飛び魚の三郎
その男はスリの常習犯として警察の間で有名だった。名を三郎という。またの名を『飛び魚の三郎』
人混みを飛び魚が海面を飛んで泳ぐかの如く素早く移動し、無駄な動き一つ見せず、獲物から財布を抜き取りその場を去る。財布をすられた側はその事に気付かない。まさに神業と言えた。
その日も三郎は一仕事する為、朝の満員電車に乗り、狙いを定めた獲物に近づきズボンのポケットから財布を抜き取った。全てがいつも通りだった。失敗はしない。今まで上手くやってきたのだ。三郎は油断していた。注意力が散漫になっていたのだ。財布を抜き取ったその時、突然三郎の腕を誰かが掴み、そいつが言った。
「窃盗の現行犯だ!!」
三郎は捕まった。事態の把握に時間はかかったが、自分の腕にはめられた銀の腕輪を見て、捕まった事を認識した。逮捕は三郎の過信と、長く三郎をマークしていた警察の努力と執念の結果だったと言える。
捕まった三郎へ裁判所が下した判決は、今までの重ねた犯行の悪質さから、実刑三年が言い渡され、三郎は刑務所へ服役する事となった。
三郎が入った刑務所に、田中という刑務官がいた。定年間近、田中と三郎は歳が近かった。やってきた三郎に田中は特に厳しく接した。それは同世代の人間として、本当に立ち直ってほしいと思う心の表れだった。初め三郎は、そんな田中を鬱陶しく思っていたが、毎度熱を持って接してくる田中に、いつしか三郎も応える様に、模範囚として刑務所生活を過ごすようになった。
三年という歳月はあっという間に過ぎ、めでたく三郎は出所の日を迎えた。
灰色のコンクリート壁は全ての侵入者や脱獄者を拒む為、そこに高くそびえ立ち、その壁の開け放たれた扉の前で田中と三郎が向かい合っている。コンクリートの灰色とは対照的に、近くには桜が満開の花を咲かせ、それはまるで三郎の出所を祝っているようにも見えた。
季節は春…。
「旦那、今までどうもお世話になりやした」
「うむ、とうとうお前も出所か…。もうお前の顔を見ないで済むと思うとせいせいするけどな」
田中は別れの寂しさからか皮肉を言った。しかしこれは喜ぶべき別れであり、三郎にとっては始まりの別れなのだ。
「最初、お前がここにやってきた時は腐った魚の目をしていたな」
と、田中が笑いながら言う。
「あ、ひでぇな旦那、腐った魚の目だなんて…」
三郎は苦笑いした。
「これから当てはあるのか?」
「そうですね、有難い話で、出たら俺ん所に来いって言ってくれた友人がいまして、しばらくはそこに厄介になりながら住み込みの仕事でも探してみようと思います」
「そうか…」
田中は安堵しにっこり笑った。二人の間にしばしの沈黙が流れた後、田中は三郎の目を見つめ言った。
「もう、戻ってくるなよ…三郎…」
「へい、大丈夫です…田中さん…」
三郎の目にうっすらと光るものがあった。田中は、
「おい、何泣いてんだ。歳を取り過ぎて涙腺が弱くなったか。耄碌してんな」
とからかうと、三郎は、
「耄碌してんのは旦那もでしょ? まさかこれに気付かないなんて」
と言い、田中の制服から冗談でスッた身分証を取り出し、ピラピラとさせて見せた。三郎は「へへ」とおどけて笑うと、身分証を田中に返そうとした…次の瞬間、
「ど、泥棒ーー!!」
田中が叫び、田中の声を聞いて駆けつけた職員達の手によって三郎は取り押さえられてしまった。
こうして、出所の日に窃盗の現行犯で三郎は捕まり、田中は悔しさから泣き濡れた。
春は様々な出会いと別れの季節である…。