悪魔のルール
『悪魔が……悪魔がいるんだよ! 窓の外に!』
それは突然のことだった。
携帯電話が鳴り、友人からの着信を受け取った僕は、そんなとんでもない第一声を受けたのだった。
「はぁ? 何言ってんだ、田中」
当然、僕は意味がわからず間の抜けた声を返す。
しかし彼は、冗談が好きなタイプではないと知っていた。
『信じてくれよ! どうしよう俺、助けてくれよ!』
鬼気迫る勢いとはこのことだ。
電話越しにも感じられる、田中の混乱ぶり。とりあえず落ち着かせよう。僕はそう思った。
「落ち着け、田中。今まで黙ってたが、実は俺も見えるんだよ。悪魔が」
『……それは本当か?』
僕の突然の告白。
田中はとりあえず気を鎮めてくれたようではある。
もちろん、悪魔が見えるなんて嘘だったけど。
「俺だけじゃない。みんな見えてるんだ。だけど見えないふりしてる。どうしてだと思う?」
『どうしてって……わかるわけないだろ!』
田中は堪え切れないといった様子で叫んだ。
まずい。またパニックを起してしまいそうだ。焦った僕はさらに続けた。
「悪魔はな、自分たちに気付いた人間を食べるからさ」
『な――なんだって!』
絶叫。それは悲鳴に近かった。
おいおい、刺激してどうする僕。面白がってる場合じゃないぞ。
「ちょいまて! だからなんだよ、見えないふりをするんだ。それがルール。そうすれば奴らは何もしない」
『そ、そうか。そういうことだったのか』
やっと意図が伝わったらしい。
田中は落ち着きを取り戻し、悪魔に気付かれないよう平静を保とうとしていた。
どうせ幻でも見てるのだろう。幻が襲ってくることなどない。だから僕はそんな嘘のルールを作った。
「よし、問題解決だな。切るぞ」
自分で言うのも何だが、実に手際のよい対処だった。
いっそ心理カウンセラーにでもなってしまおうか。そんな妄想をしていたせいで通話を切るのを忘れていた。
『なあ、まだ切らないでくれよ……いま舌打ちしなかった?』
「いやいや、まさか! で、どうしたんだ」
情けない声で懇願する田中を放っておけなくなって僕は聞いた。
そういえば田中には千円の借りがある。貸しを作っとくのも悪くないな。なんてことは考えていない。うぇっへっへっへ!
『なんか邪悪な笑い声が聞こえたんだけど』
「それは悪魔の声だ! まあ気にするな」
思わず口から漏れたらしい。気をつけねば。
とりあえず納得したのか田中は後を続けた。
『さっきお前も悪魔が見えるって言ったけど、どんな姿をしてた?』
げ。そう来たか。
まだ話を完全に信じたわけではないらしい。僕を試すつもりだろう。僕は必死になって考えた。ここで嘘だとばれたら全てが終わる――千円を返さないといけなくなるじゃないか!
「そ、そうだなぁ。なんていうか、もうそれはいかにも悪魔っていう感じで、うまく言葉にはできないな」
僕はしどろもどろになりながらも、どうにか答えた。
どんな姿してるかなんて分かるはずがない。適当に誤魔化すしかない。
『なんかうまく逃げられた気がしなくもないけど』
「ないならいいじゃんか。あれ、だめか。わかんねー。あははは」
今度は笑って誤魔化す。笑いは世界を救う。スマイルは〇円だ。
『……まあ、いいか。見えないふり、がんばるよ』
「おう! がんばれ! あと借りてた千円はこれでチャラな」
最後の一言を聞いた怒ったのか、田中はぶちっと、突然電話を切った。
「なんだよあいつ……ケチめ」
嘆かわしい奴だ。
どうやら田中は恩義ってものを知らないらしい。日本人の、侍の魂はどこへいった!? 僕は心底時間を無駄にしたような気がしてため息をつく。
しかし、急に悪魔がいるだとか有り得ないこと言い出して、田中はどうしてしまったのだろう?
がたっ。
何かが窓に当たったような音がする。僕は反射的にそちらを向いた。
「…………」
悪魔。
他にどう言えばいいのだろう? 体は黒くて、角が生えてて、コウモリみたいな翼があって、矢印みたいな形の尻尾が伸びている。映画や漫画なんかに出てくる悪魔、そのものだった。
そんなやつが窓の外に張り付いてじっとこちらを見ているのだ。
やばい! 本能的に感じ取った僕は携帯電話を取る。誰にかけよう? 警察? まさか、信じてくれるわけない。そうだ、田中。しかしいくらコール音が鳴っても田中は電話を取らない。まだ怒ってるのだろうか? 相当ケチだ。
仕方なく別の友達の、鈴木に電話をかけた。数回のコール音のあと、相手が出る。僕はとにかく必死で叫んだ。
「悪魔が……悪魔がいるんだよ! 窓の外に!」
そう言ってから思い出した。
田中も悪魔がいると言って僕に電話をかけた。そして、最後に突然電話が切れてしまい、繋がらなくなった。
田中が言っていたのは本当のことだったとしたら……。
「そこの人間。我を中に入れるのだ。でないと貴様を食うぞ」
悪魔が喋った!
いや、もうそんなことで驚いている場合ではない――僕を食べるだって!?
パニック寸前の僕に耳に、聞き覚えのある声が届く。
『はぁ? 何言ってんだよ、お前』
鈴木だった。
そういえばまだ電話は繋がっていた。僕は無我夢中でわめき立てる。
「信じてくれよ! どうしよう俺、助けてくれよ!」
『落ち着けって。今まで黙ってたが、実は俺も見えるんだよ。悪魔が』
「……それは本当か?」
突然の鈴木の告白。
僕は半信半疑で聞いた。適当にあしらおうとしてるかも知れないからだ。
『俺だけじゃない。みんな見えてるんだ。だけど見えないふりしてる。どうしてだと思う?』
「どうしてって……わかるわけないだろ!」
もったいぶる鈴木に僕は苛立ちをぶつけた。
こうしてる間にも悪魔が僕を襲ってくるかも知れないのだ。僕の必死な様子に気付いたのか、鈴木はすぐに答えた。
『悪魔はな、自分たちに気付いた人間を食べるからさ』
「な――なんだって!」
食べる。
そうだ。さっき悪魔は僕を食べるとか言っていた! もうお終いだ!
僕は悲鳴のように叫んだ。それを聞いた鈴木が慌てたように続ける。
『ちょいまて! だからなんだよ、見えないふりをするんだ。それがルール。そうすれば奴らは何もしない』
「そ、そうか。そういうことだったのか」
僕は少しほっとして落ち着きを取り戻す。
食べられない方法があるのなら、まだなんとかなりそうだ。安心した僕に鈴木は言う。
『よし、問題解決だな。切るぞ』
鈴木は無情にもさっさと電話を切ってしまった。
まだ聞きたいことがあったのだが、まあ対処法がわかっただけでも良しとしよう。
「もう一度言うぞ、人間。この窓を開けるのだ。さもないと食う」
うるさいなぁ、二回も言わなくてもわかるって。
僕はそう答えようとして、はっと口をふさぐ――悪魔は見ないふりをしないといけない。
だけど、と僕は思った。
(窓を開けないと食べるつもりだぞ、この悪魔!)
矛盾してるじゃないか。
窓を開ければ悪魔が中に入ってくるだろうし、奴の声を聞いたことになってしまう。でも開けなかったら奴は僕を食べると言う。
(どうしたらいいんだよ!)
半狂乱になって僕は髪を掻き毟った。
おかげで髪の毛が数本抜けちゃったじゃないか、ハゲたら訴えるからな、悪魔め。
「あと一分やろう。それまでに開けるのだ」
げ。ついにカウントダウンされてしまった。
僕の命も残り一分。遺言書を書いている暇もないぞ! いや、問題はそこじゃないでしょう。
(なんて一人でノリ突っ込みしてる場合じゃない。答えを出さないと)
そういえば田中はどうしたんだろう。
きっと田中も、この悪魔のルールに頭を悩ませたに違いない。そう考えて思い出した。あいつは最後に見ないふりをがんばる、と言っていた。つまり窓を開けなかったのだ。それからどうなった? 電話は突然切れて、繋がらなくなった。
(田中は悪魔に食べられたんだ!)
窓を開けないで、悪魔を見ないふりしてはいけないのだ。
君の尊い犠牲は無駄にはしないよ、田中。僕は決心すると窓に近寄った。悪魔の赤い目が僕を見ている。正直、気持ちのいいものじゃない。
「開けるから食べないでね」
僕はそう言って鍵を外した。
恐る恐る窓に手をかける。そのとき、まだ手にしていた電話が鳴った。田中からの着信だ! 食べられたんじゃなかったのか?
「残り十秒」
悪魔が冷たく言い放つ。
僕は焦って窓を開けながら田中の着信に出る。
「もしもし、田中? 食べられたんじゃないのか?」
『何言ってるんだよ。お前が、借りた千円チャラとか、わけわかんないこと言うから怒って切っちゃったけど、やっぱりそれを謝ろうかと思って』
そういえばあいつ、冗談が好きなタイプじゃないもんな。
窓から冷たい風が入り込んでくる。
涼しくて心地よい。新鮮な空気が部屋を洗浄するようだ。気持ちがいい――目の前の悪魔が部屋に入り込んで来ることを除いては。
『開けなくて正解だったよ。一分経ったら諦めてどっか行っちゃったんだ。悪魔でもルールは破らないんだな――お前のおかげだよ、ありがとう』
田中の言葉が遠くに感じられた。
「ごめん、田中。やっぱり千円は返せそうにないわ」
それが僕の最後の言葉。
欲望は人の心を惑わせる。それこそが本当の悪魔なのかも――。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
悪魔、という単語を思い付いて、思うままの結果がこの作品です。
悪魔という単語が好きです。何故でしょう。
では、また次回作でお会いしましょう。