8.悪事の報い
「あ、れ……? おにーさん、どうしたの……?」
力無く横たわった青年は、エメラルド色の瞳で僕をぼんやりと見上げながら、掠れた声で尋ねてくる。
……誰が見ても、どうかしたのは彼の方だ。
崩れた床や天井の瓦礫に何度も足を取られそうになりながら、崩壊しかけた警察署内を歩き回った末、あのヴィランの彼を見つけた。
額に血を滲ませ、片脚を瓦礫に挟まれ、ボロボロになったその姿に、僕は立ち竦んだ。
自力で瓦礫の下から抜け出せないのは、両手をごつい手錠に戒められているせいだけではないだろう。
こんな状態の彼を、エアロレディは放置していったのか?
つまり、見捨てた……?
“ヒーローにヴィランを助けることはできない”
彼女の言葉がハッキリと耳に残っている。
「おにーさんは……無事だったんだね。よかったぁ」
彼は僕を見つめて、心底安心したという風に頬を緩める。
どう考えても、こちらの心配などしていられる状況ではない。
「爆弾でも爆発したかと思った……いきなり、めちゃくちゃになってさ……あは、びっくりしたよねぇ」
青年はへらへらと、世間話でもするような調子だ。強盗に来た時も呑気だったが、こんな時でもいまいち緊張感がない。
僕は何も言えずに立ち尽くしていたが、不意に我に返り、咄嗟に周囲を見回す。
助けを呼ばなくては。
そして、近くを救急隊員が通りかかるのを見つけ、呼び止めた。
「あっ、あの、すみません……すみませんっ、こっち……怪我人が!」
半ば裏返りかけた、我ながら情けない声だったが、隊員はすぐに気づいてくれた。
「わかった、今行く!」
こちらへやってきた隊員は、すぐに倒れた彼を見つけて――
そして、彼が能力者用の手錠をかけられているのを見た途端、なんだ、と冷めた目つきで吐き捨てた。
「そいつはヴィランだろ。他の人たちが助けを待ってる、そっちが優先だ」
さっさと踵を返す隊員にぎょっとして、引き留めようとする。
「い、いやでも、あのっ……ひどい怪我なんです! こ、このままじゃ――」
「別にいいだろ、ヴィランがどうなったって」
きっぱりと断言され、耳を疑った。
「悪事を働いた報いってやつだ。自業自得さ」
振り向きもせずそれだけ言い残し、隊員は助けを求める別の声の方へ行ってしまった。
「あはは……仕方ないよ……」
呆然としていた僕は、か細い笑い声に我に返った。
振り向くと、青年は相変わらず瓦礫の下敷きになって横たわったまま、苦笑を浮かべている。
額に滲んだ血が目に入りそうになって、片目を閉じている。手錠をされた手では拭う力も残っていないのか。
「いいんだ……オレだって、ヴィランなんだから。悪いコトしといて、助けてもらおうなんて……思ってないよ」
それは諦めというより、彼なりの意地か誇りでもあるかのような口振りだった。
しかし、意地にしても誇りにしても、全く覇気がない。声を出すだけの力が、まともに入らないのかもしれない。
僕は医者でも何でもないが、それでもわかる。相当に弱っている。
そういえば、と思い返す。
彼を見つけるまでにも、怪我人を何人も見た。
その中には、もちろん助け出されて手当を受けている人もいたけれど、痛みに呻いている人、苦しみに身を捩っている人もいた。ここにいる彼のように、瓦礫の下敷きになったままの人も。
あれは、救助が間に合っていないのだと思っていたが。
彼らはヴィランで、“わざと”助けられなかったのか?
正義は必ず勝つ。そして、悪は必ず滅びる――
それがヒーローたちのスローガンであり、人々が望むことだった。
悪は滅ぼされるべき。そうかもしれない。
だから、ヒーローはヴィランを助けることを禁じられていて、
だから、ヒーローでなくともヴィランを助けようとしないのかも。
けれど……
僕は、青年の脚にのしかかる瓦礫に手を掛けた。
「何、してるの……?」
青年の不思議そうな視線を感じながら、掴んだそれを持ち上げようとしてみる。
やる前から薄々わかっていたが、僕の貧弱な力ではビクともしない。
押しても引いても動かないので、いったん手を離す。ゴツゴツとした断面を掴んだ掌が痛い。少し擦りむいたようだ。
「危ないよ、おにーさん……やめときなよ」
僕は構わず、何か使えそうなものを探して、パイプが転がっているのを見つけた。配管か何かだろうか。
床と瓦礫の間にパイプを噛ませてみる。てこの原理というやつで、何とか持ち上がるのではないか。
しかし、パイプにどれだけ力を込めてみても、上手くいかない。
力んだぶん、自分の息が切れただけだ。
「おにーさんってば……」
青年は、もはや困ったように僕を呼んでいる。
わかっている。僕なんて何の役にも立たない。
能力も、得意なことも、ついでに職もない。
あの時もそうだった。
銀行で、彼が人質に選ぼうとしていた女性と目が合った時。
別に、僕が彼女を救わなければならない理由はなかったし、助けるだけの力もなかった。
それでも、気づいたら声を上げていた。
彼とタンデムしていたバイクが爆発しそうになった時も、僕は飛び降りるように叫んだ。
あの時は自分の身も危険だったから、当然かもしれない。
けれど、それなら自分だけ飛び降りればそれでよかったのではないか。
でも、やはり僕は彼に呼びかけた。
今も、彼を助ける理由はないし、むしろ助けない方がいいのかもしれない。
それでも、自然に体が動いている。
正義感?
いや、悪人を助けようとする正義感というのは矛盾しているのか。
なら、偽善?
この衝動がなんなのかはわからない。
だけど、この咄嗟の衝動に抗えるほど、僕の意志は強くない。
理由などわからないけれど。
僕は彼を助けたかった。
何度目か、パイプを押し込むように力を込めた時――
ドゴオオオッ、と凄まじい音と地響きが鳴り響いた。
よろめきながらも顔をあげると、粉塵が煙のように舞う中、何か大きなものが壁から生えていた。
目を凝らしてようやく、車のフロントが壁を突き破ってきたのだとわかる。元から荒れていた警察署内が、更に瓦礫で埋まる。
周囲で悲鳴や叫び声が上がり、混乱が巻き起こっている。
僕は身動きが取れないまま、車のドアが開かれ、誰かが降りてくるのを呆然と見ていた。
粉塵の向こうから近づいてきた人影は、やがて姿を明瞭に現した。
黒い軍帽。体を包む黒い外套。
外套の下は、おそらく黒い軍服。
顔はわからない。仮面を被っていたから――鋭く切れ目を三つ入れたような(目元の部分二つと、口元に一つ)不気味な笑顔の仮面だ。
「あ……ボス。ボスだぁ……!」
足元で、青年が声を上げる。相変わらず力無いが、嬉しそうな声だった。
見ると、エメラルドの瞳が輝いている。
ご主人様を見つけた、レトリバーのように。
その輝く視線の先で、仮面の男はマントを払うように翻しながら、低い声で言い放った。
「この馬鹿めが、何度言えばわかる?
大総統と呼べ!」