EP 5
川辺の悲鳴と兎の武闘家
ひとまずの飲み水と、なけなしの10ポイントを得た勇太だったが、状況が好転したわけではない。
彼は、見通しが利き、いつでも逃げ込める「水」がある川沿いをルートに選んだ。
拾い直した樫の棒を杖代わりに、背中にはゴブリンから剥ぎ取った粗末な短弓。
弦の張りも弱く、矢羽もボロボロだ。弓道経験などない自分に使いこなせるとは思えないが、丸腰よりは精神安定剤になる。
澄んだ川面を眺めていると、ふと、日本の穏やかな日常――大学の講義、道場の稽古、コンビニの喧騒――が脳裏をよぎり、胸が万力で締め上げられるような痛みを覚えた。
(帰りたい……。でも、帰り道なんてどこにもない)
唇を噛み締め、感傷を振り払う。
ここで立ち止まれば、死ぬ。生きると決めた以上、足を進めるしかない。
川が大きく蛇行し、巨大な岩場で視界が遮られた場所に差し掛かった、その時だった。
「―――いやぁぁぁっ!」
空気を引き裂く、甲高い子供の悲鳴。
そして、それに重なるように聞こえる、あの耳障りな下卑た嘲笑。
「!?」
勇太は弾かれたように顔を上げた。
距離は近い。岩場のすぐ向こうだ。
(誰かが襲われてる! 子供!?)
恐怖が足を止めようとする。だが、それ以上に「助けなければ」という衝動が、恐怖をねじ伏せて体を突き動かした。
あの銃撃戦の時、ただ震えているだけだった無力な自分。
医者になると誓った日の記憶。
そして今、血に濡れた手で「生きる」と決意した自分。
「くそっ、間に合え……!」
勇太は樫の棒を握りしめ、砂利を蹴散らして全速力で走った。
岩場を回り込み、開けた河川敷に出る。
そこには、残酷な処刑ショーの幕開けのような光景が広がっていた。
四体のゴブリンが、半円を描いて獲物を包囲している。
中心にいるのは、長い耳を持つ二人の幼い子供。獣人だ。
そして、その子供たちを背に庇い、二本のトンファーを構えて孤独な戦いを挑む少女がいた。
彼女もまた、白く長い兎の耳を持っていた。
年齢は勇太と同じくらいか。愛らしい顔立ちは恐怖に歪むことなく、決死の覚悟で引き締まっている。
「シッ!」
少女が短く呼気を吐く。
速い。
飛びかかってきたゴブリンの棍棒を、左手のトンファーで受け流すと同時に、右のトンファーを回転させ、遠心力を乗せた裏拳をゴブリンの鼻面に叩き込む。
(強い……! 武術の心得がある動きだ!)
勇太は走りながら目を見張る。
だが、多勢に無勢だ。彼女は子供たちを守るためにその場を動けず、持ち味であるはずのフットワークを封じられている。
ジリジリと包囲網が狭まる。
一体のゴブリンが、少女の死角――背後の子供へ向かって、汚れた剣を突き出そうとした。
「――危ないッ!」
勇太は喉が裂けんばかりに叫び、トップスピードのまま突っ込んだ。
ブレーキはかけない。勢いを殺さず、手にした樫の棒を、薙刀の「横薙ぎ」の軌道で振るう。
狙うは剣を持った腕!
「グギャ!?」
死角からの奇襲。
ゴブリンは反応できず、勇太の渾身の一撃を脇腹に受けた。
バキッという骨の折れる音と共に、緑色の体が宙を舞い、派手な水音を立てて川へ転がり落ちる。
「えっ!?」
突然の乱入者に、少女――キャルルが驚愕し、長い耳を跳ねさせた。
「加勢します! そっちは任せた!」
勇太は棒を構え直し、残る三体のゴブリンと対峙する位置へ滑り込む。
これで状況は、一対四から、二対三へ。
しかも、彼女が子供を守る負担を、勇太が壁になることで減らせる。
「っ、……はい! お願いします!」
キャルルは一瞬で状況を理解し、鋭い眼光を取り戻した。
勇太の参戦でフリーになった彼女は、本来の動きを取り戻す。それはまるで、白銀の疾風だった。
「ハァッ!」
地を蹴り、一足飛びでゴブリンの懐へ。
反応の遅れたゴブリンの顎をトンファーで打ち上げ、無防備になった鳩尾へ強烈な前蹴りを突き刺す。
(すごい……!)
だが、感心している余裕はない。
残る二体のうち、一体が勇太に標的を定め、棍棒を振り上げて襲いかかってきた。
怖い。心臓が破裂しそうだ。
だが、ゴブリンの動きが、さっき初めて戦った時よりも「遅く」見える。
(見えてる……動きが大きい!)
勇太は半身になり、棍棒を紙一重でかわす。
相手が体勢を崩した瞬間、薙刀の基本「突き」を繰り出した。
狙うは、解剖学的な急所――喉仏(甲状軟骨)。
樫の棒の先端が、正確にゴブリンの喉に吸い込まれる。
「ガッ……!」
気道を潰され、ゴブリンがもがき苦しむ。
その無防備な背中に、疾風が迫る。
勇太の動きに呼応したキャルルが、体を独楽のように回転させ、遠心力を乗せた回し蹴りをゴブリンの側頭部に叩き込んだ。
ドゴォン!
ゴブリンは白目を剥き、受け身も取れずに崩れ落ちた。
「ギ、ギィ……ッ!」
最後の一体は、仲間が一瞬で壊滅した光景に恐れをなしたのか、情けない悲鳴を上げて森の奥へと逃げ出した。
深追いはしない。今の最優先事項は、子供たちの安全だ。
「はぁ……はぁ……、大丈夫……?」
勇太はその場に膝をつき、肩で息をしながら振り返る。
緊張の糸が切れ、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
「あ、ありがとうございます! ……本当に、助かりました」
キャルルはトンファーを腰のベルトに素早く収めると、綺麗な所作で深々と頭を下げた。
後ろで震えていた子供たちも、おずおずと勇太を見上げている。
「私はキャルルと言います。この子たちの姉です。……貴方は?」
「えっと……勇太。中村、勇太」
名乗った、その時だった。
【ピンポンパンポーン♪】
あの間の抜けたファンファーレと共に、ボードが出現する。
【善行ポイントが 20 P 加算されました】
【現在所持ポイント: 30 P】
(20ポイント……殺した時の倍、か)
命を奪うより、命を救う方が価値が高い。
その事実は、医者を目指す勇太にとって、この狂った世界における唯一の救いのように感じられた。
「ユウタさん、ですね。……あの、お願いがあります」
キャルルは顔を上げ、少し潤んだ赤い瞳で勇太を真っ直ぐに見つめた。
長い耳が、期待と不安でピコピコと揺れている。
「もし行く当てがないのであれば、私たちの村、『ルナキャロット村』に来ていただけませんか? 命の恩人に、ぜひお礼をさせてほしいんです」
「……村?」
「はい。ここからそう遠くありません。安全な寝床と、温かい食事を用意できます」
森の中で独り、孤独と恐怖に押しつぶされそうになっていた勇太にとって、その言葉は女神の祝福以上に輝いて聞こえた。
安全な場所。人(獣人だが)の温もり。
「良いの? ……怪しい余所者だよ?」
「ふふ、子供たちのために命懸けで飛び込んできてくれた人を疑ったりしません。私の『武人の勘』が、貴方は信頼できると言っています」
キャルルは花が咲くようににっこりと笑った。
その屈託のない笑顔は、この殺伐とした異世界で勇太が初めて触れた、心からの「善意」だった。
「……ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」
勇太は差し出されたキャルルの小さな手――しかし、硬いマメのある武道家の手――を握り返した。
所持ポイント30P。
そして、頼もしい仲間と、当面の目的地。
中村勇太の異世界サバイバルは、ここから本格的に動き出しそうだった。




