光の声、天高く
夏休みもあっという間に半分が過ぎ、第一中にはすっかり合唱コンクールの日が迫っていた。ここ一週間はその練習のため大半の生徒が登校している状況だ。「夏休みってなんだっけなぁ……」とぼやく声も聞き慣れたものだ。
しかし美都は違った。元々学校という場所が好きで補講にもほぼ毎日通っているくらいだ。担任である羽鳥には「月代は毎日いるな」と言われる程には学校の住人だった。加えて合唱コンクールの練習があったことも大きい。中学最後の合唱コンクールだ。音楽委員であることはもちろん、7組の合唱曲を歌う度に好きになっていった。
そんな合唱コンクールを午後に控えたその日。最後の練習を終え、3年生は体育館へ向かうところだった。
「美都ってさ、何気に歌上手いよね」
春香の声に目を瞬かせる。
「わかるー! 音外さないし声も透明感あるし!」
「あ……りがとうございます」
次いであやのが向けてくれた評価に恐縮しつつ、ポツリと礼を述べる。普段褒められ慣れていないのでこういう時にすぐ反応が出来ない。嬉しいという気持ちよりも面映ゆいという感じだ。
「今回は合唱だけどさ、ソロだったら割と印象残ると思うよ」
「それって調和乱してない? 大丈夫?」
「もー。なんで自分のことになると急にネガティブなの」
恐る恐る春香に訊ねると呆れ気味に肩を落とされた。彼女は今回伴奏を担当してくれている。楽器の経験があるだけに春香が言うなら素直に受け取るべきなのだろうが、今までそう評価されたことがほとんどなかっただけにどうしても不安になってしまうのだ。
そう苦い顔をする美都にあやのが助け舟を出した。
「歌なんて芸能人でもない限り人前で披露することじゃないもんね」
「うん。だからそう言ってもらってもなかなか自分でもわからなくて……」
以前、水唯と高階にも言ってもらったことがあった。放課後ふと口ずさんだ『遠き山に日は落ちて』を聞いた二人にも歌唱に関しては自信を持つべきだと評されている。その時も素直に受け取ることが出来なかった。それは専門で修練したことがなかったからだ。
「でも本当に上手いと思うよ。自信持ちなって! 音楽委員としてもさ」
「音楽委員としてかぁ。まぁそれは高階先生の影響が大きいけど」
「それ! それよ!」
すかさず春香が美都のぼやきを拾い人差し指をピンと向けた。美都は宙に泳がせていた目をぱちくりと瞬かせた。それと言われたところで特に思い当たる節もなかったので疑問を口にしようとしたところ、気を遣ってか春香が小声で呟いた。
「美都さ、高階先生とどうなってるの?」
「へ? 別に普通だけど……。なんで?」
「だって異常に仲良いじゃん。四季と付き合う前からさ。授業後も二人っきりで話してたり」
「あれはクラシックのことを聞いてるだけだよ」
春香の尋問を受けながらただありのままのことを話していく。自分としては普通に接しているつもりなのだがなるほど他人からはそう見えているのかと目から鱗だった。異常に仲が良いという文言には首を傾げてしまうが。
「意外。美都ってクラシック好きなの?」
「一曲だけすごく好きな曲があって……それを高階先生に聞いてるうちに好きになった、って感じかな」
隣を歩く春香が質問と相槌を繰り返した。クラシックが好きかと問われれば、好きになったのだ。興味を持ったのはそれこそ高階のおかげだ。彼の奏でるピアノに惹かれたのだから。ぼんやりと当時のことを考えていると春香が言葉を続けた。
「なるほどねぇ。やましいことはないと」
「な……! ないよ! もう!」
「ごめんごめん。ほら美都ってさ、ちょっと危なっかしいからつい。四季に心配されたりしない?」
うっ、と声を詰まらせる。否定できないからだ。確かに春香の言う通り、以前四季に言われたことがある。危機意識を常に持てと。警戒心が足りないと諭されたことがあった。
「ある、けど……やっぱりそう見えるの?」
「まあね。美都の良さではあるけど、彼氏としては心配だろうねー」
すんなりと肯定されたことに対して美都は苦い顔を浮かべるしかなかった。そんなに色んな人から危なっかしいと思われているとは。自分で自分のことはわからないものだなとほとほと感じる。
「何がそんなに危なっかしいんだろ……?」
うーんと顎に手を当てて首を傾げると、今度は春香の方が肩を竦めて苦く笑んだ。「そう言うところじゃない?」と美都の肩に手を置いて言葉を続ける。
「美都はさぁ、順応性が高すぎるんだよね。他人を受け容れる力に長けてんの。あと単純に鈍い」
「にぶ……」
褒められたかと思えば急に貶され思わず眉を引きつらせた。だがその言葉も以前四季に言われたことがあったため悔しいが言い返すことも出来ずグッと唇を噛みしめる。
「美都のそれは才能だって。ミステリ──平野さんもそうだし水唯も今のところ美都くらいしかまともに会話してないし」
「え? そう……なの?」
彼女が平野さん、と示す少女は衣奈のことだ。衣奈は周囲の人間からミステリアスガールと密かに言われている。親しい人間を作らないことで有名らしい。実態が掴めていないからそう呼ばれているのだ。
そしてそのあと直ぐに水唯の名前が出されたことに美都はきょとんと目を丸くした。確かに彼に話しかける頻度はクラスの中で自分が一番多い。しかし傍目から見ている時も他の人間と言葉を交わしている姿は度々目撃しているので心配はしていなかった。今春香から言われて初めて知った情報だ。
「そうだよ。美都の前でしか表情柔らかくしてないんだから。懐柔してるねぇ」
「もう、言い方!」
「冗談だって。まぁなんにせよさ、美都には良いところいっぱいあるんだから自信持ちなって。合唱コンだって頼りにしてるんだから」
ポンポンと背中を叩かれながら美都は春香の言葉を耳にして膨れた顔に笑みを戻す。
ここに来て才能という言葉をよく聞くようになった。今まで自分とは無縁だと思っていたものが、違う見方をすれば出てくるのかと目から鱗なのだ。それでも、自分が評価されている才能は明確な能力では無い。だからこそこれまで気にしてこなかった部分を指摘され戸惑ってもしまう。
(才能と優しさって、なんか似てるな)
共に形のないものだからなのか。自分ではわからないものだからなのか。
そんなことを考えていると思い出したように春香が先のことを口に出した。
「あ。そう言えば、夏休み明けたらもうすぐ美都の──」
「わー!」
慌てて彼女の口を塞ぐ。近くに四季がいたからだ。突然の行動に驚いてこちらを見ているが最後まで言わせなかったので内容までは把握していないはずだ。と、横目で彼の表情を確認する。
「……内緒なの? なんで?」
「気遣わせたくないの」
「後から知る方が怒ると思うけどなぁ」
「それについては甘んじて受けるよ……」
再び小声に戻し、春香との会話を続ける。彼女が言わんとしていることは十分にわかった。だから自分も渋い顔をするしかないのだが、こればかりは主張するのが難しい。否、あまり大事にしたくない。だがその日は必ずやってくる。なるべくなら忘れていたいと思っているのだがやはり周りがそうさせない。けれどせめて知らないのならそのままでいて欲しい。普段通り、変わらない日々を過ごしたいと思うのだ。
美都は心の中で四季に詫びながら、一つ息を吐いて体育館へと歩を進めた。
◇
『次の合唱コンが肝だな』
学年名簿を見ながら四季がそう呟いた。彼の見ている用紙には既にペンで印が付いている。
数日前、初音の正体を突き詰める目的で晩御飯を食べ終えた後作戦会議を行った。四季は第一中に来てから半年しか経っていないため、美都が主導となって確認する流れとなった。1組から順に絞り込んでいく。ひとまず『美都と同じ小学校出身者』及び『対象となった者』を除外することにした。後者は四季からの提案だった。
(4組は──……衣奈ちゃんと、……凛と……)
該当者にマーカーを引く。胸が詰まりそうになるのを紛らわせるように直ぐに視線を移していく。7組まで確認し終えたところで各クラスに4、5人の女子生徒が残る形となった。
『30人前後ってとこか。まだ多いな』
『でもここから身体的な面を除けばもう少し絞れるんじゃない?』
『あいつが俺たちみたいに容姿を変えてなければな』
美都が身体的な面と示唆したのは主に髪型についてだった。初音は肩下まである髪を遊ばせるように流している。だからそれに該当しない生徒は除外できるのではと考えていたのだが四季の放った言葉に息を呑むことになった。確かにそれもあり得る。キツネ面をつけているとは言え、素顔のまま戦うのはリスクが大きい。制服を着ているせいで彼が言った可能性を考えていなかったのだ。
『そうだとしたら難しいね……』
『まぁ今のはあくまで可能性の一つだ。美都の言う通り、除外した方が考えやすいかもしれない。となると確認できそうな日は三年が揃う────』
体育館で整列しながら、美都はその時の回想をした。合唱コンクール。夏休み中とは言え全校あげて行われる学校行事の一つだ。下級生は午前中に終え、残すは三年生のみとなった。
コンクールと言うだけあって、体育館には式典のようにパイプ椅子が並べられている。生徒たちはそれに腰掛けて他クラスの発表を見るのだ。予め決められている順番でクラスが呼ばれる。
『──3組、曲は「Tomorrow」です』
女性教員のアナウンスが入る。美都たち7組は6番目だ。さすがに中学最後というだけあってどこのクラスも気合いの入れ方が違う。体育館が圧倒的な歌声に包まれる。聴き入っているとトントンと順番が回ってきた。
体育館前面にあるステージへ歩を進める。一人ではないもののやはり緊張するものだな、と少し顔が強張ってしまう気がした。しかしステージへ向かう途中、高階から目配せがありその表情に緊張も少し和らいだ。
(……大丈夫)
この曲を歌うのもこれで最後だと思うと寂しい気もする。だが最後だからこそ今までの成果を十分に発揮しなければと美都は深呼吸を行った。伴奏者である春香の準備が整った頃合いを見て、アナウンスが流れた。いよいよだ。
『7組。曲は──「COSMOS」です』
一拍おいて前に立つ指揮者の生徒を見つめる。その生徒が手を挙げたのを合図に一斉に歌う姿勢を取った。そしてピアノの旋律が耳に届き始める。この繊細な前奏も好きだなと考えながら息を吸った。
────『夏の草原に、銀河は高く歌う』
この季節にぴったりだ。爽やかな風が横を通り過ぎていくようで。瞼の裏に広い銀河を映しだす。
一つの星だと。光の声が示すのだ。
旋律にも歌詞にも、胸が熱くなる。自分自身について考えてしまうから。
────『ひとり残らず、幸せになれるはず』
(幸せに──……)
このフレーズに差し掛かるたびにずっと思ってきたことがある。自分は一体何者なのかを。
最近は、心が温かくなることが多い。大切だと思える人が傍にいてくれるおかげだ。それだけでない。こんな自分にたくさんの人が想いを向けてくれるから。だから。
(……──なれるのかな)
もちろんこれまでも決して不幸ではなかった。それでもこの先はわからない。今年はちょうど節目と言っていい。だから怖い。目まぐるしく環境が変わっているせいもある。期待と不安。ここ数日はずっと落ち着かない。構えたところで何も変わらないと知っているのに。
『ここにいてくれて、ありがとう』
ふと千咲が言ってくれた言葉を思い出した。ここにいて良いのだと、少しだけそう思えた。自分がいる意味をずっと考えている。この広い世界で、ただ一人自分が生きる意味を。
この歌を歌うときだけ、許されるような気がするのだ。たとえ自分が何者でなくても、今いる場所にいて良いのだと。放つ光は小さいかもしれない。それでも自分も星だと教えてくれた。ならばせめて、誰かにとっての灯りとなれるように。
────『君も星だよ、みんなみんな』
最後のフレーズを歌い終えて後奏を聴く。声の響きがとても心地よかった。やはり練習の集大成だからか今までで一番良い合唱となった。
観客となっている他クラスの生徒からの拍手を聴きながら一同礼を揃える。終わったんだな、と思って顔を上げる瞬間だった。
「……──っ!」
不意に宿り魔の気配を背筋に感じて顔が強張った。だがステージ上で表情を崩すわけにはいかない。合唱コンクールは退場まで審査に含まれるからだ。何事も無いフリをしなければ。
(……──、近い……)
心臓が大きく鳴る。気配が近い。だがスポットが出現したわけでは無い。だとすれば考えられることは一つだ。
──初音が、自分たちのことを見ている。
そういうことだろう。
なんとか動揺を気取られる前にステージから降りることが出来た。発表が終わったことによる安心と言うよりも表情を崩さなかったことに対する安堵で大きく息を吐く。
まだ1クラス分発表が残っている。だがこのままにして良いのかと困惑気味にチラリと四季を見ると互いに目があった。瞬間、彼が小さく首を横に振る。あれは動くなという合図だろう。確かに何かが起こったわけでは無い。ただ気配がしただけだ。ここで派手に動けば他の生徒に不思議に思われる。だから彼の判断は正しい。今はそれに従う他ない。
(どうして、今──)
自分たちの反応を窺うように気配を弄ぶのだろう。そう考えた自分の思考にふと違和感を覚えた。
────今、このタイミングで?
再び心音が大きく跳ねる。考えたくなかった。しかし現実そうは行かない。第一中の三年生は7クラスある。なぜ7組の発表が終わるタイミングに合わせたのか。その答えは──。
美都はグッと唇を噛み締める。この予想が当たらなければ、それこそただの偶然起こった話になってしまう。だからこれは矛盾だ。当たって欲しくは無い。だがそれ以外考えられない。
顔を歪ませながら前を歩く生徒に倣って再び着席する。まだ鼓動が速くなっている。答え合わせは、この行事が無事に終わってからだ。そう思って美都は深呼吸した後、最後のクラスの合唱曲に耳を傾けた。
歌詞出典:ミマス『COSMOS』