クズでゲスで、一途で純粋
「中山さんが好きなんだ。俺、今回こそは、ちゃんとした恋愛ができる気がするんだ」
平日の登校中。
ゴールデンウィーク明け。
川上夏希は、隣を歩く飯塚琢磨を見上げた。
彼は背が高い。一七八センチ。細身ながらほどよく筋肉がついていて、スタイルもいい。さらに、顔もいい。加えて、頭もいい。おまけに、運動神経もいい。いわば、天から二物も三物も与えられた人物だった。
高校二年。たぶん、人生で一番、恋愛にうつつを抜かせる年頃。
夏希と琢磨の家は、同じオートロックのマンション。その隣同士。いわゆる幼馴染みだった。昔から仲が良く、高校生になった今でも仲がいい。だからこそ夏希は、琢磨の良さをよく知っている。彼に気があるクラスの女の子達よりも、ずっと。
それなのに琢磨は、夏希の方を振り向いてくれない。他の異性よりも仲がいい、ただの幼馴染み。ずっとそんな関係だった。
「本当に可愛いよな」
琢磨が可愛いと言ったのは、同じクラスの中山美玲だ。一五〇にも満たない小柄な体に、高校生にしては幼い顔立ち。同性の夏希の目から見ても、可愛い子だと思う。少し思い込みが激しいところはあるが。
「可愛い、ねぇ」
琢磨の言葉を復唱して、夏希は自分の頭頂部に触れた。
夏希は、女性にしては背が高い。一七〇センチある。スラリとしたモデル体型。胸の大きさは、体型にほどよいDカップ。美人だという自信はある。もっとも、童顔とは真逆の「お姉様」なんて表現が似合う顔立ちだが。
――中山ちゃんとは真逆だよね、私。
心の中で溜め息をついた。琢磨は、夏希の気持ちにまるで気付かない。凄く頭がいいのに、自分に向けられる恋心にはひどく鈍いようだ。
夏希は、昔から琢磨が好きだった。初めて自分の気持ちを自覚したのは、小学校三年生くらいだったか。
家が隣同士で仲が良く、家族ぐるみの付き合いもある。小学校の低学年くらいまでは、一緒にお風呂にも入っていた。
仲がいいからこそ、自分の気持ちを素直に言えなかった。恋心を自覚してから一緒にお風呂に入れなくなったものの、それ以外はまったく変わらなかった。
幼馴染み兼友達という関係。
自分の気持ちを素直に伝えられない。だからといって、恋愛感情が消えるわけではない。
琢磨から恋愛相談を受けるたびに、夏希は、嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。
つい、憎まれ口を叩いてしまう。
「あんた、今回は大丈夫なの? 今まであんたが好きになったコ、全員とんでもない女だったでしょ?」
あんたは、女を見る目がなさ過ぎる。夏希はたびたび、琢磨にそう言っていた。
中学二年のときに琢磨が好きになった女の子は、突如グレた。夜の街を徘徊し始め、素行の悪い人達と遊び始めた。
中学三年のときに琢磨が好きになった女の子は、理性が消えたように複数の男と関係を持ち始めた。その結果、校内で「ビッチちゃん」などという陰口まで叩かれるようになった。
好きな女の子の変貌を知って、琢磨はその度に落ち込んだ。その度に、夏希に泣きついた。彼を慰めるのが、夏希の役目だった。幼馴染み兼友達としての役目。
「今回こそは大丈夫。中山さんみたいな小柄で可愛いコが、突然不良になったり、ビッチになったりするとは思えない」
「そうかなぁ。人って、見かけによらないよ?」
「大丈夫」
言った直後、琢磨の声が一気に萎んだ。
「大丈夫……と思いたい」
「弱気じゃん」
小声になった琢磨を見て、つい、夏希は笑ってしまった。無理もない、と思う。好きになった女の子が、突如悪い方向に変貌する。そんな経験を何度も重ねれば、弱気にだってなるだろう。女を見る目のなさに、絶望だってするだろう。
「まあ、あんた、本当に女を見る目がないからね」
「……」
琢磨はそっぽを向いて、唇を尖らせた。端正な顔立ちをしているから、こんな表情すら絵になる。
「琢磨はさ、頭いいんだから。もっとちゃんと女の子を観察すれば、その子のことなんて簡単に分かりそうなのに」
琢磨はますます、拗ねた顔になった。
「してるつもりだよ。でも、女の子のことだけは、想像もつかないし予測もつかないんだよ」
「まあ、だから何回も失望するわけだしね」
溜め息交じりに夏希が言うと、琢磨は、コロッと表情を変えた。
「そこで、夏希に頼みたいんだけど」
「ああ、はいはい」
琢磨の頼みなんて、分かり切っていた。
「中山ちゃんに、それとなく男の好みとか聞けばいいんでしょ? あと、ついでに、中山ちゃんの人となりなんかも探るのね」
「そう。やっぱり、男の前で見せる顔と女同士で見せる顔は違うからさ」
「はいはい。まあ、いいよ。あんたの頼みだしね」
琢磨にこんなことを頼まれるのは、初めてではない。というより、彼が誰かを好きになる度に頼まれる。
だから夏希は、琢磨が好きになった女の子のことをよく知っている。どんな子だったのかはもちろん、どうして変貌を遂げたのかも。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「中山ちゃん」
昼休み。
昼食を終えると、夏希は、美玲の席まで足を運んだ。
「ちょっといい?」
突然声を掛けられて、美玲は、キョトンとした顔で首を傾げた。
――可愛い子だなぁ、本当に。
小柄な体に、幼い顔立ち。大きな目。まるで、少年漫画のヒロインみたいだ。
「何? 夏希ちゃん」
外見だけではなく、声まで可愛い。綺麗とか美人とかではなく、可愛い。それ以外に、彼女を表現する形容詞が思い浮かばない。
夏希は美玲をじっと見ながら、彼女の机に両手をついた。彼女に顔を近付け、小声で伝える。
「実はね、中山ちゃんに気のある奴がいて。そいつに、好みのタイプとかを聞いて欲しいって頼まれたの」
「……ぇ?」
美玲の口から、驚きの声が漏れた。消えそうなほど小さな、驚きの声。
「えっと……誰なの?」
「それを言ったら、そいつに申し訳ないから言えないけど。もしかして、もう彼氏とか好きな人とかいたりする?」
こんなことを聞きながらも、夏希は確信していた。美玲は琢磨のことが好きなはずだ、と。
琢磨はモテる。顔がよくて、スタイルもよくて、頭もよくて、運動神経もいい。さらに優しい。琢磨みたいな男が身近にいたら、他の男など、道ばたの石コロにしか見えないだろう。
夏希がそうであるように。
美玲は顔を伏せた。困ったような、恥ずかしそうな――そんな表情。周囲に人がいる場所では、本音を聞くのは難しそうだ。
「ちょっと込み入った話になりそうだから、教室から出ようか。いい?」
夏希の言葉に、美玲はコクンと頷いた。その仕草すら可愛い。
夏希は美玲を連れて、教室から出た。廊下の端まで足を運び、窓際でしゃがみ込んだ。美玲も、夏希の隣でしゃがんだ。
「それで、好きな人とか付き合ってる男とか、いる?」
「好きな人はいるの。でも、付き合ってない。たぶん、私の片想いだから」
美玲の回答は、夏希の想像通りだった。
「誰なのか、聞いていい?」
「……」
美玲は少し困った顔になった。言いたくない、と表情で語っている。誰のことが好きなのか、見え見えなのに。
夏希は少しだけ、美玲に揺さぶりをかけた。彼女の背中を押すように。
「もしかして、琢磨?」
「!」
ピクンッと、美玲の体が動いた。そのまま硬直。態度が物語っている。琢磨のことが好きなのだと。
夏希は、美玲の顔を覗き込んだ。彼女より二十センチ以上も背が高いから、その場に伏せるような体勢になってしまった。
「もし中山ちゃんが琢磨のことを好きなら、あいつの好きなタイプとか教えようか?」
硬直していた美玲の体が、再びピクンッと動いた。表情が変わってゆく。頬が赤みを増した。目が、期待と希望で彩られてゆく。大きな瞳は、潤んでいるように見えた。
「本当に?」
美玲の可愛らしい唇から、涙声に近い言葉が漏れた。本当に可愛いなぁ。無意識のうちに、夏希は胸中で呟いた。
夏希の心に、少しだけ意地悪な気持ちが芽生えた。美玲に、恥ずかしいことを言わせたい。単に貶めるだけじゃなく。
「琢磨と付き合えたら嬉しい?」
「……うん。凄く嬉しい」
「琢磨と付き合ったら、どうしたい?」
「分からない。でも、ずっと一緒にいたい」
「ずっと一緒ってことは、結婚したいってこと?」
「そうなったら……嬉しい」
「琢磨ってね、子供好きなんだけど。あいつの子供とか、欲しいと思う?」
美玲の顔が、耳まで赤くなった。子供がほしい。つまり、子供ができる行為をする。そんなことを想像したのだろう。
美玲は素直に頷いた。
「じゃあ、子供は何人くらいほしい?」
「飯塚君が望むなら……何人でも頑張る」
恥ずかしそうでいて、楽しそうな美玲の顔。想像しているのだろう。琢磨に抱かれるところを。彼と一緒に過ごして、やがて子供が産まれて、家族になるところを。表情を見れば、彼女が何を考えているのかがよく分かる。夏希の質問のたびに、彼女は、幸せな想像を膨らませている。
――本当に、思い込みが激しい子だなぁ。
夏希は口の端を上げた。この子は、不良になどならないだろう。誰とでも寝るような奔放な女にもならないだろう。
でも、この思い込みの激しさは、異常者向きだ。
「あのね、琢磨ってね――」
周囲には誰もいない。それでも夏希は、耳打ちするように美玲に伝えた。琢磨が、どんなタイプの女が好きなのか。
面白おかしく、心の中で嘲笑いながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「琢磨君! 琢磨君!! なんで!? どうして警察なんて呼んだの!? ねぇ!?」
玄関のドアの外から、美玲の絶叫が聞こえていた。琢磨をストーキングし、家まで押し掛けてきた彼女。
小柄な美玲が必死に暴れているのだろう。彼女を捕らえる警察官が、大声で怒鳴っていた。
「大人しくしろ!」
琢磨君!!――という美玲の絶叫が、徐々に遠ざかってゆく。やがて、その声が聞こえなくなった。
琢磨は、戦々恐々とした表情になっていた。端正な彼の顔が、恐怖で歪んでいる。彼だけではなく、彼の両親も恐怖に満ちた顔になっていた。
夏希は、脱力した琢磨の体を支えていた。
琢磨の家のリビング。美玲の絶叫が聞こえなくなって、室内は静まり返った。
事の始りは、約三ヶ月前。夏希が、美玲に、琢磨の好みのタイプを教えてから。そこから、琢磨にとっての恐怖が始まった。
登校時。美玲はいつも、琢磨を待ち伏せていた。下校時も同様だった。
琢磨も、最初は嬉しそうだった。好きな子が、自分に対して積極的にモーションを掛けてくる。嬉しくない男などいないだろう。
だが、美玲の行動は、少しずつ常軌を逸してきた。
まるで盗聴でもしているかのように、琢磨の言動を知っていた。琢磨がどこに行っても、偶然を装って姿を現した。まだ付き合ってもいないのに、将来の子供の人数まで語り始めた。オートロックのマンションなのに、自宅前で待ち伏せていることもあった。琢磨が何気ない雑談で「カレー食べたいな」と言うと、次の日には、カレーを作って持ってきた。
『カレー、食べたかったんだよね? そう言ってたよね?』
もちろん琢磨は、美玲に、そんな話などしていない。
常に監視されているような恐怖に、琢磨は、少しずつ疲弊していった。
挙げ句の果てに、美玲は、自分のヌード画像を琢磨に送信してきた。チャットのトークで。IDなど、教えていないのに。
画像の後に、メッセージが送られてきた。
『私の初めては、琢磨君にもらってほしいな。将来、琢磨君が望むだけ子供産むから』
美玲のストーカー行為が増長してゆくごとに、琢磨は、自宅での口数が少なくなったという。それだけではなく、食事も喉を通らなくなったみたいだ。実際に、彼はずいぶん痩せてきていた。
「琢磨、もう大丈夫だよ」
脱力した琢磨を抱き締め、夏希は、彼の背中をポンポンと叩いた。彼の両親も、とりあえずは安心だ、という表情を見せていた。美玲は琢磨の家まで押しかけていたから、彼の両親も少なからず疲弊していた。
「ごめんな、夏希。いつも気ぃ使わせて」
琢磨が誰かを好きになるたびに、好きになった相手が変貌する。琢磨を絶望させる方向への変貌。絶望に沈む琢磨を慰めるのが、夏希の役目になっていた。
「気にしないの。いつものことなんだから」
夏希は琢磨の頭を撫でた。端正な顔を沈ませる彼。その姿が、可愛いくて、愛しい。
「おじさん、おばさん。私、琢磨を部屋に連れて行きますね。今は休ませたいんで」
琢磨の両親は、それぞれ頷いた。
「そうだな。ありがとう、夏希ちゃん」
「いつもありがとうね。琢磨のこと、気に掛けてくれて」
琢磨の両親の表情から、感謝の気持ちが伝わってくる。そんな彼等の顔を見て、夏希は、少しだけ罪悪感を抱いた。
少しだけ罪悪感を抱いたが、それだけだった。
――好きな人を手に入れるためなんだから。
だから、仕方がない。
夏希は琢磨の体を支え、彼の部屋に連れて行った。六畳ほどの広さの部屋。窓際のベッドに、彼を寝かせた。
夏希も、ベッドの上に座った。
「どう、琢磨? 少しは落ち着いた?」
「……ああ」
琢磨の返答に、力はなかった。
そのまま、少しだけ沈黙。
しばらくの無言の後、琢磨は、辛そうに話し始めた。
「俺が好きになる女って、どうして、頭のおかしい奴ばっかなんだろうな。俺はただ、普通に両想いになって、普通に恋愛したいだけなのに」
「そうだね。辛いよね」
「本当に、なんでなんだよ……」
少し涙が混じった、琢磨の声。
夏希は再び、琢磨の頭を撫でた。
「あんたは、女運がないからね。でもたぶん、そんなの、今だけだよ。これからきっと、いい人と出会えるって」
――たとえ出会ったとしても、その度に潰すけどね。
心の声は、口には出さない。
「……とてもそんなふうに思えない。もう、女なんて信用できない」
「弱気なこと言わないの」
優しく、琢磨の頭を撫でる。諭すように柔らかく伝える。
「今はそんなふうに思っちゃうかも知れないけど、そんなことないから」
「……」
琢磨は首を横に振った。
「俺、もう、夏希以外の女なんて信用できない。夏希以外の女と、まともに話せる気がしない」
縋るように、琢磨は夏希を見つめてきた。視線が絡んだ。彼の目は潤んでいる。絶望に打ちひしがれている目。絶望の中で、夏希しか信じられないと訴えている目。
夏希は確信した。琢磨は、もう、夏希以外の女を、女として意識できなくなっている。
高揚感で、夏希の胸が躍った。大笑いしたい気分だった。ようやく、ここまで来た。
もちろん本音は、表情には出さない。冗談のような軽い口調で、琢磨に聞いた。
「じゃあ、いっそ、私と付き合う? もう、私以外、信用できないんでしょ?」
琢磨の目が見開かれた。
「夏希はそれでいいのか? 俺でいいのか?」
「うん」
拳を振り上げて喜びたい。歓喜の声を上げてしまいたい。胸中にある興奮を、夏希は必死に抑え込んだ。
思えば、ここに来るまで長かった。
琢磨にとって、夏希はただの幼馴染みだった。彼の態度から、夏希を異性として意識していないのは明らかだった。
だから必死だった。琢磨が、他の女とくっ付かないように。
中学二年のときに、琢磨に好きな女ができた。その子も、琢磨のことが好きだった。両想いだった。だから、先手を打ってその女に教えた。
「琢磨ってね、少し悪い感じの女が好きなの。小悪魔的な感じの」
最初は、髪の毛を派手な色に染めさせた。少しずつ、超えるハードルを高くしていった。髪の毛を染めた後は、学校をサボらせた。学校をサボるのが平気になったら、悪い男と遊ばせた。最終的に、前科がつくような行動を取るようになった。
中学三年のときに、琢磨に好きな女ができた。その子も、琢磨のことが好きだった。両想いだった。だから、先手を打ってその女に教えた。
「琢磨って、実は女性経験が豊富でね。だから、遊び慣れていない女だと、面倒臭いみたい」
適当な男と初めてのセックスをさせた。初めての後、その女は泣いていた。けれど、一度経験したら、ずいぶん気が楽になったみたいだ。さらに別の男とセックスをさせた。クラスの男二、三人を相手にさせた後は、街で男に声を掛けさせた。セックスへのハードルは、彼女の中でどんどん低くなっていった。そう仕向けた夏希が、驚くほどに。
気が付くと、彼女は、クラスの男の半数以上と関係を持っていた。もちろん、クラスの男だけではなく、街で出会った男とも関係を持っていた。最終的には、性病と妊娠が発覚した。
美玲に対しては、こんなふうに教えた。
「琢磨はね、かなり重く愛されたいタイプなの。下手すればストーカー、くらいに」
最初は、登下校時に待ち伏せる程度。それから、琢磨との将来を語らせた。琢磨の鞄にボイスレコーダーを仕込んで会話を録音し、それを聞かせた。録音した内容に沿って行動させた。彼が喜んでいたと伝えて、さらに過激な行動をさせた。マンションのオートロックを開けて彼女を入れ、待ち伏せさせた。彼のチャットのIDを教え、裸の画像を送らせた。
そして、ストーキングの証拠を揃えて、警察に通報した。
ここまで、苦労した。ようやく、琢磨に言わせることができた。
『夏希以外の女なんて』
琢磨は、もう、夏希以外の女を信用しないだろう。夏希しか信じないだろう。
ずっと恋愛相談に乗ってきた。失恋したときは慰めた。支えて続けてきた。幼馴染み兼友達として得た、信用と信頼。
信用と信頼を維持したまま、幼馴染み兼友達という立場を卒業できた。
「琢磨はいい男だと思うよ。ただ、女を見る目がないだけ。それなら、気心が知れた私と一緒になるのが、一番いいでしょ?」
ベッドに横になっている琢磨。彼に顔を近付け、夏希は、その頬にキスをした。ちゅっ、と音を立てて。
「よろしくね、琢磨」
「夏希」
琢磨は両腕を広げ、夏希を抱き締めてきた。
大人になった体で初めて感じる、好きな人の温もり。これまで嫉妬に狂い、苦しみながら、頑張って手に入れた温もり。努力して、努力して、ようやく手に入れた温もり。
その努力は、決して無駄にしない。
――私は絶対に、琢磨を手放さない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
琢磨が夏希と出会ったのは、五歳の頃だった。両親が購入したマンション。隣に住んでいたのが、彼女だった。
出会った頃から、夏希は可愛かった。幼稚園でも人気者だった。男の子達は、こぞって、夏希に色んな物を貢いでいた。花壇の花。上手に描けた絵。おやつに出された冷凍ミカン。どんなに幼くても、夏希の周囲にいる男の子達は、オスだった。
狙ったメスを手にするため、争うオス。
琢磨も、夏希が好きだった。だから、琢磨なりに頑張った。両親に、格好よくなるにはどうしたらいいか、と聞いた。好き嫌いなくご飯を食べて、一生懸命勉強して、一生懸命運動しなさい。両親は、そんな模範解答をくれた。
両親の言葉を素直に信じ、琢磨は努力した。よく寝て、よく食べて、よく運動して、よく勉強した。持って生まれた才能もあったが、琢磨は、周囲の男の子よりもはるかに優秀で目立つ子になった。
小学校三年になった頃だろうか。琢磨は気付いた。夏希の、自分を見る目が変わっている。
その頃から、夏希は、家に遊びに来ても一緒に風呂には入らなくなった。恥ずかしいから、と言って。
幼心に、琢磨ははっきりと気付いた。夏希が、自分のことを好きになってくれた。
とはいえ、告白はできなかった。好きだと伝えるのが恥ずかしかった。ただ、両想いである喜びを噛み締めていた。夏希は相変わらずモテていたが、それでも、彼女が好きなのは琢磨だった。
中学二年になった頃。
夏希に告白しようと決意した。中学生同士なら、彼氏彼女の関係になっても不思議ではない。夏希は相変わらずモテていたが、それでも、琢磨のことを好きなのは明らかだった。
意を決して、告白しようとして。
ふいに、琢磨は不安になった。本当に大丈夫か、と。
夏希は、現時点では琢磨のことが好きだ。努力の甲斐もあって、琢磨は何事においても優秀だ。身長もほどよく伸びたし、顔にも自信があった。つまり、モテて当然という自覚があった。
琢磨が告白したら、夏希は喜んで付き合うだろう。
でも、中学を卒業して高校生になったら? 高校を卒業して、大学生になったら? 大学を卒業して、社会人になったら?
人は、歳を重ねるごとに広い世界に出て行く。色んな人と出会う。琢磨より優秀な男など、世界には無数にいるだろう。琢磨より顔のいい男など、世界には無数にいるだろう。中学という狭い範囲で頂点に立っていても、そこは世界の頂点ではない。
中学の頃から付き合い始めたら、成人する頃には、互いの細部まで知り尽くすことになる。言ってしまえば、マンネリと化す。
そんなときに、もしも夏希が、自分よりも上の男に出会ったら……。
考えれば考えるほど、琢磨は不安になった。夏希を手に入れたい。でも、手に入れるだけじゃ駄目だ。手に入れて、手放したくない。
そのためには、どうしたらいい?
琢磨は努力家だ。学校の勉強以外にも、ありとあらゆることを勉強している。『好き嫌いなくご飯を食べて、一生懸命勉強して、一生懸命運動しなさい』という両親の教えを、今でもしっかり守っている。
人間の心理についても、かじった程度だが勉強していた。だから知っていた。
人は、努力して手に入れたものに価値を感じる。執着する。たとえ、手に入れたものの価値が、手に入れた当時より下がっても。努力の量に比例して、手放せなくなる。
琢磨の中で出た結論は、単純だった。夏希にも努力してもらおう。
手始めに、琢磨は夏希に嘘をついた。夏希以外の女を好きだと伝えた。
思った通り、夏希は努力した。もっとも、努力の方向は、琢磨の想像とは異なっていたが。
夏希の努力の結果、「琢磨が好きな女」は悪い方向に変貌した。
琢磨は再度、夏希に嘘をついた。夏希以外の女を好きだと伝えた。
やはり夏希は努力した。歪んだ努力。「琢磨が好きな女」を、貶める努力。
そして琢磨は、再び夏希に嘘をついた。中山美玲が好きだという嘘。
夏希は、中学の頃と同じように努力した。美玲を貶め、警察に連行させた。
夏希は、琢磨を手に入れるために努力した。歪んでいるが、彼女なりに必死なのが伝わってきた。
歪んでいるが故に、その必死さが伝わってきた。
もう大丈夫だ、と琢磨は確信した。こんなに必死になるほど、夏希は琢磨を欲しがっている。手に入れたら、決して手放さないだろう。
だから伝えた。
「もう、夏希以外の女なんて信用できない」
夏希の表情は変わらない。変わらないように堪えている。でも、明らかに、目の色が変わっていた。歓喜に満ちた瞳。期待通りの言葉が、彼女の口から出てきた。
「じゃあ、いっそ、私と付き合う?」
一生懸命、冗談ぽく言っている。でも、夏希の瞳は熱を帯びている。欲しくて欲しくてたまらなくて、でも、今まで手に入らなかった。それが、ようやく手に入る。そんな気持ちの熱。決して冷めることのない気持ち。
琢磨は夏希を抱き締めた。改めて、夏希を可愛いと思った。
昔から、夏希が好きだった。美人で、綺麗な夏希。それだけじゃなく、可愛い。必死に琢磨の気を引こうとした夏希が、可愛い。
自分の手の平で必死に踊っている姿が、たまらなく可愛い。
夏希を抱き締めながら、琢磨はほくそ笑んだ。
――俺は夏希を、一生離さない。
(終)