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昨日、自分に何が降り掛かったのか、半信半疑だった。もしかしていつもの妄想が大長編となって、夢と現実の区別がつかないのではないだろうかと、何度もそう思った。だから会社に行っても普通にして、昨日のことは考えないようにした。ただ、朝つい時間がなくなってしまって、今日はお弁当を作れなかった。
お昼休みはいつも自分のデスクで簡単に済ませるが、財布を持って席を立とうとしたときだった。
「あれ、永原さん、今日は食堂ですか?」
横山くんは気さくに声をかけてくれる。
「うん。寝坊して、お弁当作れなかったんだ」
「珍しいですね。永原さんが寝坊することなんてあるんだ」
主任にはやすしなんて呼ばれてしまう彼だが、爽やかで明るい好青年だ。
「良かったら僕らと一緒に行きませんか?」
横山くんが振り向くほうには、他に三人いる。全員彼らと同じ若い年代の子たちだ。正直食堂ではなく、コンビニで買ってこようと思っていたのだが、たまにはいいかなと思い始めた。若い子たちの中に私一人というのも心もとないが、同じ部署の後輩だし気安かった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「行きましょう。遅くなると混んでしまいますから」
食堂の隅に空いたテーブルを見つけ、横山くんたちのグループと一緒に座った。
「嬉しいなあ、永原さんとご一緒する機会ってあんまりないから」
可愛いことを言うのは、私と同じ事務職の鈴木さん。今時に見えるが仕事には真面目な子で、一年目のとき私が指導した後輩でもある。
「そうですよ。色々教えてくださいよ、主任のこととか」
面白そうに尋ねてくるのは、横山くんと同期の高橋くんだ。お調子者で口が軽いが、主任とは波長が合うらしくよく二人で談笑しているのを見かける。私と主任は基本的に仕事の話しかしたことがない……昨日の夜をのぞいては。
「いやいや、私より高橋くんのほうが仲良しじゃない、主任とは」
「そんなことないっすよ。あ、でもこの間大阪にいるときのこととか色々聞いちゃったんだよね」
横山くんと鈴木さんが興味ありそうに、「何なに?」と顔を近づける。もう一人、輪には積極的に入っていないものの、話は聞いているようなのは佐伯くんだ。彼は確か横山くんたちとは少し歳が上のはずだ。だからこのグループにいるのは意外だな、という印象だった。
「営業でバリバリ成績あげてたにきまってるやんか!」
高橋くんは誰なのか分かる口真似をする。
「お前ら聞いたことないんか、西の石尾いうて本社でも有名やったはずや〜」
「あははは! ないない! だって名前聞いても誰?って感じだったし」
鈴木さんは無邪気に笑う。横山くんは隣で笑いながらも付け足す。
「でもさ、冗談抜きで営業成績は良かったみたいだよ。主任が異動してきたときに、大阪にいる同期と喋る機会があったから聞いてみたんだよ。でもなんで営業だったのにうちの広報部なんだろう?」
私は頷いた。確かに、不思議だ。
「前に営業やるうちに広報も興味出てきたみたいなこと言ってた。支社で広報はできないし、こっち移ってきたんじゃないか」
突然口を開いたのは、今まで静かに話を聞いていた佐伯くんだった。
「佐伯くん詳しいの?」
私は思わず聞いてしまった。
「俺、最初の研修が大阪だったんですよ。だから石尾さん……主任の下で勉強してたんですけど」
「でも、そんな素振りないじゃない、二人とも」
研修といえども、一ヶ月以上期間はあったはずだ。それだけ一緒に仕事していたというのに、主任と佐伯くんはお互いそんなふうな関係を見せていなかった。
「向こうが、忘れてるんじゃないですかね」
素っ気なく言うので私もそれ以上聞けず、お茶に口をつける。
「そっか。佐伯さんって最初大阪だったんだ。でも研修先と配属先ってほぼ一緒なんじゃなかったっけ? なんで本社に来れたの?」
鈴木さんは日替わり定食のトンカツを頬張りながら聞く。体は細いが、大食いらしい。
「研修終わってから本社希望出したんだよ。ていうかもとから本社希望なのに、最初大阪に飛ばされたことが納得いかないっつうか……若干権力行使した」
「権力行使?」
短いお昼休みに、喋ることと食べることを両立しようとしていたその場の全員が、箸を止めて顔を上げた。
「俺の親戚がここの役付なんだ。でもコネ入社じゃないっすよ。それは実力ですから」
誰とも視線を合わせずにそれだけを言い切ると、「お先に」とお盆片手に立ち上がった。
何となく、しんとなってしまったテーブル。私はこの食堂で一番値段の安い、ワカメうどんを意味もなく掬ったり戻したりしていた。
「あ、あの……?」
恐る恐る三人を見渡す。
「佐伯くんって、みんなと仲良いんじゃないの?」
さきほどの彼の態度からは、とてもそう見えなくて思わず聞いてしまった。
「いや、一緒に昼とったの今日が初めてなんです」
苦笑いしながら横山くんが答える。
「実は、鈴木さんがなぜか、佐伯さんから昼に誘われて。おそらく佐伯さん的には二人でってことだったと思うんですけど、こいつビビって四人で行こうとか言い出して」
「ビビってはないけどさあ、だってびっくりしたんだもん。あんまり絡んだことないのに急に誘われて、どうしていいか分からないじゃん」
鈴木さんは声を抑えながらも、正直に言う。
「私たちいつもは三人でランチしてるんですけど、その中に佐伯さん一人だと気まずいかなーと思って、横山くんに永原さん誘ってもらったんです。ごめんなさい、変なことに巻き込んで」
なるほど、と心の中で息を吐いた。いつもは声をかけることなんてないのに、今日に限って誘われるから変な気はしていた。でもこうやって素直に謝罪する鈴木さんは、やはり憎めない。それに彼女の気持ちも分かるし、私は首を横に振った。
「ううん、私なら平気。気にしないで」
私の言葉を聞いて鈴木さんはホッとしたように笑った。
「でも佐伯さんの親戚って誰なんだろう……役付って言ってたよな?」
頬杖をつきながら、高橋くんは小声で呟く。
「高橋、絶対それ誰にも言うなよ」
横山くんは鋭い視線で高橋くんを睨む。
佐伯くんの親戚が誰なのか、もちろんそれも気になるが……私にとっては一ヶ月以上一緒に仕事をした相手のことを知らないふりする主任のほうが気がかりだった。そういう後輩が大勢いるから、いちいち覚えていないものなのかもしれない。でも、私なら指導した後輩のことは忘れないし、その後のことまで気になってしまう。
もやもやした気持ちのままで、お昼の時間は終わりに近づいていた。
トイレに寄ってから自分のデスクに戻ると、お昼に出る前はなかったものが、ちょこんとそこにあった。私がよく飲む銘柄のコーヒー。微糖。
こんなもの買ったっけ?と固まっていると、いつもの関西弁が聞こえてくる。
「この資料ちょい古ない? 俺の持ってるデータと微妙に違うねん」
「あ、もしかしたら去年の仕様書使っちゃったかもしれません」
「そんなら今年のに変えといてや。急がへんし。連休明けの会議で使うから、それまでに再提出して」
分かりました、と返事をした社員が席に戻るのをぼんやりと眺める。
今日の主任は、なんだか大人しい。いや、朝はずっと打ち合わせでここにいなかったので、誰も気づいていないだろうが。
そんなふうに敏感になるのは、なぜだ。
うーん、と考えていると視界に、スーツが現れる。慌てて自分のデスクの上に視線を戻す。見すぎてたかな、と熱くなりそうな頬を片手で押さえる。
「永原さん」
自分の肩がびくりと揺れたのが、情けない。そんなに警戒するようなことじゃないのに。
「はい」
「悪いけど、資料室で探したいもんあるねんけど、教えてくれへん?」
そう言いながら右手に持っている鍵を見せる。地下にある資料室のものだ。
「探すものが分かっていれば、私持ってきますよ」
「いや、ええねん。今後は何かあったとき自力で探したいから、今日だけ教えてほしいんや」
そういうふうに頼まれるほうが、助かる。たちの悪い上司になると、資料室はおろかその辺のロッカーにあるであろう資料まで、事務職員に探させるのだ。
「分かりました」
やや大人しい主任に、私はちょっと油断していた。
エレベーターが地下に到着すると、狭い通路に三つの扉が見える。手前が備品倉庫になっていて、奥二つが資料室だ。
「お探しのものは、製品資料ですか?」
「うん。三年前のがほしいねん」
私は手前のほうの扉の前に立つと、主任に鍵を開けるよう促す。
「奥は何があんの?」
「使える資料は手前です。奥は、もうほぼ破棄してもいいような大昔のサンプルとか、90年代より昔の資料などです」
「あー……そら使わんなあ」
鍵ががちゃりと開くと、少し湿っぽい空気が鼻をくすぐる。三年前だとこのへんだろうか、と室内の真ん中あたりで足を止める。毎年年末に行われる大掃除のとき、部署から一人資料室整理にかり出されるのだが、私はこれにいつも立候補していた。どこに何があるのか常に把握しておきたいのもあるし、整理のついでにどんな資料があるのか分かるので勉強にもなる。
「このへんだと思うんですけど」
主任はポケットからメモを取り出すと、ファイルの背表紙に目を凝らす。探すところまで手伝ったほうがいいのかと思ったが、主任は自分でやろうとしているので静かに後ずさる。
「あの、じゃあ、私はこれで」
私がそう声をかけると、こちらが驚くほど主任はものすごいスピードで顔を上げた。
「あー!! 待て、ちょい待て」
「……え」
「頼む、頼むからここにおってくれ」
言いながらずんずんと私に迫ってくる。急に恐怖がわき上がり、私はすがるようにドアノブに手を伸ばす。
「ち、近寄らないで、くださいっ……」
「だー、違う違う。誤解するな、別に襲う気なんかないわ」
慌てて両手を上げた主任の体から、ひらりと四角の小さなメモが舞った。
数秒ほど沈黙があったのち、私の足下に落ちているメモを主任が拾った。そのあと一歩下がり、恥ずかしそうに頭を掻く。
「五分で終わるから、そこでおってくれ。俺のこと嫌やったら離れててええから」
そう言われて、自分の自意識過剰さを思い知らされる。確かに誰がいつ来るか分からないこんな場所で、主任である彼が私に何かするはずはない。なのに、仮にも上司に「近寄らないでください」なんて、失礼にもほどがある。
「しっかし、へこむもんやなあ。そこまで嫌われてると、どうやって挽回したらええかちょっと悩んでまうわ」
「あ、すみません……あの決してそういう意味ではなく、私、ちょっと自意識過剰なところがあるので、びっくりしてしまって、本当に、すみません」
焦りながらも、言葉を並べる。
「そうなん? まあ、好かれてるとは思ってへんけどさあ。昨日ので大分懲りてはおんねんで? こう見えてさあ……学習能力はありますねんでえ」
茶化すように、主任は白い歯を見せた。
さきほどのことがあって自分から近寄るのもどうかと、周辺の整理整頓を始めた。本棚のそこかしこに、「必ず元の場所に戻すこと」と注意書きがあるのに半分くらいの人は守ってくれない。明らかにふさわしくない場所に、無理矢理にファイルが押し込まれているのを見かけると直さずにはいられない。どうせ年末には自分が整理することになるのだから、今やっても変わりはないのだ。
「永原さんはさあ」
「はい?」
資料の間から、個人の交通費申請書を見つけてぎょっとする。日付を見ると、先月だ。これちゃんと提出したんだろうか……と心配しながら主任の呼びかけに返事をする。
「ゴールデンウィークは、何か予定あんの?」
斜め後ろにいるはずの主任の表情は、私からは見えない。振り向いても、広い背中があるだけ。でも主任の右手は、どこか目的を持たずにさまよっているようだった。
「実家に、帰ろうかと」
「そうか……がっつり帰んの? 有給申請出てたけど」
飛び石連休の今年は、有給を使えば大型連休にできる。普段なら滅多にそんな休みの取り方はしないのだが、今年は地元の友だちと旅行に行く計画があった。実家にも帰らないと親が心配するので、贅沢をさせてもらうことにしたのだ。
「地元の友だちと旅行に行くんです。そのあとは実家で過ごします」
「あそう……もう一日も空いてへん? 半日でも……いや、三時間でもええねんけど」
初日なら、空いている。空いているというか、旅行の前日だから部屋の掃除でもしようかと思っていたのだ。長い間空けたままになってしまうし、冷蔵庫の整理もしてしまいたい。
「三時間で何ができるんですか?」
「いやっ、色々できるやんか。何や……別に何でもええやん。ドライブしてもええしやなあ、そのへんで散歩してもええしやなあ、飯食ってもええしやなあ……あと何や、意外にないもんやな」
どうやらプランはないようだ。
「とにかくまずは、会社から出なあかんのやろ? やから誘ってるんやんか」
私が社内では節度を云々言ったことを気にしてくれているようだ。だからといって、こうやって資料室に連れ込むことはいいのだろうか。そうは思ったものの黙っておいた。
「考えておきます」
考えるといっても、もうあと二、三日後の話だ。でも今すぐ、いいですよ、なんて返事をするのはどうなんだろうと思って、自分がどうしたいのかも分からなくて曖昧に返事をした。
「考えとくかあ……まあええわ。俺も何も考えてへんかったし。というかやな、俺まだこっち来て日い浅いしどこに何があるとか分からんねんな。しゃれた行きつけの店的なものがあれば、永原さんの気もひけるかもしらんのに、そういうもんがなあ、ないねん。牛丼屋くらいやわ、行きつけてんの。あとは家の近くのコンビニや。あそこの店員に多分もう顔覚えられてんで、俺」
べらべらといつもの調子で喋りだす。私の緊張をなくそうとしてくれているんだろうか。持っていたファイルを正しい場所に戻し、ふと今日の昼のことを思い出す。
「そういえば、主任」
「んー?」
「大阪にいらっしゃったときに、佐伯くんと一緒だったそうじゃないですか」
てっきり、「マジで!? 誰や佐伯!」とか「忘れてたあ、がはははは」とかいう反応を予想していたのに、思いのほか、主任はしばらく黙ったままだった。
「あー……それ、誰が言うてた?」
「いえ、あの、佐伯くん本人が。たまたま今日お昼が一緒だったので」
「ふうん、そうなん。そっか……」
主任と佐伯くんの間には、何かがあったんだろうか。確か、佐伯くんの指導を主任がしていたと聞いた。例えば仕事のやり方が合わなくて対立したとか、そういうことはどの職場でも起こりうる。特に佐伯くんは頑固な部分もあるし、相手が上だろうと下だろうと納得いかないと容赦しないイメージが私の中ではある。
「俺は、一応、知らんふりしてみたんやけどなあ。本人が言うてるなら、しゃあないか」
知らないふり? どういうことだろうと、私は主任のほうに体を向ける。
「まあ、本人からしたら、俺は関係ない話やし、そういうもんかもしれへんな。あいつも何や、あんまり人に執着せえへんから、俺がこっち来てもスルーしよるな思うたから、俺も知らんふりしたれ思うててんよ」
「何かあったんですか? 佐伯くんと……」
本来なら、聞くべきではなかったのかもしれない。でも聞かずにはいられなかった。
私の問いに、主任はすぐには答えない。メモを眺めるようにしながら、首を横に振った。
「難しいねん。仕事のことやないから。仕事のことなら、解決できるように俺も色々考えるねんけど、違うからなあ……」
「仕事以外のことって、何ですか?」
どうしてそれ以上追求してしまうのか。考えるよりも先に口が動いていた。
主任がこちらを見る。いつもの表情じゃない。暗く、悲しげ。でも笑おうとしているため、痛々しい。
「……別に、おもろい話でもないで?」
「興味本位で聞いてるわけじゃ、ありません」
じゃあ何なのだと言われたら、返事はできなかっただろう。でも主任はそこには触れず、静かに話し始めた。
「俺が大阪におるときに、佐伯が新卒で研修にきてん。うちの会社やと、研修先イコール配属先やん。せやから俺もそういうふうに指導してた。例えば大阪の取引先のこと勉強させたりとか、地元密着やから地図帳渡して営業ついて来させたりとか。けど……何か、あいつやる気ないねん。どうしたらええんやと思うて、色々したってたんやけど」
すう、と息を吐く音が聞こえた。
「あいつなあ、俺の彼女とデキてもうてん。ああ、元カノな?」
「え……」
「元カノて、取引先で働いてた子やってんけど、俺もう全然気づかんくてさ。社外やし取引先やし、誰にも言うたことなかってんけど、あいつのやる気出そう思うて営業に連れ回してたら、その彼女と知らん間にデキとったわ」
でも佐伯くんは、研修が終わったら本社に異動したはずだ。
「実際に佐伯との付き合いは短かったらしくて、多分、俺の勝手な考えやけど、佐伯は本社行くまでの暇つぶしやったんちゃうかなと思うわ。もちろん俺の彼女とか知らんかったと思うし、しょっちゅう顔出してた取引先やったから、会ううちに仲良うなっても不思議やないから。けど俺自身は、一回気持ち離れたら、あかんくてさ。彼女とも何回も話し合ったけど、やっぱりあかんわ思うて、結局終わった」
「そんなことがあったんですか……」
私にはそれくらいの相づちしかうてなくて。
「せやからさあ、あいつ本社でどんだけ営業で稼いでんねん思うて楽しみにしてたら、広報におるやん。びっくりするわ、マジで。何や、俺が教えてた二ヶ月弱は何やったんやと思うて、あー、あほらしいいうか、拍子抜けいうか」
がはははは、といつもの調子の笑いは、静かな資料室に響いた。
「ちゅうか俺は」
目の前には、私のほうを見ている主任。視線は私に向いていた。
「なんで好きな子にこんな話をしてんねん。後輩に女取られて泣き寝入りした話なんか、かっこわるすぎやん」
「……ああ、ほんとですね」
「ほんとですね言うなや。おたくさんが聞きたい言うたんですやん」
そう言いながら手の中にあるファイルを持ち直す。どうやらそれで探したい資料は全部のようだ。私も片付けていたものを直す。
「カミングアウトしたんやから、ゴールデンウィーク遊んでや」
そうくるか。
もう彼女のことは吹っ切れているのだろうか。佐伯くんの社歴を考えると、その話は少なくとも二年以上前の話にはなるだろう。そんな悲しい別れだったのに、もう今は平気なんだろうか。
「彼女のことは、もう過去なんですか?」
つい聞いてしまわずにはいられなかった。
主任は、一瞬固まり、堪えきれないように笑い出す。
「えー、なんでそうなんの? 俺、昨日からあなたのこと口説きまくってるつもりなんですけど、元カノのこと忘れられへんかったら、そんなことする思いますう?」
「あっ……いや、でも、そういうことも、あるんじゃないかと思って」
何言ってるんだ、私は。
「ありませんがな。俺はそんな不誠実な男じゃありませんのでね。見くびってもうたら困りますわ」
笑いながらも、鋭い目つきで私を見る。軽蔑されただろうか。そういうふうに見ていると、思われてしまっただろうか。
「そりゃ別れてすぐはもう彼女なんかいらんわ思うて仕事に精出してましたが、一生女断ちするつもりもないというか、俺も健康な男なんでそのあたりはまだ欲求残ってる言いますか……て何言うてんねん、俺は」
まるでテレビで見るようなノリツッコミだった。ぷ、と思わず吹き出す。
「あ、笑ってくれはったわ……よかった。何か永原さんの笑顔見ると安心するわ」
「いえ……すみません。あの、私も言い過ぎてしまって」
「ええで、全然。俺のこと知ろうとしてくれんのは嬉しいし」
鍵を閉めている主任を横目に、腕時計をチェックすると昼休みが明けたばかりの時間だった。
「で? ゴールデンウィークはいつ空いてんの?」
「……初日です」
「そうか、初日か……そんなら俺ももともと休みや……て」
ええんか?
今にもそう言いそうな顔が、こちらを見ている。きらきらとした目が二度瞬く。
ちょうどエレベーターがやってきたので、先に乗り込んだ。
「え、お、マジで?」
「私、総務に寄って行くんで、1階押してください」
「お、おお……」
手にはさきほど見つけた、誰かの交通費申請書。
主任の右手は1階を押したあとに、なぜかふらふらと7階、次に9階を押した。
「やばい、7階なんか行く気ないのに間違えてもうた。永原さんが急にオッケーしてくれるから動揺してます、はいカッコ悪いです」
一人うんうんと頷く主任の背中は、私なんかよりも広くて、大きい。
この人のこと、好きになれそう?
私は自分で自分に問う。分かりきった質問に、もう用意された答え。でも、即答するのが何か恥ずかしくて、くすぐったくて。もう少しだけ保留にすることにした。