それでも、私は静かに笑う
凍てつくような寒さの中、私はゆっくりと息を吸い込んだ。喉をとおった冷気は、やがて肺にまで落ちていく。少しずつ、少しずつ、内側から冷たくなり、心のすべてが凍りついてしまった。もう二度と融けることのない冷たい心。何も恐れず、何も期待せず。ずっと欲してきた鉄の心は、大自然を前にしてようやく手に入れることができた。
私はふっと視線を前へと戻し、そのまま歩みを進める。東京の最果てに位置するこの場所を訪れたのは、6年ぶりである。当時は傷ついた心を癒すために来たのだが、今はまったく違う。すべてを捨てる覚悟を決めるためにここまで来たのだ。
私は、川沿いの道をゆっくりと歩く。荒々しく流れる川の水は、私に何かを訴えかけているようだった。川の勢いは、そう簡単には衰えない。一度流されてしまうと、二度とその場に立ち止まることは出来ない。だから、流されてはいけない。そう言っているように思えた。それでも、私は力強く前へと進んでいった。
一歩踏み出すたびに、私を追い返すようにして強い風が吹く。思わず両手で防ごうとしてしまうほどの突風である。目を細め、髪の毛を逆立たせながら、私は鬼の形相で前へと突き進んでいった。
どこへ向かっているのかは、もう自分では分からない。ただ、前に進まなければいけないと思った。それが、今の私にできる唯一のことである。信じた人間に裏切られ、そのせいで愛していた人を失った。もう私には何も残っていない。だから、行くしかないのだ。
「止まれ」とでも言いたげに絡みつく草を振り払う。いまさら引き返すことはできない。残りの人生を闇雲に生きるくらいなら、キレイなまま終わりたいと思う。だからどうか、行かせてくれ。草を引き抜き、花を踏み荒らし、道なき道を獣のごとく突き進んだ。
もう、何時間歩いているのか分からない。しかし、最後の時が近いことだけは分かる。日が落ちはじめ、自然が少しずつ夕焼けに染まっていく。いつしかの私なら、美しいと思ったのかもしれない。だが、いまの私には怒りに焼き尽くされた地獄のような光景に見えた。
「そうか、ここが地獄……」
私が、天国に行けるとは思っていない。向かうべきところは地獄であると自分でも思っている。私はひとりでに笑みを浮かべると、その場に立ち止まる。恐れているわけではない。むしろ、嬉しいのだ。私は罪を背負わなければならない。誰からも咎められずに今こうして生きているが、それではいけないのだ。
私は、その場に膝をつき両手を合わせる。幸せになるべき人間が、どうか報われますように。初詣も、厄除けも、まともに行ったことのない私が初めて神に祈りを捧げた。
1分、2分と願いを込めてもまだ足りない。最愛の人よ、どうか幸せに。たったそれだけの願い事だというのに。私はいつまでもその場で祈った。
やがて、日が落ちて暗闇が訪れる。もう時間のようだ。私はおもむろに立ち上がると、遠くにそびえ立つ山々へと向かう。彼らもまた、私に何かを言いたいようだった。決して優しさは感じない。巨大な闇をまとっているその姿は、ただひたすらに恐ろしかった。
私は乾いた喉を潤すようにして、大きく唾を飲み込む。覚悟を決めたというのに、やはり恐怖するものだ。もう二度と目覚めることなく、この世界から切り離されてしまう。その恐ろしさは、どれだけの覚悟をもってしても乗り越えられるものではない。だが、行かなければ。私は両手を強く握りしめると、そのまま大きく一歩を踏み出す。後戻りはしない。大切なものを失ったこの世界に未練などないのだ。
山に入り、闇のなかを歩く。光のない世界では段差につまずき、ときには滑り落ちる。歩いても、歩いても前には進めず、また振り出しへと戻される。さながら、私を拒絶しているようだった。
私は山に向かって叫ぶ。なぜだ。生きることを諦めた人間をなぜ拒む。しゃがれた声がこだまするだけで、返事はなかった。
もうこれ以上、歩きたくても歩けない。足は棒のようになってしまい、一歩も動けなかった。私は地を這うようにして山道を進み、泥だらけになりながら少しずつ奥へと入る。この調子で、果てにまでたどり着けるのだろうか。私はこんな中途半端なところで終わりなのだろうか。分からない。考えることが出来ない。唐突な眠気に襲われてしまい、静かに両目を閉じる。もう、終わりにしよう。
目指したいところがあった。最後ぐらい、せめてやり遂げたかった。しかし、それも叶わない。現実と夢のはざまで私は思う。私の人生に何の意味があったのだろうか。
人間とは、死ぬために生きている。一人として永遠の命などない。だが、死の間際に輝く人間がいる。良い人生だったと思える者は、必ず最後にきらめくものだ。
私も、そうありたかった。胸を張って「生きた」と言ってみたかった。だから、最期に山を登ろうと思った。途中で投げ出し、何にもなれなかった私でも頂上に立てば少しは輝けると思ったのだ。
私は、地面に横たわりながらそっと胸に手をあてる。鼓動はまだある。しかし、弱い。あと、いくばくの時間が残されているのだろう。走馬灯のように様々な記憶がよみがえる。楽しい記憶ばかりだった。振り返るだけで泣けるほど、素敵な思い出だった。
「そうか……私も、輝けた……」
死の間際、光輝く人間がいる。生き抜いたと、胸を張って言える人間は必ず命が煌めくのだ。私はダメ人間であり、多くの人を傷つけたが、それでも確かに輝いた。
一瞬の光だったかもしれない。誰の目にも留まらなかったかもしれない。だが、輝くことは出来たのだ。
私は、静かに笑みを浮かべる。これでよかった。いまは、自信をもってそう言える。思い残すことはない。
頬のあたりにわずかな温もりを感じながら、私は、自分をそっと抱きしめるのだった。