彼女は天に帰りたい。それでも僕は引き止めたい。
急に抒情的な気分が来たので。
ジャンルを純文学にするか、現実世界〔恋愛〕にするか最後まで迷った。
ぽつり、と。
天を高く見上げて彼女は、飛びたい、と言った。
ほっそりした背、うなじを隠す黒髪が風に靡く。
町外れの高台にある公園には、壊れた遊具が撤去もされず居並んでいた。
寂れた風景にたたずむ彼女の後ろ姿。
ただ見ているだけの僕には、その気持ちなんて分からなかったけれど。
白昼の碧天。
薄く溶いた絵の具を、天頂から刷いたような色。
ペールブルー、なんて呼称が似合いそうだった。
『"飛行機雲”』
その淡青の天穹を、ひとすじの白が突っ切る。
右から、左に。
つっと上がったのは細い指先。
たった今、中天をよぎってゆく飛行体が後方に吐き出す白い航跡を、なぞるように動かすので、まるで彼女が青いキャンパスに線を引いているみたいだった。
『なかなか消えないね』
微笑を湛えているような、声。
背後に立つ僕からは実際には見えないから想像でしかない。
『きっと天気が悪くなる。もうじき降り出すかも』
予報めいた言葉。
彼女は天体に関する雑学に通じている。おそらくは、なんらかの根拠に基づいて、口にしたのだろう。
たぶん僕は縋るような気持ちで会話の糸口を追う。
「どうして?」
『どうしても』
しかし理不尽にも問答は断ち切られ、彼女は天穹を見上げ続ける。
僕には気持ちが分からなかった。
だって、人には翼がない。
どれほど技術が発達したって進化の道程まで弄れない。
望んだって、願ったって、身ひとつでの飛行など不可能だ。
なのに、どうして生来の本能に悖る行為に焦がれるのだろう?
『ほら――風が強くなって来た』
そうして、ようやく振り返った彼女の顔は白い。陽に焼けない体質なのだという。
動く唇の赤だけ鮮明だった。
「……そうだね」
見惚れて、また返答が遅れた。
息を呑むのに一瞬、堪えて一瞬、隠して吐くのに一瞬。
ひたと合った視線。
揺るがない眼差し。
夜天のような瞳に輝く星のような虹彩が絞られる。
ああ、とても綺麗だなと思う。
すっかり惹き込まれている。
まだ出逢ってから、ふた月と経っていないのに。
この狭い土地から出たことのない僕には信じられないほどの遠方からやって来た、異邦人である彼女。
実に半年にわたる余暇を利用して旅行中だという。
この町には通りすがりに立ち寄った、ただそれだけのはずだった。
そんな彼女が長期滞在を余儀なくされているのは――
『どうして隠したの?』
突然の告発に僕は言葉を失う。
『どうして隠していたの?』
「……知ってたんだ」
不思議な話でもない。
僕は自覚できるほどには迂闊だし、罪の意識だって持ち合わせていた。
彼女はもう何も言わない。
ただじっとこちらを見つめている。
その透明な視線に僕は耐えられない。
静寂をも翻訳機は解析し、ジジ……と微小なノイズを漏らした。
無言のまま、上着のポケットから取り出す。
どこに隠そうかと迷って結局はずっと持ち歩いていた。
通称、ドッグタグ。
パスポートであり、個体認識票でもある。
その銀色の金属の小片には、個人を識別するコードが刻み込まれている。
肉眼では読み取れないけれど。
人名。染色体や遺伝子からなる生体情報。
所属する政府機関、そして――出身惑星。
そうした情報の登録と引き換えに保障されているのは允可と免除。
何を思案したのか、彼女は少し顔を曇らす。
『それ、貴方が持っていても使えないよ?』
「……うん」
惑星地球化――テラフォーミングの技術や制度が確立されたのは、約一世紀も前のことだ。
そして星々の浮かぶ海へと、大小さまざまな星船団がいっせいに旅立った。
あちこちの惑星上にコロニーを形成し、それぞれに独立して自治を始めた。
発展した。利権が生まれた。係争と政争が起こった。
情勢はもつれた。
発達した工学でもって情報と感情を星海に飛び交わせ、やがて収拾がつかなくなった。
僕が住んでいる地域の歴史でも、かつて"鎖国”なんて政策を布いたことがあったらしい。
それをこの星全体で施策――つまり鎖星してから、はや四半世紀が経った。
そして地球は廃れた。
中央政権はすでに他星へと移っている。
だから、ここはもう人類の生存圏としては片田舎だ。忘れ去られた母星。捨てられた故郷。
星海に飛び立つことのできる専用施設アストロポート――宙港は、かつて地球上に無数に作られた。
そして半数がなおも稼動している。利用者がいないままに。
無人の構内と管制塔はそれでも自動で保たれている、という話だ。
その光景を僕はこの目で見たことがない。
徒歩数分の圏内にあるのに。
今となっては、この広い広い地球上に、人類はちりぢりになって暮らしている。
文明の遺産を食いつないで。
宙港を用いない貨物ロケットで、ささやかな物資を移送して。
それは別に悪い日常ではないと、少し前までなら僕は疑わなかった。
星海原を航行する途上、気まぐれに"降り”て来た彼女だって、ここの風景や暮らしぶりを、それなりに堪能してくれていたと思う。
でもそれは非日常だった。彼女にとってはイレギュラーなアジェンダ。
『港を通過するには、それが必要なの』
「うん。ごめんね」
知っていた。
こちらに差し出された彼女の開かれた手のひらに、そっと落とす。
宙港の認証システムは警備システムと直結している。
識別コードを持たない者を決して通過させはしない。
知っている。
今の地球人には、そのコードが決して取得できないことを。
管理機構はとうに解体され、機材や人材などは今や物理的に枯渇した。
他星に委託する資金もなく、権勢とて失墜して久しい。
新規に発行するすべは、もうない。
だから僕は飛び立てない。
この地上に縛り付けられていると、気づかされてしまったのに。
「――もう行ってしまうの?」
声が震えなかったことに自分で少し驚いた。
『そうね』
彼女はタグをもてあそぶようにしてから、首に取りつけた。
『わたしの故郷は、あそこだから』
そう言って天を見上げる彼女の気持ちなんて僕には絶対に分からない。
分かってるのは、自分がしたのは最低な行為だということだけ。
旅先の悪くない思い出として、記憶の片隅にとどめてもらうくらいで満足すべきだったんだ。
もう、それすらも望めない。
重力に従って視線が地に垂れた。
そうしたところで彼女の嫌悪や侮蔑の目から免れられるわけもないのに。
くすり、と笑い声。
思わず顔を上げた。
こちらを覗き込むようにしている彼女。
その顔に浮かんでいたのは、悪戯っぽい笑みだった。
『ねえ、前に最寄りの惑星に再発行を依頼したって言ったの、ほんとは嘘なの』
「え」
『これ発信器も兼ねてるから、調べてもらえば所在はすぐに分かるんだ』
「え」
『――どうして隠したのか、ちゃんと聞かせてもらうから、今度』
急に彼女は身を翻し、あっという間に駆け去った。
絶句する僕は取り残される。
ややあって碧天に白く新しい線が昇る。
真っ直ぐに天穹を突き抜けた航跡は、しだいに滲んでボヤけて見えなくなった。
ぽつり、と。
ひと粒の雨が見上げる僕の額に落ちた。
了
天女の羽衣伝説を近未来リメイクしてみたのでした。
NGワードは「空」「宇宙」「銀河」。
ほんとは「惑星」も不使用にしたかったけど諦めた。
造語は「宙港」「星海」「星海原」。
この時代にはそういう単語がある的なの。あ、鎖星もか、一応。
「ロケット」は、あえて古臭い名称で。
SFジャンルにするとバレーらと思っての純文学なのです。
すこし・ふしぎですから。
(↑SFマンガの大家F先生の造語で、日常のなかの非日常みたいなやつ)
えと、純だったかどうかは読んだ方の判断にお任せします……!
と、飛行機雲の航跡が長く残るのは大気中の水分量が多くて云々、って理屈らしいです。