グンマーの民 1
レイがユリと出会ったのは物心つく前だった。だから、最も古い記憶を掘り出してきても、必ずそこにはユリがいた。
窓のない、打ちっぱなしのコンクリートで覆われた教室。常時四〇名程度の子供がいて、毎日のように新入生が加わった。それと同じ頻度で人がいなくなった。
昨日まで埋まっていた前の席が、その翌日には空席になることに最初は驚きと戸惑いがあった。けれど、すぐに慣れた。
弱者に生きる価値はない。そのことを理解するのに時間はかからなかった。この世界では高い成績を収め続けなければ、生きていけない。
レイは必死に学んだ。誰よりも真面目に講義に臨み、努力を怠らなかった。けれど、隣に座るユリは真逆だった。講義中に居眠りしたり、タブレット端末に絵を描いて遊んだりしていた。
こいつもすぐにいなくなるんだろうな。そう思っていたレイだが、ユリはずっと隣にいた。それどころか、レイの何倍も優秀で、常にトップレベルの成績を収めていた。
ユリには才能があった。それも、圧倒的な。凡人の努力では決して埋めることのできない差。それだけの実力があるにもかかわらず、怠けている彼女のことがレイは大嫌いだった。
嫌悪を露わにしても、ユリは知ったこっちゃないという様子で踏み込んでくる。近づくなオーラを彼女の笑顔はいとも容易く切り裂くのだった。
自分より強い女子といつも一緒にいることは、男子にとって情けないことだという空気感が教室にあった。レイはいじめられることがしばしばあったが、決まってユリがいじめっ子をけちょんけちょんにした。
レイにとって彼女の存在はヒーローでもあったし、災いの元でもあった。ユリにとってレイは守るべき対象で、その逆はなかった。守られる度に、自らの価値が喪失していくように感じた。そのことはレイの中の劣等感を大いに育んだ。
次第にユリに対して辛辣な言葉を吐くようになった。それを受けた彼女は一瞬だけ表情を硬くして、すぐに憂いを帯びた笑みを浮かべた。その顔を見る度に胸が痛くなったが、どうにもできなかった。
その関係が好転したのは七歳――――初めて人を殺したときだった。
デジタルホワイトボードの前に立った教官が、作り物の笑みを浮かべて言った。
「明日、クラス統合を行います。ですので、今日中に教室の人数を二〇名にしてください」
みな戸惑いの声を上げる中、教官は思い出したようにつけ加える。
「達成できない場合、全員廃棄処分です。それでは、始めてください」
教官が教室の外に出ると、前のディスプレイに四〇という数字が表示された。その下でタイムリミットを示す八時間が、一秒ずつ減り始める。
ざわめきが起こる中、すぐに誰かの悲鳴が響いた。視線が声の元へと集まる。
クラスで最も血の気が多かった男子が、前に座っていた女子をナイフで滅多刺しにしていた。何度か響いた悲鳴はすぐにかすれた呼吸の音だけになって、何も聞こえなくなった。
ディスプレイの表記が三九に変わる。
血だまりの中に立つ彼が、返り血に染まった顔で振り返る。狂気に染まった笑み。それを見て、全員が教官の言葉の意味を悟った。
クラスメイトを殺すことに躊躇いを覚えた者から死んでいった。
着実に数字が減っていく中で、ある男子と目が合った。いつもレイをいじめていた男子だ。彼の取り巻きは床に伏し、既に事切れていた。刺し傷は全員背中にある。
彼は返り血で真っ赤に染まっていて、血振りしたナイフをレイへ向けた。
ナイフを握り、応戦の構えをレイが示すと、彼は獰猛な笑みを浮かべて吠える。
「ブス女に泣きつかなくていいのか?」
それがユリのことを指していると分かり、レイはグリップを強く握り締めた。冷静であれと言う理性を無視して、怒りがわき上がる。
「黙れ!」
先手を取ったのはレイだ。相手の喉元に鋭い突きを放つ。相手はそれを軽々といなし、返す刀でレイの手首を切りつけた。レイは強烈な痛みにナイフを取りこぼしてしまう。拾い上げる暇は与えられず、次々と繰り出される攻撃を避ける度にじりじりと後退させられた。背中に冷えたコンクリートが触れ、追い詰められたことを知る。
彼は一際狂気を帯びた笑みを浮かべ、そのナイフを振り上げた。
死ぬことへの恐怖よりも、無価値だと証明されることへの恐れの方が強かった。
世界からの存在否定。それは生まれたこと自体が間違っているということだ。今まで重ねてきた日々も、努力も、そのすべてが必要のないことだった。無駄なことだった。
絶望に心が蝕まれる中で、一筋の光が差し込んだ。
「レイ!」
ユリが跳び蹴りを見舞い、男子は軽々と蹴り飛ばされた。
「大丈夫? 怪我はない?」
彼女はレイの右手首から血が流れているのを見て、大袈裟に声を上げた。
「ちょっと見せて!」
「問題ない」
「駄目だよ。レイは治りが遅いんだから、応急手当しないと出血多量で死んじゃうかもしれないじゃん」
ユリは服の裾を切って、それを包帯代わりに使った。
「これでよし」
安堵の笑みを浮かべたユリは、蹴り飛ばした男子の方を振り返る。
「ブスおんなああ! てめえは絶対に殺すっ!」
歯をむき出しにして、彼は地を蹴った。
「大丈夫、レイは私が守るよ」
そう言って、ユリはナイフを逆手に構える。飛び込んで来た男子のナイフをさばき、足を浅く切りつける。怯んだところで鳩尾に掌底。彼の身体が浮き上がり、動きが一瞬だけ止まる。そこへナイフのグリップを顎目掛けて振り抜いた。
流れるような攻撃は綺麗に決まり、彼は床に這いつくばった。
「もうやめなよ。お前じゃ私に勝てないから」
「うるせえんだよブスがあああ!」
唾を飛ばし、雄叫びを上げながら突進する男子。ユリは呆れたように嘆息すると、ナイフのバック――刃のない方を向けた。
ユリの身体には血の一滴も付着していない。廊下には気絶した生徒が二人重なっていて、彼らの分のカウントはしっかり減っていた。彼女だけが殺す以外の方法で課題を達成しようとしていた。
獣のように吠えながら向かってくる彼も、すぐに廊下の仲間入りをする。そう思っていた矢先のことだ。
彼の突き出したナイフをユリがさばこうとした瞬間、彼は血だまりに足を滑らせた。彼の身体がユリに覆い被さり、二人は倒れた。
どちらもなかなか起き上がらず、嫌な予感がよぎったレイが駆け寄ろうと足を踏み出す。それと同時、ユリが彼の身体を退けて起き上がった。振り返った彼女は、硬い表情でレイの名を呼んだ。
「どう、しよう……」
立ち上がった彼女の手や胸は赤く染まっていて、仰向けに転がる彼の胸にはナイフが深々と突き刺さっていた。
寄りかかってくるユリの身体を支える。震えの止まらない彼女を、レイは無意識に強く抱き締めた。
「ユリは悪くない」
「私が、殺し、ちゃった……」
「事故だ」
「どうしよう……どうしよう……」
何を言っても彼女は聞く耳を持たなかった。どうにか宥めようとしていると、視界の端に何かが映った。顔を上げると、死んだと思っていた彼が立ち上がり、今まさにユリへナイフを振り下ろすところだった。
背を向けるユリは気づいていない。
誰も彼を止めようとはしない。
何をしても間に合わない。
それでもレイは何とかしたかった。
初めて見る彼女の弱り切った姿。
今この瞬間、守られるべき存在は彼女だった。
あのナイフを防がなければならない。レイが手を動かそうとしたそのとき、異変が起きた。
振り下ろされるナイフの速度が急激に落ちたのだ。それだけではない。クラス中の人間の動きが止まり始め、ユリの震えも止まっていた。前のディスプレイに視線を移すと、ミリ秒の数字が体感で一秒くらい経ってようやく減る。
何が起きたのか、理解が追いつかない。それでも、ユリを救えることだけは分かった。
レイが手のひらをナイフの刃先にかざすと同時、時間の流れる速度が元に戻った。
鮮烈な痛みが手に走り、レイは呻き声を噛み殺す。腕の中でユリがびくりと震え、振り返って悲鳴を上げる。
ナイフを引き抜こうとした彼の手を、それが突き刺さった方の手で掴む。彼が振り払おうとするせいで痛みが増したが、放してやる気などなかった。
ユリを横に退かして、レイは相手の顔面を殴りつける。同時に押し倒すと、彼の胸に突き刺さっていたナイフを引き抜いた。馬乗りになり、彼の喉に刃先を向ける。
「ま、待て! た、たすけ――」
レイはその言葉を最後まで聞かず、思い切り刃を振り下ろした。傷を広げるようにナイフを捻ってから引き抜く。血が噴き出て、レイの身体を温かく湿らせた。
眼下で悶える彼の喉からヒューヒューと空気の漏れる音が聞こえる。呻き声を発することなく、すぐに彼は動かなくなった。
背中に何かがぶつかって、首に腕を回される。まさかユリに絞め殺されるのかと思ったとき、肩にじんわりと温もりが広がった。
「ごめん……レイ、ごめんね…………」
涙声で言う彼女の腕に、レイは手を当てた。
ユリが謝る理由が、レイには分からなかった。
レイはユリを助けたのだ。それは喜ぶことであって、悲しむようなことではない。
「問題ない」
そう答えると、ユリは堰を切ったように泣き始めた。
ディスプレイの表示が二〇になり、課題達成の文字に変わる。
死に彩られた教室では、誰一人として爽快な表情を浮かべる者はいない。みな自らが辿る道を察し始め、複雑な面持ちで沈黙していた。
*
年齢を重ねるごとに任務は過酷になっていき、殺した人数は数え切れなくなった。最初は胸を痛めることが多く、殺す度に心が擦れていった。だが、それも次第に慣れた。
回数を重ねるごとに殺しの技術は熟練し、人間をバラすのはただの作業に成り下がった。
摩耗し切った心は感情をなくし、人殺しの機械になる者も多くいた。その中で自分を保っていられたのは、ユリがいたからなのだとレイは思った。
大嫌いだった彼女はいつの間にか、かけがえのない存在になっていて、守るべき対象だった。
今になって思う。
何より大事だったのは、ユリを守り抜くことだった。
あのときのように、彼女の涙を見ないために。
けれど、何もかもが遅かった。
ユリは死んだのだ。