紫電迸る災いのダルマ 3
その声の先にいたのは大リザードマン。レイの足下に転がる死骸を見て、両の目から涙を流していた。まるで彼女の死を悼み、悲しむように。空に向かって慟哭する。
そうして、彼の瞳は悲嘆から憎悪に映り変わる。
武器を拾い上げることなく地を駆け出した大リザードマンは、狂気の入り交じる咆哮を放った。その異様な圧力にレイたちの動きが一瞬止まる。しかし、すぐにマルスが応じた。
「レイ、下がってろ!」
マルスは雄叫びを上げながら刀を袈裟に振る。その一撃を腕で受け止めた大リザードマン。皮膚を裂かれ、肉を切られているにも構わず、力任せに腕を振るった。巨漢のマルスが容易く叩き飛ばされるが、それに驚いている暇はない。
大リザードマンは脇目も振らず、レイに突進してきた。
「殺したのは俺じゃないだろ!」
舌打ち混じりにハンドガンで牽制するが、奴は避けようとせず、その身体に穴を開け、血を流しても足を止めない。
自らを顧みない捨て身の攻撃ほど厄介なものはない。
レイは身軽に攻撃を避けつつ後退する。大リザードマンの攻撃手段は左腕と尾だけだ。鋭い爪は当たると厄介だが、リーチが短いため避けるのは難しくない。尾も相手の動きを見ていれば問題ない。
問題なのは相打ち覚悟で攻撃を受け止められた場合に、確実にレイが殺されるということだ。マルスすら容易く飛ばす膂力を持ってすれば、レイの頭など軽く握っただけで潰される。相手にこちらを捉えられるということは死を意味している。
大リザードマンがレイに集中している間に、他の虚番が周りを囲む。多方向からの一斉攻撃。五本の刀がその身体に突き刺さるが、リザードマンは身体を捻り、尾を振り回して仲間たちを吹き飛ばす。そして、刀が刺さったまま踏み出した。
その濁った瞳に背筋が凍る。手が震えているのが分かった。足が石になったように重い。まるで自分のものではないようだ。
「レイ!」
大リザードマンとレイの間に飛び込んだユリは、ククリナイフを奴の胸に突き立てる。それとほぼ同時に、ユリの身体から白い靄が消えた。ククリナイフは半分ほど刺し入ったが、そこで止まった。
「ユ――」
彼女の腕を取ろうとした瞬間、その身体が砲弾のように飛び込んできた。飛びそうになる意識を繋ぎ止め、ユリの身体を放すまいと無我夢中で抱き締める。何とか谷底に落ちる前に止まり、喉を上ってきた熱いものを吐き出した。赤黒い血が地面を濡らす。
身体中の痛みを無視してユリを抱き起こす。彼女は顔を顰め、腹部を押さえて悶え苦しんでいた。咳き込むように吐血し、レイに寄りかかりながら上体を起こす。
「ユリ、大丈夫か!?」
「ごめ、……ちょっと、しくった」
ユリの傷はなかなか回復しない。
アクセルは能力を上昇させる劇薬だ。しかし、その恩恵には副作用がある。アクセルの効果が切れると、今度は反対に能力が著しく低下するのだ。治癒能力も例外ではない。そのため、効果が切れる直前に後退するのが定石だ。
効果が切れる際には目眩がする。それが前兆だ。
「悪い、俺のせいだ」
その前兆を見逃すほど、ユリは未熟ではない。過去、レイは何度も彼女がアクセルを使う場面を見てきた。薬の効果が切れるまで戦い続けたことは数える程度しかない。
そして、そのときは決まってレイが劣勢に立たされているときだった。
だから、彼女が傷を負ったのは自分の責任だ。レイは唇を噛みしめた。
仲間の声に顔を上げると、大リザードマンがすぐそこまで迫っていた。その手には自らの身体から引き抜いた刀を握っている。
迷う時間などなかった。
迷う余地などなかった。
レイは足のホルダーからダガーを引き抜き、逆手に構えた。アクセルを飲む時間はない。
できるだけユリとの距離を開けるために、レイは自ら相手へ飛び込んだ。迫り来る刃を弾くようにして受け流す。逸らしきれなかった刃先がわずかに足を掠めるが、構わず奴の喉元へ刃を突き立てる。大リザードマンは首を沈ませ、それを額で受け止めた。鋼鉄を突いたような衝撃が手に伝わり、危うくダガーを取り落としそうになる。
レイの身体を噛み千切ろうと大きな顎が開き、幾本もの鋭い牙が顔を出した。上体を反らして何とか間合いの外へ逃れ、相手の身体を蹴り押す。わずかによろめく程度だったが、上出来だ。本命は奴の身体から引き抜いた刀だ。
右にダガー、左に刀を握り、息つく間もなく攻撃に転じる。本来は右利きなので刀を右で持つが、どちらの手でも自在に使えるように仕込まれていた。相手に合わせて臨機応変に戦うのが基本だ。
相手の刀をダガーで受け、がら空きの胴へ刀を切りつける。鮮血が飛び散り、レイのスーツを濡らす。
二の太刀を入れようとした刀は、力強い尾の一振りで弾かれる。腕が上に押しやられ、脇腹が空いてしまう。それは致命的な隙だった。迫る刀をダガーで受け止めると同時、反対の肩に鋭い痛みが走った。大リザードマンが長い首を伸ばし、噛みついたのだ。
ミシミシと骨が軋む音が鳴る。左腕の感覚が途切れ、刀を地面に落とした。
レイはダガーを何度もその首に突き刺すが、顎の力は衰えることなく、むしろ次第に強まってすらいた。
大リザードマンが首を振り上げ、レイの身体が浮く。そのまま地面に叩きつけられ、骨の砕ける音が響いた。
叫び声を上げる暇なく起き上がったレイは、振り下ろされた足から逃れ、後退する。
「レイ、逃げて」
すぐ後ろにいるユリがどんな顔をしているか、振り返らずとも分かった。長い付き合いだ。だからこそ、逃げる訳にはいかなかった。
だらりと垂れ下がる左腕はもう使いものにならない。獲物は不得手とするダガー。最も合理的な選択は、ユリを置いて逃げること。
いつもならそうするし、今まで何度もそうしてきた。何よりも優先されるのは任務遂行。そこに個人の生き死にが介在する余地はない。自分たちがこの任務のために作られたことは知っている。任務を遂行できなければ、この命に価値はない。
だから、自分が今しようとしていることが間違いだということなど、言われるまでもなく知っていた。理解していてなお、その瞳には闘志が燃えたぎっている。
大リザードマンが刀を振り上げる。誘っていることが見え見えだ。本命は尾の攻撃だ。今のレイにそれを防ぐ手立てはない。ボロボロの身体で上手く避ける自信もない。
それでも、レイは足を踏み出した。
ユリの悲鳴が、唐突に遠のいた。
――きた。
大リザードマンの動きが、酷く緩やかに見える。
いや、ほとんど静止している。まるでスーパースローモーションの動画でも見ているようだ。
この感覚を、何度か味わったことがあった。
体内の血管が沸騰したかのように全身が熱い。酷く頭が痛く、呼吸が苦しい。
だが、身体はいつものように、動く。
その瞬間、レイの黒い瞳はうっすらと赤みを帯びていた。
懐へ踏み込み、ダガーをその心臓へ突き立てる。刃はするりと奥へ飲み込まれた。
世界に音が戻り、ユリの悲鳴が届く。しかし、その声はすぐにやんだ。
「あれ、レイ……なんで」
戸惑うユリ。大リザードマンも彼女と似たような反応を示し、静かにレイを見下ろしていた。
刀を取りこぼし、大リザードマンはゆっくりと崩れ落ちる。その瞳は最後までレイを捉えて離さなかった。
周囲がざわついた。この中の誰一人として、レイが勝つとは思っていなかった。それはユリとて例外ではない。誰もが息を呑み、目の前で起きた出来事を信じられずにいた。
「あいつ、やりやがった……」
誰かがそう呟くと、ようやくそれが事実だと受け入れられたように、みなが歓喜の声を上げた。
「レイ、何、今の? 向かっていったと思ったら、そのときにはもうトドメを刺してて、まるで瞬間移動してるみたいだった」
「ああ、まあ、なんて言えばいいのか分からない」
レイはこの能力のことを瞬劫と呼んでいる。
瞬劫のことを誰かに話したことは一度もなかった。最初はただの錯覚だと思っていたし、能力というほどのものではないと思っていた。何度か経験して、特別な能力なのではないかと思い始めてはいた。だが、任意のタイミングで使えないため、あてにすることもできず、使えないものを明かしてぬか喜びに終わっては面目が立たない。
「それより大丈夫か? 治癒能力はまだ戻らないか?」
「うん。前はこのくらい時間が空けば戻ってたんだけどね。ちょっと酷使しすぎたかも」
自分のせいだ。レイが自責の念に駆られていると、ユリが足を蹴ってきた。
「何だよ」
「ん? 別にー。ただ、生意気に落ち込んでるからムカついただけ」
「だって、俺のせいで」
「私が無理したくてしたんだから、いいの」
「よくないだろ。そのせいで――」
続きの言葉は出てこなかった。
こんな状況で、傷だらけにもかかわらず。
ユリが微笑んでいたから。
嬉しそうに。喜びを噛みしめるように、彼女は唇を一文字に結んだ。
「ありがとう、レイ」
「…………脳天気な奴だな」
レイはぶっきらぼうに言って視線を逸らした。瞬劫を使ったせいか、胸の奥が締め付けられるように痛む。
この時間がずっと続けばいいのに。そんな馬鹿みたいなことをふと考えてしまう。
グンマーに訪れて初めての戦闘は、虚番の勝利で終わった。
誰もがそう思った矢先だった。