10.交渉は冷静に
「さてと、応急処置は済んだよ」
ヴィランとヒーローが睨み合う傍らで、青年に処置をしていた女医が立ち上がり、白衣の肩にかかったチリを払う。
「さっさと連れて帰ろうじゃないか。瓦礫をどかしな、大総統さん」
「我が輩に命令するんじゃない、老いぼれ」
黒外套と仮面の男が悪態をついた途端、女医の目つきが鋭くなる。
「口が減らないねぇ、小僧。特製の鎮静剤でも打たれたいのかい? 三日は足腰立たなくなるよ」
「…………」
尊大な態度だった男――大総統とやらは、ハスキーボイスで凄まれると、スンと無言になった。
と同時に、ドローンが一機舞い戻ってきて、青年の脚にのしかかる瓦礫をレーザーでジリジリと切断し始める。
「ひぇ〜……お、オレまで真っ二つにしないでよ……?」
怯える青年の近くで、完全に傍観者となった僕も恐々見守っていた。
後で考えてみれば、なぜこの時に逃げ出さなかったのだろう。完全に思考が麻痺していたらしい。
「あーあ、また面倒なことになってんなぁ」
その声に、僕はハッとして顔を上げる。
ぼやきながらやってきたのは、タイラー刑事だった。腕まくりをして土埃にまみれ、救助活動の跡がうかがえた。
“大総統”が、刑事に「おい」と呼びかける。
「そこの貴様、少しは話がわかりそうだ。聞きたいことがある」
「なんだい、今忙しいんだが」
タイラー刑事はエアロレディのように怒りにかられることもなく、実に冷静だった。その動じない物腰を、大総統は一目で感じ取ったらしい。
「この状況、ヴィランの力によるものだな? そいつはどこにいる? ヒーローと交戦している様子も無さそうだが」
「その質問に答えたら、これ以上この場を引っ掻き回さずにお引き取り願えるかい?」
刑事が出した条件に、エアロレディは目を見張った。
「タイラー刑事……!」
「エアロ、ここは抑えてくれや」
壮年の刑事は、短く刈った頭をボリボリと掻きながら彼女を宥める。
「今は奴さんたちと事を構えてる場合じゃねぇだろ。早いとこ出てってもらわないと、おちおち怪我人の手当もできやしねぇ。むしろ被害が増える始末だ」
ベテラン刑事の冷静な判断に、エアロレディはまだ何か言いたげだったが、口を引き結んだ。
一方で、仮面の男は鷹揚に頷く。
「賢明なことだ。いいだろう、我が輩の質問に答えれば、この場は引き上げてやる」
「この場は、ね……ま、とりあえずはそれでいいよ」
そんなやり取りが交わされている間に、青年を下敷きにしていた瓦礫がレーザーで真っ二つに割れた。
「あんた、突っ立ってるだけなら手伝いな」
女医にそう言われて、一瞬、自分に声をかけられたとわからなかった。
「……えっ、僕……ですか?」
「他に誰がいるんだい。この老体と細腕で、大の男ひとり運べると思うのかい?」
女医はポケットに両手を突っ込んだまま、青年を顎で示す。
僕は少し迷った後、結局、言われるがままにした。逆らったら何をされるか、想像もつかない。
僕らをよそに、刑事と大総統のやり取りは続いていた。
「これをやったのはヴィランじゃあない。事故みたいなもんだ。PKの暴走だよ」
「ほう? 暴走とはいえ、大した力だ。どこの誰がやった?」
「さすがに身分を明かすわけにゃいかねぇな。捜査機密ってやつよ」
「食えない男め……まあいいだろう。で、そいつはどうした?」
「目下、行方不明だ」
聞くともなしに二人のやり取りに耳を傾けながら、青年をどうにか引きずっていく。
一見スマートな体型だが、長身に加えて筋肉質な体は重い。僕の力では長い間抱えられなかった。
「あたた……おにーさん、ありがと〜。また助けられちゃったね」
丁寧な運搬とは言い難いが、青年は僕に礼を伝えてきた。
あまりに屈託のない態度に、どう反応していいかわからない。
「ほら、ここに放り込んでくれりゃいいから」
女医は警察署の壁を突き破っているハイエースに近づくと、後部座席のドアをスライドさせた。
苦戦したものの、どうにか青年の体を引き起こして乗せていく。座席まで持ち上がらなかったので、その足元に押し込むことになった。反対側のドアから女医も乗り込んで、彼を引き上げた。
そうこうするうちにーー
「フン……決定的な情報とは言えんが、手掛かりとしては充分だ。望み通り、この場は退いてやる」
大総統が尊大に締めくくった。
どうやら、やり取りは済んだようだ。
僕は慌てて車から離れる。
ドローンらしき機械の群が後退し、大総統の元へ戻っていく。ただ、まだ照準は警官たちに向いたままだ。
「我らを追ってくるなら、約束は守れんぞ」
「わかったわかった。とっとと行ってくれ」
大総統の脅し文句に、タイラー刑事はヒラヒラと追い払うような仕草で手を振った。
エアロレディは悔しげに黒のマント姿を――もしくは、その向こうの、青年が乗せられたハイエースを睨みつけている。
「では諸君、さらばだ」
大総統の意気揚々とした挨拶を合図に、ドローンたちはレーザーではなく、白い煙をいっせいに噴き出した。
瞬く間に視界が覆われる。逃亡のための目眩しだろう。
右も左もわからなかったが、ともかく、これでわけのわからない状況から解放される……と一安心したその時――
グッ、と首根っこを掴まれた。