揺らぐ青色
「あのね、オレさ、タケルのことが好きかもしれない。」
中学生になり、私よりも大きくなった息子はある日、突然、そう私に告げたのだった。
息子にはたっぷりの愛情を注いで育ててきたつもりだ。夫と私との間に授けられた宝物は息子一人。私たちはそれ以上も、無論それ未満も特にこれといって数に希望は無かった。ただ、たまたま私たち夫婦のもとへやってきたのが、一人の男の子だったというそれだけである。
ただ、一人っ子は甘やかされるだの、第一子は大切に育てられるだのとよく言うが、我が家もその典型的な例だと思う。愛情は数に置き換えて計測できるものではない。誰もその単位を知らないのであるから計測できないに決まっている。それでも、専業主婦としてほかの家庭よりも多くの時間を息子に費やしたに違いない。
私には、もう一つ自慢できることがある。それは、今まで、片時も忘れず夫を愛してきたことだ。
夫とは、高校での同級生だった。私は当時、彼に想いを寄せていた。学生ならば、顔がいいか、頭がいいか、運動ができる人がモテるが、何と表現のしようもないその姿、形、全てに愛おしく感じていた。今も、変わらず。
夫婦関係たるものは、子どもができれば自然とそのことに気をとられ、子どもなしでは維持できなくなるといった話は、何度も何度も聞かされてきた。しかし私は、そんな弱い愛で夫と結婚したわけではない。もうここ十数年、彼のことを愛し続けている。神に誓って。そして、おそらく、彼も。
故に、私たちは息子に心からの、本物の愛を注ぐかたわら、夫との本物の愛、真実の愛というものを息子に見せ続けてきた。
男は女に恋し、女は男に恋をする。それが、ここまで計り知れない数千年、数万年もの間、ヒトという生物が生き延びてきた所以だ。
我々には、感情と思考が与えられた。他の動物が物事について、直感的に、反射的に判断し行動をとるのとはわけが違う。我々は、じっと長い時間を判断するために費やすことができる。そして、気持ちとは何かという哲学的な問いに対する答えを出せずとも、様々な気持ちを自分で認識することができる。
私は夫に好きという気持ちを抱いた。夫の方も私に好きという気持ちを抱いている。息子の間近で、一番近い間柄の二人が互いに愛し合っている。男女間の恋という、恋愛のごく一般的な、かつ、大多数を占める恋愛の在り方を目にしてきているはずだ。
しかし、息子は男性に好意を寄せた。思い返せば、我が息子はこれまで女性に好きという気持ちを抱いたことがないかもしれない。いや、きっとない。テレビを見ても、女優や女性アイドルに熱中したことすらない。まだ、そのような感情を持つ時期ではないと思うこともできる。私とて、初恋の相手は今の夫で、高校二年のときだった。息子はまだ、それより四つほど若い。
だが、今どきの子どもは、幼稚園に通っている時分に初恋を経験するらしいと以前聞いた覚えがある。
やはり、息子はゲイなのか。性的にマイノリティーなのか。
息子は、女性を愛し、女性と共に生きるというこの美しい人生を放棄するつもりなのだろうか。いや、それだけでなく、ゲイだという理由で、周りからいじめを受けたらどうしよう。トイレはどっちに入っていいかわからないと言いはじめたら、何と答えればよいだろうか。
私は息子に愛情を注いで、大切に、大切に育ててきた。愛情を受けて育ったならば、成長し、自立すればだれか別の人へ、次の世代へ愛というものを伝えることができる。でも、息子は、その対象が男だけなのだろうか。多くの人が見えているもの、生きている世界と息子のそれとは、一体何が違うというのだ。
私が時代遅れなのはわかっている。もう平成という時代は過去のものになってしまい、令和がやってきた。私が子どもだった昭和から平成にかけての時代変化とはまるで違う。あの頃の当たり前は今ではただの思い出話となってしまった。教師にぶたれるのくらい、日常の一部だったが、今はそんなことが起きれば、教師一人の首くらいぽーんととんでしまう。ギターを担いで友人数人と遊んだり、解説書片手にラジオを自作したりしていた子どもたちは、いつのまにかコントローラーを握り、異世界にいる敵をやっつけるべく躍起になり、しまいには、世界中の人々と話すことを可能にする機械さえ手に入れてしまった。
そして、性のあり方も変わった。
男らしく、女らしくといった価値観はいささか古いものになってしまった。政治家が国会で、性的マイノリティーについて懐疑的な発言をすれば批判を受ける。いや、数十年前まではそのような議論すら存在しなかったのではないか。しかし、そのような特徴、キャラクターを備えた芸能人をテレビで見ない日はないような日々になり、自らが性的マイノリティーだと公言している人が選挙に出る例もしばしば聞かれるようになった。
学校でも、社会や道徳といった授業で、マイノリティーに対する理解を深めているようだ。そのような講演会を開いている団体もあるらしい。
昼下がり、息子は学校に行っており、夫は今頃汗をかいて営業に出ているくらいではないだろうか。私は家に一人、何をしようにもやる気は出ない。家事はひと通り済ませており、夕飯の支度には早すぎる。リビングのソファのやわらかさに包まれ、長々とこのようなことを考えてしまった。気分を変えるためにも、昼のドラマでも見ようかと思い立ち、リモコンをとった。昔のドラマの再放送か、韓国ドラマか、そのあたりが見れる頃合いであろう。とりあえずと思い、赤い電源ボタンを押した。
カチッとスイッチの入る音がし、リビングに置かれた薄いテレビが、自らの役目を果たそうと目を覚ます。そう、あのころは、こんな薄っぺらいテレビなんかなかった。創業者が戦後、貧しい中でトランジスタをつくるところから始まったというこの企業は、日本の戦後復興と運命を共にしているかのように今では、世界で活躍する大企業となった。アメリカ人はこの企業のことを、アメリカ発祥だと思っているほどらしい。いつの日か、ハウツー本に書かれていたことを思い出しながら、このような小話は覚えていて、その本の核心というか、つまるところ人生の教訓というか、その本は私に何を教えてくれたのかなんて結局忘れてしまったんだろうなと落胆しつつ、画面にパッと映像を映し出し始めたテレビに注目を移す。
たまたま、最初に映し出されたワイドショーで、性的マイノリティーについて特集されていた。ゲストの専門家と、レギュラー出演している芸能人数名が性的マイノリティーについてのVTRを見た直後のようで、その内容を深めているところなのだろう。おそらくは台本に従って。
こういった話題から別の話題へと思いテレビをつけてみたのだが、それは敢えなく失敗に終わった。しかし、もう逃れられないのだろう。私は自然とリモコンを置き、日本中へ向けて発信されている、小さなスタジオでの議論に耳を傾けた。
おおむね、話の筋は、性的マイノリティーへの理解が必要だとのことだ。細かいところは別として、全ての論者が、この議論の持っていかれるべき方向、たどりつくであろうゴールについて賛成しているようだ。それはそうであろう。このご時世、そんな理解は無用、人は男か女に分類されるなどといった古い考えを口にしていれば、社会的に殺されてしまう。芸能人なんかは、専門知識を持っておらずとも、そして、そのトピックについて深く考えたことすらなかったとしても、世間で広く親しまれている方の意見を持っておかないと来週には職を失ってしまうかもしれない。それ以前に、芸能人とて、世間一般の一人なのだ。ただ、彼らは話しかける相手が隣の奥さんでなく、テレビカメラであるというだけである。
専門家に弁論の機会が与えられた。まとめである。
「私は、講演をされていただく際にまずは聞きに来てくださった方々に三つの質問をしています。あなたは男性ですか、女性ですか。次に、あなたは自分がその性別らしいと思いますか。そして、あなたの恋愛対象は異性ですか。場合によっては、質問の量を増やしたり、アレンジしたりすることもありますが、おおむねこの三つです。
テレビの前の皆さんははい、いいえの二択のように答えたかもしれませんが、二つ目と三つ目の質問にはゼロパーセントから百パーセントまでの中で自分はどのくらいに位置するかを考えてもらいます。自分は性的マイノリティーではないと考えてある方は、二択でははっきりと「はい」と答えられますが、数字にするとそうはいかないようです。
この質問で自分を見つめ直せば、男だと思っていた自分にも、女性らしい性格があるのを見つけてしまいます。それで、百パーセント、私は男です、女です、のように自信を持って答えられる人はそう簡単にはいません。
しかし、それでいいのです。
あなたが、百パーセント男である必要、女である必要はありません。二十パーセントでも、五十パーセントでも、全然良いのです。そう考えると、性的マイノリティーといわれているLGBTの人たちは、実は、マイノリティーではないのです。
性のあり方は、グラデーションです。いろいろな色が認められています。赤か青かのどちらかだと決めてしまわなくてもいいのです。自分に合った色、自分らしい色を主張して良いのです。今日はありがとうございました。」
メジャーリーガーが高くあがったフライを素手で取りに行くような、どっしりとして何にも臆することのない彼女の自信あふれる大演説は素晴らしかった。彼女にとっては、幾度もの講演で使い古した決まり文句を述べたにすぎないのかもしれないが、長年マイノリティーに苦しんでいる境遇に置かれている人なら、涙がこぼれてくるだろうと思われるほどだった。
「性はグラデーション」。どこかで聞いたことがあるかもしれないが、やはりその言葉には何か力がある。我が息子に、青色を押しつけるのは、いささかひどい話かもしれなかったと自省する。いや、息子だけではない。世界中全ての人が自分に植えつけられた、赤色もしくは青色を取り払って、自分の色を身にまとう時が訪れたのかもしれない。
私は、新たな時代の幕開けの予感に胸を躍らせる。解放された気になる。地球の上にぽっかりと浮かぶ狭い島に建てられた小さい部屋のリビングのソファに寝転んで。
一人で勝手に、テレビの議論の続きのシナリオを考えていたら、玄関の開閉する音がした。気づけば、ワイドショーは政治家の不祥事に対して怒りの感情を共有しようとしていた。
「ただいま。」という声がした。息子だ。
夕方に入ろうか、いやもう夕方ではないかというった時間になっている。息子も今日は部活がない日だったのだろう。運動部であっても、平日に定休日が認められるようになった時代なのだ。
新たな時代は私を置いて、一足先に始まっているのだ。
そして私は、日常の忙しさへと身を移した。