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このお話よりサブタイトルを数字に変えます。すみません。

 私は迷っていた。

 今日は主任と出かける日だ。デートなんていつぶりだろう、と考えた自分の頭をぶんぶんと振る。デートなどと思ってしまうと、妙な妄想に走ってしまう。

 目の前には、うすピンクに花の絵をあしらった可愛いワンピース。春っぽくてよそ行きにいいと思って買ったのだが、実際これを着たのはまだ数回だ。もう一つの選択肢としては、七分丈の細身のパンツにふんわりとしたシフォンブラウス。こちらは友人と出かけるときによくしている格好で、自分でもしっくりくる。職場でもパンツスーツばかり着ているのに、急にワンピースみたいな女らしい格好をして、ドン引きされたら嫌だ。そう思ってブラウスを手にとる。これだって可愛いのだ。去年買ったものだが、大事に着ているのためまだ十分キレイな状態だし。

 主任から昨日の夜、携帯にメールが入った。休日でも連絡が入ることがあるため、プライベートの連絡先は最初に交換してある。待ち合わせは、私の家の最寄り駅。車で行くから駅前で待っていてくれとのことだった。意外にもメールでは関西弁丸出しではなく、簡単な文章だけだった。

 パジャマを脱いで、ブラウスを頭から被る。やっぱりこの格好は安定感がある。いつも通りが一番だと、小さなハンドバックに荷物をまとめる。

 でも。いざ家を出ようとしたとき、ふと部屋に置いてある全身鏡に目がいった。普通すぎて、特徴のない私がそこにはいる。人が大勢いるところに行ったら、この自分を探し出すのは困難だろう。はあと大きなため息をつき、さきほどハンガーにかけたばかりのワンピースを見やる。デザインが変わっているし、これなら服で見つけてもらえるだろうか。なんて、くだらないことを考える。

 ぐだぐだ言い訳しても、私はきっとこれが着たいんだろう。時間はもうぎりぎりだが、意を決してブラウスを脱ぎ捨てた。


 小走りで向かった駅前には、休日ということもあって人が多く行き交っていた。それらしき人を探すも、全部違う。家を出る間際に着替えたせいで、今ちょうど約束の時間だ。まだほんの少ししか主任を知らないが、遅刻をしたことのない人なのにと心配になる。

 どっちの方向から現れるかも分からないのでキョロキョロしていると、ハンドバッグの中で携帯が震えていることに気づいた。

 ディスプレイには、「石尾主任」と表示されている。

 なんで、待ち合わせ時間はもう過ぎているのに。もしかしてドタキャンだろうか。そういう思い出がないわけじゃない私は、ドキドキして通話ボタンが押せない。まごまごしているうちに、着信は留守番電話サービスに切り替わる。どうしよう、折り返したほうがいいよね、と思っているとすぐにまた震え始めた。観念して、私は通話ボタンを押した。

「もしもし、永原ですが……」

「あ、永原さん!? 今、そのまま、そのままで東を向いてくれ!」

 緊張して電話に出たのに、いつもの主任が突然わけの分からない指示を飛ばしてくる。

 そして私は咄嗟に東が分からず、くるりと左を見る。

「ちゃうちゃう、そっちは東ちゃうやん。東西南北分からんのかい!」

「わ、分かりませんよ、急にそんなこと言われたって……主任こそどこにいるんですか!」

「今車ん中やっちゅうねん。適当にどっか停めれるやろー思うてたらどこも見つからんまま時間になったからしゃあなくこうしてんねん。えーと、あ、薬局。薬局のあるほうを向け」

 薬局と言われ、交差点の向こうにある大きなドラッグストアのほうを見る。

「そうそう、そのまま。そのまま真っすぐ歩いてこい」

 何だこれ。

 バカらしいと思いながら、真っすぐゆっくりと歩く。目の前にあるのは、一台のグレーの車。詳しくないので車種は分からないが、ボディはピカピカと輝いている。

「そう。そして目の前の車のドアを開けろ」

 まさか、そう思い腰をかがめて窓ガラスの向こうを覗くと、携帯を耳に当てている主任と目が合った。


 主任は、デニムにシャツというシンプルな格好だったが、スーツじゃないというだけで雰囲気が変わる。ということは、私も彼の目にはそう映ってくれているだろうか。

 視線を感じながら車の助手席に乗り込むと、シートベルトに手をかける。あからさまにこちらを見ていると分かり、わざと視線を合わせた。

「……こんにちは」

「あ? あー、こんちは」

「お世話になります」

「は? いや、こちらこそ」

 そう言いながら、お互いぺこりと頭を下げる。さて、乗ってしまったからにはもう逃げられない。逃げるつもりもないが、この男と向き合わなければいけないのだ、今日一日。

「今日は、どうされるんですか?」

 どこへ行きたいとか聞かれていないので、こちらは考えていない。車で来るということは、何か考えてはいるのだろうと思っていた。

「えー、ええと。行き先は、師匠には伝えてありますんで、俺はそれに従うまでです」

「師匠?」

「こちらの方」

 主任が指差すのは、カーナビだった。車に乗らない私は、実家に帰ったときくらいしか目にしない。使い方も分からないが、その画面の右端に小さく「横浜まで」という文字が見えた。

「……はあ、ハイテクな師匠なんですね」

「うん。この方はすごいで。どこを指定しても瞬時に距離と時間を割り出してくれはりますからね。おまけに道順までご丁寧に教えてくれはる。俺のこっちの一番の師匠ですわ」

 なるほど、と助手席の背もたれに体を預ける。

 発車しないのかな、と待っていると、ごほんと咳払いが隣から聞こえた。どうしたのだとそちらを見ると、主任がハンドルを握ったまま前を見て固まっている。

「あの……?」

「それ」

 それ。

 一瞬ハンドバッグのことかと思ったが、違った。

「正直そんな可愛い格好してくると思わんくて油断した……マジで固まってもうて、最初すぐ電話できひんかった」

 そんなことを言われても、どう返答したらいいのか。俯いてスカートの裾を直す。

「ごめん、変なこと言うて。行こか」

 同時にゆっくりと車が動きだす。熱くなった頬を、いつかのように頬で押さえながら窓の外の景色に目を移す。楽しそうに手を繋いで歩くカップルがたくさんいる。私たちもそんなふうに、見えていたりするんだろうか。そう思うとたまらなくて、熱さはさらに増していくのだった。


「あのですね」

 しばらく続いていた沈黙を破ったのは、主任のほうだった。

「変な空気にした俺が言うのも何なんですけど、なんか喋りません?」

「……そうですね」

「ほな、ええと、旅行てどこ行くん? 明日からなんやろ?」

「北海道です。行ったことないから興味あって」

 へえ、ええなあ。ひと際大きな声となって返ってきた。

「俺も北海道は行ったことないねんなあ。高校んときの修学旅行でさあ、いっつも北海道行くのに、何か知らんけど俺の年はどっかの偉いさんが沖縄行きたい言うたおかげで、沖縄ツアーになってんよ。まあ沖縄もええとこやし行ってよかったとは思うんやけど、やっぱ北海道もええよなあ。いっぺんでええから行ってみたいわあ」

「プライベートでは行かれないんですか?」

「まあ……彼女おるときとかは行ったこともあったけどなあ、全部近場や。男同士でもあんまり行かんし、家族旅行もえらいことしてへんわ。大学時代の友だちがアウトドア好きやから、大阪におるときはキャンプとか誘ってもうてたけど、それもこっち来たら難しいしな」

 彼女の話が出て、少し緊張してしまう。この前聞いた彼女のこと。

 もう過去のことだと言い切っていたからこそ、こうやって気軽に話題に出てくるのだろう。それともまた違う彼女のことだろうか。そもそも主任ってどれくらいの人と付き合ってきたんだろう……こちらじゃまだあの関西弁に慣れてないため女性からは敬遠されているが、大阪ではきっとモテていただろう。

「永原さんは旅行好きなん?」

 旅行とは全く別のことを考えていた私は、現実に引き戻される。慌てて頷いた。

「あとは何が好きなん?」

「好きなもの……えっと、映画とか、好きです」

「映画……マジかいや」

 心なしか、車のスピードが落ちた気がする。

「言うてくれや……なら今日のデート映画にするやん」

「え! いいですよ、別に、大丈夫ですから」

「そうは言うても、好きでもない男と一緒に過ごすんやから、行き先くらい自分の好みのとこがええやんなあ。聞いときゃ良かった……今からでもUターンできるけど、そうするか?」

 映画なんていつでも、一人でも見れる。でも今日はそうじゃなくて、と言いかけたが、弱気な自分がそれを止める。

「いえ……私も横浜久しぶりなので、そのままで」

 精一杯の、言葉のつもりだった。

「そう、か。うん、じゃあ、そのままで行くで」

 本当は行く場所なんて、どこでもいいのかもしれない。主任という人を、石尾優一という人をもっと知れるなら、何でもいいのだと思う。こんなふうに誰かを好きになりたいと思うのは、初めての経験だった。もっともっと深いところまで行きたいと思うのは、主任が初めてだった。


 魚がたくさんいるが、人もたくさんいる。

 水族館にやってきた私たちは、人に飲まれそうだった。館内でもなかなか前に進めず、見えるのは人の後頭部ばかり。特にはしゃいでいる子どもたちは、水槽の目の前を陣取りなかなか動かない子もいる。

「ごっつい人や……はぐれんようにせなな」

 隣でそう言われたとき、思わず手を繋がれるんじゃないかとどきどきしてしまった。恋愛映画や、小説にはよくあるパターン。はぐれないことを理由に手を繋がれる。実は憧れてましたなんて言えるわけもなく時を待つが、私の両手は寂しいままだった。

「ショーも見たいやんな。場所取りせなええところで見られへんみたいやから、ちょっと早いけどもう行こうか」

「はい」

 すぐ前を歩く主任についていく。人が多いと、まともな会話もできない。こうやってデートらしいことができるのは嬉しいが、主任を遠く感じてしまっていた。こんなに近くにいるのにな、と妙に焦る。

 ショーまではまだ時間があるというのに、すでに人が集まり始めていた。でも割といい場所に座れて、ほっと息をつく。

「ひっさしぶりにこんな人ごみ来たわ。まあでも、東京いうだけでも人多いなあ思うけどな」

「でも、大阪でも人は多いんじゃないですか?」

「いや、やっぱり東京とは違うわ。大阪もええとこやけどな? 食いもん美味いし」

 大阪の人って、必ず「食いもん」を褒めるよなあと思う。実際それだけ美味しいということなのだろう。

「いいですね。行ってみたいです、大阪」

「ほんま? 来てくれたら案内するで。俺、生まれも育ちも大阪やからなあ。就職まで大阪でできると思うてなかったし。ついでに神戸も案内できるで。大学は神戸やから」

「へえ、神戸もいいですね。おしゃれなイメージ」

「街は景色がキレイなとこが多いなあ。大阪が商売の街って感じやから余計にそう思うわ」

 ベンチには、だんだんと人が埋まっていく。私たちの両隣にもすでに埋まっていて、がやがやと騒がしかった。

「主任は、東京に来られることは迷わなかったんですか?」

 ずっと思っていたことだった。彼の言動から、地元に愛着を持っていることは一目瞭然だ。広報の仕事をしたかったのだと佐伯くんは言っていたが、本人の口から聞きたいと思った。

「うーん、本音を言えば迷ったで? 希望は簡単に出せるから、ほいほい出してたけど。いざ内示出たら嬉しいの半分、迷い半分て感じやったなあ。向こうの同僚とも仲良かったし、そいつらと離れて知らん土地で一から、新しい人らと……って、不安は絶対ついてくるもんやし」

「広報の仕事がしたかったんですか?」

「まあ、そんなところかな。俺、大阪では全然自慢じゃないけど、毎年後輩の子の面倒見ててん。そんで色んなやつおる中で、男も女もやけど、営業志望で入ってくるくせに製品に愛着ないのが多すぎんねん。お客さんにこれどうですかって薦めなあかん奴が、自分の会社の製品愛してなくてどうすんねんって言うねんけどさあ、何か伝わらへん。新製品の勉強会行こうて誘っても何や予定あるいうて逃げられるし、辞めていったやつもおるし。どうせその辺の他社製品と一緒や思うてるからそうなんねん。勉強なんかせんでも資料読めば分かる、思うてるねんよ。そうじゃないねん、ちゃんと本物に触れて、開発した人の話聞いて、自分でも使ってみて、ってせな営業なんかできるわけないやん」

 周りはうるさいのに、主任の声だけ切り取ったみたいに、はっきりと私の耳に届いていた。

 仕事への思い。プライド。

 愛してなくて、と言った言葉に、全ての気持ちが表現されていると思った。

「だから、俺は社内広報がやりたくて広報にきたんや。うちの会社の人ってみんないい人多いと思うけど、それでも製品に対する思いって人それぞれやと思うねん。直接製品に関わってない人にもそれを知ってもらえて、今会社が何を目指してんのか、どういう方向で動いてんのか、みんなで共有できたらええなあと……思うたりなんかしちゃったりしているわけですな」

 最後の最後、ごまかすようにそう言って、主任はぱんと膝を叩いた。

「すんません、何か熱く語ってしまいまして」

「……すごいと思います。尊敬します」

 とても視線を合わせては言えないが、素直な自分の気持ち。言ったあと、恥ずかしくなって俯く。

 すると急に、周囲が拍手に包まれる。どうやらショーが始まるらしく、アシカをつれたお姉さんが登場した。とてもじゃないけれど、ショーに集中できる心境じゃなかった。すぐ隣、肩が触れるか触れないかのところに座っている相手のことが気になって、お姉さんが連呼しているアシカの名前すら頭に入ってこない。視界に入っている大きな手が、胸の辺りで拍手をするたびに、私も慌ててその真似をするのだった。


 そのあとも私は胸が鳴るのを抑えられなくて、そわそわとした気分が拭えなかった。せっかく二人でいられるのに、とこっそりと深呼吸をする。でもまだ、胸のあたりが落ち着かない。

「人ばっかりで疲れてもうたんちゃう? 明日から旅行やのにごめんな」

 夕暮れが近づき始めた頃、車に乗った主任はそう言った。

「いえ、全然。疲れてません。楽しかったです」

「なら良かった。もう帰ろうか。明日早いもんな」

 物足りない、と思った。

 普通の大人のデートなら、この後は晩ご飯を一緒に食べるだろう。誘って来ないのは、私を気遣ってくれてのことだ。喜ぶべきなのに、なんだかあっさりとしたその態度が少し悲しかった。

「家まで送ってくで」

 そう言いながらカーナビを操作する主任。

 ああもう、帰るんだ。旅行の準備もまだで、冷蔵庫の整理だってある。私にはやることがたくさんあるのに、どうしてもこんなに名残惜しいんだろう。いっそのことカーナビが故障して、帰りの道が分からなくなってしまえばいいのに。

「おいこら」

 軽く肩を揺すられる。

「何ぼけっとしてんねん。送ってくから住所教えなさいな。あれやで? 俺がいくら主任様やからって部下の住所はいちいち覚えてへんで? それは無理やわ。いっくらおたくのこと気になるからって住所暗記はできませんて」

 また、変な妄想の世界へ行ってしまった……何をやっているんだ自分、と唇を噛む。

「……そんなに住所言うん嫌なんやったら、最寄り駅でええけどな? そらあ、へこみますけどえ? 車でデートしたっちゅうのに家の前まで送らせてもらわれへんとか、男が廃るわほんま……人の好意には甘えるもんやで君」

 主任のマシンガントークは止まらない。まるで気まずさを消し去るように、言葉は並べられていく。

「……あの主任」

「あ?」

「住所……ここから入れたらいいんですか?」

 カーナビの画面を指差す。タッチパネルなのだろうか? スマホ的な?

「……いや、言うて。俺入れるから」

「N町2丁目、4−5です」

 主任の大きな手が画面の隣にあるボタンを慣れた様子で操作していく。私が住むマンションに赤い旗がちょこんと立つ。

「なあ?」

「なんでしょうか」

「これ、登録してもうたら、キモい?」

 何のことか分からず、主任のほうを見る。彼も私を見ている。二人してカーナビに顔を寄せていたから、運転をしていたときよりも近い。その近さに胸が飛び上がりそうになったが、どうにか顔には出さずに済んだ。ばれないように、息を整える。

「……や、ごめん。嘘やで、嘘。うっそでーす!」

 急に元気よくそう言って、体勢を元に戻してしまうと同時にエンジンがかかった。


「はい、着きました」

 そう言われて、顔を窓のほうへ向ける。確かに、私のマンションは目の前だった。

 着いてしまった、というのが本音だった。まだ外は明るい。もし食事に誘うなら今だ。最後のチャンスだと思いながらも、どう伝えていいのか分からない。自分の恋愛偏差値が低すぎて、笑うしかない。

「忘れもんないか? 財布とか、携帯とか、常備薬とか」

 常備薬って、と思いながら鞄の中を簡単に確認する。忘れ物があるわけない。この車はおろか、私は結局水族館でも一度も財布を出す機会がなかったのだ。

「大丈夫です。あの、ありがとうございました。今日は全部主任に甘えてしまって」

「ええねんええねん。もとは俺が無理矢理誘ったんやし、ひっさしぶりにデートなんかして浮かれてるんやから、細かいことは気にせんでくれ」

 でも申し訳ないから、晩ご飯おごりますから、行きませんか。

 って、なぜ言えない、私。主任は明らかに私が車から降りるのを待っている。変に思われる。

「でも、申し訳なくて、あの」

「ええっちゅうに。まじめやなあ、永原さん」

「いえ、そうじゃなくて」

「ほな、代わりに」

 ご飯って、言ってくれたら。私は瞬きも忘れて主任を見つめていただろう。

「お土産買ってきてくれへん? 北海道の」

 はい、行きます。と返事をしようと思っていた私の口は、「あ」の形で発する言葉を見失いしばらく固まっていたが、ようやく動いた。

「……お土産」

「うん、土産。リクエストはなあ……そうやなあ。何せ北海道行ったことないから、どういう選択肢があるんかすら分からへんねんなあ。あれ、クッキーにチョコ挟んであるやつはよう貰うから、それ以外で」

「……はい」

「あと木彫りの熊もなしやで? いや、まあ永原さんが選んでくれたもんなら、木彫りシリーズでもええか……うん、熊ありや。熊でもカニでも牛でもキツネでも、何でもええわ」

 それは木彫りを買ってこいということなのだろうか。

「分かりました。買ってきます、お土産」

「マジで? 楽しみやわあ。ゴールデンウィーク中なんか会社も人少ないし行くん嫌やと思うてたけど、休み明けの楽しみできたから頑張れそうやわ」

 ふと、主任は休み中も働くのだと知らされる。大阪へは帰らないのだろうか。

 気になる。色んなことが、知りたい。だからもう少しだけ。

 その言葉が私の理性の言うことを聞かずに、喉を通り過ぎたそのときだった。

「ほな、今日はゆっくり休み。ありがとうな」

「……こちらこそありがとうございました」

 言葉は行き場をなくして、どうしようもなくて、やっぱり私の心の奥に引っ込んでしまった。叶わない願いは、時間が過ぎるだけ膨らんでしまうというのに。

 私はドアを開け降りると、車に向かって一礼した。しばらく経っても走り出さないので、不思議に思って窓ガラスを覗くと、びっくりしている顔の主任と目が合った。私も驚いて何かあったのかと声をかけようとしたときに、視線は気まずそうに外され間もなく車は発進した。

 ゆるゆると遠くなっていくその姿が消えてしまうまで、私はそこに立っていることしかできなかった。

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