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 期待はしないでおこう。

 例えば、すごく条件のいい合コンとか。一人暮らしのマンションの隣室に、超イケメンが引っ越してきたときとか。本能の赴くままに、自分の都合のいいように妄想してしまう。あんなことやこんなこと。もう一人の現実的で冷静な自分が、「んな馬鹿な」って嘲笑しているにも関わらず、めくるめくバラ色の未来を想像してしまう。でも、合コンでは私以外の全員が彼氏をゲットし、隣の超イケメンも超美女の彼女が既にいたのだ。

 そうやって得た経験は、私に「期待しない」という警告をことあるたびに発してくる。

 今回もそうだ。


 発端は、年度末の忙しさが増す三月中旬。人事異動の噂が社内で騒がれ始める季節。正式な通達は四月頭だけど、本人には三月に入れば内示が出るためだ。企画開発部のセクハラ課長がとうとう他県の支社に飛ばされるとか、営業部のエースはいよいよ異例の出世だとか。まさかここで、「期待しない」警告が発令されるとは思ってもみなかった。

「今度うちに異動してくる主任って、関西じゃ仕事できるカッコいい性格いい三拍子そろってる超優良物件らしいよ」

 仮にも人様のことを物件呼ばわりするのはどうだろうかと、私はその話をぼんやりと便器の上で聞いていた。つまりその会話には加わっていなかったのだが、用足しの途中聞こえてきたのだから仕方ない。それにしても、うち、とはどこの部のことだろうか。この会社では部署が別れると、平の社員はさほど接点を持たない。総務や経理なら別の話だが。

「人事の同期に聞いたら今年三十歳になるんだって! まだ若いよ? ハゲ親父じゃないよね!?」

「マジで? 若ハゲっつう可能性は捨てきれないけど、確かにそれはおいしいかも」

 おいおい君たち、男は髪の毛の量で決まるのかい?

 用足しは終わったものの、何となく会話が面白くて長居してしまっている。暇つぶしにカラカラとトイレットペーパーを引っ張る。

「でもうちらももう二十五じゃん? そろそろ次に付き合う男は結婚意識するしさあ、経済力ある人じゃないと不安だよね。その点うちの会社だとちょっと安心じゃない?」

 くっ……二十五か。私はぐっと拳を握る。二十八歳が未だ奥の個室に籠っているなんて、彼女らは思ってもみないだろう。

 確かに、この会社は給料は良い。我々一般職の女子社員にも申し分ない待遇だし(ただ残業は多い)、総合職社員にも実力主義で出世が期待できる。社内結婚もすごく多くて、「え! あの人とこの人付き合ってたの?」などという驚きの感情はすでに抱かなくなった。

 ようやく世間話を終えたのか、トイレに静寂が戻ったのを見計らい私は個室を出る。手を洗いながら自分の顔を見ると、張りのない肌に、くたびれたスーツ、薄っぺらい体。同じ年齢の女性でも、もっと生き生きとした人はたくさんいる。自分には何か足りないのだ。それは何だろう。自覚していないことが、一番問題なのだ。

 昼休みが終わる五分前に自分の席へ戻る。

 きりのいいところまで仕上げた書類を確認していると、後輩の女の子二人組がきゃっきゃと騒ぎながら私の後ろを通り過ぎて行く。その声がさきほどまでトイレで聞こえていたものと同じだと気付き、とっさに私は警告を自身に発した。

 四月から、彼女らのいう「優良物件」がやってくるのは、うちの部署だった。


 その男は、確かに見た目は「優良」だった。

 きっちりと着たスーツには皺一つなかったし、髪の毛も堅すぎずまとめているのが好印象。三十歳には少し若いと思わせるような面持ちで、私たちを見回してにっこり笑った。

 問題は、この後だ。

「えー、関西支社からうつってきました、石尾優一です。小さいころからのあだ名は、いっしゃん、言われてまして、まあ、俺んとこ兄貴が二人おるんですけど、全員あだ名がいっしゃんなわけですから、誰かの連れがいっしゃん呼んだら兄弟三人おもろいくらいに揃うて振り向くっていうね、そんなこともありまして、いっしゃんて呼ばれんのはちょっとなあ思うてるんで、ふつーに主任って呼んでくれたら嬉しいなあ思います」

 いえ、そんなこと言われなくても、私たちはあなたのことを「主任」以外の名で呼ぶつもりはありません。

 その場にいた全員がそう思っていたに違いない。


 数日経って、あの人に似てるんだ、と私は膝をたたいた。あの、秋の味覚の名前の人。

「なんでやねん、これ納期すぎてるやん。ちょー、横山、横山やすし! こっち来い、見てみいこのあほんだら」

 ちなみに今呼ばれた横山くんは、やすしなどではなく、正則という立派な名前を親から貰っている。

「あの……主任、これは取引先には先日、了承をもらってまして……」

「知らんわ、そんなもん。俺の了承もらってへんやろが。なんでもかんでも自分の判断で決めんなや。そんなんやからやすしはあかん言われんねん」

 当の本人である横山くんは恐縮しながら話を聞いているものの、周りは笑いを堪えるのに大変だ。もちろん横山くんの失態が面白いのではなく、怒っているのにそうは見えない男のほうに笑っているのだ。

「申し訳ありません。今後は主任に報告を怠らないようにします」

「そうや、分かったらええんや。やすし素直やな。いや、俺もちっちゃいことでうるさあに言い過ぎたわ。悪かった悪かった。いや、やすしええ奴やわ」

 私の隣に座る、パートのおばちゃんは既に腹筋が崩壊したらしく、机に突っ伏したままだ。

「主任……お言葉ですが、私の名前は、やすしではなく、まさの……」

「なんやねん、細かいこと言いなやっ! ええやんか、あの、やすきよの、やすしなんやで? 誇りに思いいな、横山の家に生まれた自分を。大阪行ったら全員横山いう名字のやつは、やすしっていうあだ名の人生を送るんや」

「はあ……」

 納得のいっていない横山くんは、首をひねりながら自分の席へ戻る。

「今日はええ天気やなあ。そうや、駅前でもろうた居酒屋のビールのタダ券今日までちゃうかったかな、うわ、やばい。今日までやったらさすがに今日は無理やわ、まだ水曜日やもんなあ。水曜に居酒屋行ったって木曜に地獄待っとるだけやもんなあ……(ごそごそ)あー助かった、あさってまでやわ。あさって……金曜やん! これは飲みに行くしかあらへんわ。なあ、誰か行く!? タダ券俺の分しかないけど!」

 パートのおばちゃんはすでに窒息しかけのようで、肩で息をしていた。


 いつものように「期待しない」という警告は、瞬く間に消えていった。なぜなら、彼が私の対象範囲からキレイに逸れてくれたからだ。もちろん彼にだって選ぶ権利はあるのだから、大変失礼にあたる心情の変化なのかもしれない。でも、まだ二十代、自分も好きな人と結ばれたいという気持ちは強い。見合いで好きでもない人と付き合うとか、結婚とか、一応まだ考えてはいないのだ。

 なのに、どうも私の予測を超えた運命が、待っていたのだ。


 ある日、残業になってしまった私は、黙々とパソコンに向かっていた。何人の人から「お先に」という言葉をかけられたのかもう覚えていない。入社八年目ともなると、他の人に頼めない仕事というものも増えるのだ。これまであまり人を頼ってこなかった罰だと、自分を責めるときもある。でも昔のことを言っても仕方ない。

 カタカタと鳴らしてたキーボードから指を離して、ふと顔を上げた。周りでパソコンの電源が点いているのは、私のデスクだけだった。

「おつかれさん」

 急に声をかけられ、びくっとなる。

 主任は缶コーヒーを二つ手に持っていて、私の隣の席にどかっと座った。

「ほい。ちょい休憩しいな」

 差し出されたのは、微糖の缶コーヒー。私がいつも飲んでる銘柄だった。きっと偶然だろうけれど、嬉しくなって顔が綻ぶのが分かった。

「ありがとうございます。いただきます」

「なあ、聞こう思うてたんやけど、広報で一番長いのって、永原さん?」

 長いとは、社歴のことだろうととっさに思った。

「はい。短大卒業してからはずっとここなので。でも、広報でいえば、牧野さんのほうが長いです。私、入社してから三年は総務でしたから」

「ああ、そうなん。そうなんや……せやからかあ。なんか結構、総務とか経理とかのやり取りんときに、矢面に出てくれるから助かってたんや」

 そんなつもりはなかったが、改めて言ってもらえると嬉しいものだ。否定も肯定もせずに、曖昧に頷いた。

「いやでも、ほんまに思うてんねんで? 俺細かいこと、苦手やからそやってフォローしてくれる事務さんがおるのがマジで助かるねん。ありがとうな、ほんま」

 普段の口調だけれど、優しいそれに涙が出そうになった。一緒に働いて間もないのに、こうやって見ていてくれる人はいるのだ。泣きそうなのをごまかすように、コーヒーを一口飲む。普段は甘く感じる微糖を、今日はひどく苦いと思った。

「あのさあ、全然関係ないねんけど……」

「はい?」

「あのー、永原さんって彼氏おんの?」

 はい?

 心の中でした二度目の返事は、大変に動揺を含んでいた。その言葉を発した張本人を、思わずじっくりと見てしまう。少しだけ合わさった視線同士は、気まずさのためか相手から外された。

「どうなん?」

「……どうも、何も。プライベートなことなので」

 別にいないというのが悔しいわけでも、恥ずかしいわけでもない。そもそもそういった質問は、セクハラにあたるはずだ。

「……あ。あー、そうか。やってもうた。そうやんなあ、うわ、セクハラやん」

 急に自分の犯したことに気づいたようで、開封されていないコーヒーをぶんぶんと振り回す。

「ごめんごめん。そんなふうに取られるとは思うてなかってん」

「いえ、セクハラとは思ってませんから、大丈夫です」

「あーあ、何やってんねん、ほんまに。へこむわあ。なんなんやろ、自分で自分がやんなる」

 大きな体を小さくしている姿に、思わず可笑しくなって笑った。職場でこんなにリラックスして笑ったの、いつぶりだろう。

 二十八歳で、社歴は八年目。先輩と呼ばれることも多くなって、大きなプロジェクトのフォローには自分が割り当てられることがほとんどだった。そのこと自体は光栄だけれど、残念ながら私にはキャリアアップの願望がなかった。とにかくみんなの足手まといにならないように、仕事にミスがないようにと、隙間なく神経を使う毎日だった。後輩の指導をまかされる機会も多く、自分が教えた子たちがどの程度の評判なのか、それも気になった。そんなんだから社内に気を許せる人なんて僅かで、年数を重ねるごとに重荷が増えるばかりだった。

「永原さん、笑うてる……?」

「すみません、でも、おかしくて……」

「なんや、笑うんや……だっていっつも全然笑えへんやん。俺めっちゃ一生懸命喋ってんのにさあ」

「……へ?」

 しまった、という顔が見えた。主任は首筋のあたりを大きな手でさすりながら、バツが悪そうに俯く。

「そうやんか。俺がどんだけあほなことベラベラ喋ってても、ツンとした顔してやなあ、パソコンばっかり見てるやん。俺いっかいでええからその、永原さんのパソコンになりたい思うたことか。そんな精密機械のどこがええんやと思うて」

「ちょ、え? パソコンになりたいって……」

「ものの例えやんか。ほんまになりたいわけちゃうやん……てゆーかそんなことが言いたいんじゃないねん。ちっとも、俺の話なんか聞いてないんやって思うてたから、俺どんどん、あほになってんねんで」

 つまりこの人は、私の気を引きたくて、あの関西弁丸出しの話術を繰り広げていた、ということか。

 私より二つも年上のくせに。もういい大人のくせに。主任のくせに。

 さっきから上目遣いで私のことを見ているこの人は、子どもがそのまま大きくなっただけなんだと、そう思った。

 同時に、ちょっと可愛いなこの人、とも思った。男に飢えているからだと言われれば、そうだとも思えなくもないところが、悲しい。

「あかんわ、もう、俺あかんねん。こういうの、マジで慣れてへん」

「こういうのって、何ですか?」

「……好きな子口説くのとか、あかんねん」

 好きな子。

 それは、紛れもなく私のことだと、自惚れていいんだろうか。

「これって、口説いてるんですか?」

「な……なんや、全然、伝わってへんやん……いやや、こんな自分がいやや……」

 自分の上司で、年上の人がこんなになっている姿を見て、ついいじめたくなってしまうのは私の性格が悪いからなのだろうか。

 ふらふらとしながら立ち上がった主任は、自分の席に戻りのろのろと仕事を再開した。


 どうもタイプミスが多い。頭の中で文章を考えながらでも、普段はこんなに多くない。仕事に集中できていない証拠だ。さきほど、主任にあんなことを言われた所為だ。諸悪の根源をちらりと見ても、さきほどの様子はもう改善され、真剣に書類に向かっていた。

 もう、無理だ。

 そう思った私は静かにパソコンの電源を落とし、机の上を片付ける。

「お先に、失礼します」

 静かに声をかけると、その人はぱっと顔を上げた。よほど集中していたようで、私の帰り支度には気づいていなかったようだ。

「あ、もう、帰んの?」

「はい。おつかれさまでした」

「あー……おつかれ」

 少し期待してしまった。もしかしたら追いかけてきてくれるかもしれない、と。追いかけてきてほしいのかと問われると、よく分からない。久しぶりにモテている自分に酔いたいのかもしれない。いや、ただあの空気に耐えられなくて、こうしているのかもしれない。

 いろいろと言い訳をしながら、もう一台しか動いていないエレベーターのボタンを押す。

 よく考えてみれば、信用はできない。だって彼と一緒に仕事をしたのは僅か一ヶ月弱だ。その短い期間、こちらでの仕事を覚えることに忙しかったはずの彼が、どうして私なんかに目をとめて好きになる暇があったのだろう。しかも相手が同じ部署内なんてリスクも大きい。ざわざわと鳴りだす心臓に焦る。もしかして、単なる遊び相手にされたのでは……。

 続きを考えるのが怖くて、無意味にエレベーターのボタンを連打する。早く来て、と声を出さずに訴えるように。

「なあ」

 エレベーターの扉が開いたと同時に、後ろから声がした。

「俺も帰るわ」

 振り向くと、鞄を持った主任が立っていた。慌てて支度をしたのか、鞄のチャックが開いたままだった。

 エレベーターはもちろん二人きりで、私は迷いなく一階のボタンを押す。

「永原さん?」

 見上げると、人一人分空けたところに、主任がいる。

「プライベートなことやとは思うねんけど、教えてくれへん?」

「何、ですか?」

「彼氏いるん?」

 別にもったいぶるようなことじゃないって、分かっている。自分にそれほど価値がないことも知っている。そんなの、二十八年分の経験で思い知ってきたのだ。

「なんでそんなに、知りたいんですか?」

「……あきらめるためやんか。その歳で彼氏おるゆうたら、そのうち結婚するやろ? もう結婚されてもうたら何も、無理やん。手出しちゅうか、略奪とか?俺には無理やし。好きな人には幸せになってほしいし……せやから、可能性がないなら、早いうちにあきらめて仕事に集中したいねん」

 だから、教えてくれや。


 胸をぎゅっとつかまれたような、告白だった。何年ぶり、いや、初めてかもしれない。男性からこんな言葉を言われたのは。いつだって相手の気持ちと自分の気持ちは、すれ違ったり、重さが違ったり、上手くいかなくて短い付き合いで終わっていた。

 でも私はどこか冷静だった。「期待しない」警告が発令されていたのもある。確かにそうなのだが、私の対象範囲内に入ってきたとたん、男としてよりも人間としてどういう人なのか見極めようとしていた。

「でも、彼氏がいるいないよりも、前の問題があると思いません?」

「何やねん」

「その、私が、主任がタイプかどうかなんて、分からないじゃないですか」

 自分が何を言ってるのか、大変自意識過剰な発言だと、音になってから気づいた。

「あとそれに! 私だって、主任の思うような女じゃないと思うし……だって一ヶ月しか一緒に仕事してないんですよ? 私も、主任も、お互いのこと、何も知らないし……」

「知ればいいやん。だから教えて言うてるんやん。それに、俺は、永原さんに彼氏おらへんって分かったらやな、めっちゃ口説くで? さっきみたいのはもう忘れてくれ。今日から恋愛マニュアル的な本を読みあさってやな、君がめろめろになるくらいの口説きテクを見せたんねん。そっちに情熱燃やすから仕事は疎かになるかもしらんが、うちにはやすしがおるから大丈夫や。あいつはええ奴やからな!」

 言い切った後、主任の息は少々乱れていた。

 私は何も言い返せない。エレベーターは、一階に到着していた。


「教えてくれるまでここをどかへん」

 そう言って主任が仁王立ちしているのは、会社の玄関脇にある駐輪場。私は自転車通勤していた。主任の背後に、私の愛車が停めてあるのだ。

「主任、やり方が幼稚すぎます……」

「確かに俺もそう思う。なんでこんなことしてんのか、ちょっとあほやなとは思うが」

 完全に教えるタイミングを逃したとも言える。さっさと教えてしまえば良かった。主任の強い気持ちを知ったあとだと、教えたあとどうなるかが怖くて今更言えない。

「男おるならおるで、きっぱりあきらめるわ。別にセクハラ主任やて人事でも総務でも訴えてもうてかまへん。けど、社内恋愛禁止ちゃうんやし、おらへんならチャンスくらいくれや」

 はあ、と息を吐く。

「……本当に、私の、どこがいいのか分からないのですが」

「顔めっちゃタイプや。仕事がんばってるとこも好きやし、毎日弁当作ってきてるとこも好きや!」

 この人……恋愛マニュアル本読んで口説くとか言ってたくせに、ど直球に告白してる……。

 夜で良かった。多分私の顔は真っ赤だ。

「ほれ、めっちゃ恥ずかしい告白したったで。それに比べて、彼氏おるおらん言うだけなんか、何があかんねん。これ以上恥ずかしいことなんか世の中どこ探してあらへんから、安心して教えんかい」

「いません! いませんから、これ以上、何も言わないでください!」

 私の口は、考えるよりも先に叫んでいた。

「主任、いくら社内恋愛禁止じゃないからって、会社の中では節度を守ってください! 誰にどこで何聞かれてるか分かんないし、変な噂たてられて困るのは下の人間なんですから!」

 そこどいてください!と放心状態の主任を押しやり、自分の自転車を出す。

 ぺこりと頭だけを下げ、自転車に跨がり猛スピードでいつもの道を走り抜ける。


 もうすぐ五月になる季節、夜でも必死になって自転車をこぐと少し汗をかいているのが分かった。でもおそらくこれは自転車に使うエネルギーからくるものだけが原因ではない。きっとあの男も影響しているのだ。私はどくどくなと鳴る心臓をどうにか落ち着けようと、会社を十分に離れた場所からスピードを緩めた。

 そう遠くない未来に、私と主任が並んで歩く姿を想像してしまう。

 いや、違う、まだ、だめ。簡単にあの男の口車に乗ってはだめだ。私の妄想よ、ストップだ。

 何しろ付き合おうとなんて言われたわけではないのだ。口説く宣言はされたが。それがどうした、私だってそれなりに恋愛経験はあるのだ、口説かれたことは……あったかな? なかった気もする。ちょっと冷静になってよ、事故ったらどうするの。私が死んだら、主任泣いてくれるかな。それとも、別の子を好きになってあんなふうに告白するのかな。

 思考が一度ぶっとんだところで、赤信号にあたり自転車を停める。

 ハンドルを握る手が、少々震えていた。嬉しいからなのか、単なる動揺からなのか、今の自分には分からない。

 でも、どうも口元が緩んで仕方がない原因を、今は知りたくないと思ってしまうのだった。

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