交差する想い
膝をつき、掌を地面につけた。汗なのか返り血なのか、自分の顔から垂れたものが土に染み込んでいく。呼吸は荒く苦しいが、まだ倒れる時ではない。倒れてはいけない。
刃はとうに砕けていた。指にはナックルガードの部分が残っているだけで、それをカイザーナックルの代わりにしている。
隣を見ると、最後の捕食者の頭をリヴァが弾の切れた拳銃のグリップで殴打していた。捕食者はすでに動かなくなっている。血まみれの拳銃を地面に投げ捨て、その場に座り込んだ。
「ちきしょう、疲れた」
返り血を拭い大の字に寝そべった。
「おい……まだ次がくるぞ……起きろよ……」
「あ? ガキ、生きてたのか」
「てめえを……殺すまで……死なねえよ」
「随分息が荒いじゃないか。もうへたばったのか」
「うるせえ」
ジムは体を起こし、指からナックルガードを抜いて捨てた。
周囲には10体ばかりの捕食者の遺体が倒れている。だが路地を曲がった先から更に影が迫ってくる。早くこの場を去らなければならない。いつの間にか消えたマシュも追わなければ。
ジムは瓦礫から木材を取り、適度な長さに踏んで折ると、軽く振り回す。
「お前、銃は扱えるか」
「……触った事ねえよ」
「へぇ───
リヴァは立ち上がる。
───今時珍しいね」
「だったら何だってんだ」
「まあいい、ついてきな。そんな棒きれよりいいもんをやるよ」
リヴァはジムを連れ『武器小屋』へ走る。道すがら捕食者に会わないように、あえて崩れかけた家の中を通り、屋根づたいに進んだりと、『武器小屋』を目指していった。途中、捕食者に囲まれた数名の住人を見つけ、協力して退けていたりしていた為、いざ着いた時にはスラムの火の手は更に大きくなっていた。『武器小屋』にも火の手が迫っている。
「参ったね、何人かいるな」
燃える家屋から炎に包まれた捕食者が現れる。その他『武器小屋』の周囲には3人の影が徘徊する。リヴァはジムに小屋の中に入れと指示した。
「てめえはどうすんだ」
「アタシが引きつけといてやるよ」
そういうとリヴァは捕食者の上へ一気に屋根から飛び降りる。リヴァが降ってきた捕食者は跳ね飛ばされて、崩れた家の塀にぶち当たった。降り立ったリヴァの周りを捕食者がにじり寄る。リヴァはいつの間にか持っていた鉄パイプで、目の前の捕食者の頭をフルスイングした。
「行け!」
リヴァの合図でジムは小屋を目指し飛び降り走る。扉に火の粉がかかっていたが、蝶番が取れ傾いていた扉を引き剥がし、迫っていた捕食者にそれを投げつける。
中に入ると、粗方武器は運び出されてしまっていた。だがまだ拳銃や弾丸などは残っていて、ボーガンやナイフ、防弾ベストなどもあった。ジムは棚の端に置かれていたものを取る。
リヴァが鉄パイプを捕食者の顔面に突き刺す。倒れる捕食者の顔に刺さったまま、鉄パイプが手から離れた。
「ガキーッ! まだかーっ!」
叫んだリヴァに向かって何かが投げられる。小屋からきたそれをリヴァは拾う。それはチェーンソーだった。エンジンはかけられている。
「へぇ、面白いもん出すじゃないか」
スイッチを押すと爆音を伴い刃が回転する。リヴァの口角は緩んだ。
「いくぞお前らーっ!」
リヴァは迫る捕食者達にチェーンソーを振り上げて、その回転刃を頭に振り下ろした。刃が徐々に頭を切り裂き、血飛沫を撒き散らしながら体も真っ二つにする。刃を振るい、絡みつく血液と肉片をなぎ払うと、次の捕食者に向けスイッチを押した。
しかしチェーンソーは回転を緩め、死んだように動きを止めてしまった。ワイヤーを引きエンジンをかけるのを試みるが、全くかからない。よく見ると肉片や血糊で刃だけでなく、エンジンの吸い込み口やワイヤーに至るまでべっとりと付着し、チェーンソーがかかる事はなかった。
リヴァは動かないチェーンソーをそのまま振るい、迫る捕食者を敬遠する。
リヴァの真後ろにあった小屋の壁が内側から爆発するが如く、木っ端を散らして破裂した。中からジムが出てくる。その顔は狂気をまとった満面の笑みだった。
「いいもんがあるじゃねえか。オレ向きの最高品だ」
ジムは拳を合わせる。高鳴る金属音が響く。
ジムの両腕には金属製の手甲が肘まではめられていたが、拳の部分には棘のついた大ぶりのカイザーナックルがついていた。まるでロボットの腕を装着しているような出で立ちに、ジムは満足そうに鼻を鳴らす。
「それは軍が落としていった装備品を寄せ集めて作ったものだ。男はまたどうしてそういうものに引っ張られるのか……やれやれ」
「カッコいいだろこれ。オレの為にあつらえたようなもんだ。これに───
ジムはナックルの部分に火薬缶から黒い粉を振りかけた。
───これで戦力も上がる」
ジムは高笑いしながら捕食者に走り、地面を滑って捕食者の腹に拳を叩き込んだ。刹那、爆発と白煙が破裂し、捕食者は腹の肉を飛び散らせて吹き飛んだ。しかしジムもまた後方に転がり飛ぶ。
「ちきしょう! 肩外れやがった! ちきしょうふざけやがって!」
ジムは垂れ下がった右腕をかばいながら立ち上がり、火薬缶を炎があがる家屋に投げつけた。
「いくぞババア! 走れ!」
「お前何やってんだ! 爆発するぞ!」
リヴァとジムが全力で走り、捕食者達の間をぬいながら勢いよく地面に伏せた。途端に後方で大爆発が起き、爆風で捕食者達もなぎ倒され、瓦礫の雨が降る中を更に走った。
「アタシのスラムに何て事してくれてんだ!」
「うるせえ! もうスラムもクソもねえだろ! 見てみろ! これがてめえの守ってきたものか! もう跡形もねえだろうが! さっさと諦めろバカやろう!」
ジムの言葉は的を得ていた。リヴァの守ってきたスラムは、今は見る影もない。崩壊したスラムは地獄絵図を映し出した、いわば戦場になっていた。捕食者とスラムの民が戦い、血が流れ、魂も肉体も滅んでいく。リヴァは下唇を噛み、そして目に焼き付けた。
ビンセントの目の前には、旧式で小型ではあるが、鉄の塊が鎮座していた。弾はすでに込めてある。あとは着火すればいい。
ビンセントの目論見通り、山の上からは捕食者の大群が押し寄せていた。他のスラムからきたスパイ達が、独房を開け、水に化け物の血を混ぜただけで終わらないであろうと考えた。
スラムが山の斜面にある事により、山側から攻めに対処した形になっている。もし仮に上から攻め込もうとした場合、連なる3つの山を越えてこなければならない。険しく、野生動物もいるこの山を越える事は至難の業で、今まで山側から他のスラムに攻め込まれた事はなかった。
だがそれはあくまで『人間』の話であり、生きる屍である捕食者には、険しさも野生動物も関係ない。ただ、自我でそれをやろうとは考えつかないであろう。
では今、山側からくる捕食者の群れはどうやってきたのか。
それはスラムのスパイ達の仕業であろう。彼らは恐らく人間を囮にし、捕食者の無尽蔵にある体力を考慮して、この山を越えさせここまで手引きしたのだ。彼らは独房の件や水に血を混ぜただけでなく、外から捕食者まで誘い込んでいた。スラムの中で捕食者がおかしなほど爆発的に増えたのは、それが原因だった。
山の斜面を駆け下りてくる捕食者の群れは、今まで調達班として幾度となく捕食者と対峙してきたビンセントでさえ恐怖を憶えた。怒涛の波は地響きを伴い、唸り声は雷鳴を思わせた。ビンセントは逃げ出したくなる手でマッチを擦り、導火線に火をつけた。設置した小型の大砲は捕食者の波に向いている。
「これ以上やられてたまるか……このスラムはな、オレ達の『家』なんだよ!」
ビンセントは踵を返し、スラムに戻ろうとした。しかしそこには捕食者が涎を垂らし、ビンセントを待ち受けていた。とても1人で対処できる数ではなかった。
ビンセントはすぐに大砲の照準を変えた。それは捕食者の群れからやや外れた、山の斜面に向けられた。ビンセントの肩や腕、足に激痛が走る。
ビンセントには5匹の捕食者が食らいついた。更に何人もの歯が体に突き刺さる。
「道連れだ、クソヤロウ共……」
大砲は怒号を帯びて山を削り飛ばした。一時置いて、斜面は雪崩の如く土砂と木々を巻き込み、捕食者の群れを取り込みながら滑り降りてきた。
ビンセントは目を瞑った。
爆撃でも受けたかのような轟音が山から土砂崩れを連れてくる。狭い路地をあえて通り、捕食者の追跡を逃れていたが、そんなジムとリヴァにも轟音は聞こえた。思わず家々から覗く空を見上げてしまった。空から隕石でも降ってきたかに感じた。地鳴りが足元を揺るがす。
「おい、何が起きたんだ」
「アタシが知るか。行くぞ、こんなとこで止まって───」
リヴァが突然吹き飛び、傍の家の入口を突き破った。ジムが振り返り構えるが、それより早く何かがジムを吹き飛ばした。左頬に強烈な痛みが走る。地面を擦り、体を反転させて素早く起き上がる。口の中に溜まった鉄臭いものを地面に吐き出した。
「……そこにいやがったか」
マシュはそこに佇んでいた。肩で息をし、灰色の目でジムを睨んでいる。苦々しく僅かに開いた口から、静かに血が垂れていた。
「オレに逆らうなんて、バケモンになり果てて随分偉くなったな。てめえ何やってんだ! マシュ!」
ジムはマシュと対峙する。両脇の家屋はだんだんと火の手が回っていく。
「てめえ本当にバケモンになったのか? もう人間じゃねえのか? 答えろマシュ!」
いろいろな想いが込み上げる。
ジム・スカーリーの人生は、常に幼なじみのマシュ・エルフォワーズと共にあった。産声をあげた日が同じだった2人は、育つ過程で必ずと言っていいほど比較の対象だった。そしてマシュはジムの全てを上回っていた。ジムにはそれが許せなかった。
更に許せない事は、マシュのジムに対する優しさだった。
マシュはジムよりも優れた能力を持っていた。勉学や体力もそれに値する。ジムもそれを分かっていた。しかしマシュはジムの性格を読み、ジムを傷つけないようにと、その全てをわざとジムに譲っていた。スクール代表のボクシングも、本気でやっていればジムはマシュに敵わず、マシュだけが代表だっただろう。だがマシュはジムに気を使い、スポーツも勉強も何でもジムに道を譲っていた。それはジムの自尊心をことごとく砕いていった。
ジムは今対峙しているマシュを悲しくも嬉しく思っていた。今のマシュには優しさも配慮も、そして恐怖心もない。今のマシュであるなら全力を出せる。長年に渡る勝負の決着をつけられる。
ジムは拳を改めて握り、手枷になるであろう手甲を右腕から抜き、下がる腕を持ち上げながら勢いよく捻り上げた。骨が鳴る音と激痛が頭の天辺まで貫き、ジムは大きく叫び声をあげた。
「マシュ! ようやく決着をつけられるなぁ! てめえはオレがぶちのめすまで死なせねえよ! やってやるぜマシュ!」
ジムが走ると同時に、マシュは雄叫びをあげジムに走る。両者は激突し、手を合わせたまま額を付き合わせた。
マシュの歯が鳴り、ジムの顔を噛もうとする。ジムはそれを頭を左右に振ってかわし、マシュの顔に額をぶち当てた。更に腹に膝蹴りを当て、巴投げで後ろに投げ飛ばす。
マシュは足を振り上げて立ち上がると、ジムに向かい咆哮を挙げた。そして状態を低くしながら走り、素早くタックルする。マシュの肩がジムの鳩尾を捉え、呼吸が一瞬止まったところをマシュが顔を振り下ろす。ジムは咄嗟に左腕でガードすると、マシュの歯が左腕につけていた鉄製の手甲に食い込んだ。メキメキ音を立て、マシュの歯が手甲を潰していく。
ジムはマシュの後頭部を掴み、体勢を変えてその顔面を地面に叩きつけた。怯んだマシュを力任せにぶん殴る。マシュが後ろによろけたところを、更にジムの追撃で左ストレートが顔面を捉えた。マシュは大きく体をしらなせて吹き飛んだ。
「どうだマシュ! これでもてめえはまだ手加減するのか! どうなんだクソヤロウ!」
マシュが立ち上がるのを、ただ見つめる。ジムは震える拳を握る。
「臆病者のてめえが、バケモンになったらオレと張り合えるとでも思ったのか! 来いよ! きてみろマシュ! オレをぶっ倒せると思ったのか! 臆病者のてめえがよぉ!」
ジムはマシュを見る。マシュは感染が進んでいるのか、黄色い膿と混ざった血液を鼻や口から垂らし、灰色の目は真っ直ぐジムを見ていた。
「子供の時からそうだった。てめえは何でも簡単にこなしてオレを置いていく。いっそ見下してくれたらどれだけよかったか。だがてめえは見下すどころかオレに勝ちを譲るようになってた。それで勝った気になってたのか? オレに何でも譲って、てめえはオレを嘲笑ってたんだろ! マシュ!」
「もうそれはマシュじゃない。あのダメージじゃ、どっちにしろ死ぬさ。もう行くぞ」
粉々になったドアから出てきたリヴァは、木っ端を払いながらジムに近づく。
「もうほっとけ。あんたの友達じゃないんだ、もうあれは」
「うるせえんだよババア。てめえ先に行けよ」
「あんたもくるんだ。さぁ早く」
リヴァの手を振りほどく。
「先に行けって言ってんだろ!」
「死ぬつもりか? 何意地張ってんだ!」
「こいつをぶちのめさなきゃ、この場を離れられねえ。先に行けよ。マシュと決着を───」
リヴァの平手打ちがジムの頬を歪ませる。ジムは驚き、リヴァの顔を見た。リヴァは怒りとも悲しみともつかぬ表情で、しっかりとジムを見返していた。
「……とっとと来い。あんたを置いていったとなりゃ、アタシの夢見が悪い」
リヴァがジムの腕を引く。ジムはマシュを睨んだまま動こうとしない。
「姐さん!」
道の先にスラムの住人が姿を現した。何人か固まっている。皆、リヴァに向かい手を振っていた。
「さあ行くぞ。これ以上はヤバすぎる。ここに留まれば命がいくつあっても───」
リヴァを発見したスラムの住人達がこちらに向かってくる中、地響きが辺りを揺るがし、遠くから家々が押し潰されながら2人に迫ってきた。地面は立っていられないほど足元を震わせ、よろけた住人達が転んで地面に這いつくばった。伏せたまま動けないでいる。リヴァとジムも突然の事に動揺を隠せない。
「何が起きた? 何なんだ!」
「おい、家が動いてる」
ジムの目の前の家屋がずれていく。それは隣の家屋に押され、その家屋はその隣の家屋に押され、徐々に速度を増しながら滑るように流れていく。ジムの足はそれに伴い、その場から逃げようと動き出す。
家屋の残骸に紛れて、活動をやめた捕食者が土砂に巻き込まれていた。その数は多くなり、為す術もなく唸りを上げる土砂と瓦礫に飲み込まれていく。住人の誰かが叫んだ。
「土砂崩れだ! 逃げろ! 土砂崩れだ!」
それは速度を更に上げて押し寄せる。リヴァもジムも住人達と一緒に逃げ始めた。マシュの姿はない。
「屋根へ上がれ! 屋根伝いに走るんだ!」
素早く屋根に上がり、飛び石のように屋根を飛んで走る。土砂崩れの速度は完全にスラムを飲み込む勢いで、家屋だけでなく住人達や捕食者を次々と取り込み流れる。ジム達の真後ろには、もうその脅威が迫っていた。
「走れガキ! もうきてるぞ!」
「黙れババア!」
屋根にしがみつく捕食者を蹴り飛ばし、ジム達は屋根を飛び移って走る。その先には小高い丘に続く出入りの門が見える。門にはすでに何人かの人影が車で待機していた。屋根伝いに走るジムとリヴァを見て手を振る。
「ヤバい! 土砂がそこまで!」
「門まで走れ! あそこは高台になってるから、土砂が収まる! 走れ!」
土砂の波が襲い来る中、リヴァは何とか屋根から門柱を掴み、そこに待機していたスラム住人の手を借り、ようやく地面に降り立った。門柱と流れて固まった家々の瓦礫が丘に阻まれて溜まり、土砂の流れが左右に別れて滑っていった。数人の住民とフェイスやクレイヴン達が合流し、その流れを唖然と眺めている。リヴァはその場に倒れ込み、荒い呼吸を整えた。泣きながらリヴァの周りを取り囲む住民達。そこにビンセントやミッチェルの姿はなかった。ベンジーがリヴァに泣きながら抱きつく。
「ベンジー、ミッチェルはどうした? 他の皆は?」
「ミッチェルはここまで皆を誘導した後、姐さんを探しに……」
「あのバカ! 何考えてんだ!」
「わしらも止めたんだがな、すまんな姐……いや、リヴァ。すまんな、マルゴネットのスラムを守れんかった」
ワッカがリヴァの傍らに座り、ゆっくり頭を下げた。リヴァは起き上がり、ワッカの肩に手を置く。
「あんたは父さんの時代からスラムを守ってきてくれた。あんたが頭を下げる事なんて何もありゃしないよ。これはアタシの不徳の致すところ。アタシの力不足が招いた事だ。本当にすまない。父さんにも、父さんの幹部だったあんたにも、合わせる顔がない。ごめん……ごめんなさい、ワッカじい───」
「ボスとあろう者が、不用意に頭を下げるな」
片膝をついて頭を下げようとしたリヴァを止め、無理矢理立たせた。
「まだスラムはなくなっていない。ここにまだ、スラムの人間は残っている。そしてお前がいる。リヴァ、場所が消えただけで魂はなくならんのだ。お前やマルゴネットが成し得た事は、わしらの中に残っている。それを忘れてはならんのだぞ」
リヴァは顔を拭い、ワッカに深く頷いた。光るものが浮かんでいた瞳は、輝きを幾分取り戻したかのようだった。振り返り、土砂崩れが続くスラムの大地を見つめる。
「生き残りは何人いる」
「わしとベンジー、ラッセル、モネ、バートン、カインズナー夫妻とマクマホンの娘のミラーもいる。マクマホンはダメだったらしいが。それとエレストの家族は4人とも無事だった。モネが今、錯乱状態にある。バートンが押さえてる」
「それだけか」
「ああ、それだけだ。ヘイズナーは彼らをここに連れてくる途中で」
2人が見ると、クレイヴンとカーレンは気まずそうに顔を伏せた。
リヴァにフェイスが近づき、ジムはどうなったのか聞いた。リヴァは顎で指す。
ジムは屋根で佇んでいた。その視線の先には───
「あの土砂崩れで死んだと思ってた。ああ、もう死んでたな、てめえは」
マシュは肩で息をつき、今や生前の穏やかな表情が消え失せた目でジムを睨む。その口からゆっくりと、血の涎が垂れた。
「来いよマシュ。とことんやってやるよ。てめえをあの世に送らないと、オレはこのクサレ状況から出られねえようだからな」
マシュが足を引きずりながら歩み寄る。左の足首が逆に曲がっていた。ジムはマシュが噛みつき潰れた左腕の手甲を脱ぎ、未だ流れる瓦礫と土砂の川に捨てた。
マシュとジムが同時に走る。トタンの屋根を鳴らし、2人は中央で組み合うと、ジムはマシュの顔面を何度も殴りつけ、マシュは幾度となく噛みつこうとするのをジムに阻まれながらも、その腕をねじ上げ体当たりでジムを屋根に叩きつけた。そのまま肩口に歯をたてようとし、ジムはそれを体を捻ってマシュの腹に膝蹴りを見舞った。
屋根が傾き、体が滑る。膝立ちのまま放ったジムの拳がマシュの頬を捉えると、マシュは屋根をそのまま滑って土砂の川に身を落としかけた。寸でのところで屋根の端を掴む。
「マシュ!」
ジムは咄嗟にマシュの手を握った。マシュはジムの手で宙吊りになる。その下には家屋も飲み込む土の濁流が猛威を奮う。
ジムは突然の事に戸惑った。何故マシュの手を掴んだのだろう。まだ自分の中に、何かが残っているのだろうか。
「……ジム」
空耳か?
ジムはそう思った。自分の名を呼ぶ者など、周囲に誰もいない。まだ距離がある門の先に、そこにたどり着いたリヴァ達がいるが、彼女らの声ではない。
ジムは驚愕の面もちで、宙吊りのマシュを見た。顔を上げたマシュの片目は、人間の光が宿っていた。
「……ジム」
「マシュ!」
マシュの顔半分は赤みが戻り、もう半分は未だ捕食者の表情だった。甦った片目は確実にジムを見据えていた。
「マシュ、お前───」
「ジム、手を……離せ」
マシュを捉える手が滑る。汗と重さで手が震える。
「手を……離すんだ……ジム」
マシュは苦しそうに言葉を放った。
「僕の意識がまだ……ある……うちに……手を離してくれ……ジ───」
「黙れマシュ! いつからオレに指図するようになったんだ!」
ジムは渾身の力を込め、マシュを引き上げようとする。捕食者と対峙し、逃走し、マシュと戦った体は、もうとうに限界にきていた。腕の筋肉が悲鳴をあげ、更には無理矢理ねじ込んだ脱臼の肩は、気絶しそうなほど激しく軋んでいた。
力が入らない手はより滑り、マシュの体が下がっていく。そればかりかジムの体まで屋根を滑り、上半身を乗り出し始める。
「お前……何で元に戻ったんだ」
「分からない……分からないけど、もう意識が保てない……手を離してくれ、ジム。君まで落ちてしまう。手を離せよジム……手を離せよジム!」
「黙れって言ってんだろクソやろう! オレが何をやろうと勝手だろ!」
「ジム……オーベルのクッキー……ありがとう」
「何言ってんだてめえ! 黙ってろ! 手が滑───」
激痛が一気に全身を駆け巡り、マシュの体が宙を舞う。
「マ───」
自分とマシュの手がゆっくりと剥がれていく様が、網膜を揺るがす。叫んだ自分の声が聞こえない。マシュの顔が徐々に遠ざかり、灰色に戻っていく目が柔らかく閉じていった。口角が緩み、何かを形取る。それは別れの言葉か、自分への恨みかは分からない。だがジムはマシュが微笑んでいる気がした。
音が掻き消され、ジムはその中で何度も何度もマシュの名を呼んだ。叫んだ。
マシュの姿はとうに濁流の中に消え、そしてその存在を無くした。
「───シュ! マシュ! マシュ! マシュ!」
ジムは自然と流れたものを拭う事もせず、ただ消えていった手の温もりを探すように、何度も何度も名を呼んだ。
「マシュ───ッ!」
濁流は残骸を更に細かく砕き、山の麓まで全て押し流す。未だ終わる事のない耳鳴りを伴う土石流の轟音は留まらず、ジムの叫び声など意に帰さずに、いつまでも流れていた。