EP.1 友達できるといいな
今思えば、私はとても不自由な生活をおくっていた。
『早く起きなさい。また夜更かしして——』
決まった時間に起きれないとガミガミ怒る母。
少しでも学校に行きたくないと我儘を言えば、凄まじい眼力で睨まれ、行くことを強制される。
そのおかげで中学三年間、毎年皆勤賞を貰ったけど、特に有り難みも嬉しさもなかったのだから、一回や二回くらい、ズル休みしても良かったと後悔している。
『え? 父さんの下着が? ははっ、ごめんごめ——ちょ、ちょっとスリッパで叩くのはやめ——』
私の服が入っている洗濯機に、勝手に自分の服を入れて洗濯する父。
私はブチギレた。短い人生の中でもあれほど怒ったことはまだない。
愛する家族なんだから、拳を震わせるほどの怒りを許容してみせることくらい簡単だ。でも、五年くらい履いてるくたびれた下着と、汗まみれの服、それになんか黄ばんだ穴あき靴下なんて論外だ。
……今思い出しても腹たってきた。
『いや、姉ちゃんのせいでしょ。俺は知らないよ——』
そしてなにかと自分のやらかしを私のせいにして、罪をなすりつけてくる弟。
母の逆鱗に触れるようなことをしては言葉巧みに私のせいにして、口下手な私はいいように言いくるめられ、母に拳骨をもらう。
いくら三歳も歳が離れているとはいえ、我慢するにも限界がある。
私は必ず、これまでの分をやり返してやると心に誓った。
けれど——
部屋に充満する線香の香りが鼻をつく。私の嫌いな臭いだ。
顔の前に漂う、一本の糸のような白い線を手で払いながら、目の前の小さな仏壇に目を向ける。
立てかけてある写真立てには、私たち家族が揃い、満面の笑顔で写っている。
「……、…………」
そっと目を伏せ、手を合わせた。
……もう慣れた習慣だ。事故から三ヶ月が経つのだから、当然だ。
手を合わせたまま、高校受験のために勉強をしていた私を残して、温泉旅行へ行った三人を想う。
温泉に私も行きたかったし、行くつもりだった。けど、思っていたより勉強が進んでいなかったから、私は泣く泣く家に一人残った……あの日。
瞼の裏で、お見上げはたくさん買ってくるよと、申し訳なさそうに言った母の顔を、鮮明に覚い出す。
そして、三人が旅行に行って暫くしてから——警察から連絡が来た。
大型トラックとの衝突による事故。三人が即死。苦しまずに逝けたのがせめてもの救いとは……誰の言葉だっただろう。
思い出せないけど、とても腹立たしくて、ムカついて、腹いせにそいつを気が済むまで殴ってやろうと思ったけど……そんなことをする気力はなくて。
それからはあっという間だった。
……脳裏に蘇る光景に息が詰まる。
気づいた時には、母方の叔母が後見人として私の側にいてくれた。
諸々の手続きとか、私のいいようにしてくれたし、私がこの家にいたいという希望も叶えてくれて、色々お世話になったのは申し訳ない。
信頼できる人がいてくれたおかげで、私は前とあまり変わらない生活を送れている。
落ち着いて深呼吸をしてから、重い瞼を開け、長い黙祷を終え立ち上がった。
「……行ってくるよ」
私は仏壇を離れ自室に戻る。
クローゼットから真新しい黒い制服を取り出し、袖を通す。
今日から、高校生だ。
この姿を三人に見せられないことに思うことはある。
きっと、私の制服姿に『あああだこうだ』と、品評会的な何かが開催されることは間違いなかったはずだ。その鬱陶しさを感じずに済むのは、良かったのかもしれない。
手早く制服を着たら、身だしなみを整え、洗面所で髪をとかす。
脱色した訳ではない、遺伝的に色素の薄い母譲りの髪は、幸いなことにヘアブラシに絡まるような癖毛ではないので、スルスルと簡単に寝癖が直ってくれる。
ヘアブラシを置いて身だしなみを確認する。特に問題はない。それなのに私は、鏡に映る自分を見て嫌気がさす。
最近は落ち着いてきていたけど今日はどうも不調だ。
——いつもより色の濃い青色が私にまとわりついている。
私は溜め息を吐き、ヘアブラシを置くと洗面所を出て、玄関へ向かう。
不自由な生活をしていたが、もう自由だ。
朝から口うるさく何か言われることもない。
制服に紙屑や変色がついていることもない。
朝から口論になって負けて、惨めな思いをすることもない。
「いってきます」
静かで誰もいない廊下へ向け、抑揚のない声でそう言う。当然それに対する返答はなく、帰ってくるのは静寂だけ。
ただそのことが何故か、私をとても切ない気持ちにさせたのだった。
閑静な住宅地の、車通りの少ない道路を歩く。
川沿いの土手の側を歩きながら、道を挟むようにして植えられた、桜の木に目を向ける。
「春だなぁ」
そんな当たり前のことを呟く。
出会いと別れの季節。
すでに嫌になるほどの別れを経験した私にも、あるんだろうか。
それを帳消しにできるくらいの特別な出会いが。
人生はドラマのように、都合のいいようにはいかないと分かっているけど、期待せずにはいられない。偶にはドラマのような一幕があってもいいと思うのだ。まあ、どうせないんだけど。
「友達できるかな」
せめてそれくらいの希望は持ってもいいだろう。
さあっ——と、散りゆく春の吹雪に身を投じながら、私は歩道を歩く。
自由になったのだから、やりたいことは大抵なんでもできる。
だからこそ悩む。
これからの高校生活で何をやるのか。
「バイト……部活……勉強?」
どうせなら、お金になることに時間を使おうか。それとも、将来の安定のために社会経験を積むか。今はまだないけど、趣味を見つけて、とにかく楽しむか。
今の私には決めきれない難題だ。
ああ、あとは、せっかくなら、もっと普通じゃないことに手を出してみてもいいかもしれない。なんにも見当はつかないけど。
「ん?」
ふと、前を歩く少女が目に入る。
その子は黒髪を肩より短いところで切り揃えた子で、多分、同い年。私とお揃いの、パリッとした新品の、黒い制服を着ているから新入生仲間だろう。
まだあどけない容姿は可愛らしく、背も私より低い。
だから目を惹かれた、というのは不十分な理由だろう。
私が彼女に目がいった本当の理由は、その背にあるモノの所為だ。
大きな黒いバッグと、小柄な彼女のアンバランスさが際立ち、バッグの重さで倒れてしまうんじゃないかと思ってしまう。
「あれは、ギター?」
登校初日からそんなものを持って来てどうするのか。とても重そうに見えるが、その足取りは軽い。きっと担ぎ慣れているんだと思う。
けど……やっぱり目がいく。
こうも気になってしまうのは、父の影響があるのかもしれない。ギターを弾く父の姿は記憶にこびりついている。
毎日仕事終わりにお酒を飲みながら自室でギターを弾いていた父。そんな父のギターを弾く姿が好きだったから、多分、私もギターは嫌いじゃないんだろう。
「……ここか」
じっと、前を歩く彼女をみていたら、スッとその姿が校門に吸い込まれていき、私は目的地に到着したのだと気づく。
「はあ……」
ちょっとだけ腰が引ける。
私は恐る恐る、校門から学校の敷地内に足を踏み入れる。
「高校生か……」
これから高校生としての、私の日常が始まる。
そう思うと少しだけ、心臓が飛び跳ねたような、そんな気がした。