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ゴールデンウィーク明け、私はいつもより早めに出社した。きっと主任がいなくても、そうしただろう。私が休んでいる間も会社は動いていたのだから仕事は溜まっているはず。休み明けは体も辛いし、できたら残業は避けたい。
仕事が山積みなのは分かっていても、私の足取りは軽かった。手には部署のみんなに買ってきたお土産と、もう一つ小さな紙袋を持っていた。会社の人へ個人的にお土産を渡すのは、実はこれが初めてだ。今まで誰ともつかず離れずでやってきて、お土産といえば大箱に入ったお菓子をまとめて渡すばかりだった。主任の反応を見るのが楽しみだが、会う約束もない以上それは想像するしかなさそうだ。それを今から考えて、緩む口元を抑えることができなかった。
自分の席に行くと、デスクには書類が数センチの厚みをつくってざっくばらんに置かれていた。せめて種類ごとに分けてくれたらいいのに、と早速仕分けを始める。同時にパソコンをたちあげて、メールチェックを行う。分かってはいたが、すごい数のメールだ。半分以上は宛先ではなくCCに入っているだけで、返信や対応を求めるものではないが読まないわけにはいかない。メールの件名からまずは急ぎらしきものを探していると、送信者のところに主任の名前を見つけた。しかも宛先が私になっている。慌ててメールを開く。
『急な用事で休み明けから数日の間大阪に行ってきます。来月の社内報の校了を任せますので、最終確認を課長に依頼してください。できたら永原さんと、あともう一人くらい社員に原稿を確認してもらってください。ではよろしくお願いします。』
今日は久しぶりに会えると思っていたのにと残念に思う気持ち半分、急な用事で大阪へという内容が気になった。何かトラブルがあったのだろうか。でも営業ではなくなったのに、どうして今さら主任が大阪へ行かなくてはいけないのだろうか。私は辺りをキョロキョロと見回し、目的の人を見つけ席を立ち上がった。
「おはようございます、課長」
課長は経済新聞から目を離すと、ああと返事をした。
「すみません、主任が大阪へ出張とうかがったのですが」
「そうなんだよ。参るよねえ、こっちだって忙しいのに。まったく……」
この課長はのんびりと穏やかなのはいいのだが、仕事はおろか部下の管理もまともにできない。今だって私の欲しい答えをくれようとはしない。
「トラブルですか?」
「何でも、向こうの営業がポカやっちゃったみたいでねえ、一番の得意先怒らせちゃったんだって。それが確か休み前のことかな。石尾くんが前任者だからどうなってるんだってこっちまで話がきて、彼休み中も電話で対応してたみたいなんだけど、やっぱり直接向こうに行くことになっちゃってねえ」
つまり、大阪の営業がしたミスを、主任が拭わされているということだ。
「石尾くんも面倒見いいよねえ。確かにミスは良くないけど今はこっちの仕事があるんだから向こうに片付けさせればいいのに、自分が大阪に飛んじゃうんだからねえ」
その口調はまるで、暗に主任を責めているようにも思えた。うちの部署は主任の上に課長、課長の次に部長のため、主任がいないとなると責任の所在が課長に増えてしまうのだ。もちろん主任がいたって課長に責任はあるはずなんだけれど。
「……それで、来月の社内報の校了なんですが」
「ああ、もうそれ、永原さんに任せるから。どうせ君の校正のほうが正確だし、僕はさっきざーっと読んで問題ないって判断してるから」
社内報は、本来なら主任以上の役職付に最終確認をしてもらい校了することになっている。全国にある支社はもちろん、グループ会社にも配布されるものだからだ。今回だって納品日に合わせて、私が休みの間に主任が校了する予定だった。
「校了は今日中ですか?」
「そうだねえ。ただでさえ印刷会社に待ってもらってる状態で、今日でぎりぎりなんだ。悪いけど、頼んだよ」
私は顔では笑っていたが、予想外に飛び込んできたしかも急の仕事に、心の中はため息の嵐だった。
印刷会社からあがってきた最終原稿のコピーを片手に、内線をかける。
「お疲れさまです、広報の永原です。本岡課長いらっしゃいますか?」
電話先は総務。本岡課長は私の元上司、石尾主任の前任者だ。今年の春、昇進という形で総務部一課の課長になった。
私は本岡課長を慕っていた。頼りになって、仕事もできる。書類の内容に目も通さずにぽんぽん判子を押すようなどこぞの課長とは違い、不備があれば必ず見つけてくるし、どんなに小さな仕事にも細かく対応してくれた。つい最近まで一緒に仕事をしていたから、きっと助けてくれると思った。社内報の校了という大仕事を。
電話に出た女性は高い声で言った。
「本岡課長は本日は休暇をとられています。何か急ぎのご用件ですか?」
期待に反した答えで、私は思わず原稿のコピーを握りしめる。
「……そうですか。いえ、結構です。失礼しました」
電話を切って、仕方なく社内を見渡す。本岡課長のように、ゴールデンウィークの代休を今日にとっている人もいるため数は多くない。事務の子たちは私のようにたくさんの書類を抱え忙しそうだ。知らず知らずのうちに唸ってしまう。
「永原さん?」
声をかけられ、我に返る。佐伯くんだった。
「あ、ごめん。何?」
「すみません、一課の仕事頼んで申し訳ないんですけど、ブランケット版広告の原稿チェックしてもらえませんか?」
広報部は一課と二課があり、前者は社外広報、後者は社内広報を担当している。ただそのように分けてはいるものの、繁忙期はそれぞれ違うため担当は度外視してお互い助けあうのが暗黙の了解だ。
佐伯くんは一課。あちらも今日は人が少ないのだろう。持っていた資料と原稿を受け取る。
「了解。いつまで?」
「明日中で大丈夫ですか?」
「明日中なら大丈夫。……あ、ちょっといい?」
佐伯くんを目の前にして思い出した。この子も若手とはいえ広告の仕事をやっているのだから、信用してもいいだろう。
「代わりといっちゃ何だけど、社内報の最終原稿みてもらえない?」
私が切り出すと、彼はあからさまに嫌そうな顔をした。
「えっ……最終ですか? 初稿ならともかく……それは俺には責任重いですよ」
「でも、所詮社内報だし、多少の誤字脱字は見逃してもらえるから」
主任があんなに大切にしたいと言った社内報を、こんなふうに表現したことに自己嫌悪だ。ただ佐伯くんを説得することに必死だったとしか言い訳できない。
「いや、でもなあ……主任は確認してるんですか?」
「多分、最終原稿はみてないと思う。その前の校正原稿はみてるから、全然知らないわけじゃないけど。しかも今日中なんだ……お願いします!」
私がここまで人に仕事を頼むのは、多分数えるほどしかない。そこまでするくらいなら、残業してでも自分でやるほうが良かった。ただ、原稿に間違いがないかチェックする仕事は一人でやるよりも、色んな人の目で見たほうがいいに決まっている。
「……分かりましたよ。でも、当てにしないでくださいよ?」
心の中で、それが社会人の言う台詞か!と叫ぶ。
だるそうに私の元を去っていった佐伯くんを見送って、ふうと息を吐いて自分のデスクに向かう。誰にも分からないように気合いを入れ直して、私も原稿に向かった。
気づいたら、会社の外は暗くなっていた。今日は誰もが残業だ。コーヒーでも買ってこようかと思い、ふと思い出してデスクの引き出しの一番下に手を伸ばす。中にはコーヒーの缶が三つちょこんと並んでいる。あの謎のコーヒーは結局三日続きその度、周辺の席の人に「これどなたかのじゃないですか?」と聞いて回ったものの、誰のものでもなかった。未開封だしまさか毒なんて入ってはいないだろうけれど、飲むのはちょっと気が引けてこうやって引き出しに保管してあった。
いつも出社すると置いてあるコーヒー。そういえば今日はなかったなと、ぼんやり思う。
「永原さん、チェック終わりました」
佐伯くんはやや疲れた顔で、原稿を差し出している。ところどころに付箋が見えた。
「何か間違ってた?」
「いや、全部言葉の選択とか、文法とか、好みの問題の指摘です。永原さん的に問題なければ、無視してくれていいですから」
その程度だと知りホッとした。できるだけ最終原稿には訂正を入れたくない。
「ありがとう。本当に助かった。ごめんね、遅くまで」
「いいです。じゃあ、俺の頼んだ仕事も明日お願いしますね」
「分かってるよ。お疲れさま」
念のため佐伯くんの校正を確認して、特に問題はないと判断した。自分のチェックでも大きな訂正はなかったので、ようやく腰を上げ課長の元へ向かった。
「課長」
今度は雑誌を片手におやつを食べている。その雑誌だって、うちの製品の広告が載っているから読んでいたって不思議じゃないのだが、明らかにページは関係のないところで止まっていた。
「社内報の最終原稿ですが、問題ありませんので校了させていただきます」
「はいはい、もう永原さんに任せるから〜」
「では私から業者さんに連絡しますね」
分かった分かったと言うように、課長は手を振る。
主任がいないと、何の許可をとるにも課長と接することになりストレスが溜まる。仕事を円滑に行うためにも主任がいないと困るのだ。早く戻って来ないかなあ、と私は主任のデスクを静かに撫でた。
その二日後、主任は大阪から本社に戻ってきた。やや疲れたような顔をしているものの、あの関西弁は健在だ。代休をとっていた社員も出社が始まり、ようやく部署の人数が揃ってきた時期だった。
私は再来月の社内報のページング案をまとめていた。
「永原さん、ちょっとええか?」
いつも用事があれば私のデスクまで来て話しかけてくれた主任が、珍しく自分の席へ私を呼んだ。何かあったのだろうかと、慌てて立ち上がりそちらへ向かう。
「これ、最終原稿やんな?」
そうやって手渡された原稿のコピーは、念のための控えとして主任のデスクに置いておいたものだった。端に小さく書かれている通し番号から、最終原稿だと確認できる。
「はい、そうです」
「新卒代表で載ってる子、名前の漢字間違ってへんか? いや……俺もうろ覚えやねんけど。こんな字やったかな」
え、と主任の手元にある原稿を一緒に覗き込む。平凡なその名前に当てはまる漢字は多くて、それが正しいのかなんて記憶もなかった。
「この子、入社式でも代表で挨拶してたから覚えてんねんけど、名前の漢字この字とちゃうかった気いするで……掲載リストのデータくれへん?」
それならデータを渡すよりも私が確認したほうが早い。自分のデスクまで戻り、つい最近まで睨めっこしていたその資料を引っ張りだし、原稿とつきあわせる。
自分の両手の指先が震えているのが分かった。二つの指差す先は、どうして同じものじゃないんだろう。「紘」という字が、「弘」になっていた。
「どうや?」
待ちきれないのか、私のデスクまでやってきた主任は私の手から原稿と資料を奪うようにしてとった。
「……間違うてるやんけ」
唇が震える。どうして。あんなに見たのに。
私は必死になってデータで送られてきた最終原稿をパソコンで表示する。私の願いとは裏腹に、やはり名前の漢字は違っていたままだった。
「印刷会社の電話番号」
「え……あの」
「早せえ」
今まで聞いたことのない、低いその声に私の涙はすぐそこまで来ていた。名刺入れから担当の印刷会社のものを取り出すと、先に自分のデスクへ戻った主任へ手渡す。
「担当ってこの人? もっと上の人のあらへんの?」
私が渡した名刺は、うちの部署の営業担当の方のだ。私だって平社員なのだから、そんな上の人と知り合いなわけがない。
「すみません……ありません」
「横山、H印刷の営業部長の名刺あらへんか?」
急に話しかけられた横山くんは、いきさつを観察していたのかすぐに反応する。
「僕は持ってませんが、本岡課長ならお持ちだと思います。聞いてみますね」
「悪いな、頼むわ」
すばやく内線を入れて確認をする横山くんを、私はまるで昨日入ってきた新人社員かのようにただ見ているしかできなかった。
「主任、これです」
横山くんからメモを受け取り、主任はすぐに受話器を持ち上げる。
「あ、もしもし? 本庄部長の携帯電話でしょうか? お世話になっております、Yコーポレーション広報部の石尾と申します。はい、突然すみません。ちょっと、ご相談がありまして……はい、先日校了しました弊社の社内報の件ですが」
祈るような気持ちで、電話が終わるのを待つ。
いつもは賑やかな部署内も、さすがに今は静まりかえって主任の電話をうかがっていた。
「……はい、すみません。はい……はい。そうですよね。はい、それは、分かります。はい……では、一度確認お願いできないでしょうか。はい、申し訳ありません。失礼します」
話が終わって、少し間を置いてから主任は受話器を置いた。その後何も言わず、乱暴に首筋をさすった。
「はあ」
盛大なため息は、しんとした室内に響いた。
「これ……いつの段階で間違ってたんや。確認してくれ」
私のほうは一切見ずに、そう言い放つ。冷たく重い、今まで聞いたことのない声。私のことを好きだなんて言ったのが嘘みたいに、突き放すような口調。仕事とプライベートは別だって分かってる。分かってはいるけれど、頭がついていかなかった。
「永原、確認」
その声に、私は返事も忘れて慌てて自分のデスクへ戻る。
業者さんとやり取りしたデータを全て打ち出す。誤字脱字はもちろんだが、人の名前や役職は特に重点的にチェックしなければいけない箇所だ。どうして何度も見たのに、気づかなかったのだろう。自分が自分で信じられない。騙されているような感覚すら覚えていた。
でも最終原稿をチェックしたのは自分だ。気づかなかったのは自分のミスだ。それだけは事実なのだ。
しばらくしてから、肩の力が抜けるのが分かった。
名前を間違ったのは、どうやら最終原稿の手前で業者の手によってだった。その新卒代表が載っているページで名前とは関係のない訂正があったのだが、そのときに一緒に名前もすり替わっていた。
けれど、そのミスに気づけなかったことが悔しい。最終原稿で校了を指示したのは私なのだから、責任はこちらにあると言える。
私は主任の元へ向かい、事実をありのままに伝え、深々と頭を下げて謝罪した。
「……そっか。分かった。ほな、責任の半分は向こうやな」
向こう、とは印刷会社のことを言っているのだろう。
「いえ、私の責任です。申し訳ありません」
「とにかく、どう対応するかが問題や。今印刷ストップかけれるか聞いてもろてるとこやから、とりあえずその返事待ちや。もしあかん言われたときに、その話出して相手がどう出るかやな」
「……私に、できることはありますか?」
何もできないとは分かっていても、すがるような気持ちだった。平気な顔して他の仕事なんてできない。とてもじゃないけれど、気が気じゃなくて、何も進まない。
「あらへんわ。他の仕事しとってくれ」
さきほどよりも落ち着いているものの、やはりまだ冷たいと思う。
私が主任のデスクから離れられないでいると、やれやれという雰囲気で課長が顔を出した。
「石尾くん、それだけど、今から印刷とめるのは現実的に難しいでしょう? 新卒の子なんだし、本人には謝って許してもらうか、シール貼って対応すればいいんじゃないのかな」
この課長はきっと、この社内報がどれだけの数を印刷されるか知らないからこんなことが言えるのだ。しかも印刷された後は業者から直接、全国の支社やグループ会社に配送されるというのに、シールを貼るなんて子ども騙しの対応ができると思うのか。
「課長、この新卒社員は、社長の親戚のご子息です」
主任がそう言った瞬間、課長は口を閉ざしてしまった。
課長どころか、その話を聞いていた社員も思わず息をのんだ。私だって例外じゃない。
「……そりゃあ、駄目だねえ〜、永原さん、それ間違っちゃだめだよ。よく確認しなきゃ、ね」
課長は私を非難することで周りの視線を避けながら、ふらふらとその場から立ち去った。
「今聞いたこと、まあ……知っとる奴は知っとる話やから、秘密にするようなことちゃうけど、本人がこの会社におりにくうなったら申し訳ないから、聞かんかったことにしてや」
鋭い視線を向けながら、主任が周囲へ釘をさす。
この会社にもコネ入社があるのだと、つい最近知ったばかりだった。佐伯くんのことをふと思い出すも、私の思考はすぐに現実へ引き戻される。他の仕事をしろと言われたのだから、このままこうしているわけにもいかない。仕方なく自分のデスクで仕事を再開したが、かかってくる電話が気になって、全く何も進まなかった。
夕方になっても、例の印刷会社から連絡は入らなかった。主任は休憩もとらずにずっとデスクに張り付いている。私もお昼になってもお弁当を出せるような状況ではなく、進まない仕事をしながら電話を待っていた。むろん、食欲なんてなかったのだが。
ついに我慢できなくなったのか、時計が5時を告げる前に主任の手が再び電話の受話器をとった。
「何度もすみません、Yコーポレーションの石尾です。どうでしたかね? ……はい、あ、そうだったんですか、いえ、すみません。実は分かったことがありまして、今お時間よろしいですか?」
話し声が少し小さくなる。
主任の話は、もちろん当たり前なんだけれど、こちらが悪いことを前提に切り出される。何度も何度も主任の声で謝罪の言葉が聞こえてきて、私のせいなのに、何もできない自分が歯がゆい。経験がいくらあったって、どれだけ大きな仕事を担当したことがあったって、こうやってミスの一つも自分で対処できないのだ。
手が、唇が、我慢できなくて震えだしたのを、隣のパートさんが気づいた。
誰にも聞こえないように、私に耳打ちする。
「ちょっと休憩してきたら? お昼とってないんでしょ? 少し休みなさい」
優しい言葉が余計に悲しくて、辛くて、もう耐えられなかった。
「誰もあなたが悪いなんて、思ってないから……」
なおもそう言ってくれる彼女には何も返事ができずに、私はそっと席を立った。パートさんに会釈をして、小走りで部署を出る。
会社では泣きたくないと、泣かないと決めていたのに。
ぼろぼろと溢れてくる涙をとめることができなくて、慌てて通路を出てすぐにあるトイレに駆け込む。幸い誰もいなくて、すばやく個室に入ることができた。
一人になった瞬間、我慢していた涙が大量に溢れてくる。声に出して泣きたいのを必死で堪えながら、トイレットペーパーで涙を抑える。
情けない。悔しい。格好悪い。自分では何もできないのが歯がゆかった。
まだ目元が赤い。でもいつまでもこうしているわけもいかないと、意を決してトイレを出る。広報部のすぐ入り口で、中をうかがっている背中が見えた。
「……本岡しゅ、課長?」
主任、という言いそうになったが、今は課長だ。私の声に振り向いた本岡課長は、顔を見て少し驚いたあとすぐに笑った。
「何だ、永原いないからもう帰ったのかなと思ってた」
「帰ったって……まだ定時じゃないですよ」
「そうだけどさ。で、大丈夫なの? 何かごたごたしてるっていうから心配で」
社内での情報網を甘くみてはいけない、改めてそう思う。
「それ、私のミスなんです。まだ多分、大丈夫じゃないです」
私の返事を聞いて、本岡課長は腕を組んだまま何も言わない。
数年前、私が総務から異動してきて、ずっと課長にはお世話になってきた。何かミスをしたら、自分でフォローする方法を教えてくれた。
「お前どうせ、昼食ってないんだろ?」
「え……?」
「ちょっと待ってろ、な」
本岡課長はすたすたと部署に入っていくと、もう電話を終えていた主任の元へ行き何やら話をしている。その後私のデスクに寄り鞄を取ると、そのままこちらに戻ってきた。
「よし、昼飯だ」
「いえ、あの、でも!」
「石尾の許可取ったから。俺も飯まだだから付き合え」
エレベーターで食堂のある階に着く。
もちろん昼はとうに過ぎているのだから、食堂自体は閉まっている。けれど食堂の隣のスペースでパンを売っており、昼の売れ残りを夕方になるとセールし始めるのだ。これを買って帰る職員も少なくない。本岡課長はそのパンを二つほど買い、飲食スペースに腰を下ろす。そして持ったままだった鞄を、思い出したように私へ差し出した。
「よし、座って食え」
「……でも。食欲ないです」
「俺、昨日が休み明けだったんだけどさ、珍しく永原から内線あったってメモ残ってて気になったんだよな。ばたばたして結局折り返せなかったけど……ごめんな」
勢いよく開いたパンの袋から、ふんわりとチョコレートの甘い匂いがする。
「いいんです。そんな、大した用じゃないですから」
「俺にできたことがあったんじゃないかなと思ってさ」
また涙腺が緩んでしまったことに気がついて、ごまかすように鞄からお弁当を取り出す。蓋を開けると昨日の夜作った豆腐ハンバーグが顔を出した。
「お前の性格だと自分が悪いって背負いこんじゃうだろ? 俺のせいにしていいから、今、全部吐き出しとけ」
じんわりと視界が滲み、さきほど出し切ったと思っていはずのものが、再び溢れてきた。
あまり余計なことが考えられない今、自分が悪いとか、悪くないとか、そういうふうに脚色して喋るつもりもなかった。ただありのままを伝えるしかなかった。
話を聞いた本岡課長は、チョコレートパンの最後の一切れを口に放り込み、豪快に咀嚼した。
「まあ……ミスに気づけなかったのは痛いけど、運も悪かったよ。頼れる相手が少ない状況だったんだろ? しかも石尾も大阪行ってたとか、タイミング悪いだよなあ、あいつも。自分の仕事じゃないことに振り回されやがってさ、永原に負担かかるって分かってんのかな」
おそらく私の気持ちを軽くしてくれようと、わざと主任のことを責めているんだろう。
「手伝ってやれなかった俺も、申し訳ないけどさ……」
「いえ、お休みとられてたんだから仕方ないです。すみません、私こそ頼ってしまって」
「とにかく、永原が全部悪いんじゃないから。最終的に永原の校了を承認したのは広報の課長なんだから、とりあえず課長のせいにしとけ? お前がそんなことで病んだりする必要ないし、能力高いんだから自信もって仕事しろよ」
本岡課長は、いつだってそうだ。私じゃなくても、へこんでいる部下には必ず声をかけてくれる。こうやって二人きりで話を聞いてくれて、最後には元気になれる一言をくれる。
「本岡さん」
聞き慣れた音程に、私は顔を上げるも、自分の目がまだ腫れいてることに気づいてすぐ伏せた。
「石尾。どうだった、H印刷さん融通してくれるって?」
「はい……今回は何とか。向こうの手違いが分かったことも大きくて、納品日が一日ずれるだけで済みました」
「そっか、良かったじゃん」
本岡課長は軽い口調でそう言うと、私の肩をぽんと叩いた。
「良かったな」
「はい……ありがとうございます」
「じゃあ、俺は自分の仕事戻ろうかな。また遅くなると怒られるし」
その言葉に、ふんわりとした温かさを感じて私の頬も緩む。
「なあんだよ、お前も結婚したら分かるよ。いや、永原は女だから怒る側か?」
「ふふ、ラブラブなんですね」
「違う、尻に敷かれてんの。もう五年の付き合いだから、しょうがないけど」
本岡課長は、去年の暮れに結婚した。ずっと付き合っていた彼女がいたことも知っていたし、彼に対して同僚以上の感情を抱いたこともなかった。むしろ、幸せになってくれて良かったと思った。
「石尾もお疲れ。大阪から戻ったばかりで、大変だったな」
「……いえ、今回は、僕の判断が甘かったところもあるんで」
それは、私に仕事を任せた判断、ということなのだろうか。
いつもの考えすぎが、悪いほうへと導いていく。主任に合わせる顔がなくて、本岡課長が席から立ち上がったのを見計らい、結局手つかずのままのお弁当箱を片付ける。
「永原さん、あの」
顔をそちらに向けない私に対して、主任が話しかけてくる。
怒られるのだろうか。さきほどの、いつもとは違う低く冷たい声が蘇って思い出される。今は違うけれど、それは本岡課長がいるからで、いなくなればまたあの声を聞かなければいけないのかもしれない。
「ちょっと、ええか?」
顔を、上げられない。これが主任じゃなければ、逆に怒ってほしいくらいだ。ミスをして慰められるような状況ではいけない。きちんと指導を受けるべきなのだ。なのに相手が、主任だという理由だけで私は逃げようとしている。社会人失格だ。
「永原?」
返事をしない私を変に思って、本岡課長が顔を覗き込んでくる。
「……すみません。あの、お話、広報に戻ってからおうかがいしてもいいですか? 私、お手洗いに行きたいので、お先に失礼します」
鞄を抱えるようにして、足早にその場から離れる。
私が広報部へ帰ってきたころには、すでに定時を迎えていたようで皆帰り支度を始めている者もいた。デスクにはほんの一時間弱離れていただけなのに、何枚かの書類が積まれている。でも、普段の光景がひどく安心できた。
主任が戻ってきたのを確認し、そちらへ向かう。
「あの、主任」
「ああ、ごめん。えっと、ごめんな」
また、首筋をさする。きまり悪そうに二度謝ったあと、傍らに置いてあった書類を渡してくる。
「これ明日の昼までにまとめといて。あと、来週の部会の資料ってどこまで進んでんのかな?」
「部会資料は鈴木さんが担当なので……明日確認しておきます」
鈴木さんはさきほど退社しているのを見かけた。
「……あっ、そうやんな。そうやったそうやった。あー、鈴木は……もう帰ってんのか。あいつ俊足やな、帰るときばっか早いやん。あいつよう食うわ、帰るん早いわ何者やねんなあ」
いつもの口調に私は拍子抜けするも、どこかぎこちないその言葉に、主任に気を遣わせているのだと悲しくなった。こうやって皆のいるところへ戻ってきてしまうと、厳しく注意するにもできないだろう。それが分かっていて、私は逃げたのだ。
私は軽く会釈し、その場を離れる。
自分のミスのせいで、今日片付けたかった仕事は全く終わってない。次から次へと流れてくる仕事に一息もつく暇なんかない。でも、どんどんいなくなっていく周りの人たちに、焦るように私も帰り支度を始めてしまうのだった。