黙示録1章1節、2節、3節
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。(黙示録1:1)
黙示とは啓示という意味で明らかにするという意味があります。この黙示録は、父なる神様からイエス様に伝えられ、イエス様から天使に天使からヨハネに伝えられたもので、何かを明らかにする目的を持って書かれました。何を明らかにするのでしょうか?聖書の預言です。聖書の預言とは何ですか?ヒントは、「すぐにも起るべきこと」にあります。「すぐ」という言葉がありますが、実際にはまだ起こっていません。実はここは詳細の説明が省かれているのです。ここは「定められた終りの時が来ると、すぐにも起るべきこと」と理解するところです。そうすると、いつについて黙示録が書かれているかよくわかるようになります。そして、それが、わかれば黙示録が明らかにしたかった事柄がわかるようになります。黙示録が明らかにしたかったものは、旧約聖書にありますダニエル書の世の終わりに関する預言です。ダニエル書の預言が黙示録の啓示によって補われ、それが、最終時代の神の民に対する警告を発するのです。
「 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。(アモス3:7)」と書いてある通りです。
ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。(黙示録1:2)
「神の言」とはイエス様ご自身を指す言葉になります。(参照:ヨハネ1:1)また、聖書自身を指す言葉でもあります。「イエス・キリストのあかし」はイエス様から受けたものを証言するという意味で、預言者を指す言葉であり、クリスチャンが現わすキリストの品性を現わすときに使う場合もあります。しかし、ここでは、これらの言葉を、黙示録自身について適応しています。つまり「イエス・キリストのあかし」は黙示録の正しい解釈ということができます。また、黙示録の他の箇所では「イエスのあかし」が使われています。黙示録12章17節に出てくる「イエスのあかし」を「正しい黙示録の知識」とすると、最後の信仰の戦いにおいて、黙示録を正しく理解することがいかに大切であるかを伺い知ることができます。このように理解すると、ヨハネは次のように語っているように聞こえてきます。「わたしはイエス様ご自身からイエス様の証言を受け取った、聞いたことを全部話すから、本当に大事だから、しっかり聞いてください!!」
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。(黙示録1:3)
ここで、全人類すべての人について神様は祝福を持って、この黙示録をどのように取り扱えばよいか警告の伴った勧告をお与えになります。すべての人類の命運がかかっている書であるのに、まさにそのことが起ころうとしている時代に生きるわたしたちは、あまりにもそのことに無関心です。神様は目に涙をもって、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」(イザヤ6:9)。と訴えておられます。黙示録の言葉を朗読しましょう。黙示録に書かれている忠告にしたがいましょう。そこに永遠に続く神様の祝福があるからです。
「時が近づいている」とありますが、どうしたら私たちはそのことを知ることができるでしょうか?それを知るためにはマタイ24章あるいは黙示録10章から、ダニエル書を学ぶようにとのヒントを得てダニエル書の中に時について書かれていることを知り、ダニエル書8章を学ぶことによって、終末の神の民の迫害を知り、その迫害についてのタイムラインが、ダニエル書12章の3つのタイムラインであること見出すに至ります。このことを詳細に書くと1冊の本になるほど量がありますので、ここでは、結論だけを述べます。「時が近づいている」との言葉は、「神の戒め(特に第七日安息日を遵守する者を迫害することが許される法令が出る時が、近づいている」という意味です。いわゆるこれこそが、「定められた終りの時(ダニエル8:17)」です。黙示録全体の記事が、この「定められた終りの時」に関わっています。
今ここで押さえてほしいポイントは、神様が読んでほしいと考えている黙示録読者は、この世の終わりに生きる最終世代のクリスチャンであり、ダニエル書8章と12章の学びによって、今までわからなかった黙示録の記載されている時を特定できた事実によって、今、まさに黙示録に預言されているできごとが起ころうとしている証拠になります。