第3章:力の芽生え
1
「そろそろ、第二の精霊と契約できるかもしれないわね」
エクレールの研究室で、一週間の訓練を終えた私に、彼女はそう告げた。毎晩の特訓で、フレイムの力をかなり自在に操れるようになってきていた。
「第二の…」
「そう。火の次は水—ミストとの契約ね」
エクレールは古い書物を閉じた。
「彼女は治癒と浄化の力も持つわ。今のあなたに必要な力よ。今夜は満月。城の東側にある『月の池』へ行きましょう」
月の池は王家の古い儀式の場として使われていたが、竜騎士の時代になってからは忘れ去られ、今は訪れる者もほとんどいない場所となっていた。
「母が気づくかもしれません」
「お母さんなら、今夜は七色竜騎士団の月例会議があるはずよ。心配ないわ」
エクレールの情報網の広さに内心驚きながらも、私は頷いた。
月の池に着くと、満月の静かな光が水面に銀色に映り、幻想的な雰囲気を醸し出していた。私が「小精霊の書」を開くと、赤い宝石の隣に青い宝石が微かに光り始めた。
「水の精霊を呼び出す言葉を。心を澄ませて」
深呼吸し、私は池の中央に向かって静かに声を上げた。
「清らかなる水の流れよ、月影に宿る神秘よ、私の呼びかけに応えよ。小精霊ミスト、どうかあなたの姿を現してください」
水面が静かに波打ち、無数の水滴が宙に浮かび上がって、やがて小さな精霊の形になった。青く透明な水の衣をまとったような精霊は、フレイムとは対照的に物静かで優雅な雰囲気を漂わせていた。
「こんばんは、アイリス」
ミストの声は、まるで澄んだ泉から響くような、穏やかで心地よい音色だった。
「あなたのような優しい魂の持ち主を待っていました」
「ミスト!」
フレイムがペンダントから喜び勇んで飛び出した。
「やったー!やっとボクの仲間が増えたよ!」
「私と…契約してくれるのですか?」
私は期待と不安を込めて尋ねた。
「ええ、もちろん」
ミストは私の前に静かに浮かんだ。
「でも、その前に…私の力が本当に必要とされる場面を、あなたの意志と共に示してほしいのです」
「各精霊には個性があるのよ」
エクレールが隣で説明した。
「ミストは非常に実用的で、慈愛に満ちた精霊。彼女は誰かの役に立てることを何よりも大切にするの」
私たちが話している間にも、背後の森の中から、形容しがたい不穏な気配が急速に近づいてきた。茂みをかき分けて現れたのは、大きな一つ目の異形の魔物。獣のような毛むくじゃらの体に、不釣り合いな人間の腕が二本生え、そして額には熟れた果実のように赤く光る宝石のような目が一つ、不気味に輝いていた。
「『ワンダリング・アイ』!古代の混沌の残滓とも言われる魔物よ!」
エクレールが鋭く警告した。
「あの赤い目に見つめられると、精神を蝕まれるわ!視線を合わせないで!」
魔物が低い唸り声を上げ、私たちに向かって突進してきた。私は咄嗟にフレイムの力で炎の障壁を作り出した。しかし、魔物は怯むことなくそれを突き破り、赤い目が私を捉えようとする!
「炎はあまり効果がないみたい!」
魔物の弱点が額の赤い目だと直感した私は、ミストに意識を集中した。
「ミスト、力を貸して!」
池の水を操り、水の鞭を作り出して魔物の動きを一瞬だけ止めた。その僅かな隙を突き、フレイムの凝縮された炎が赤い目を正確に直撃する!魔物は甲高い悲鳴を上げ、眩い光に包まれて霧のように消え去った。その場に残されたのは、砕けた赤い宝石のかけらだけだった。
「見事な連携ね」
エクレールは感心したように言い、念のため宝石のかけらを拾い上げて布に包んだ。
「これは…混沌の気配がするわ。後で詳しく調べる必要がありそうね」
「私の力、役に立ちましたか?」
ミストが静かに尋ねてきた。
「ええ、ありがとう、ミスト。あなたがいなければ危なかったわ」
ミストは嬉しそうに微笑み、私と契約を結んだ。「小精霊の書」の青い宝石が澄んだ光を放ち、私の体に清らかな水の力が流れ込むのを感じた。これで火と水、二つの精霊との絆が結ばれた。
2
翌朝、私は母セレナから思いがけず呼び出しを受けた。
「アイリス、朝食後に私の部屋に来なさい」
その声はいつも通り厳格だったが、どこか探るような響きがあった。
朝食を終え、緊張しながら母の私室のドアをノックした。中に入ると、母は窓辺に立ち、訓練場を見下ろしていた。
「昨夜、どこにいたの?」
母は振り向かずに尋ねた。静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
心臓が大きく跳ねた。「自分の部屋にいましたけれど…何か?」
「嘘をつくのはおよしなさい」
母はゆっくりと振り向いた。その目は厳しく、私の心を見透かそうとしているようだった。
「夜警が、昨夜遅くに城を抜け出す人影を見たと報告してきたわ。影の動きが、ヴァレンタイン家に伝わる特殊な歩法に酷似していた、とね」
「…少し、城下町へ出かけていただけです。気分転換に」
私は平静を装って答えた。
「そう。気分転換…ね」
母は私の顔をじっと見つめた。
「最近、あなたの様子が変わったわね。以前のような暗さが消えた。契約失敗のショックからは、もう立ち直ったのかしら」
「はい…少しずつですが、前を向こうと…」
母は一瞬、何かを言いかけて躊躇った。そして、ふっと息をつくと、意外なほど穏やかな声で言った。
「気をつけなさい、アイリス。新しい道を探すのは悪いことではないわ。でも、決して危険な力に手を出してはだめよ」
「危険な…力?」
「この世界には、竜の力以外にも様々な力が存在するわ。中には、人の手に余る、触れてはいけない古の力も…」
母の目には、深い憂いと、何か過去の後悔を思わせる複雑な色が宿っていた。まるで、彼女自身がかつてその危険な力に触れ、何かを失ったかのように。
「母上…あなたも何か知っているんですね?小精霊のこと…」
母は答えず、窓の外、遠くに見える小さな丘を指差した。
「あそこに見えるのが『七精霊の丘』よ」
その声には、懐かしさと、それ以上の苦々しさが混じっていた。
「遥か昔、あそこは小精霊たちの聖地だったと伝えられているわ」
私は息を呑んだ。母が小精霊について自ら語るとは思わなかった。
「でも今は忘れられた場所。竜こそが秩序を守るこの時代に、古い力に頼る必要など、もうないのよ」
母は自分に言い聞かせるように言った。
「本当に、そうなのでしょうか」
私は勇気を振り絞って問いかけた。
「もし…竜の力だけではどうにもならない時が来て、小精霊の力が必要になったとしたら?」
母の目に複雑な感情が激しく揺らめいたが、すぐにいつもの厳しい仮面の下に隠された。
「そんな時は来ないわ。私たちは竜騎士の家系。竜と共に歩むことこそが、私たちの運命であり、誇りなのよ」
その時、ドアがノックされ、父が入ってきた。
「セレナ、急な報告が…おや、アイリスもいたのか。ちょうどよかった、城下町に行くんだろう?グレイスがお前を探していると、レオンから連絡があったぞ」
父の意図を察し、私は母に一礼して部屋を出た。母の複雑な表情が、彼女が何か重大なことを知っており、そしてそれを隠しているという確信を、私の中で深めていた。
3
城下町の中央広場は、月に一度の定期市で大変な賑わいを見せていた。色とりどりの露店が並び、活気ある声が飛び交っている。
「アイリス!」
人混みの中から、グレイスが私を見つけて手を振っていた。彼女は普段の騎士服ではなく、動きやすい質素な平服を着ていた。
「少し、あなたに話したくて」
彼女はどこか落ち着かない様子で、人目を避けるように広場の隅にある小さな噴水公園へと私を導いた。
「それで…何の話なの?」
「あのね、ルビアス様とのことなんだけど…実は、契約してからずっと、何だか心が通わないというか…」
グレイスが不安げに、そして少し恥ずかしそうに言いかけた、まさにその時だった。
突然、広場の方から人々の恐慌に満ちた悲鳴が響き渡ってきた!
広場へ駆けつけると、そこには昨夜、月の池で遭遇したものと全く同じ魔物—「ワンダリング・アイ」が、巨大な体で露店を薙ぎ倒し、破壊の限りを尽くしていた。それは昨夜私たちが倒したものより一回り大きく、額の赤い目もより禍々しい光を放っていた。
「またあの魔物!」
グレイスは驚きながらも、素早く腰の剣を抜き、竜騎士の力の源である赤い印を左手に浮かび上がらせた。
「アイリス、危ないから下がって!」
グレイスは果敢に魔物に立ち向かった。彼女の剣捌きは鋭く、訓練の成果を見せていたが、予想以上に頑強で素早い魔物に翻弄され、ついに強力な一撃を受けて壁に叩きつけられてしまった!
「グレイス!」
私は一瞬迷った。ここで小精霊の力を使えば、確実に彼女を助けられるだろう。しかし、それは多くの人々の前で、母や騎士団に禁じられた力を使うことになり、私の秘密を明かすことになる…。だが、目の前で苦しむ友人を見捨てることなどできない!
「フレイム、ミスト…お願い、力を貸して。でも、絶対に目立たないように」
私は周囲に聞こえないよう小声で呟き、ペンダントに宿る二人の小精霊を呼び出した。彼らは私の意図を即座に理解し、ペンダントから音もなく現れ、私の耳元にそっと浮かんだ。
まず、ミストの力で周囲に濃い霧を発生させ、魔物と観衆の視界を遮った。混乱の中、グレイスがふらつきながらも再び立ち上がり、ルビアスの力を借りて魔物に挑むが、決定的なダメージは与えられない。その時、私は破壊された香辛料の露店から、可燃性の高い油が地面に流れ出ているのに気づいた。
「フレイム、あの油に火をつけて。でも、火元は悟られないように!」
フレイムの小さな火花が油に引火し、魔物の足元を炎が包んだ!動きが一瞬止まったその隙を逃さず、私はミストの水の矢を霧の中から放ち、魔物の弱点である額の赤い目に正確に命中させた!魔物が苦悶の叫びを上げる。とどめはグレイスの炎を纏った剣が深々と突き刺さり、魔物は眩い光に包まれて消滅した。その場に残されたのは、またしても、あの不吉な赤い宝石のかけらだった。
霧が晴れて魔物が消え去ったことに市民たちは安堵の声を上げたが、同時に、原因不明の霧や不自然な炎の発生に戸惑い、「古い伝承にある森の悪霊の仕業ではないか」「呪われた魔法使いが紛れ込んでいるのでは」などと不吉な噂を囁き合い、不安げに周囲を見回す者もいた。竜以外の不可思議な力は、今も多くの人々にとって、漠然とした恐怖や迷信の対象なのだった。
濃い霧がゆっくりと晴れていくと、グレイスが息を切らしながら、疑念に満ちた目で私の方を見ていた。
「アイリス…今の霧と…あの不自然な火…もしかして、あなたがやったの?」
「私?どうしてそんなこと?私には魔法の力なんてないわ」
私は必死に平静を装って首を振った。
グレイスはまだ腑に落ちない顔をしていたが、周囲から駆け寄ってきた市民たちが彼女を「英雄だ!」と称え始めたため、それ以上追及する余裕はなくなった。その喧騒の隙に、私は素早く地面に落ちていた赤い宝石のかけらを拾い上げ、ポケットに隠した。
なぜ、同じ魔物が連続して現れるのか?そして、この赤い宝石のかけらは一体何を意味するのか?これは単なる偶然ではない。何か大きな、そして危険な何かが動き出している—そして私の小精霊との契約もまた、その巨大な歯車の一部なのかもしれない。
フレイムとミストは私の合図で静かにペンダントに戻り、その確かな温もりが私に小さな安心感を与えてくれた。たとえこの先の道のりがどれほど険しく、困難に満ちていようとも、この仲間たちと共に、自分の成すべきこと、自分の使命を見つけ出す—そう、私は心の中で強く決意を新たにした瞬間だった。




