川を流れるお姉さん(三十と一夜の短篇第62回)
学校から家への帰り道、くさくさした気持ちを持て余した少年は川原の土手に腰掛けていた。
少年の心とはうらはらに川面をなでる風は心地よく、昼下がりの太陽は世界を明るく照らしている。
うららかな天候にすら自分の気持ちを否定されたような気になっている少年は、やりきれない思いをぶつける先もないから、膝を抱える腕に力を込めてじっと耐える。
人通りの少なさだけが救いだ。
いま不用意に声をかけられでもしたら、ふつふつと沸く少年の苛立ちはその瞬間にはじけるだろう。
そんなことを思っていた少年は、ふと川の流れに視線をやって、驚いた。
「お姉さん!? だ、大丈夫ですか!!」
目の前の川を仰向けになった女性が流れてくるのだ。
それもセーラー服で。
紺色のスカートを水に泳がせるお姉さんの白いセーラーシャツがまぶしい。
濡れた白いシャツのしたに透ける淡い桃色もまた、まぶしい。
ついお姉さんの胸元に目をやってしまった少年は、思春期の悩みをぶっ飛ばすインパクトにぶちのめされた。
「今日は天気がいいわね」
少年の驚きとは真逆に、お姉さんは平然と返事をする。
行きずりの相手と交わす当り障りのない社交辞令のようなことば。
けれどそれを発するお姉さんの在りようは、当り障りがありまくりだ。
「あの、川に落ちたわけではないんですか」
桃であればどんぶらこ。お姉さんであればなんだろうか。
ゆったりとした川の流れに逆らわず、ゆるゆると近づいてくるお姉さんに少年は戸惑いでいっぱいだ。
「自分で入ったの。そして流れているの」
「はあ……」
流れているのは見ればわかる。
そう言っている間にも、お姉さんはゆるゆると流れに乗っている。
「あの、えっと、どうして流れているんですか」
やばいひとだ、と思いもしたが、少年は好奇心に負けて声をかけた。
お姉さんが流れている川と、少年が駆け寄った川べりとでは少し距離がある。
あのお姉さんが本当にやばいひとで突然、襲ってきたとしても、少年が全速力で駆ければ逃げられるだろう、という算段もあった。
ひと通りの少ない川べりではあるが、通学路の途中だけあってすこし行けば住宅でにぎわっている。もし万が一、このお姉さんがやばいひとだったらすぐに逃げよう、と少年は心に決めて返事を待った。
「人生って、生きづらいのよ」
待って、得られた返事はこれまた答えにくいものだった。
けれどいまの少年には、共感できるものでもあった。
「そう、ですね。うん。そう思います」
かみしめるようにうなずいた少年の頭に浮かんでいたのは、思い通りにならない暮らしのあれやこれやだ。
算数のテストでばっちりできた、と思っていたらつまらない計算ミスをしていて、悔しかったこと。それなのにお母さんには「どうしてこんな簡単な問題も解けないの」と言われて、とっても悔しかったこと。
体育の授業でクラスメイトと張り合って、勝ったほうが負けたほうの給食から一品もらうという賭けをしたら、先生に叱られたこと。せっかくゲットした冷凍みかんが没収されて、すごくすごく悔しかったこと。
きりのいいところまでゲームを進めてから宿題をしようと思っていたのに「またゲームばっかりして!」とお母さんにゲームを隠されたのも、納得がいかない。
お父さんが出張のお土産で買って来たご当地Tシャツがださくてかっこ悪いのに、着ないと悲しそうな顔をするのもうっとうしい。
そんな日々のあれこれを抱えて、抱えきれなくなって川べりに座っていた少年は、お姉さんのことばに深くうなずいた。
「ぼくもそう思います」
「少年も、難儀なことね」
お姉さんは少年を子ども扱いせず、認めてくれた。
それがとてもうれしくて、少年のなかにお姉さんへの仲間意識のようなものが生まれる。お姉さんへの親近感がぐっと湧いてきた。
ずいぶん近づいてきたお姉さんが、けっこう美人だったせいもあるかもしれない。
けれど、それでどうしてお姉さんは流れることにしたのだろう。
やっぱりわからないと少年が思ったとき、お姉さんがぽつりとくちを開いた。
「理不尽な周囲に流されて生きるのは、嫌なのよ。自分が嫌だと思ったことは我を通したいわ。そのためには、多少の生きづらさなんて飲み込んでやるって決めてるもの」
「……はい」
お姉さんのつぶやきをすっかり理解するのは、少年にはまだ難しかった。いや、少年だから難しいのではない。たとえここに座っていたのがお姉さんと同じくらいの年の青年であったとしても、少年の父親くらいのおっさんであったとしても、お姉さんのつぶやきを完全に理解するのは難しいだろう。
だって、彼はお姉さんではないのだから。
それでも少年は神妙にうなずいた。なんとなく、なんとなくだけれどわかる気がしたからだ。
少年の態度に構わず、お姉さんは続ける。
「それでも、苦しくてたまらなくなるときがあるの。周囲に流されればどんなにか楽になれるだろう、と思ってしまうときがあるの。だから、川を流れているの」
それはまるで、川のせせらぎが誰ともなく音を届けるように、相手を必要としないことばの群れだ。
黙って聞いていた少年がはっとしたときには、お姉さんは川下に向かって流れていくところだった。
「あ、あの! その先をしばらく行くと、堰になってますから!」
「……流されるだけじゃ、やっぱり生きてはいけないのね」
少年の声に、お姉さんはひらりと片手をあげた。
「もうすこしだけ流れたら、帰るわ」
どこへ帰るのだろう。川から陸へ? あるいは家へ。それとも、流されるお姉さんから抗うお姉さんへ。
少年が問いかける間もなく、お姉さんの姿は流れて見えなくなった。
ただ、お姉さんが最後に振った手の白さ。そこから滴る雫の輝きだけが、少年の目に焼き付いていた。
お姉さんの流れていった先をぼうっと見つめていた少年は、ふと川べりに背を向け土手を駆けのぼった。
立ち止まった場所は、いつもの通学路。退屈で理不尽に満ちた日常。
名残惜し気に川の下流に目をやった少年だったが、すぐに顔を道路に戻して歩き出した。
帰ったら夜のニュースを見よう。お姉さんのことはきっと話題にならないけれど。心に決めた少年の足取りは、いつもどおり軽くもなく重くもない。
何が変わるわけでもない日常を、彼は歩いていった。
その夜のトップニュース
「小学生がサクラマスの稚魚を川に放流」