EP 2
見知らぬ森とゼロポイント
光の奔流が止み、内臓をかき回されるような浮遊感が唐突に消え去った。
「うぐっ……!」
ドサッ、という鈍い音と共に、中村勇太の体は地面に投げ出された。
受け身を取る間もなかったが、トラックに撥ねられた時に比べれば痛みはない。
だが、次に彼を襲ったのは、暴力的なまでの「匂い」だった。
むせ返るような濃密な土の香り、発酵したような草いきれ、そして得体の知れない獣の体臭。消毒液と薬品の匂いに慣れた医学生の鼻腔を、それら生の自然の臭気が容赦なく蹂躙する。
「……げほっ、……どこだ、ここ……?」
恐る恐る目を開け、体を起こす。
視界を埋め尽くしていたのは、常識外れに巨大な樹木群だった。ビルの3階ほどもありそうな太い幹、それを覆い隠すように絡みつく奇怪な色の蔦やシダ類。
頭上を仰げば、幾重にも重なる緑の天蓋の隙間から、見たこともないほど鮮烈な青空と――ぼんやりと赤みがかった、奇妙な太陽が見え隠れしていた。
耳に届くのは、鳥とも爬虫類ともつかない不気味な鳴き声と、風にざわめく葉擦れの音だけ。
さっきまでの、タバコ臭い白い空間とはまるで違う。
『あんたを剣と魔法の異世界、『アナスタシア世界』にご招待。よかったねぇ、パチパチ』
あの、やる気のない女神ルチアナの声が脳裏に蘇る。
「異世界……本当に……?」
夢ではない。肌にまとわりつく生暖かい湿気も、掌に食い込む腐葉土の感触も、五感のすべてが「ここは地球ではない」と叫んでいた。
トラックに轢かれて死んだはずなのに、五体満足で生きている。本来なら歓喜すべき状況だが、今の勇太の心を支配していたのは、底知れぬ混乱と、じわじわと湧き上がる恐怖だった。
(落ち着け、落ち着け中村勇太……! まずは状況確認だ。パニックは死亡への直行便だ、ボーイスカウトで嫌というほど習っただろう!)
彼は浅く速くなっていた呼吸を意識的に深くし、医学部で叩き込まれた生理学の知識を総動員して心拍数を下げにかかる。
そうだ、あの適当な女神が、一つだけ役に立ちそうなものを寄越したはずだ。
「……スキル! 『地球ショッピング』……!」
まさに、藁にもすがる思いだった。
ここがどこであれ、水と食料、それに身を守る最低限の道具さえ手に入れば、生存確率は跳ね上がる。
「地球ショッピング! ……起動!」
発動の仕方は聞いていなかったが、強く念じて叫んでみた。
瞬間。
フォン、という微かな電子音と共に、勇太の目の前の空間に、半透明の青白いインターフェースが浮かび上がった。
周囲の原始的な森の風景とはあまりに不釣り合いな、洗練されたSF映画のようなホログラム画面だ。
「お、おお……!」
掌に汗が滲む。希望が湧き上がった。
画面には親切なアイコン付きで、『コンビニ』『スーパー』『ホームセンター』『ドラッグストア』『武器・ミリタリー』といったカテゴリーが並んでいる。まさに、地球の物流そのものだ。
(すごい! これなら、なんとかなる……!)
勇太は震える指先で、一番上の『コンビニ』のアイコンに触れた。
画面が切り替わり、見慣れた商品がリストアップされる。おにぎり(鮭)、サンドイッチ(ミックス)、500mlペットボトルの水……。
商品の横には、日本円ではなく『P』という単位の数字が表示されていた。これがルチアナの言っていた「ポイント」だろう。おにぎりは一つ『150 P』らしい。
喉が渇いていた。まずは水だ。
勇太は逸る気持ちを抑え、水の購入ボタンをタッチした。
『――ブブーッ』
無機質なエラー音が鳴り、画面中央に赤い警告ウィンドウがポップアップした。
【エラー:所持ポイントが足りません】
「え?」
思考が凍りつく。
勇太は慌てて視線を画面の隅に向けた。そこには、現在の彼のステータスが小さく表示されていた。
所持ポイント:0 P
「……は?」
ゼロ。完全なるゼロだ。
何度か他の商品を試してみるが、結果は同じ。どこのカテゴリーを開いても、今の勇太にはうまい棒一本すら買えない。
「そ、そういえば……あの女神、言ってた。『ポイントは必要だけどね!』って……」
だが、肝心の「ポイントの入手方法」は、「向こうで確認して。たぶん載ってる」という適当な言葉で片付けられていた。
(あの、アル中やさぐれ女神ぃぃぃ……ッ!!)
「ふざけんなよぉぉぉぉぉ……!」
希望の頂点から、絶望の奈落へ。
勇太はその場に膝から崩れ落ちた。チート能力は確かに手に入れた。だが、それは今の彼にとって、砂漠の真ん中で見つけた鍵のかかった冷蔵庫と同じだった。
何が潜んでいるか分からない未知の森で、丸腰同然。
「……いや」
絶望に押し潰されそうになったその時、背中に食い込むリュックの重みが、彼を現実に引き戻した。
「まだ、ある……!」
慌ててリュックを下ろし、中身をぶちまけるようにして確かめる。
あった。
医学部の分厚い専門書、十徳ナイフ、サバイバルシート、空っぽの水筒、簡易応急セット、そして“あの事件”以来、肌身離さず持ち歩いていたサバイバルグッズ入りの小さな缶。
これら、彼が地球で積み上げてきた「日常の備え」だけが、この異世界で唯一、確かな味方だった。
「……正真正銘、ゼロからのスタートってわけか」
乾いた笑いが漏れた。だが、いつまでも絶望してはいられない。
恐怖はある。足も震えている。だが、ここで野垂れ死ぬわけにはいかない。医者になるという誓いも、まだ果たせていないのだ。
何より、あのジャージ姿の女神に、酒のつまみにされながら「ほら、やっぱりすぐ死んだ~」なんて笑われるのだけは、死んでも御免だ。
(まずは水の確保。それから安全な場所の確保。そして……ポイントを稼ぐ方法を見つけ出す)
勇太は十徳ナイフを握りしめ、カタンとハーモニカが音を立てたリュックを、再びしっかりと背負い直した。
今はただの重り文鎮でしかない医学書が、皮肉にも彼の背中を支えていた。
勇太は警戒心を最大まで高め、ゆっくりと立ち上がる。
彼が歩き出すと同時に、役立たずの電子ボードは、用済みとばかりに空間に溶けて消え失せた。
未知の森「アナスタシア世界」。彼にとっての長くて過酷なサバイバルが、今、幕を開けた。




