神託は遠く、虚の喉元より その6
喉に骨が詰まったかのような違和感。何かを取り違えている気がする。目の前に欲しかったものがあるというのに気がついていないというべきか、それとも大きな魚を取り逃がしたような感覚というべきか。ともかく主人なき教祖は奇妙な焦りと違和感に悩んでいた。悩みの根本はわかっている。モルディギアを殺したあの少女、アザトースだ。
「...殺す必要があるのは間違いないはずだ」
彼女、というより『人でなし』は須く危険だ。奴らは神を狩る。そしてその過程で神になろうとする存在全てを狩り尽くす。それは主人なき教祖の目的と真反対であり、決して許してはおけないことなのだ。もちろん、『人でなし』が一度や二度では死なないことなど百も承知だ。蘇るからこそ、彼らは神狩りができるのだ。それに彼らには神父がついている。大半の神父たちは己が使命のために散っているが、ただ一人神父グリムだけは未だ『人でなし』のために動いている。あやつが狭間へと持ち帰るせいで、『人でなし』をその場で殺し切ることはできない。だが、何度向かってこようがその度殺せば奴らも諦める。絶望する。どれだけヒト離れした身体能力と力を持っていても、奴らの精神の根本は人間なのだ。
「...そうだ。仮に、仮にこの感覚が本当だったとしても。いや、だったとしたのなら全力で相手せねば」
アザトースの名前を聞いた時からずっとあった違和感。アトラと呼び捨てた時に脳裏に浮かびあり得ないと振り払った仮説。それは彼女は本当は神で、『人でなし』の体を使っているだけというものだった。もしそうならばアトラを呼び捨てたのも理解できる。それに、なぜかわからないが彼女の名前に期待してしまう。まるで初めからあの少女に仕えていたかのように。生まれる前から知っていたかのように。抑え難い部分が彼女を認めているのだ。
「...やはり行動は変わらない。我が全ての力を持って戦うとしよう」
主人なき教祖は確かめなければならない。我が力、願望、そして悪意。彼女が全てを受け入れられる器なのかどうかを。
地上を歩けばまた金塊少女金塊少女言われて追いかけ回されるとアザトースは思っていたが、意外にもそんなことは起きなかった。不思議に思うアザトースだったがそれは単純な理由で、変な化け物と喧嘩している人間に好き好んで近づく奴などいないのだ。もちろんそれをアザトースが知ることはないのだが。
「...ぜんかいふく」
あのあと主人なき教祖が攻撃を仕掛けてくることはなかった。どこかで待ち構えているのだろうか。それとも何かやつも制約を負っているのだろうか?だがお陰で魔力が十二分に回復した。
「...ついた」
流石にこはくたちと戦った場所は覚えている。迷うことなくかつての戦場へとたどり着いた。ついたらすぐにアトラに防毒用のマスクを作らせ装備する。こはくが放った「苦味」で倒れた経験を忘れたわけではない。
「...あるきおね、どこ?」
自分よりもイケブクロの地理に詳しい彼女なら既についていると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。アザトースの呼びかけに答える声はなかった。代わりに返ってきたのは主人なき教祖の攻撃だった。再びどこからか何かが飛んでくる。魔力を含んでいるのは肌感でわかるが、さっきのことがある。
「...『薙ぎ払われた大地』」
先ほどと違ってここには誰もいない。それに慢心もしていない。大きく右腕を振り回し、辺り一帯をまとめて薙ぎ払う。相手の攻撃がどうであれ、これで消し去れば関係ない。すこし離れたところにあったビル群がまとめて大部分を抉られて破壊され、そのまま重心が崩れて音を立ててジェンガのように崩壊した。
「...どこ」
どこかに隠れているのはわかる。だがどこに隠れたかがわからない。ビルの崩壊で巻き起こった煙で遠くの方がよくわからない。
「下です!」
アトラが耳元で警告してくる。ほとんど反射的に下を向くと、下にはあの黒い穴が開いていた。常闇の中、主人なき教祖の黄金の仮面がぼんやり見える。そして当然ヒトの体である以上、アザトースも重力に従っている。このままではこの得体の知れない空間に飲み込まれてしまうだろう。
「...『踏み躙られた大地』!」
大地を踏みつけ、空を踏みつけ逃れる。しかし相手もむざむざとこちらを逃すはずもなく、相手は穴の中から上体だけ出してこちらに奇妙な溝が彫られた槍を投げてきた。アザトースの顔面めがけて飛んでくるそれを、空中で横っ飛びに跳ねて避ける。頬を掠めて飛んでいったそれは、その軌道上に現れた穴へと吸い込まれていった。頬が切れて血が垂れる。
「陛下?お怪我は!?」
「...だいじょぶ...じょ、じょ、じょぶ?」
ぐらりと視界が揺れる。呂律が全く回らない。何が起きたと思う間も無く、平衡感覚が崩れて空から落ちた。『踏み躙られた大地』で空を飛ぼうとしても踏ん張ることすらできない。そのまま頭から地面に衝突してしまった。ゴシャと気持ちのいいとは言えない音が響く。そして直後、アザトースの真上に穴が開き、先ほどの槍が落ちてくる。それはアザトースの腹ごとアスファルトを貫いて体を思い切り縫い止めた。
「げほっ...!」
全く動かない指先を見て、アザトースは気づく。これは毒だ。それもこはくの放ったものより遥かに強い。体が全く動かない。まるで金縛りにあったかのようだ。
「陛下!」
アザトースから数メートル離れた地点から、ずるりと這い出すように主人なき教祖が姿を表す。仮面に隠れて顔は見えないが、未だにこちらを警戒しているようだった。
「やはりか。その外套はアトラのようだな」
「だったらどうしたというのーね!」
アトラが服の隙間から飛び出してアザトースの側に立つ。しかし悲しいかな、アトラの体はハムスター程度の大きさしかない。主人なき教祖と正面切って戦えるほどの魔力もない。
「そうか...やはりそうか。だが変わらない。アザトース。貴女が仮に我が神たりうるのだとしても、我程度倒せぬというのなら、我の神と認めるわけにはいかない」
主人なき教祖が独白するかのように言っているが、あいにく何も聞こえない。じんじんと耳障りな音が響いている。眼窩に血が溜まり見える世界が赤く染まる。
「では...さらばだ」
主人なき教祖が再び両手をすり合わせて指先をアザトースの方へ向けてくる。再びあの風の攻撃を仕掛けてくる気なのだろう。
「...『叛逆的な巣』」
アトラが蜘蛛の巣で盾をを張る。しかしあれは風の攻撃、穴だらけの巣では完全には防げない。もっと硬く、隙間ないものでなければ。アトラもわかっているのか、心なしか声が重かった。アザトースも壁を作りたいが、腹からとめどなく流れる血の補充に魔力を使っていて手が回らない。
「...できればもう一度、この我へ向かってきてくれ」
再び主人なき教祖の指先から圧縮された空気の弾丸が放たれる。せめて風で吹き飛ばされないよう、アザトースはアトラに己の体を糸で地面に貼り付けさせる。ねばねばとしたそれは地面から剥がれなさそうだったが、とても便りなく見えた。そしてドンと何か大きな音がした後、空気弾がバチンとぶつかり耳鳴りすら吹き飛ばすような風が吹き荒れる。横から吹き込んでくるそれですらアザトースを吹き飛ばしてしまいそうだった......横から?
「誰だ貴様は?」
風が収まると、主人なき教祖の怪訝そうな声が聞こえる。耳鳴りはなぜか治まっていた。赤く染まった視界ですらわかる。アザトースの視界いっぱいに映る黒い影。ヒトの体で一番見慣れた、信頼できる後ろ姿。
「フッ...そう、俺こそが...」
風を防ぎ切った大盾を持ち直し、背中に背負った大剣を引き抜く。どちらもその姿同様に黒く、宝石のように輝いていた。剣の鋒を主人なき教祖に向け、その男は名乗りを上げる。一拍置いたのは決意だろうか。
「...爆裂無双最強戦士、お前の死だ」