月夜に囁く永遠の誓い
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静寂に包まれた城の庭園に、月の光が降り注いでいた。白い薔薇が風に揺れ、甘い香りが夜気に溶ける。
「……やはり、エリシアは綺麗だ」
低く優しい声が耳元をくすぐる。
公爵令嬢エリシアは、そっと振り向いた。そこに立っていたのは、この国の王子、レオナルド。夜の闇にも映える金髪と、深い湖を思わせる青の瞳。幼い頃から共に育った彼はエリシアにとって最も近く、最も遠い存在だった。
「殿下、そんなふうに囁くのは反則です」
軽く睨みつけると、レオナルドはくすりと笑った。
「ならば、どう言えばいい? 私はただ、正直な気持ちを述べているだけなのに」
その言葉に、エリシアの胸がかすかに痛んだ。
──この想いが、許されるものならば。
彼女の家系は名門公爵家であり、王家とは浅からぬ縁がある。だからこそ、幼い頃から王宮に出入りし、レオナルドともよく遊んだ。しかし、王子は王子、彼女は臣下。決して超えてはならぬ壁がある。
「もうすぐ…王になられるのですね」
ぽつりと漏らすと、レオナルドの表情が曇った。
「……知っているのか」
「ええ。戴冠式の準備が進んでいると聞きました」
レオナルドは小さく息を吐いた。
「エリシア、君はどう思う?」
「何が、ですか?」
「私が王になることを。……そして、それに伴う義務を」
エリシアは、答えられなかった。王である以上、レオナルドには政略結婚が待っている。それがどれほど望まぬものだとしても、王家の宿命だ。
「殿下には、国のために最もふさわしい妃が選ばれるのでしょう。……私に意見を求められても」
声が震えそうになり、エリシアは唇を噛んだ。
レオナルドは苦しげに目を閉じ、次の瞬間、彼女の手を強く握った。
「エリシア以外に妃などいらない」
その言葉に、エリシアの心が大きく揺れる。
「だが、王としての責務があることも分かっている。だから、今夜だけは……
エリシアの答えを聞かせてくれないか?」
月が、静かに二人を照らしていた。
この一瞬だけでも、夢を見てもいいのだろうか。
エリシアは、そっと微笑んだ。
「……私も、あなたを愛しています」
その瞬間、レオナルドの瞳が切なげに細められる。そして、彼はゆっくりと彼女を抱きしめた。
「エリシア……ありがとう」
抱擁の温もりの中、二人は永遠に続くことのない甘い夢を見た。
夜の静寂が、彼らの囁きを優しく包み込んでいた。
✱✱✱
エリシアの頬に触れるレオナルドの手は、震えていた。
彼の腕の中にいることが、これほど幸福で、同時に切ないものだとは思わなかった。
──今夜だけは、この夢に酔いしれてもいい。
けれど、現実は厳しい。朝が来ればレオナルドは次の王となる男として国のための決断を迫られる。エリシアはそれを理解していたし、自らの立場をわきまえていた。
「……私たちは、これからどうすればいいのでしょうね」
そっと囁くと、レオナルドは腕の力を緩め彼女の顔を覗き込んだ。
「エリシアは、私と共に生きたいと思うか?」
その問いはあまりにも残酷だった。
望んでしまえばもう引き返せなくなる。
だが、エリシアの心はすでに決まっていた。
「ええ……どんな運命が待っていようと、あなたの傍にいたい」
涙をこらえながら告げると、レオナルドの瞳に喜びと苦悩が入り混じる。
「エリシア……」
彼は深く息を吐き、静かに言った。
「私は、国を捨てるつもりはない」
エリシアは微かに肩を震わせた。
やはり、そうなのだ。王子として、彼は国を最優先に考えている。
「……分かっています」
「でも、だからこそエリシアが必要なんだ」
意外な言葉に、エリシアは目を見開く。
「私は王として、国と民のために生きる。それが私の宿命だ。だが、王である前に一人の男として……エリシアを愛する気持ちは、決して偽れない」
彼の言葉のひとつひとつが、心に深く沁みこんでいく。
「だから、エリシアに誓おう。私は、王としてエリシアを妃に迎える」
「そんな……でも、王の妃は──」
「誰かが決めた未来に従うつもりはない。私は、国をより良くするために戦う。そして、その隣にはエリシアが必要だ」
エリシアは言葉を失った。
──本当に、そんな未来が許されるの?
王族の結婚は、ほぼ例外なく政略によるものだ。貴族であるとはいえ、公爵令嬢の彼女が王の妃になることは、簡単ではない。
だが、レオナルドの瞳は真剣だった。
「私は決して諦めない。エリシアが望むのなら、どんな困難があろうとも共に乗り越える」
その言葉が、エリシアの最後の迷いを吹き飛ばした。
「……私も、諦めません。あなたと共に生きる未来を、信じます」
レオナルドは嬉しそうに微笑み、エリシアの手を強く握りしめた。
「ならば、約束しよう。エリシアを必ず、王妃として迎えると」
エリシアもまた、彼の手を握り返した。
「私も誓います。どんな試練が待っていようとも、あなたと共に歩みます」
夜空に輝く月が二人の誓いを静かに見守っていた。
***
それからの日々は、決して平坦なものではなかった。
王宮内では王子の妃としてふさわしい相手を決めるための会議が幾度も開かれ、レオナルドの選択は何度も阻まれた。
だが、彼は一歩も引かなかった。
エリシアもまた、周囲の視線や噂に負けることなく、毅然とした態度で自身の立場を守り抜いた。
そして──ついに、決定の時が訪れる。
戴冠式の数日後、王宮の大広間で開かれた会議の場でレオナルドは王としての最初の決断を下した。
「私は、エリシア・ヴェルネ公爵令嬢を王妃に迎える」
その宣言に、場内は静まり返った。
「王よ、それは……!」
「王家の伝統に背くおつもりですか?」
重臣たちの反発は激しかった。だが、レオナルドは動じなかった。
「王妃とは、国を支える存在であり、私と共に未来を築く者だ。彼女ほど相応しい人間はいない」
力強い言葉が、広間に響き渡る。
公爵である父の秘書官として同席していたエリシアは息を飲んだ。
──本当に、ここまで戦ってくれたのだ。
王として、男として、彼はすべてを懸けてこの未来を守ろうとしている。
すると、長老の一人が静かに口を開いた。
「……王の決断を、尊重すべきではないか」
その言葉を皮切りに次々と賛同の声が上がり始める。
ついに、エリシアの心に確かな実感が湧いた。
──私たちは、運命に勝ったのだ。
✱✱✱
その夜、レオナルドは満月の下でエリシアをそっと抱きしめた。
「やっと、エリシアを正式に迎えられる」
「……ありがとうございます、殿下」
少し照れくさく呼ぶと、レオナルドは微笑みながらエリシアの額に優しく口づけた。
「もう殿下ではない。だが、エリシアを愛する気持ちは何も変わらない」
「ええ、私もです」
これからの未来に、困難がないわけではない。
けれど、
(彼とならばどんな試練も乗り越えられる)
(彼女とならばどんな試練も乗り越えられる)
二人は、確かにそう信じた。
月明かりが、彼らの幸せな未来を照らしていた。
──永遠に、変わることなく。