胃の中の街
「飯塚さんの胃の中ですが……ちょっとした街ができちゃってますね」
内視鏡検査中、モニターに映し出された胃カメラの映像を見ながら医者がそう告げた。俺が横目でモニターを見てみると、ピンク色の胃壁の一部に確かに街らしきものが見えるのがわかった。胃カメラがズームして、街の様子を画面いっぱいに映し出される。綺麗に区画整理された道路と緑が生い茂る街路樹。斜面に沿って段々に建てられた家や商業施設。街に暮らしていると思われる住人の姿。解像度の低いカメラ映像ではあったけれど、それはまさにどこにでもあるような街の風景だった。
胃カメラがズームをやめ、そのままゆっくりとたどってきた食道を戻っていく。胃カメラが完全に俺の身体の中から抜けきり、俺は反動で大きめの嗚咽をする。医者が看護師に何かを伝えつつ、俺の方へと振り返った。胃のなかに街ができてるって大丈夫なんでしょうかと俺が尋ねると、医者は先ほどの胃カメラの映像をもう一度モニターに映し出しながら、答えてくれる。
「身体の中に街ができてるなんて言われたらそりゃ不安になりますよね。でもですね、大事なことはこれが良性か悪性かどうかなんです。良性であれば特別気にする必要はありませんし、悪性であれば手術で摘出が必要になりますから」
「先生、それで私の場合は……」
医者が眼鏡をずらし、じっとモニターに映し出された街の風景を観察する。狭い診療室に沈黙が流れる。俺はぐっと唾を飲み込んだ。そのまま沈黙の時間が流れていき、不意に医者が息を吐き、俺の方へと向き直る。
「安心してください。良性のようです」
医者の言葉に安堵のため息が漏れる。それから医者は良性だと判断した理由を、俺にわかるように丁寧に説明してくれた。悪性だと判断される街は、治安が乱れ、街全体の空気が澱んでいるらしい。他にも過剰な自然破壊などが行われ、住民が胃壁に対して必要以上に穴を開けてしまうなどといったケースがある。そういった場合は本人の健康を損ねてしまう可能性が高いため、住民を退去させた上で街の摘出を行う必要があるとのこと。一方、俺の街の治安は良く、街路樹が植えられているなど住民の自然保護の意識が強い。もちろん何かのきっかけで悪性へ変異する可能性はあるものの、定期的な経過観察をするだけで大丈夫だと教えてくれた。
「何より街に住んでいる人たちの表情がいいですね。悪性の街なんかは本当にごろつきがうようよしてますから」
そう楽しげな会話をしながら、俺たちは先ほど胃カメラで撮影した動画を鑑賞する。良性だと判明したこともあり、俺はその胃の中の街の風景をリラックスした気持ちで眺めていた。しかし、モニターに映し出された一瞬の映像を見た瞬間、俺は思わず驚きの声をあげてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください。今のところをもう一度見せてください!」
「え?」
医者が動画を一時停止し、映像を巻き戻す。俺は身体を乗り出し、モニターの端っこに映ったある一人の住人に顔を近づけた。そこに映っている俺と同い年くらいの女性。流行りのシャツワンピースを着て、一人で歩道を歩いている。俺はその女性の顔をじっと見て、自分の見間違いではないことを確認した。胃の中の住人であろうその女性は、俺が学生自体に片想いをしていた同級生、吉岡紗希だった。どうかされましたか? と医者が問いかけてくる。俺が画面から視線を向けたまま、知人が映っているんですと答えると、医者はそれはすごい偶然ですねと笑いながら返事を返してくれた。
俺は帰り際に次回の検診の予約を行い、すぐさま吉岡紗希へメッセージを送った。すると数時間後、彼女から『すごい久しぶりだね。だけど、どうしたの急に?』という返信が返ってきた。俺はちょっとだけストーカーっぽいかなと迷いつつも、『今ってもしかして胃の中にある街に住んだりしてる?』と彼女に直球で尋ねてみた。すると彼女は驚きつつも、最近胃の中にできた街の中に引っ越したのだと教えてくれた。俺の疑念が確信に変わる。そして、俺がちょうど今日内視鏡検査を行い、胃の中に街ができていることが判明したこと。そして胃カメラの映像に紗希が映っていたことを伝えた。俺のメッセージに紗希もすごく驚いていた。不動産屋で胃の持ち主の生活習慣とかを教えてくれたが、それが誰なのかについてはあまり気にしてなかったようだ。まさか昔の同級生の胃の中だとは思ってもみなかったよ。紗希はそんな驚きの言葉とともに、街の住み心地について教えてくれた。
『飯塚くんの胃の中の街、すっごく住みやすいよ。都心へのアクセスもいいし、自然も多いし、家賃もすごく安いしさ』
そして紗希との運命的な再会をきっかけに、単調だった俺の生活が変わっていった。基本的にはメッセージのやりとりだけではあったものの、昔片想いしていた憧れの同級生との会話はすごく楽しかった。それに、自分の好きな人が胃の中に住んでいるとわかった以上、綺麗で住みやすい胃にしようとより良い生活習慣を心がけるようになった。暴飲暴食は避け、健康のため運動を始めた。検診だってサボらずに受診し、毎回医者が見せてくれる胃の中の街の風景を見るのが、俺の心の癒しになっていった。
『ねえ、一回うちの街に来てみない? 近所に美味しいイタリアンレストランができたから一緒に行こうよ』
運命的な再開から数ヶ月が経ったある日。紗希からこんなメッセージが届いた。俺は何度も何度もその文章を読み返す。そしてそれが彼女からの食事のお誘いだと理解した瞬間、俺は嬉しさのあまり部屋で一人ガッツポーズをしてしまった。絶対に行きますとすぐに返事を返す。そして、お互いに日程を調整し、偶然お互いに予定が空いていた水曜日の正午過ぎに、俺の胃の中の街で会う約束をした。
そしてデート当日。俺は張り切っておしゃれをし、予定より何時間も早く家を出た。駅でお土産を買い、そのまま電車に乗る。何本か路線を乗り換え、降りた駅からさらにバスで目的地へと向かう。そして数時間かけてようやく俺は俺の胃の中にできた街へと到着した。
胃の中の街は思ったよりも景色が良く、自然に囲まれた良い場所だった。いつも胃カメラで見ているようなぶよぶよとしたピンク色の風景を想像していたが、胃の壁にはプロジェクションマッピングか何かで空や雲の映像が映し出されているらしく、閉塞感はない。匂いについても、俺が最近健康状態に気を使っているからか、酸っぱい匂いなどは全くしなかった。自分の胃の中にある街とは思えないくらいに素晴らしい場所。俺は街の宿主として、なんだか誇らしい気持ちになってしまう。
そして、指定された駅のロータリーで待っていると、後ろからわっと声をかけられる。俺が振り返るとそこには吉岡紗希が立っていた。昔と変わらない可愛らしい笑顔にどぎまぎしながらも、俺は久しぶりと何でもないような様子を装ってお土産を渡す。そして俺たちはそのまま、思い出話に花を咲かせながらレストランへと向かった。
最近できたばかりのレストランは、オープンテラスのある開放的な店だった。俺と彼女はオープンテラスの席に案内され、料理を注文する。そして運ばれてきた料理を嗜みながら、俺たちは時間を忘れて楽しい一時を過ごした。俺は久しぶりに紗希に会えて嬉しかったし、沙希も俺と同じくらいに俺との会話を楽しんでくれていた。これをきっかけに彼女との仲が深まって、あわよくば恋人関係に……なんて考えが一瞬頭をよぎる。嬉しさとほどよい緊張でいつになくテンションが上がっていく。
今日は本当に素晴らしい一日だった。俺は食後のコーヒーを飲みながらそんな気持ちに浸っていた。その時だった。
「ママ」
オープンテラスに面した通りから、ランドセルを背負った女子小学生が俺たちに向かってそう呼びかけた。ママ。俺はその言葉に耳を疑った。そして、目の前の紗希に座る、小学校帰りと思われる女の子に顔を向け、母親の笑顔を浮かべる。紗希が手招きして、そのまま女の子がテラスへあがってきた。
「早かったね、美希。ほら、ママのお友達に挨拶して」
紗希は母親の表情のまま、自分の娘にそう促した。女の子がこくりと頷く。俺の方へ振り向いて「田所美希です」と挨拶をし、そのまま紗希の隣の椅子にちょこんと腰掛けた。俺はひきつった笑顔で挨拶を返し、紗希に「子供いたんだっけ?」と震える声で尋ねる。
「あれ? 言ってなかったっけ? 私結婚して、子供が生まれたからこの街に引っ越したんだよ。旦那さんは単身赴任で、私はフリーランスだから、別に都心に住む必要はないんだよね。だからさ、家賃の安いここに引っ越すことにしたんだ」
それから彼女が幸せそうな表情で子供のことや、この街の子育て支援について喋り出す。時々右に座っている子供とじゃれあい、思い出したように旦那のことを話す。あふれんばかりの幸せオーラが、彼女の身体を覆っていた。
「あれ?」
話がひと段落し、飲み物に口をつけた紗希が不思議そうに外を見上げ、小首を傾げる。
「ここ最近ずっと調子良かったのに、なんだか今日に限って胃の中が狭くなってる気がする」
*****
そこから俺は放心状態のまま吉岡紗希親子と別れ、バスと電車に揺られて一人暮らしの家へ帰った。先に言っておいてくれよという身勝手な不満はありつつも、詳しい話を聞かずに勝手に舞い上がっていたことは事実だし、何より勘違いしたまま浮かれまくっていた自分がどうしようもなく恥ずかしかった。紗希とのやりとりはそれからも続いたが、以前と同じような楽しさを感じることはできなかった。そのせいで下心だけで付き合っていただけなんじゃないかという疑惑が生まれ、そのことでさらに自己嫌悪に陥る始末だった。
「元気がないように見えるんですが、どうかされました?」
胃の定期検診の際、俺の沈んだ表情に気が付いたのか医者が心配そうな表情で問いかけてくる。誰かにこの話を聞いて欲しかった俺は、失恋エピソードをぽつりぽつりと医者に語り始めた。医者は真摯に俺の話に耳を傾け、それは辛かったですねと優しく慰めてくれる。
「私は専門家ではないので、大したことは言えませんが、気持ちを切り替えるべきなんでしょうね」
「それはわかってるんです。でも、なかなか踏ん切りがつかなくて……」
医者が頭をかき、困った表情を浮かべる。
「そうですね……。私の知人も失恋のショックで一時期すごく落ち込んでいたんですが、確か彼は気持ちを切り替えるために引っ越しをしてましたね」
「引っ越しですか?」
「そうです。環境がガラリと変わったのがよかったのか、それをきっかけにすごく元気になったようですよ」
「はあ」
俺は半信半疑のまま相槌を打つ。そしてそれからいつものように検診を行い、そのまま俺は病院を後にした。
引っ越し。親切心からなんとか捻り出してくれたものとはいえ、そんなことで簡単に気持ちが切り替わるわけがないだろう。医者の話を聞いた時、俺はそう思っていた。しかし、家に帰って改めてじっくり考えてみると、それほど的外れな話ではないかもという気持ちになっていった。そういえば十年近く同じ部屋に住み続けているし、これをきっかけに新しい街へ引っ越すのもありなのかもしれない。考えれば考えるほど、引っ越しという手段が素晴らしいアイデアに思えてくる。気がつけば俺はパソコンで引っ越しサイトを開き、条件にあった街や物件について検索を始めていた。都心に近い賑やかな街。郊外の静かな街。色んな街を見ている中で、ある検索条件に目が止まる。
『胃の中の街』
目を擦り、見間違いではないことを確認する。俺はその文字を数秒間じっと見つめた後で、その条件で物件の検索を始めた。
*****
「どうですか? 思っていたよりも素晴らしい物件でしょう? 胃の中にある街とはとても思えないってみなさんおっしゃられるんですよ」
清潔感あふれる不動産屋の営業マンが、手元の資料をめくりながら俺にそう話しかけてくる。軽い気持ちで不動産業者に電話をかけた後、あれよあれよと流されるがままに内見することになった俺は、想像していたよりも何倍も素晴らしい物件を前にして心を躍らせていた。家賃も今借りているアパートよりも数万円安いにもかかわらず、部屋は広く、角部屋。ベランダは広く、部屋から眺める景色も最高だった。
「最初はみなさん偏見を持っているんです。でもですね、実際に来てみるとその素晴らしさに驚かれることが多いんですよ。家賃は安い、部屋は広い、治安はいい。言うことなしです。外にある同じ条件の部屋だったら、家賃が一桁違っちゃいますよ」
営業マンのセールストークを聞き流しながら、俺は広いベランダから街の景色を眺めた。俺の胃の中の街と同じように胃壁は空の映像が映し出されており、通りの脇には街路樹が植えられている。右手へ目を向けると、自然に囲まれた公園があり、そこで家族連れが仲睦まじく遊んでいる姿が見えた。
「確かに胃の持ち主の健康状態に環境が左右されるっていうデメリットはあるんですが、そうなった場合にも行政から補助金が出るのでそれほど損ではないですし、家賃の安さを考えたらむしろお得なんです。駅までちょっと歩きますが、バスの本数も多く、スーパーやコンビニも近いです。誇張でもなんでもなく、明日にでも埋まっちゃうくらいに優良物件なんです」
もはや俺は営業マンの話は全く聞いていなかった。ここに引っ越そう。俺はすでにそう決心していた。環境を変えて、気持ちを切り替えて、また新しい出会いを探せばいいじゃないか。あれだけ失恋で凹んでいた俺の気持ちは、すでに前向きになり始めていた。俺は大きく息を吸い込む。自然が多いせいか、胃の中であるにもかかわらず空気が爽やかで美味しい。ここに引っ越そう。俺はもう一度心の中でそう呟く。新しい街への希望で満たされている俺の後ろで、営業マンのセールストークがBGMのように流れていった。
「それにこの胃の持ち主も素晴らしい方なんですよ。吉岡紗希さんというフリーランスで働いている女性なんですけどね、健康に日頃から気を遣われていますし、長寿家系で遺伝的にも申し分ない方で─────────