愛憎表現
愛憎という言葉を作った人は、愛と憎しみが隣り合わせであり、表裏一体ではないとよくよく理解していたと僕は考える。
何故ならば、地面に落ちたコインのように一方が表立っているのではなく、また裏返っているわけではない。信号機のように絶え間なく点滅するものなのだ。
だからこそ、僕は恋人である朱美を愛したり憎んだりしていた。
心変わりのように重くはなく、気まぐれのように軽くはない。
ましてや真実の愛を見つけられなかったわけでもない。
朱美と生きていたのだ、愛しながら、憎しみながら。
「勇人なんて、いつだって死んでいいの。私は悲しんだりしないんだから」
ひどいことを平気で言えるのはどうしてだろう。
脳に何かしら欠陥があったのかもしれない。たとえば自制心とか、良心とか。そういうものが欠如していたとしか思えなかった。
時には暴力を振るわれた。殴られて、蹴られて、首を絞められたこともあった。
その行為が終わるたびに、朱美は泣きながら僕に謝った。
今にして思えば、朱美なりのコミュニケーションだったのだろう。
彼女自身、そういう環境で生きてきたから。
殴られているときは朱美を憎んだ。
思わずに睨むとますます力を強く込められた。
だから死んだ魚の目で虚空を見つめることにした。
「死んじゃえ」
朱美のほうは僕を憎んでいたのだろうか。あるいは愛してくれていたのだろうか。
殴っている間は僕を憎んでいたに違いない。
でも謝っているときはどうだろう。
「私だって、こんなことしたくない」
全部、僕が悪いと押し付けた。
だけど別れたいとか離れたいとか。
一切考えられなかった。
憎んでいたけど愛していたのだ。
愛憎が繰り返していたのだ。
そんな朱美が死んだのは昨日だった。
肉体的には一週間前に死んだけど、僕としては昨日のことだった。
あるいはまだ生きているのかもしれない。
学校の屋上から、空を飛ぼうとして、重力に負けて、破裂した。
まだ十七才で、何が原因かは分からない。
直接、遺体を見たのが昨日だった。
落下したのに、綺麗な顔をしていた。
白い服を着ていた。手を組んでいた。
いつも恐ろしい顔をして殴っていたのに、死んだときは穏やかだった。
なんだろう。凄く腹が立って、凄くもやもやした。
甘ったるいくらいの弱音とすっきりしない苦味のような心細さをブレンドした感情を、悲しみと表現できたのなら、僕は朱美を愛していたと自信を持って言える。
だけど同時に憎んでいた。ほっとしたのだ。朱美が死んでくれて。
暴力から逃れられたからではない。
楽になったと思えるのだ。
朱美は僕に暴力を振るう時、いつだって死にそうな顔をしていたのだから。
さようなら朱美。
僕の青春だった。
自殺する勇気はないから、後を追うつもりはないけど、いつかまた会おうね。
再会したらまた僕を殴るかな。
それでもいいよ。
骨になった朱美は墓に埋められた。
それが今日のことだ。
昨日、朱美が死んであっという間に葬られた。
なんだろうね、寂しいよ。




