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日が経つにつれ、「なかったことにしてくれ」という言葉が現実になる。
主任は本当に私に仕事以外では近づかない。むしろ、今まで私に頼んでいたような仕事を、他の人に頼むこともあった。もちろん気にし過ぎだからそう感じるのだと言われれば、思い当たる節もある。今まではまったくそんな意識をしてなかったのだから当たり前だ。
何度か、わざと残業してみることもあった。主任はいつも最後まで仕事をしていることが多いから、二人きりになれば個人的な話もできるのではないかと思って。でもそんな時に限って主任はそそくさと帰ってしまったり、他に誰か残っていたりして私の思惑は外れた。
そうして日が過ぎてしまった。私としては忙しい時期は過ぎ、比較的仕事は落ち着いた。だからこそ主任の動向が気になって、一挙一動に心揺さぶられる。
状況は、一本の電話から動き始めた。
出たのは、偶然なのか必然なのか、私だった。
「はい、Yコーポレーション広報部、永原でございます」
「もしもし? 株式会社Aの松井と申します」
聞き慣れない会社名に、可愛らしい女性の声に私は咄嗟にペンとメモを引き寄せた。いつも電話をかけてくる業者や取引先は全部頭に入っているためメモをする必要がないからだ。それに彼女はどうも、営業の電話でもなさそうだった。
「広報の、石尾さんってそちらにいらっしゃいますか?」
少し私とは違う言葉のイントネーション。
丁寧に話してくれてはいるが、その独特な方言は隠そうとしても難しいのだろう。
「石尾ですね。少々お待ちください」
どうにか平静を保ち、電話を保留にする。主任の席を見ると、分かってはいたが空っぽだ。落ち着く時間が欲しくて、わざとそうしたのだ。誰にもばれないように深呼吸をしてから、通話ボタンを押した。
「お待たせいたしました。申し訳ありませんが、石尾は席を外しております」
「……そうですか。えっと、どうしようかな。結構、長いこと戻ってきません?」
相手が同年代の女性で安心したのか、受話器の向こうは急にくだけた口調になる。
「そう、ですね。何かお伝えしましょうか?」
「ほな、お願いしてもいいですか? 私、松井このみって言います。名前出してくれたら、分かると思うんですけど……折り返し電話欲しいて、言うてもらえますか?」
彼女が言う連絡先をメモする。固定電話ではなく、携帯電話の番号だった。
「失礼ですが、簡単にご用件よろしいでしょうか」
これは初めてかけてくる相手には、当然の質問だった。
決して、個人的興味などではない、と自分に言い訳をする。
「あ……そうやなあ、この前の報告。この前ね、石尾さんが大阪に来てくれはって、そのときの報告なんです」
「……かしこまりました」
「ありがとう。ほな、お電話待ってますってお伝えください。失礼します」
「失礼いたします」
相手が電話を切るのを待ってから、静かに受話器を置いた。
松井このみ。大阪出張の件。報告。
自分でも汚いと思う字でメモ帳にはそう記されていた。彼女が私の思う相手である可能性は、何パーセントくらいなんだろう。
主任が席に戻ってきたのは、定時を少し過ぎてからだった。夏に向けてのプロジェクトが始まるらしく、最近は会議や打ち合わせをしていることが多かった。社員の数もまばらな中、私は席を立った。
「すみません、主任。よろしいですか?」
顔をあげた人は、そのときだけ目を合わせたものの、すぐにパソコンの画面へと視線を移す。
「うん、どないした?」
「お電話がありました。松井このみさんという女性の方から」
さまよっていた視線が、その名前を聞いた途端止まったのを私は見逃さなかった。
「用件は、この前の大阪へ行かれたときの報告、と仰っていました。名前を出せば分かるとのことだったので、それ以上はおうかがいしていません。これ、折り返してほしい電話番号です」
キレイに書き直した電話番号を差し出す。
「分かった。ありがとうな」
主任は私の手からメモを受け取ると、机の端にそっと置いた。
当然私はそれ以上何も言うことはなくて、仕方なく自分の席へ戻る。今日やることは全部終わっているのに、帰る気はなかった。さもまだ帰るつもりはありませんという態度で、再びパソコンへ向かった。
それからしばらくして、主任は私がさきほど渡したメモと携帯電話を片手に自分の席を立った。こんなにも細かく観察している自分が嫌になる。でもそうせずにはいられないのだ。
周りを気にしつつ、私も席を立った。
ヒールの音が出ないようにしながら、主任の向かった先を目指す。今じゃないと自分の本気が出ないと思った。これだけ彼に対しての気持ちが高ぶっている今じゃないと、追いつめられている今じゃないと、こんなふうに行動できないと思った。どうせ明日は休みだし、ぼろぼろに振られても二日は張本人に合わなくて済むから、とその状況も大きい。
うちの会社には各階の隅にリフレッシュスペースがあり、テーブルとベンチ、自動販売機が一台。そこから抑えめな話し声が聞こえてきたので、静かに近づく。盗み聞きするつもりはない。気づいてくれるほうがいいと思いつつも、主任は壁のほうを向いて電話しているため難しかった。
「でもなあ、俺は何もしてへんから」
くだけた口調。仕事相手にするようなものではないと、私の背筋は冷たくなる。
「ええって。社長には、このみから言うといてや。俺はそんなん行く権利ないし」
呼び捨てにしてる。
ああ、やばい。嫉妬がやばい。
「はあ? お前東京おんのか? でも、え……なんで」
ふいに首をくるりとこちらに向けた主任と、目が合った。電話の内容も気になるところだが、彼にとっては私がいたことのほうが驚きだったのだろう。開いたまま口は、ふさがることがなかった。
「……ええ? うん、聞いてる……けど、」
私は小さく会釈をする。
「ごめん。ちょっとかけ直してええか?」
携帯を顔から離し、主任は険しそうな表情で私を見ている。普通なら、こんなふうに上司の電話中に割り込むことなんて非常識だ。
「どしたん、永原さん」
意気込んできたものの、言葉が見つからない。
「何かあったんか?」
「すみません……あの、お電話中に」
「ええよ、大した用事ちゃうし。仕事で何かあったんちゃうん?」
私は大きく首を横に振った。
「主任が、……気になって」
「俺が?」
「電話の相手、元彼女さんなんじゃないかって思ったら、気になって、しょうがなくて」
伝えたいのはそんなことではない。
社内では節度を守れとか言ったの、自分なのになあと皮肉に思う。
「主任は多分、誤解してるから……そうじゃないって分かってほしくて、ここに来ました。私の気持ち、知ってほしいと思って、るから……」
吐きそうなくらい、気持ち悪い。自分の思いを口にするのが、こんなにも苦しくて切ないなんて知らなかった。でも吐き出さないと、前に進めない。絶対、後悔する。
「主任のこと、仕事の同僚としてとかじゃなくて、好きなんです……一人の人として、男の人として、好きだから、だからそれを知ってもらいたくて」
唇と歯が、かたかたと音をたてそうなくらい震えていた。
ふわりと自分とは違う匂いが鼻をかすめたと感じた瞬間、私は大きな腕の中にいた。抱きしめられていると理解するのに、少しだけ時間を要した。
私の中でこちこちに固まっていた何かが、温かな主任の腕によって溶かされていくのが分かった。
「……も、何。不意打ちすぎる」
右耳のあたり、ダイレクトに届く声が甘い。
「ごめ……俺の気い済むまで、もうちょい、このままでおって……」
いつもの関西弁がひどく安心をもたらしてくれる。私は自分の両腕をそろそろと持ち上げ、相手の体にそっと添える。それはそのときささやかに揺れたけれど、すぐにまたぎゅっと距離を縮めた。
「あのな?」
どれくらい時間が過ぎたのかは分からない。でも私にとっては短く感じた。主任は静かに体を離すと、私の顔を覗き込みながら口を開いた。
「今日、永原さんが電話とってくれた子は、俺の元カノや」
やっぱりと思い、私は頷いた。
「この前俺が大阪行った原因……向こうの営業が怒らせた取引先って、元カノのおる会社やってん。もちろん元カノがどうとか関係なくて、純粋にその会社の会長とか社長には世話になってたから、俺が行って何とかなるんやったらって思うたんや……けど甘かった。そんときは、お前はもう東京行った身やろうがって、社長に言い捨てられて終わりや。その間に、こっちでも永原さんに迷惑かけるし……俺って最低最悪やってマジで自己嫌悪んなって」
主任は私の目を真っ直ぐに見てくれる。それだけで嬉しかった。
「今日あいつから電話あったんは、その会社がまた取引してくれることになったって、その報告やった。元カノが多分、だいぶん説得もしてくれたっぽい……あいつもあの会社では長いから、社長も言うこと聞く気になりはったんやろうな」
「……良かったですね」
親しげに呼ぶ彼女に対して、嫉妬が完全に消えたわけではない。でもこうやって真っ直ぐに私と向き合ってくれる主任のおかげで、どこか冷静だった。
主任は私の言葉に、小さく顔を横に振った。
「全然、あかんわ。俺ってこんなに何もできひん、あかん奴やったんやって思い知らされた。結局今回やって解決してくれたんは元カノやし……永原さんは、こんなかっこ悪い駄目男で、ほんまにええんか?」
そう伺いつつも、主任の目は追いすがるように私を見ている。それは私の自惚れもあるんだろうけれど、離さないと口に出さずに言われているみたいで、嬉しいようで少し怖かった。
「私は」
抱きしめられた安堵感から、私の気持ちは溶けきって形状を失ってしまったらしい。急にどう表現したら良いのか、続きが出てこなかった。
それを待つ主任は、我慢がきれたようにまた私を抱きしめ耳元で囁いた。
「もっかい言ってや」
何を。
それはさすがに愚問だろうかと、少し高い位置にある彼の耳に顔を寄せる。私のほんの小さな声。本当に聞こえたのか不安になって、腕の中彼自身の視線を探す。見つけたと同時に私の唇は塞がれ、温かく優しい彼の熱を初めて知るのだった。
微妙な距離を保ちつつ、広報部に戻るともう誰も残っていなかった。週末だし当たり前か、と私は席に座る。主任も席へ戻り、机の上に置かれた決裁書類などに目を通している。さっきまでの態度が嘘みたいだ。いや、嘘だったらどうしようと、いつもの悪い癖が出る。
一人浮かんだり沈んだりしていると、急にがんと机に拳が当たる音がした。
「ああ!」
当然のごとく、声の主は彼だ。
「どうしよう、どうしたらええんや」
何事かとそちらに目をやると、主任は足を進め、私の座っている回転式の椅子をくるりと自分のほうへ向けた。急に体勢を動かされバランスのとれなかった私は、思わず手を主任の肩へついてしまう。
「どうしよう」
「な、何ですか……急に」
「今日、帰したくない」
こんなところでそんなことを言われると思ってなかった私は、今どんな顔をしているのだろう。とりあえず言った張本人の主任の顔はちょっと赤い。
「え……は?」
「……あー、もう俺、ムードとかロマンとか無理や……自分の欲求だだ漏れや……でも、帰したくないんやもん、しょうがないやん」
「そんなこと言われても……いや、無理です無理」
一瞬、主任の熱さに浮かされた私だったが、冷静になれ、両思いになったその日になんてそんなの無理無理。普通の感覚ならそうだ。
「そっか……そうやんな。永原さんしっかりしてるお嬢さんやし、俺みたいながっついた男嫌やんな……ごめんな、余裕のないやつで」
そう言いながらも、名残惜しそうに私の座っている椅子をふらふらと右に左に揺らす。
「じゃあ明日会おうや。明後日もや。ええやんな?」
「それは、別に、いいんですけど」
一つだけ気になっていることがあった。あの電話の途中で、主任の言っていたこと。
でもそれを追求すると自分がいかに嫉妬深いか思い知らされるようで嫌だった。ただこれだけ彼が欲丸出しにした後だと、少し聞きやすかった。
「そういえば、元カノさん、東京にいるんじゃないんですか?」
「え、知って……電話で、言うてたっけ」
「すみません、盗み聞きするつもりじゃなかったんですけど」
お礼はしたほうがいいに決まっている。でも、会ってほしくはない。この正直な気持ち、言ってもいいものだろうか。
「俺が元カノに会うとか思ってる?」
「……お世話になった相手なら、そうするものかと」
「ないない。ないですから」
私の杞憂を一蹴する返事だった。
「あいつ家族連れやろうし……家族って旦那な? 結婚しましたからあの人、最近」
「あ……そうなんですか」
「できたてほやほやの新婚夫婦ですしねえ」
そうだったのか……。私の心の中に芽生えていた嫉妬の芽が、土の中へ引っ込んでいくようだった。
「別れても距離感ないというか、悪気なく友だちに戻れる人っているでしょう。あの子、まさにそういうタイプでさ。はい終わりってなるまでは色々話し合ってたけど、終わったら早かったで、次見つけんの。そんなもんかいって、俺拍子抜け」
「主任は、どうなんですか?」
「俺?」
「忘れられたんですか?」
佐伯くんの言葉がどこかで引っかかってる。元カノと別れてから誰とも付き合おうとしないのは、忘れられないからじゃないかと。
「……何かそれ、前も聞かれた気いするわ」
堪えきれないのか、主任は詰まったような笑い方をした。
「そうでしたっけ」
「どこやったっけ、資料室かどっかで、聞かへんかったっけ」
そんな気もするが、よく思い出せない。私は椅子の肘掛けに置かれた大きめの手に視線を落とす。
「これからさ、俺の行動で信じてくれへんかな。君に惚れ込んでてぞっこんラブラブファイヤーやっちゅうことが、嫌でも分かるようになるからさ」
ら、らぶらぶ、ふぁいやーって、何ですか。
と、聞こうと思ったけれど、目の前でにこにこしている男がまさか嘘を言っているようにも思えなくて、私は大人しく頷くことにした。
帰り支度を済ませて会社を出ると真っ暗。またもう少しすれば繁忙期がやってくる。ゆっくりできる時期だからこそ、彼との時間も大事にしたいなと思う。私に並んで歩く人は、前よりももっと近い距離。手が触れそうで触れないのが、くすぐったい。
「また今日もチャリですか」
「はい」
そう言いながら、鞄から鍵を探す。
「今日くらい送らせてもらわれへんかなあ。せっかくお互い盛り上がってんのに、ここでさいならっつうのも寂しいやんか」
「でも、明日会う約束……」
さっきしたばかりだ。
お昼前に、家まで主任が迎えにくることになっている。私が好きな映画を観に行こうという話もした。だから今日の晩、私は自分が今観たい映画を決めておかなくてはいけない。
「そうやけど……いやでも、何や、しつこいようやけど」
このまま帰したくない。
会社の前だからか、控えめに小さく呟かれた言葉。首筋を乱暴にさするその仕草、もう何度も見た。
何が駄目なんだろうと自分に問いかける。今までそんな恋愛をしてこなかったからだろうか。それとも、本当に無理だと思っているからなんだろうか。いや、全部違う。自分の気持ちに正直になれば、答えは簡単なのだ。目の前の人のように、自分の思ってること、伝えたいこと、相手にぶつけてみることが大事なんじゃないかと思えてくる。
「本当は、嬉しいんです」
今私が思っていることが、これだけ。
求めてくれることが嬉しい。一緒にいたいと思ってくれることが嬉しい。世間体とか、常識とか、そんなの全部抜きにして、嬉しい。
「それって」
どういう意味?
とか聞いてくる主任が、本当にムードのかけらもなくて、笑ってしまった。
「いいですよ、もう。じゃあ、送ってください」
「ええ! ほんま? やった、ほなチャリの鍵はただちに片付けてしまいなさい」
そう言いながら私の右手にある鍵を、勝手に鞄の中へ戻す。
そのまま繋がれた小さな右手と大きな左手は、まだ会社の敷地内だということも忘れているようだ。ちょっとだけ強引にひかれるその手に、ずっとついて行こうと私は心の中でそっと思った。




