燃殻の試練 その5
「ご無事ですか陛下ァ!」
やかましい、けれどよく聞き慣れた声によってアザトースは目を覚ました。周りを見渡してみるとさっきまで激闘を繰り広げていたシブヤスクランブル交差点前ではなく、アザトースの本体が住む居城だった。確かこの城にも名前があったはずだがそんなことはどうでもよかった。アザトースは目の前にいるスーツを着た異形の神、ニャルラトホテプに話しかける。
「...どうしてここに?」
「お答えしましょう、我が神よ。貴方様の危機を私めの魂が感じ取ったからです。そして私から質問をすることをお許しください。...貴方様は下等生物の化身を使ってどこかで遊んでいましたね?そしてその化身が大きく損傷する事態になったことに間違いはありませんね?」
「...はい」
ニャルラトホテプはアザトースに魂の一部を預けている。これは二者の絶対的な関係性を示すためのものだが、同時にアザトースの精神の状態と意思を朧げではあるがニャルラトホテプにも伝える効果もあった。普段であればアザトースが欲しいと思った瞬間に欲しいものをニャルが用意してくれるようになる便利な機能だったが、こうなると話は別だ。ニャルはアザトースの要望をほとんどの場合聞き入れ成就させてきたが、アザトースに危険が及ぶようなことは絶対にしようとしなかった。
「陛下、貴方様は全能の存在にございます。陛下もご理解のことだと思いますが下等生物は無能の極みのような生き物です。生まれ落ちてから数万年は経つのに一向に進歩せず問題ばかり起こしています。そのような哀れで無価値な存在に陛下が身を落とすのがこのニャルラトホテプは納得し難いのです。貴方様のような絶対的な強者が下等生物と同じ尺度で生きる必要など、この世界のどこにもないのです」
ニャルラトホテプの忠告をアザトースは上の空で聞いていた。正直コウタの安否の方がずっと重要だった。大体ニャルもニャルでヒトの服を着たりして遊んでいるのだ。自分だけヒトの娯楽を楽しみ、アザトースにはダメだというのはあまりに狡くはないだろうか。小言を続けるニャルラトホテプを黙らせるべくアザトースは話題を逸らすことにした。この神はアザトースを褒め称える事を最優先としている。その習性を利用しよう。
「...わたし、つよい?」
「強いも何も陛下を超えるものなど存在しません。覇道の終着点、零の極地、終末の裁定者、開闢の創造神。それこそが陛下にございます」
「...そう。........じゃあこのけしんはつよい?」
「下等生物の中では容貌、身体性能共に最高峰といえる化身をご用意さていただきましたが、やはりザーダ=ホーグラなどの化身と比べるとつよいとは言い難いですね。もちろん、偉大な深淵の盟主たる陛下の真の肉体に叶う存在など生み出すことは出来はしませんが」
「......なるほど。...いいことおもいついた。...じゃね」
「お待ちください陛下ァ!まさかまた行くつもりじゃないでしょうね!!」
いくらなんでも過保護すぎるニャルラトホテプの話を無視してアザトースはラストリゾートの世界へ再度意識を繋いだ。再び目を覚ますと少し離れたところでコウタとアザトースが戦っているのが見える。ここから魔術で空間ごと削り取ってしまおうかと思ったが、この位置からのアザトースの魔術だと間違いなくコウタも巻き込んでしまう。アザトース本体が途方もない大きさである都合上、覚えている魔術も基本的には広範囲なのだ。それに最初の時と同じように避けられる可能性もなきにしもあらずだ。思いついた作戦の通りに、アザトースは魔術を使う。
「『脳の接続』」
アザトースの額のあたりから透明な糸のようなものが伸び、コウタの鎧の隙間を縫うようにして入りこみ、コウタの脳に入り込む。接続が完了すると同時にコウタに向かって作戦の概要を伝えた。作戦の説明をすると間髪入れずに帰ってきた了解の意に、アザトースは今まで感じたことのない感情を感じる。アザトースが生まれてからずっと、自分の話を聞いてくれる者は皆アザトースの本体の事を知っていた。誰もが恐れ媚びへつらう本当の姿をみせずともコウタが自分のことを信頼してくれる。それはとってもくすぐったくなるような気持ちだった。
「...まずはじゅんび」
早速コウタに渡されたポーチの中からこれまたコウタが作成した黒曜石のナイフを取り出して『素材』の切り出しにかかる。本来素材はなんだっていいのだがちょうど触媒に良いものがある。たぶんこの先使い物にならないし、これなら必要としないだろう。『素材』を切り出した後、ナイフで魔法陣を刻み込む。魔法陣の刻み込みが終わり『素材』が『触媒』になった後、アザトースはなんらかの呪文を唱え始める。うろ覚えな上に発音も怪しかったが、呪文を唱え終わると『触媒』が脈打つかのように震え始めた。
「......ふふ、かんせい。あとは........」
アザトースがこちらに背を向けて何やらしているのは見えていたが、その邪魔をする余裕はオスカーにはなかった。目の前で暴れ狂うケダモノへの対処で一杯一杯だった。さっきまでのコウタの印象は騎士と呼ぶにふさわしい、堂々とした構えにまっすぐな太刀筋だったが、今は違う。異常に低い構えから変則的に剣を繰り出してくる姿も、残りMPなど全く考えていないような魔法の連打も、持っている武器を投擲しては即座に生成してくる戦術も全てがこれまでオスカーに見せていない真逆の戦い方だった。何度も大剣の一撃を喰らいその度に体から炎が溢れ出す。試練である自分が燃え尽きるわけにはいかない。オスカーはコウタに何度も【ココロ焼ク大火】をぶつけるが炎で怯む様子も見せない。【ロベルトの青い槍】に至っては予備動作が大きいせいで全て避けられてしまうか構える間に攻撃されてしまっていた。
そしてオスカーにとって最も悪いこととなったのは、正気度の減少による弱体化をコウタが無視し始めていることだ。オスカーの戦術の一つである火炎をばら撒きながら逃げて相手の弱体化を待つ戦法ができない。理由としてかんがえられるのはコウタが使用した肉塊、「アルデバランの赤子」の効果だろう。あれは確か喰らうことで大いなる神の一柱であるアルデバランの狂気をその身に宿す効果がある。かの神の狂気を持ってオスカーの炎を克服したのだろう。ただそれには大きな弱点がある。神父であるためそのことを昔聞いていたオスカーはコウタから逃げ回りながら時間を稼ぐことにした。
「Burrrr....『黒曜の断罪』!!」
「【ココロ焼ク大火】!」
赫の炎と黒曜の斬撃がぶつかり合う。最初の一撃と違って今回は双方共に立っていた。しかし一方は高笑いをしながら立っていて、もう一方は立っているのがやっとといった雰囲気だった。
「フハハハハ...ヤハリ、トデモイッタトコロカ。ドウヤラ3分ホドシカ保タヌヨウダナ」
「Burry......」
オスカーの知識通り、コウタの獣のような動きには制限があった。「アルデバランの赤子」は使用することで恐れを知らぬ狂戦士となることができるが、同時に己の命、すなわちHPも喰らうことになる。コウタの体力は今や風前の灯、赤子の効果が切れたことで【ココロ焼ク大火】の弱体化効果も再び適用されたことだろう。殆ど動きがないコウタを見てオスカーは勝利を確信する。しかし疑念が一つある。絶体絶命のはずのコウタだがなぜか負けかけているヒトの目つきをしていない。それどころか勝ちを確信しているような....
「ナニヲ...カンガエテイル?」
「コウタッ!めぇとじて!」
『人でなし』の少女の声が聞こえたかと思いきや何かがオスカーの目の前に飛んでくる。少女が投げてきたものが切札なのだろうか。オスカーは飛来してくる物体を一瞬見て...そして完全に固まってしまった。ボテッと音を立てオスカーの足元に落ちてきた物は少女の左腕だった。自分の釘バットによる傷跡に加えてナイフによって刻まれたと思われる魔法陣は歪んでいて、悍ましさを増していた。思わず少女の方を見てみると肩のあたりから抉るようにして左腕が切り落されている。その異常性、猟奇性に戦慄したオスカーは状況を忘れてその場に立ち尽くし、少女の行動に見入ってしまった。そんなことをしている余裕など、どこにも存在しないというのに。
「...Azathothの召喚」
アザトースの一言と同時に切り落とされた左腕が凄まじい勢いで肥大化しながら変質していく。それはヒトのものだったとは思えないほどに悍ましい形だった。かつて左腕だったそれはドス黒い一本の太い側面にいくつもの瞳や口のついた、言葉では言い表せないような姿形の触手に変わったかと思うと、そのまま誰も反応できないような凄まじい速度でオスカーに無慈悲な一撃を浴びせ、最初から何もなかったのかのように音も立てずに消滅した。