろう、と美都は目を瞬かせた。ここに至るまでの過程がものすごくあっという間すぎて自分自身まだ追いつけていない。
「本当に飲み物だけで平気? ケーキ美味しそうよ?」
「いえ、あの……今日は持ち合わせが無くて……」
「そんなの気にしなくていいのよぉ私が誘ったんだし! さ、どれにする?」
自分の前に座る女性の押しの強さに気圧されてメニュー表に目を通した。いつも横切っていた洒落た喫茶店だ。想像通りケーキも美味しそうな物が並んでいる。だが頭は絶賛混乱を極めておりひとまず無難にショートケーキを選んで女性に伝えた。
嬉々として店員と話をしている目の前の女性は、名を千咲と言う。美都とは先程偶然会ったばかりだった。その出来事を頭の中で回想する。
『今、お時間あるかしら?』
『え?』
突然の千咲からの問いに美都はきょとんと目を瞬かせた。時間ならある。だがそう訊ねる理由はなんだろうと考えていると、不意に水滴がポツリと頭上に垂れた。その水滴は瞬く間に辺りに降り落ち始めた。
(うわ……!)
降ってきたなと思い空を見上げた。分厚い雲が雨を降らし始めたのだ。しまった、と思いながら千咲の方を向こうとした時、急に手首を掴まれたのだ。
『美都ちゃん、こっちに』
『え? ちょ……!』
驚くよりも先に、彼女が美都の腕を引っ張りった。千咲の進行方向に従い美都も足を動かす。華奢だと思っていた腕は予想以上に力が強かった。ひとまず雨を凌ぐ事が出来る空間まで辿り着くと安堵の息を漏らした。
『ありがとうございます。えっと……』
『私は千咲っていうの。よろしくね』
女性は小首を傾げて自らの名を名乗った。千咲と名乗る女性は美都よりも目線が少し高い。ヒールのある靴を履いているからだろう。大人の女性らしい姿に見惚れてしまいそうだ。確かな年齢は不明だが30代にしても若く見える。
『ね、美都ちゃん。今日はこの後家に帰るだけ?』
『? はい。そうですけど……』
『じゃあ時間あるわね』
身体の前で手を交差させ、千咲が嬉しそうに微笑んだ。そう言えばそう問われていたのだったと美都が思い出すより先に、千咲が再び違う角度からした質問の答えから彼女自身導き出したようだ。
『雨も降ってきちゃったし、お茶でもしない?』
『え⁉︎ あ、でもわたし……』
『いや? だめ?』
財布を家に置いてきてしまっているため持ち合わせがないのだ。冷静になってその事実を考えていると千咲が上目遣いで請うように見つめてくる。その瞳にうっと声を詰まらせた。
『い……いやではないんです、けど──』
『よかった! じゃあ行きましょ!』
そう応えるとあれよあれよと言う間に千咲に引き連れられ、この喫茶店に腰を据えたというわけだ。
強引ではあるがあの瞳には逆らえない気がして思わず承諾してしまった。今になってなぜこんな不可思議なことになっているのだろうと頭を悩ませる。先程出逢ったばかりで、たまたま自分が彼女の帽子を拾っただけだ。自分で良いのだろうかという疑問が拭えない。それに彼女の正体も不明だ。自分の名前を知っている、ということだけでも十分謎なのだ。同級生の関係者であることには違いないが苗字を聞かされていないだけに誰なのかが判断出来ない。
「どうしたの?」
「えっと──千咲さん、は……どこかに行く途中だったんじゃないのかなって」
ただ目的もなく歩いているような格好ではなかったのが気がかりだった。自分はこの後の予定は何もないが彼女にはあったのではないだろうかと不安に思い口に出すと、彼女はにこりと微笑んで答えた。
「大丈夫よぉ。人を待ってただけだもの。その後に行くところはあるんだけどこの雨じゃ動けないしちょうど良かったわ」
「そう……ですか」
まぁそれならば、と美都も納得した。確かにこの雨では屋根のあるところで過ごした方が無難ではある。美都にしても傘を持っていないためタイミング的には悪くない。悪くないが何を話せば良いか戸惑ってしまう。千咲の雰囲気は多加江に似ている気がする。ふわふわと少女らしい。だが先程の行動から見るに芯の強さもありそうだなと感じるところだ。
「待ち人に連絡だけしちゃうわね」
「あ、はい」
そう言って千咲はスマートフォンを操作し始めた。所在無く自分もおもむろに電子機器に触れる。メッセージ画面の一番上には四季の名前が表示されていた。
(! そうだ)
難しいかもしれないが、と美都もメッセージを打ち始めた。千咲は気にしなくて良いと言ってくれてはいるがやはり飲食代を出してもらうのは忍びない。だが財布は家だ。幸いここから家まではそんなに離れてはいない。一縷の希望の元、四季に打診をする。駅前にいることを伝え、【可能なら財布を届けて欲しい】という趣旨を綴った。自分の部屋の机の上にあるはずだと、財布があるはずの場所も教えて。
一息ついて送信ボタンを押した。しかし四季は何かしら用事があるような雰囲気なので、難しそうであれば別れ際に千咲に連絡先を聞かなければと思い顔を上げる。すると同じく用件を終えたであろう彼女と視線が交わった。
「今日は学校だったの? 夏休みよねぇ?」
制服だったからか、千咲は不思議そうに首を傾げた。
「補講があるんです。教室を開放してるので自習室としても使えますし」
「あら、そうなの。勉強熱心ね」
美都の回答を聞いて千咲は労いの言葉をかけた。逆に美都は彼女に気づかれないように小さく首を傾げる。仮に同級生に知り合いがいるのだとしたら知っていそうな情報なのにな、と。ただこれは自分が勝手に考えているだけなのでもしかすると卒業生という可能性も否定出来ない。
「千咲さんは第一中の三年生にお知り合いがいるんですか?」
「えぇ。だから嬉しくて誘っちゃった。急にごめんなさいね」
「いえ、全然! ちなみに誰なんでしょうか?」
ふふっと笑んだあと眉を下げて謝罪する千咲に、慌てて首を横に振った。ちょうどそこに追加で頼んだケーキが到着し会話が遮られる。その知り合いが誰なのかが気になるところだ。しかし運ばれてきたケーキに目を奪われてしまった。写真で見るよりも美味しそうだと感嘆する。
「さぁ、いただきましょ」
「あ、はい! いただきます」
千咲に促され添えられているフォークを手に取り食べやすいサイズに切り分けた。それをそっと口に運ぶ。甘い生クリームと柔らかいスポンジの食感に思わず口元が綻んだ。
「美味しい?」
「はい、すっごく!」
「ふふ、良かった」
感想を訊かれたため思ったことをそのまま言葉にした。たくさんあったはずの疑問を忘れてしまいそうな程の美味しさに、美都はケーキを反芻する。千咲はそんな美都を見てニコニコと微笑んでいた。
「ねぇ美都ちゃん。学校はどう? 楽しい?」
唐突に千咲が質問を投げる。ケーキを飲み込みながら美都は彼女の問いに頷いた。
「楽しいです。元々学校が好きなので夏休みも行けて嬉しいなって」
「そうなの。よっぽど好きなのね。どこか行きたい高校でもあるの?」
今度はその返しに喉を詰まらせた。そう言えば先日も弥生に似たような質問をされたなと苦い顔を浮かべる。
「えっと……逆に無くて焦ってます。そろそろ決めなきゃいけないのは分かってるんですけど……」
志望校、という単語はずっと目の前にチラついている。夏休みが明ければ本格的に進路を決めなければならない。自分は恐らく遅いほうだと思う。周りを見ていると焦る気持ちはあるのだがそれ以上に自分の想いが付いていかないのだ。
「深く考えすぎなんじゃなぁい? 高校なんて楽しければそれで良いのよ。私もそうだったもの」
「千咲さんはどうやって高校を選んだんですか?」
「そうねぇ。特にやりたいこともなかったから仲良かった友だちに合わせたわ。結果的に正解だったわよ。制服も可愛かったしね」
そう笑顔で語る千咲の回答を聞いて美都は目を丸くした。やりたいことがない、というのは自分と同じだ。こうして悩んでいるのは自分だけだと思っていた。しかし彼女の話を聞くとそれが悪いことではないように感じる。
「高校、楽しかったですか?」
おずおずと彼女に問う。経験者は語る、というもので自分と似たような想いを抱いていた千咲の意見を聞きたかった。
すると彼女は一拍置いた後、優しい笑みを浮かべゆっくり言葉を紡いだ。
「──楽しかったわ。大切な人が周りにいるだけで……それだけで十分だった」
瞼の裏で当時のことを思い出しているかのような声色だ。千咲は目を細めて懐かしさに浸っている。まるで思い出を反芻するかのように。
(……大切な人)
彼女が発した単語をきっかけに美都もまだ見ぬ未来の想像をする。この先、新しい環境になったとしても周りに大切な人がいればきっと楽しいはずだ。どんな制服を着ているかはまだ想像が付かない。しかし傍にいる人物はこのままだったら良いな、という欲が湧いてしまう。だとしたら自分はこの感情に従うべきだ。
(確かにそうなのかもしれないな……)
ほぅと小さく息を漏らす。やはり欲張りになってしまったのだ。こんなにも傍にいたいと思うなんて。自分にそんなことが思える日が来るだなんて、という驚きもある。求めてはいけない、期待してはいけないと分かっているはずなのに。
だから怖くもある。これは自分の気持ちとの駆け引きだ。好きだという感情が、果たして記憶を上回ることが出来るのか。
「ねぇ、美都ちゃん」
不意に呼ばれた声でハッと現実に引き戻される。しまった、また自分の思考に絡め取られそうだったと慌てて千咲の方を向いた。
「あなた、今恋をしてるでしょう?」
「……──え⁉︎」
そう言う千咲は先程よりも俄かに愉しそうな笑みを浮かべている。思いがけない質問に一瞬声を詰まらせてしまった。恥ずかしさに口を覆う。そして徐々に彼女の言葉が身体に染み込んで来るかのように、顔を紅潮させた。茶化しているのか本心なのかわからないが「あらぁ、可愛いー」と言う千咲の返しに更に視線を逸らさざるを得なかった。
「そ──んな顔……してましたか……?」
「してたわよぉ。誰かを想っている顔なんだもの、すぐ分かっちゃった」
もちろん自分ではそんなつもりは毛頭なかった。千咲が鋭いのか自分が隠しきれていないのか。どちらにせよ当てられたことに恥ずかしさで頭を抱えたくなる。
「その子とは付き合ってるの?」
「う……、は──はい……」
やはりこういった話題には慣れないな、とつくづく思う。自分と同い年くらいの女子はきっと好きなんだろうが、自分としては気恥ずかしさでどうにかなりそうだといつも感じる。しかしだとしたら付き合っていると言うこと自体矛盾しているのでは、と突っ込まれもするものだ。
千咲は嬉々として美都の反応を楽しんでいるようだった。
「ね、ね、どんなところに惹かれたの?」
「どんな……? 優しい、ところ……」
「他には? もっと詳しく聞かせて?」
「えぇ……? えっと────」
彼女にせっつかれて改めて四季の姿を思い浮かべる。頭が良くて、背も高く顔立ちも整っている。料理も上手い。運動も出来る。そして自分のことをいつも気にかけてくれる。
「彼は──自分にないものをたくさん持っていて……」
強くて、優しくて。自分の何もかもを包み込んでくれる。たまに強引なところもあるが、それは四季が引っ張ってくれているんだろうなと感じるところだ。
(……なんだろう)
顔だけでなく、心まで熱い気がする。傍にいたい、と思う。その温もりが近くにあって欲しい。そう言えばいつから自分は彼に惹かれていたのだろうか。腕を掴まれた時から? 首筋に触れられた時から? いつからだろう。彼のことを意識するようになったのは。
「────守りたい、って思ったんです」
ふと、ポツリと呟く。口から出たのはずっと考えていたことだ。何があっても、自分を犠牲にしても守りたいと思う。それ程までに大切な存在なのだ。
ぼうっとしながら言葉を紡ぐ美都の姿に、千咲はふっと柔らかい笑みを零した。
「美都ちゃんにそんなに想ってもらえるその子は、とても幸せね」
「! そう……だったら、いいんですけど」
「そうに決まってるわ、絶対。じゃなかったら私怒っちゃいそう」
ふふっと笑う目の前に座る女性は、まるで少女のようだった。この人もきっとそうなのだ。大切な人が傍にいるのだろうと思う。この気持ちを共有できるのは素直に嬉しい。周りの人間に自分の想いを話すことはこれまであまりなかったから。
「その想い、大切に育ててあげてね」
「育てる?」
聞き慣れない言葉選びに思わずきょとんと目を瞬かせた。
「愛情っていうものは、果てのないものなのよ」
そう言って茶目っ気を交え千咲はウィンクをする。その仕種が可愛らしくてつい顔を綻ばせた。
「──はい! 大切に育てます」
愛情を育てていく。つい最近芽生えた感情だが大切にしていきたい。そう感じるのは嘘ではない。だからどんなことがあってもこの気持ちは忘れずにいようと思った。
美都の表情に絆されて千咲もふわりと微笑むと、不意にその視線が後方へ移った。何かに気づいたように手を挙げて呼び掛ける。
「こっちよ」
今しがた、入口からカランという鐘の音が聞こえていたので恐らく入ってきた人物を呼んだのだろう。彼女は先程人と待ち合わせをしていると言っていたので、待ち人が来たのかもしれないなと思い出した。
「もう、探したんだよ……って────、え……?」
呆れと心配のような声色で千咲に不平の言葉を呟いたのは黒髪で眼鏡をかけた男性だった。年齢は彼女と同じくらいか。千咲と向かい合わせで座る美都の姿を確認すると、これは一体どういう状況かと言うような表情で目を瞬かせた。その視線を感じ一旦会釈をする。
「ごめんなさい。雨降ってきちゃったからここで雨宿りしてたのよ」
「それはいいんだけど……えっと──?」
目の前に佇む男性は千咲の釈明に頷いたあと、尚も不思議そうに美都の存在をチラリと見る。すると彼女が男性のシャツの袖を引っ張り強引に座るよう促した。
「紹介するわ。こちら────月代美都ちゃん」
「……、え──?」
「美都ちゃん、この子は透くん。私の夫よ」
千咲により透と呼ばれた男性は、美都の名前を聞き一拍おいて目を見開いた。逆に美都は突如現れた千咲の待ち人の正体を知りなるほどと納得し「はじめまして」と改めて頭を垂れる。夫婦ということは、自分の同級生は彼らの子息なのだろうなとようやく推測出来た。だが結局苗字は聞き出せていない。それよりも、と目の前に座る二人を見つめた。透は尚も目を瞬かせたまま自分の方を見ている。最近こう言った反応が多いなと感じるのは自意識過剰だろうか。
「あ……の?」
さすがに居た堪れなくなってきておずおずと声を発した。何か不思議なことがあるのだろうか、と思ってしまう。
「もー、透くん。戻ってきてー」
「あ……! ご、ごめん!」
隣に座る千咲に肩を揺すられ、ようやく透が現実に意識を呼び戻しハッと謝罪の言葉を口にした。改めて彼を見ると、彼女に似て物腰が柔らかそうな雰囲気だなと感じる。たった数言だけの会話で、良い関係性だということが窺えた。
「ねぇ美都ちゃん。学校でも私生活でもなんでもいいわ。今困っていることとかは無い?」
「困ってること──?」
唐突に千咲が問いかけた。要の部分を復唱してきょとんと目を丸くして、ふと頭で考える。
私生活はようやく安定してきた。他人との同居生活は初期に比べ互いに慣れてきたように思える。関係が変化したというのも要因の一つだ。そして学校では何不自由なく伸び伸びと過ごしている。
「特には。割と自由に生きてます」
宙に泳がせていた目線を千咲と合わせ、肩を竦ませてそう答えた。困っていることと言えば守護者のことだがこれは四季と相談する他無い。
「……そう。なら良かったわ」
美都の回答に千咲が柔らかく微笑んだとき、横に置いていたスマートフォンに着信が来た。画面に表示されているのは四季の名前だ。もしかして、と思いおもむろに手にする。
「すみません、ちょっとだけ席を外します……!」
「えぇ。いってらっしゃい」
二人に頭を下げた後、美都はスマートフォンを手に持って喫茶店の外へ駆けていった。その背中を見送りながら、静観していた透が訝しむように千咲へ疑問を投げつける。
「偶然、なの……?」
「偶然よ。今会ったのはね。でも……必然だったのかもしれないわ」
千咲は目を細めて美都に拾ってもらった帽子を膝の上に置く。確かに偶然だった。風の悪戯かもしれないが、こんなことがあるのかと彼女の名前を聞いたとき身体が硬直したのだ。こんなところで、こんな形で会うなんて思わなかった。彼女の名前を聞くまで忘れていた自分にも少し辟易とする。
「あの子────同じ指輪を持ってた」
「! じゃあ……」
「えぇ。……やっぱり抗えないのね」
みなまで言わずとも、透は気づいたようだ。気づいただけに、何も言えなくなったのだろう。互いに納得してしまったからだ。その事実に。
あんなにあどけない少女なのか、と改めて先程まで目の前に座っていた子どもの残像を思い浮かべる。ケーキを美味しそうに食べる姿は、年相応だった。純真で素直で、だが逆に大人びて見える瞬間もあった。
「……ねぇ。似てると思う?」
美都の名前を耳にしてから、ずっと考えていたことがあった。在りし日の情景を脳裏に思い描きながら、目の前の少女に面影を重ねようとしていたのだ。透は千咲の問いに一瞬言葉を呑み込んだ。当然だ。彼のほうがまだ事実を知ったばかりで動揺しているはずだから。難しい顔をした後、考えがまとまったのか今度は透が千咲に声をかける。
「それは……僕より君の方がわかってるんじゃない?」
「────そうね」
彼は決して明確な言葉にはしていない。だがそれだけで互いの考えは同じだと理解した。懐かしさに胸が締め付けられる。ここで会ったのは奇縁かそれとも因果か。今まで向き合ってこなかった自分たちを責めているのか。これが罰なのかとも感じる程に。
脳裏を過るのは、まるで昨日のことのように思い出される風景。それがまさか巡り巡ってこうなるとは思いもしなかった。
「あの子に……話すの?」
隣で透がそう問いかける。その言葉には口を噤む他なかった。話したところで彼女に気を遣わせてしまうかもしれない。そんなこと、あんな幼い少女にさせたくない。それならばただ黙って、『親切な知り合い』として接するべきだろう。ことによってはこの後の行動次第で、違う気遣いをさせてしまいそうだが。しかし彼女の境遇を知っている以上、この先無関心という訳にもいかなくなった。だから迷ってしまう。伝えるべきかどうか。こんな時、彼らならどうするのだろう。そんな無意味なことを考えて、千咲は不意に彼女が放ったセリフを思い出した。
「私たちは私たちに出来ることが、きっとあるはずだものね?」
「……そうだね」
その言葉は、昔親友から言われたことだった。何も取り柄がなかった自分に対して、彼女はそう言った。明るくて真っ直ぐで、大好きな友人。彼女の笑顔を瞼の裏に思い浮かべる。
後悔ならばたくさんした。しかし今この時に悔やんでももうどうすることも出来ない。時は経ってしまった。元々何の力もなかった自分に出来ることは限られていた。その事実がただ辛かった。
(──いやだわ……)
不意に流れそうになる涙を必死で堪える。今も彼女が、自分の名前を呼んでくれている姿が頭から離れない。否、ずっと待っているのだ。もう一度、名前を呼んでもらえる時を。
千咲の様子に気付いたのか、隣に座る透の手が彼女の頭に伸びた。優しく、慰めるように頭を撫でる。困ったような笑みを浮かべて手を動かしている。
ただ一つ、この男性に出逢えたことが救いだった。
「……大丈夫?」
「えぇ。ごめんなさい。ちょっとだけ感傷に浸っちゃった」
「しょうがないよ」
解っているから透は何も言わない。彼にもきっと感じたことはあるはずだ。それでも自分の方が近しい存在だったから、優先してくれたのだろう。透は昔からそうだ。千咲はその優しさを噛み締め、一度強く眼を瞑った。
「────さて」
深呼吸した後これまでの思考を振り払うべく、パンッと柏手を打つ。
再び瞳を開き、透に向き直った。
「行きましょうか。そろそろネタばらししなくちゃね」
彼の瞳が揺れ更に柔らかい表情になった。この笑顔もずっと変わらないものだ。
「怒られそうだよねー。僕が」
「あらぁ。それは父親として強くいてもらわないと」
うーんと唸る透の肩をポンポンと叩く。だが恐らく彼の予想通りになるだろう。
これから久しぶりに会う我が子の反応が楽しみだな、と千咲はふっと微笑んだ。